(中)


 


 この胸の高鳴りは、果たして恋心なのだろうか。

 机の上に散らばった紙は、本日十五時までに提出しなければならない報告書である。現在の時刻は十三時。書類はものの見事に真っ白で、本来ならば血涙を流しつつ処理しているところなのだが、今は筆を持つ気にすらならない。
 元来、考えるより先に体が動く質である。面倒なことは嫌いでわかりやすいことが好き。そんな私にとって、質実剛健、仁義の二文字を掲げる七番隊は何だかんだと居心地のいい職場であった。が、今回ばかりはそうもいかない。頬杖をついて熱っぽい溜息を漏らすと、隣で書類に判を捺していた一貫坂四席があの異様につぶらな瞳でぎょっとこちらを見た。

「何です、そんな恋する乙女のように頬を染めて」
「やっぱり一貫坂さんにはわかりますか」
「わかりませんよ、気色悪い」

 この通り、七番隊には乙女心を理解できる共感力に優れた者は居ないのである。その圧のある見た目に似合わぬ紳士的な態度をとる一貫坂さんでさえ、結局丁寧なのは口調だけ。余談であるが彼は『なんちゃら慈楼坊』という異名を定着させたいらしく何かにつけて主張しているが、絶対に定着しない。賭けてもいい。

 一貫坂さんは一呼吸置いてから「……恋の悩み、ですか」と妙に芝居がかった口ぶりで言った。非常に身勝手ながら、彼と恋愛話に花を咲かせる気が全く起きない私はそれを丁重に無視する。

 その後、何故か得意顔の一貫坂さんはわたしに恋のなんたるか愛のなんたるかを軽やかに語り出したが、当然右から左に聞き流していたので何一つ覚えていない。


 
 さて、一つ一つ考えよう。

 彼に一目惚れしたことは間違いようのない事実であるが、果たして彼とお近付きになりたいだろうか。例えば、握手。正直したい。それだけであと百年は頑張って働ける気がする。会話。ちょっとだけしたい。けれど、彼にわたしの存在を印象付けたくない。それに、それって私は良いけれど檜佐木副隊長には何の得も無いじゃないか。例えば、私がお金を支払って数十秒だけ檜佐木副隊長と握手したりお話ししたり出来るのであれば……。むむ、新しい商売の香りがする。

 閑話休題。

 言わずもがなお付き合いなんて無理。すっかり七番隊に染まってしまったちんちくりんの私が、彼に見合うはずがない。彼の隣に居るべきなのは、もっとこうスラッとした美人、かつ仕事ができて笑顔が可愛くて可憐で清潔感のある女性であるべきだ。……想像したら、何故か涙が出てきた。檜佐木副隊長、幸せになってください。

 私が一人鼻を啜っていると、席官室の外、数メートル先から、大きな足音と共に私の名を呼ぶ大声が聞こえてきた。霊圧を探るまでもなく、その堅気には出せぬドスの効いた声の主は、知る限りでは一人しかいない。一貫坂さんは慌てて開かれるであろう障子に向き直って居住まいを正したが、私は障子に背を向けたまま、ほぼ白紙の書類に向かって筆を握る。
 予想に反さず、敷居に蝋を塗ったばかりの障子はびしゃりと乾いた音を立てて大きく開かれた。

「副隊長、私はご覧の通り忙しいんですよ! それに障子は音を立てずに開けてって何度も」

 噛み付かんばかりの勢いで振り返ると、そこに立っていたのは案の定、射場副隊長と鴨居を潜ろうと背を丸める狛村隊長だった。

「相変わらず暇そうじゃのぉ。ちぃと面貸せや」

 射場副隊長は私の肩に分厚い手を置いて、不敵に笑った。嫌な予感しかしない。私は隣で完全に我関せずを貫こうとする一貫坂さんの背中を盾にして、射場副隊長の刺し殺すような瞳から隠れた。

「暇じゃないです。先日の報告書まだ終わってません」
「あがいなモンえぇわ。一貫坂にやらしとけ」
「えっ私ですか」
「ウィッス、あざっス」

 彼も上下関係の厳しい七番隊に所属する誇り高き死神である。適当に頭を下げる私に白目を剥きながらも、副隊長である射場さんの命令には逆らえず、口先だけでどうにか「ほほほ」と笑っていた。

 さらさらと砂になる一貫坂さんの背中から顔を出し、改めて射場副隊長の様子を探る。確かに強引な人ではあるけれど、芯の通った人である。誰かに理由なく仕事を押し付けることを良しとするような人ではないし、それにわざわざ隊長も一緒にいらっしゃるなんて。きっと、何かあったのだろう。

「…………そんなに急な仕事なんですか?」
「おう、しかも名前にしかできん仕事じゃ」

 副隊長の後ろで仁王立ちする狛村隊長は、何も言わずに私たちのことを見下ろしていた。その鉄笠の奥に何やら深刻な空気を感じ、ごくりと唾を飲む。思えば、隊長副隊長が直々に使命を与えてくださるなんて、これ以上の名誉があろうか。
 ややあって、私はゆっくりと首を縦に振った。

「私に出来る事なら、任せてください!」



   *****



「いやいやいやいや展開が早い無理無理無理無理」
「なんじゃ展開って。仕事じゃ阿呆が」

 射場副隊長に檜佐木副隊長との出会いを語ったのが、一昨日の夕方。
 射場副隊長に突然名指しされたのが、半刻前。
 私は今、九番隊隊舎へ向かっている。正しく言えば、引き摺られている。

 来週行われる七番隊と九番隊の合同任務。今日はそれに先立って双方の隊長副隊長で会議を行うらしいのだが、何故かつい先程、その書記役として私に白羽の矢が立ったのである。

 自慢ではないが、字は汚いし漢字は間違えるし、なんなら長時間の正座もできない。誇れる事といえば前述した通り、異様な程に前向きな性格だけである。ならばこの指名も前向きに捉えろと思われるかもしれないが、これはそういうレベルの話ではない。いつもであれば「わたし、ミミズがのたうち回ったような字を書きますけど、いっスか?」などと笑う飛ばす余裕もあろうが、今回向かうのは、あの、九番隊である。

「一貫坂さんを連れてけば良いじゃないですかぁ!」
「あがいな大男連れていけるかアホ。ここらで男にならにゃあ、もう舞台は回って来んど」
「嫌だァァア!!」

 拒み続ける私の首根っこをむんずと掴んで、射場副隊長は力強い大股で九番隊隊舎へと突き進む。ちなみに私は女だ。草履の踵が石床に擦れてどんどん薄くなっていくが、構うもんか。いっそ、このまま大根のように擦り下ろされてしまいたい。
 もはや射場副隊長の万力のような手から逃れることを諦めて、わたしはただ重力と引力に身を任せる人形となる他無かった。

 彼の前を行く狛村隊長は、鉄笠の隙間からこちらを心配そうに覗く。

「……一体何があったのだ」
「はぁ、こいつが檜佐木に惚れた言うちょったんですが」
「違う……違うんです……。惚れたのは事実だけど接触したいなんて言ってない……厄介にはなりたくない……」
「この通り何言っちょるんかわからんので、連れて来やした」
「………………そうか」

 恐らく理解することを諦めたのであろう狛村隊長は、あとはもう何も言わずに歩き続けた。相変わらずその表情は見えないが、頭の上に大きな疑問符が浮かんでいるであろうことは容易に想像できる。隊長、私はあなたのその懐の広さが大好きですが、今はもう少し突っ込んで欲しい。そしてこの暴虐無人副隊長を止めてください。
 
 そうこうしていれば視界の端に九番隊隊士であろう穏やかな微笑みを浮かべる女性隊士を捉え、遂に九番隊の敷地内に足を踏み入れてしまったのだという事を知る。その事実に嗚咽を漏らす私を見てもう逃げないと判断したか、射場さんはようやくその手を離した。

「ッたく、七番隊隊士の端くれならしゃんとせんかい!」
「七番隊隊士である前に乙女なんですよ、私は……」

 嗚呼、半刻前きちんと要件を聞いていれば今頃、締め切り寸前の報告書を死に物狂いで作成しているだけで済んだのに。そもそも隊長も隊長だよ。重っ苦しい霊圧を放って静かに立ってるからなんか重大なことでもあったのかと思ったじゃないか、と思ったがそれはいつものことだった。

 射場副隊長は、鼻に小指突っ込んで、やれやれといった様子で吐き捨てた。

「なんじゃ、檜佐木に会いとうないんか?」
「会いたい! 会いたいけど!出来るならばもうちょっと心の準備がしたかった!!」

 何事も、順序というものが必要である。
 十番隊の松本副隊長が贔屓にしているという美容室に行きたかったし、四番隊の卯ノ花副隊長がお薦めしていた化粧水を買って試したかった。日々の爛れた生活習慣のせいで額にはニキビが出来てるし、目の下のクマだって相当酷い。彼の視界に映り込む前に、出来るだけ見られる状態にしておきたかったのに。

 うだうだと言い続ける私の頭をがっちりと鷲掴んで、射場副隊長は口の端を持ち上げて歯を見せた。

「見た目をどう取り繕うても、ワレはどっからどう見ても七番隊の隊士じゃ。胸張ってええぞ」

 時と場が異なれば最上級の褒め言葉だったかもしれないが、今の私には地獄の閻魔の笑い声に過ぎない。

「それ、全然嬉しくないです」

 このパワハラ上司は血も涙も無いのだ。




 
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