恋する惑星

 そろそろ春の息吹が聞こえてくる、そんなうららかな朝のこと。
 龍宝は鳴戸組の組事務所へ顔を出すと、挨拶もほどほどにすぐに辺りを見渡し、鳴戸の姿を探してしまう。もはやこれは癖のようなもので、どうしても姿を見ないと落ち着かない気分になってしまうのだ。
 階段を上り、広間へゆくとそこに鳴戸はいなくがらんとした空間が広がるだけだ。いつも鳴戸が寝転んでいる場所に腰掛け、そっと畳を撫でる。
「おやぶん……」
 ざりざりとそのまま指でイグサを擦っていると思い出す、先日のこと。
 初めて男に抱かれたが、あそこまで気持ちがイイものだとは思わなかったどころか、我を忘れて乱れてしまい、いま思い出しただけでも顔が熱く火照ってくる。
 まさか、自分があのような声を出して善がるとは。善がり狂って、強請りもした。確かに、鳴戸に惹かれてはいたが、抱いてくれるとは夢にも思わなかった。
 それほどまでに、あの情交は龍宝にとって特別なものであると同時に、消したい過去でもある。もう少し控えめに啼いておけばよかっただとか、呆れられてはいないだろうかといった恐怖があるのだ。
 きらわれたくない、誰よりも何よりも鳴戸だけには。
 愛していると言ってくれたが、鳴戸の気紛れはよく分かっている。居心地のいい場所があればそちらへ行き、大事に抱えてもすぐに出て行ってしまう、野良猫のような気質の彼。
 自身も大概、気紛れだとは思うが鳴戸ほどではないとそれは、自負できる。だからこそ怖いのだ。恋心を抱き続けていいのか、未だ迷ってしまう。言葉ほど不透明なものはない。彼が嘘と言えば、今の関係はすぐにでも白紙に早変わりしてしまう。
 それが分かりながら、何故こんなにものめり込んでしまうのだろう。前々から想い続けてきて、だがそれは叶わない想いだと諦めていたからそれはそれでそのままでも良かった。けれど、あそこまで情熱的に抱かれてしまうとどうしても期待してしまう。
 堂々巡りの想いに、龍宝は溜息を一つ吐きその場に寝転ぶ。なんとなく鳴戸のにおいがする気がして、うつ伏せに倒れて畳を手で擦る。
 想いが通じた途端、背中が遠くなってしまった気がする。それは気がするだけなのかはたまた考えすぎているのか。
 龍宝自身、もはやどうしていいか分からなくなってしまったのだ。これならば、報われていなかった時間の方がもっと、鳴戸のことを想う気持ちに揺らぎが無かったはずなのだ。好きだからこそ、怖い。初めての感情に、心が戸惑っているのが分かる。
「親分、あなたは……」
 本当に、俺が好きなんですか? という言葉を済んでのところで飲み込む。口に出したら負けなのだ。こういう想いは特に。何故か分からないが、そう感じる。
 もう二度と、想いを口にしない方がいいのだろうか。そんなことをすれば、今よりもさらに苦しくなるのは目に見えている。
 どうしても信じ切れない。
 愛してくれているという言葉を聞いた時、鳴戸の本心を聞いた気がしたが冷静に考えてみると、とてもではないが鵜呑みできない。真正面から受け止めた途端、腕の中から塵になって消えてしまって二度と戻って来てはくれない気がする。取り残されたくない。連れて行って欲しい。
 その想いは、叶うのだろうか。もしくは、叶っているのだろうか。片恋というものは、なんとももどかしい。
 だが、抱いた気持ちに蓋はしたくない。となるとやはり、想い続けていなければ結局はどちらを取っても、切なさしか残らないが仕方がないのだ。龍宝の方が、鳴戸に惚れているのだから。
 惚れた方が負け、とはよく言ったものだ。
 はあっともう一度大きく溜息を吐いた龍宝だったが、後ろから声がかかり反射で振り向くとそこには事務所に詰めている下っ端が顔を出しており、鳴戸から組に電話がかかってきて龍宝を呼んでいるとの旨を伝えに来て、慌てて階下へと降りて受話器を取る。
「代わりました、龍宝です」
「おっ、出たか龍宝。いま競馬場に居てよお、なんと大勝ちしちまってよかったら……」
「分かりました、そちらへ向かいます。いつもの競馬場ですよね、船橋の」
 返事も聞かず受話器を置き、隣にいた組員に「出てくる」と言い残し、扉を開けて外へと繰り出す。
 まったく以って、不毛だと思う。電話一本あっただけでこんなに心が浮き立つとは。気持ちはいつだって正直だ。自分で難しくしているだけで、その実、本当はもっと単純なものなのかもしれない。
 車を走らせ競馬場へと到着し、出入口に横付けして助手席側に立ち車に凭れて鳴戸を待つ。すると奥から悠々と鳴戸が歩いてきた。心躍る瞬間だ。
「よっ! 出迎えご苦労さん! さ、今からはメシでも食いに行こうぜ。ビフテキなんてどうだ?」
「親分に任せます。それより早く車に乗ってください。さっきから警備員の目がうるさい」
「なにが警備員よ。極道がんなもん怖がってちゃやってらんねえぜ龍宝」
 確かにその通りだと、ドアを開けて鳴戸を乗せ運転席に乗り込み、もはや用は無いとさっさと車を出した。
 ちらりと隣を見ると、上機嫌な鳴戸が窓の外を見ている。目を正面へ向けると、信号で車を止められてしまう。
 キスがしたい。それも、今すぐにだ。
 欲望に逆らわなかった龍宝は、ブレーキをかけ投げ出されている鳴戸の手をぎゅっと握り、さっとシートベルトを外して覆いかぶさるようにして鳴戸に顔を近づける。
「おっ、おい龍宝!」
 ふわっと唇に優しい感触が拡がる。次いで、温みが来て鳴戸が生きている実感が触れ合っている箇所を通して伝わってくる。
 すると信号がいつの間にか青に変わっていたようで、後ろからクラクションを鳴らされ仕方なく鳴戸から離れ、車を発進させる。
「こんなとこで発情すんなよ。若いなあ」
「好きな人にはいつだって触れていたいと思うのはおかしいですか」
 鳴戸は黙ってしまい、その沈黙にはなにか意味があるような気がしたが今の龍宝には分からなかった。何故なにも言ってくれないのか。
 重苦しい空気は、いつまでも車内の空気を押し潰すように続いた。
 詰まるところの片想いというものは、こういうものかもしれない。そんな沈黙だった。

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