涙で固めた悪あがき
自宅へと帰り着き、思考をリセットするように一旦シャワーを浴びて身体をさっぱりとさせ、濡髪もそのままに下着とスラックスだけを穿きつけ、部屋のライトに受け取った香水をかざしてまじまじと見つめる。電球に反射してキラキラと光るそれは本物の宝石のようで、片目を瞑って暫くの間、様々に色を変える液体を楽しんでいると自分の感情に名がついたことにふと、気づいた。
女からこのにおいが鼻に掠った時、思わず殴りつけそうになったのをこらえたのだ。この女は、昨晩から今朝にかけて鳴戸に愛された女。そう思うだけで、腸が煮えくり返りそうになる。
鳴戸は、自分だけのもの。そう強く思ってしまったのだ。
「これが嫉妬、か。初めての感情だ……随分と、醜いもんだな。俺は、醜いっ……!」
瓶が割れそうになるほど強く握りしめ、ベッドへと倒れ込む。
そしていつしか、眠りについてしまった龍宝だった。
ふと目を覚ますと、枕元に香水が転がっており時刻を確かめてみると昼近い朝といった時間で、昨晩飲み過ぎたわけでもないのに怠く感じる身体を起こし、バスルームへと向かう。
頭から熱いシャワーを思い切り浴びると、少し身体が軽くなった気がした。そのままばしゃばしゃと顔に湯を当ててシャワーを堪能し、全身きれいに丸洗いして浴室から出る。
火照った身体に少し冷えた空気が心地よく、スラックスだけを穿きつけた姿で適当に軽い朝食兼、昼食を摂るとなんとなく、気分が落ち着いてくる。
ばかなことをしようとしている。
自覚はあるが、止めようとは何故か思わなかった。どうしても、一番近くにいたい。傍にいて欲しい。それだけの一心で、香水の瓶を抓み上げ蓋を取って首元に少しだけ香水を吹きかける。
すると、ふわっとかおる人工的なにおい。
こんなことをして、どうなることでもないと思えど何もせずに、ただ傍で見ているだけでは気が済まない。できるだけのことはして、その上で拒否されるのであればそうされたい。
鏡の前に立ち、カッターシャツを羽織ってギリギリ見えるかどうかの位置に爪を置きぐっと肌へ押し付けて強めに何度も引っ掻くと、疑似キスマークのできあがりだ。
それを、首元に三つほど付け身支度を整えて自宅を出る。
陽は既に高く昇っていて、うららかな陽気が心地いいが気持ちは沈み気味だ。こんな小細工をしたとて、なんになるのか。
まったく、嫉妬とは何て厄介でそれでいて道化ているのだろう。まるで本物のピエロのようだ。
車は事務所に置いてきてしまったため、徒歩で向かうことにする。
鳴戸は一体、どんな反応をするのだろう。スルーなのか、それともなにか反応があるのか。前者でも後者でも、龍宝にとっては不安でしかない。
余計なことをしたと思っても、もはや今さらでしかない。このまま、事務所へ向かうことを決め歩き出す。
その間、考えることはやはり鳴戸のことばかりで、自分が仕出かした女と寝たという嘘についての鳴戸の反応だとかを考えると、自然と足が重くなる。
途中、何度も足が止まりそうになったため小休憩を入れるつもりで自販機の前に立ち、コーヒー缶を買い求め、備え付けられているベンチに腰掛けてプルトップを上げる。
「なにをやってんだ……!」
缶を両手に持ち、俯いて出た言葉がこれだった。
何を期待して何に期待してこんな真似をしているのか。自宅へ引き返そうか。何度も迷った。そして、後悔したり希望を持ったりと、心の中がめちゃくちゃに乱れている。
最終的な決断は、結局自分の中にしかない。コーヒーは甘く、舌が痺れそうだ。勢いよく立ち上がり、缶を捨てそして事務所に向かって歩き出す。
何もなかったのなら、忘れてしまおう。恋心も、愛も何もかもをすべて無かったことに。
鳴戸組の古ぼけた建物の玄関先で足踏みしてしまい、散々迷った挙句、結局中から扉が開いて自然と招き入れられる。
そこで始まる恒例の挨拶。
受け流していると、鳴戸の姿が無いことに気づいた。拍子抜けのような、微妙な気持ちを抱え組員に聞いてみる。
「親分は未だ来てないのか?」
「未だですね。また昨日も飲みに行ってたみたいなんで、遅いかもしれませんね」
噂をすればなんとやらで、突然だった。玄関が開き、そこには眠たそうな若干顔をむくませた鳴戸が立っており、またしても始まる挨拶の応酬。
龍宝はわざと見せつけるようにして、暑いといった仕草で首元に指を突っ込んでカッターシャツを緩ませ、鳴戸に声をかけた。
「おはようございます、親分。昨晩も楽しまれたようで」
「ああ、まあ……な……」
鳴戸が、こちらを見たまま固まってしまっている。その顔色は悪く、表情にいたっては険しいものを浮かべており、龍宝の首元をじっと見つめている。
若干だが、異様な感じだ。思わず声をかけてしまう。
「親分? どうしましっ……痛っ!!」
「お前、このにおい……! それに、その首元……」
鳴戸の顔は険しいまま強張っており、ぎゅうぎゅうと胸元を掴み上げて握ってくる。苦しさのあまり、息が切れるがわざと薄笑いを浮かべ、しれっと言葉を舌に乗せる。
「親分が自分で俺に言ったんですよ。女を抱けと。命令に従ったまでです」
「てめぇー……!」
鳴戸がここまで顔色を変えるのはかなり珍しいことだ。いつもは優しい笑みをいつでも浮かべていて、龍宝ももちろん、その笑顔が好きだったが今ではそれは引っ込み、怒りの表情でそのまま首元を掴まれたまま表に連れ出されてしまう。