キスしないと出られない秘境に入ったら〜トーマの場合〜
「……はぁ」

 まいったな。という言葉を飲み込んだ代わりに、トーマは密やかに息を吐き出した。秘境の真ん中に鎮座している石板に刻まれた文字をもう一度視線でなぞってみても、そこに書かれていることは変わらない。
 石板にはこう書かれている。『口づけを交わさなければ出られない』……と。

「トーマさん」
「せつな。そっちはどうだい?」
「ええ。出口らしきものは見つからなかったわ。トーマさんのほうは?」
「オレのほうも同じだ。特に仕掛けもなければ、秘境の主もいない。脱出の手掛かりはこの石板ひとつだけみたいだ」
「……ということは……その……」

 せつなが言い淀んでしまうのも無理はない。彼女は恥ずかしがり屋で、控えめで、奥手なのだ。トーマと結ばれてからしばらく経つというのに、手を繋ぐだけでもいまだに頬を桃色に染め上げるほどに。トーマにとってはそれすらせつなのことを愛らしいと思う要素の一つになるのだが、今はそうも言っていられない状況だ。
 はあ、と思わずもう一度息を吐く。すると、目の前で月光色の瞳が不安げに揺れた。

「ごめんなさい、トーマさん」
「えっ? どうしてせつなが謝るんだい?」
「甘金島に出現したこの秘境の調査を命じられたのは、本来わたしだけでした。でも、トーマさんの優しさに甘えて、ついてきてもらってしまったから、トーマさんを巻き込む形になってしまって……」
「いや。むしろオレが一緒でよかったよ」
「どうして?」
「当然だろう? 本当に口づけを交わさなければ脱出できないとして、もしせつながオレ以外の誰かと一緒にこの秘境に入っていたら……考えただけでも耐えられそうにない」

 す、とせつなの淡雪のように白い頬に手を滑らせると、たちまちそこには朱が走る。愛おしい想いがじわりと募り、同時にトーマ自身に対する苛立ちが膨らむ。
 結局、この秘境に踊らされるままになるなんて。

「ごめん、せつな。こんな形じゃ嫌だろうけれど……不本意ながら、試してみるしかなさそうだ」

 せつなは静かに首を横に振ると、返事の代わりに瞼をそっと落とした。トーマがその細い肩に両手を添えて、身を屈めると、緊張から微かに震える瞼が視界に入った。
 血管が透けて見えるほど薄いこの瞼の下に、トーマが愛してやまない月の光が隠されている。そう考えたときにはすでに、吸い寄せられるように、そこに唇を落としていた。
 熱が触れたせつなの睫毛が震えた直後、あたりが眩しい光に包まれた。その光はどんどん強まり、トーマはせつなを庇うように腕の中へと閉じ込め、光が収まるのを待った。

「……っ!? 出られた、のか?」
「えっ?」

 まわりの安全を確かめて、両腕の力を緩める。トーマの腕の中から顔を出したせつなは、顔を忙しく動かしてあたりの様子を確認している。
 風に踊る桜の花弁。明かりが消えた提灯。空を泳ぐ鯉のぼり。そこは確かにトーマとせつなが出逢い、結ばれた、甘金島の景色だ。ふたりが先ほどまで閉じ込められていた秘境の気配は、跡形もなく消えてしまっていた。

「甘金島、ですね。秘境は……消えてしまった、のでしょうか」
「そうみたいだね。……唇じゃなくてよかったのか……」
「み、みたいですね。でも、よかった。これで綾人さまへ報告できます」
「そうかい? どんな秘境だったのか、どうやって脱出したのか、全て報告書にまとめないといけないけれど」
「あ……それは……うう……」
「アハハッ! ごめんごめん。その役目はオレに任せてほしい。その代わり……」
「その代わり?」

 不思議そうに目を丸くして、トーマを上目遣いに見上げる。そんな姿を目にするだけで、息が詰まって、胸がきゅっと締まるのだから、恋というこの病の恐ろしさを改めて実感するしかなかった。

「やり直し、してもいいかい?」
「……はい。もちろん」

 つい先ほどまでは固く閉じ震えていた蕾が、今トーマの目の前で緩やかに綻んでいる。トーマにとってこの場所が大切な場所であるのと同じように、せつなにとってもそうなのだということが表情から伝わってくる。それが堪らなく、嬉しい。

「厄介な秘境だったけれど、一つだけ確かめられたことがあるから、そこはよかったのかもしれない」
「それって……?」
「オレはせつなのことが好きで堪らなくて、誰にも渡したくないってこと」
「っ、それは……わ、わたしだって、同じ気持ち、です」
「うん。……知ってるよ、せつな」

 想いを重ねて、唇を重ねた。ふたりにとって大切なこの場所で、またひとつ大切な想い出が増えた、と或る日の出来事だった。



(こんな形じゃ/不本意/やり直し) 2024.02.10

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