遥かへと想いを馳せて
『奉行様がお呼びだそうです。引き継ぎを済ませて上がってください』

 昼食の時間が過ぎて忙しさが落ち着いたころ、梢からそう告げられたせつなは各人へ退勤の挨拶を済ませると、急いで木漏茶屋を後にした。
 奉行様――つまり綾人は、数日前に公務のために海を渡り、璃月へと向かった。帰国予定が今日だったことは記憶しているが、それにしても少し早い。そして、それを出迎えるのはトーマの仕事のはずだが、自分が呼ばれた理由はいったい何なのだろうと、せつなは首を傾げていた。
 神里屋敷へ戻ってすぐに、門番をしている宏達から「奉行様が厨房でお待ちだ」と声をかけられた。ますます呼ばれた理由がわからなくなり、宏達に礼を言うとその足をさらに速める。
 厨房へと繋がった戸の前で一呼吸置き、緊張から乾いた唇を馴染ませたあとに口を開いた。

「せつな、参りました」
「どうぞお入りください」
「はい。失礼いたします」

 許可を得て厨房の中に入ると、そこには綾人だけではなくトーマの姿もあった。さらに疑問は生まれるばかりだが、まずは大きな仕事を終えたばかりである当主への労わりの言葉を紡ぐ。

「綾人さま。海灯祭でのご公務、お疲れ様でございます」
「ありがとうございます。璃月の祭事を実際に体験することは、社奉行当主として良い経験になりました。先日フォンテーヌへ赴いたときも感じたことですが、もっと積極的に他国へ足を運んでみるのも悪くありませんね」
「ええ。お嬢もきっと賛同するでしょう。もちろん、若やお嬢が留守の間はオレたちがしっかりと社奉行をお守りしますので、ご心配はいりません」
「ふふっ。私は屋敷を空けることを心配したことは一度もないよ」

 臣下への信頼を滲ませた穏やかな笑みを浮かべたあと、綾人は「さて」と本題に入った。

「ふたりを厨房へ呼んだ理由をお話ししましょうか」
「そうでした。ずっと気になっていたんです。執務室でも茶の間でもなく、どうして厨房に、しかもオレとせつなだけを呼び出したのですか?」
「それはですね……おふたりに璃月の手土産を渡すためです」

 その瞬間、トーマとせつなの間に見えない動揺が走った。それを知ってか知らずか、綾人は大きな包みを台の上へと置いた。
 包みの中身は恐らく、いや、確実に食べ物だ。綾人が真新しく珍しい、刺激をくれるような食べ物――つまり変わり種を好んでいることは、社奉行の中でも有名な話だった。そして、それに巻き込まれるのがトーマであるということも、有名な話だ。

「若。ご厚意は身に余るほどのものですが……その……」
「ふふふ。そう警戒せずに。まずは中身を見てごらん」

 綾人に促されるまま、おそるおそる包みを開くトーマの姿を、せつなは祈るような面持ちで見守った。トーマが悪夢に魘されるようなことになりませんように。味はともかく、せめて普通に食べられるものでありますように、と。
 そして、とうとう包みの結び目が解かれた、その瞬間、香りだけで食欲を満たすような香ばしさが厨房の中に広がった。甘辛いタレを絡めて焼き上げた肉料理。一見するとそのような印象で、至って普通、寧ろ思わず喉が上下するほどの第一印象だった。

「こちらは“知足常楽”という璃月の料理だそうです。事の成り行きで一皿余ったものを持ち帰ったのですが、トーマたちなら喜んでくれるだろうと思ったのだけれど」
「わぁ……とても美味しそうです。ね、トーマさん」
「あ、ああ。……おかしいな。てっきりいつものように変わったものが出てくるかと……」
「おや。期待外れだったかな?」
「とんでもございません! 有り難く頂戴します」
「ありがとうございます。綾人さま」
「喜んでいただけたようで何よりです。では、私は部屋に戻ります。おふたりで仲良く召し上がってくださいね」

 満足そうな笑みを残して、綾人は厨房から出ていった。ある意味での緊張感が緩み、トーマとせつなは顔を見合わせたあと、手土産の知足常楽をしげしげと眺める。

「本当に美味しそうですね。この香りは肉料理、でしょうか?」
「いや。見た目、それから香りも肉料理に見えるけれど、実際に使われているのは豆腐みたいだね。なるほど。豆腐を使って肉を再現するから知足常楽、ということか」
「お豆腐を使ったものなら、たくさん食べても健康的でいいですね」
「そうだけど、せつなはもっと食べてもいいと思うよ。ほら、こんなに軽い」
「ひゃ」

 腰あたりに腕を回された次の瞬間、軽く体が浮き上がると、意図しない声が上がってしまった。思わず両手で口を押さると、トーマが「ごめんごめん」と笑いながらせつなの足を下へと着ける。
 せつなの頬が花咲くように染まるのは相変わらずだが、このような戯れも、恋人となってそれなりに経つふたりの間では自然なものになっていた。

「オレが器を用意して取り分けるよ」
「ありがとう。では、わたしはお茶を淹れますね」

 綾人がふたりを厨房に呼んだその意味を、せつなはようやく理解した。きっと、それぞれの皿に盛りつけなおし、温かいお茶を添えて、ゆっくりふたりで食べられるように、という配慮があったからだ。
 このようなことがあるたびに、思う。我らが当主には何があっても敵わない、と。
 厨房の隅で「いただきます」と手を合わせ、ふたりで同時に知足常楽を口へと運ぶ。軽く噛んだだけでも口の中ににがりの旨味が香り、さらに噛みしめていくと肉と錯覚するような歯ごたえを堪能できる。口の中に残った濃厚な出汁までしっかり喉の奥に落とすと、思わず感嘆の息が漏れた。

「美味しい……! 見た目も、香りも、味も、しっかりとお肉ですね」
「ああ。濃い味つけで箸が進むなぁ。それに、ご飯も欲しくなる。確か、昼餉の残りがあったはずだ。せつなにもよそおうか?」
「では、少しだけ」

 この気持ちは何だろう。胸の奥がじんわりあたたかくなるような、幸せな感覚。
 食を進めて、その正体に辿り着いたとき、せつなの口から自然とトーマの名前が零れていた。

「トーマさん」
「せつな」

 そしてそれは、トーマがせつなの名前を呼ぶ声と綺麗に重なり合った。せつなが箸先から顔を上げると、若草色の瞳がぱちぱちと瞬いていた。

「トーマさんからどうぞ」
「いや、先に口を開いたのはせつなだったから。せつなから話して」
「わたしの話は……たいしたことではないのだけれど」

 先を譲ってくれた優しさを受け入れつつ、せつなは口を開く。
 そう、ほんの些細なこと。しかし、せつなにとっては大切なこと。この感覚の名前は――懐古だ。

「璃月の料理を食べていると、ふたりで璃月を旅したことを思い出して、なんだか懐かしくなってしまったの」
「本当かい? オレも全く同じことを言おうとしていたよ」
「本当? ふふっ、なんだか嬉しい」
「ひょっとすると、若はそこまで考えてオレたちにこれを持って帰ってくれたのかな」
「そうかもしれませんね」

 だとしたら、やはり、綾人には何をもってしても敵わない。
 手土産を持って帰ったのは、綾人の言う通り成り行きかもしれないし、気まぐれかもしれないし、他に理由があったのかもしれない。だとしても、結果的にふたりは同じ時間に、同じ場所に、同じ想いを馳せたことに変わりはない。
 永遠と間違うほどの穏やかなこの時間が、酷く心地いい。

「いつかまた、ふたりでお出かけできたらいいですね。前回行けなかった璃月の素敵な場所にも行ってみたいな」
「そうだね。また璃月に行く機会があれば、なんとしても望舒旅館の部屋を押さえないと。あそこから見える月はとても綺麗らしいから。ああ、でも、次に璃月に行く機会があるとすればきっと……せつなのお父様へ挨拶に行くときかな」

 どうしてそこで父親の名前が出てくるのだろう。すでにトーマと父親は顔見知りだというのに。
 せつながきょとんとして首を傾げていると、トーマは軽やかな笑い声をあげて「いつかまた、ね」とはぐらかし、知足常楽を頬張ったのだった。



2024.02.26

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