ユートピア崩壊の序曲


蒸気機関を利用して近代化を遂げた工業都市、エンジンシティ。街の至るところに水車や蒸気機関があり、南北で高低差があるエリアを蒸気機関を利用した昇降機で移動するのがこの街の特徴。ジムチャレンジの開会式が行われるエンジンスタジアムがあるのもこの街だ。
ワイルドエリアのちょうど中間に位置する都市で、ワイルドエリアと隣接していることから、ここにはワイルドエリアスタッフの支部がある。ちなみに、本部があるのはナックルシティだ。
ジムチャレンジの開会式が翌日に迫っていることもあり、エンジンシティにはトレーナーが数多く集まってきている。そのため、今日のパトロールエリアはエンジンシティに隣接しているキバ湖の東になった。

「クロエ」

珍しい声に名前を呼ばれた。白髪混じりの短髪に三白眼の初老の男性。いつまでも燃える男、エンジンシティのジムリーダー、カブさん。
キャッチコピーの通り炎タイプの使い手であり、ジムチャレンジの中ではチャレンジャーが初めてぶつかるキョダイマックス使いでもある。そのため、彼を破ることが出来ず敗退していくチャレンジャーは多く、ジムチャレンジの登竜門とも言われている。

「カブさん、お疲れ様です」
「お疲れ様。今日は仕事かな?」
「はい。今日の担当はキバ湖の東なので」
「そうか。ありがとう。昨日だけでもキバ湖東で事故や怪我が8件ほど報告されているんだ」
「それは……トレーナーが集まっているとはいえ、少し多いですね」
「ああ。人間に感化されてポケモン達もざわついているのかもしれない。クロエも十分に気を付けて欲しい」
「はい。カブさんも開会式の準備が大変でしょう?無理されないでくださいね」
「ははっ。自分の街で開会式があるのは光栄だし毎年のことだから苦ではないさ。一度マイナークラスに降格したときの虚しさと比べたら、有り難い忙しさだね」

カブさんは若い頃にホウエン地方からガラル地方へ渡り、ポケモントレーナーとして活躍している。何度かチャンピオンになれる機会すらあったほどの実力の持ち主だけれど、一歩及ばずに逃がしてしまったり、マイナークラスに降格して数年前に再び返り咲いたりと、様々な経歴を持つベテランだ。
「人生死ぬまで修行。学び続けよう」はカブさんの口癖だ。いつだったか、若い子達の勢いはすごいから自分も常に上を見ておかないとね、と言って笑っていたけれど、努力し続けることは並大抵のことでは出来ない。それを何十年と続けているカブさんの強さを見習わなければ、と思う。

「明日の開会式では臨時でエンジンシティの警備を担当するんです。よろしくお願いしますね」
「そうだったのか。こちらこそよろしく。何事もないといいけれど、リーグスタッフだけじゃなくクロエ達もいてくれるとさらに安心だね」
「任せてください!では、そろそろワイルドエリアに向かいますので」
「ああ。いってらっしゃい」
「……はい!行ってきます」

表情を緩めて送り出してくれたカブさんが、少しだけパパの姿に重なってしまって、懐かしさで少し目頭が熱くなった。誤魔化すように一礼して背を向け、急ぎ足で街の入り口へと向かう。きっと、勘のいいカブさんは何かを察したことだろう。でも、何も触れないでくれた優しさが有り難かった。

昇降機を使って街の南部、低いエリアへと移動した。ナックルシティとはまた少し違う石畳の橋を渡って門を潜り、ワイルドエリアへと続く階段を下りようとしたところで見知った顔に出くわした。ソニアだ。

「あっ、クロエ!」
「ソニア。無事にワイルドエリアを抜けられたのね」
「もちろん!でも、連日キャンプで少し疲れたかな。今日は温かいお風呂に入りたい……」
「そうだ。ねぇ。もし、泊まるところが決まっていないならスボミーインに泊まらない?私、明日はエンジンシティの警備だからスボミーインに泊まれるの」
「え!?ほんと!?ホテルは開会式に参加するトレーナーを優先的に部屋を割り振られてるから、ポケモンセンターに泊まるつもりだったんだけど、いいの?」
「ええ。私の部屋でよければ。部屋はシングルだと思うけど」
「大丈夫!あたしソファーで平気!」
「一緒に寝てもいいわよね」
「それも楽しそう!ふふっ、修学旅行みたい」
「ね。じゃあ、私は仕事してくるわ。部屋の番号は後からスマホロトムに送るから」
「ありがとっ!久々のエンジンシティだし、ブティックやバトルカフェに寄ってからホテルに行こうっと」

疲れたと言うわりには、階段を上っていくソニアの足取りは軽い気がした。気持ちは分かる。疲れていたとしても、ブティックでの買い物やカフェで甘いものを食べる余力は残っている。それが女の子というものだ。

トゲキッスを呼び出して蒼穹に舞う。この天気だと仕事がしやすそうだ。もちろん、晴天時に活発になったり技が強化するポケモンもいるから一概には言えないけれど。

そういえば、ソニアと一緒にいた子供達はどうしたのだろう。無事にワイルドエリアを突破出来たのならいいけれど、あの様子だと寄り道をしていてまだエリア内にいるのかもしれない。
職業柄、最悪の展開も頭の片隅に浮かぶけれど、彼らは大丈夫だろう。ダイマックスしたポケモンを相手にレイドバトルを挑んでいた彼らにはあんなことを言ったけれど、彼らはきっと強くなる。確信もないけどそんな予感がした。
純粋で、無垢で、真っ直ぐで、力強く、前だけを、上だけを見ているあの眼差しは、かつてのダンデ君ととても良く似ていた。
今はまだ小さな芽でも、いつかきっと大輪の花を咲かせる。ジムチャレンジの突破はもちろん、もしかしたらファイナルトーナメントを勝ち進むトレーナーだって出てくるかもしれない。そう思えるくらい、彼らは眩しかったのだ。







ホテル、スボミーイン。普段は一般人向けに、比較的低価格で部屋を提供しているホテルだけれど、元はローズ委員長がジムチャレンジのために建設した宿泊施設だ。ジムチャレンジの開会式前日には、チャレンジャーやスタッフが無償で泊まることが出来る。もちろん、これもローズ委員長の計らいだ。

シャワーと共に一日の疲れを洗い流すと、ホッと一息ついた。明日の仕事はエンジンシティでの警備だけれど、わざわざジムチャレンジ開会式の日に犯罪や事件が起きることはほとんどない。
私達のような警備スタッフが街やスタジアムを巡回しているし、何よりもポケモントレーナーのトップクラスに位置するジムリーダー達が8人集結するのだ。どんな悪事を働いたとしても、彼らと彼らのポケモン達がいれば敵う者などそういない。犯罪を企てる気すら起きなくなるほど、彼らは強いのだ。
だから、きっと仕事といっても道案内や交通整備がメインになるに違いない。だからといって、気を緩めるつもりはないけれど。

ベッドルームに戻ると、パソコンや資料をテーブルに広げたソニアが画面とにらめっこをしていた。彼女の足元で暇をもて余していたワンパチは私を見ると目を輝かせ、ゴロリと回転してお腹を見せてきた。
少し待ってね、と言って備え付けの電気ケトルに水を入れる。

「仕事?」
「うん。今日調べたことをまとめておこうと思って」

お湯が注がれたインスタントの紅茶の香りにつられてソニアが顔を上げる。

「ワイルドエリアでクロエが逢ったあの子達も、さっきホテルに着いてたよ。ジムチャレンジの受付も済んだみたい」
「そう。無事に通り抜けられたならよかった。さすがにくたびれただろうし、ゆっくり休めるといいわね」
「それが、ホテル受付にいた困ったお客をポケモンバトルで鎮めるくらいには元気なのよ」
「えっ、そんなことがあったの?」
「うん、あの子達が解決したけどね。ありがと……あー、いい香り」

私もソニアの向かいに座り、その香りごと飲み込む。さすがはローズ委員長がプロデュースしたホテル。インスタントとはいえ、いい香りだし美味しい。膝にのって来たワンパチのもふもふ具合と相まって、癒し効果は抜群だ。

「あたし、まどろみの森にいる不思議なポケモンの調査をしてるって話したじゃない?」
「ええ」
「ガラルの伝説を調べれば何か分かるかもって思ってさ、このホテルの英雄像を調べてみたんだよね」
「英雄像って、剣と盾を持った、あの?」
「そう。あの子達にも話したんだけど、聞く?ガラル地方を救ったと伝えられる英雄の話」
「ええ。せっかくだし」

確か、ホテルに入ってすぐのところに、鎧をまとい剣と盾を持った青年の像があった。私はただの飾りと思って気にしていなかったけど、ソニアにとっては貴重な調査対像だったらしい。

「大昔……ガラル地方の空に黒い渦……人呼んでブラックナイトが現れ、あちこちで巨大なポケモンが暴れまわったが、剣と盾を持った一人の若者によって鎮められた……その伝説の若者、すなわち英雄をモチーフにした像が、あれ」
「それが伝説なのね。ガラルの歴史学を学んだときにうっすら聞いたことがあるわ。私はかじったくらいだけど、ソニアは剣や盾や黒い渦について詳しく調べないといけないんでしょう?」
「まあね。大変だけど、苦じゃないから頑張るよ。おばあ様に認められたいし、早く一人前になりたいからね。もう少しやってもいい?」
「もちろん。私も明日の資料に目を通してから寝るから」

ガラル地方の伝説。世界の危機を救った英雄。剣と盾。ブラックナイト。
目の前のものを守ることに精一杯な私には、どれもとても途方のないスケールの話に思えて、他人事のようにさえ感じ、ソニアがパソコンを叩く音を聞きながらぬるくなった紅茶を飲み干した。

それらによって近い未来、私の大切な人が傷付くことになることも知らずに。





2020.2.23


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