推しの推しが巻き込まれた事件に巻き込まれた件4

 イデアのナビゲーションで人目を避けてきた彼等だが、雑居ビルまで来ると流石に人目を忍べはしなかった。
「ま、そうなりますわな」
人の少ない裏口から入ったものの、フロイドが居るのは最上階だ。そこに至るまでにも敵との遭遇は避けられないだろう。せめて、これ以上の敵を投入される事を避けるべく、シャッターを降ろして一階の窓という窓を塞いで回った。しかしというべきか、やはりというべきか、そんな冗長な事をしている間にも敵は来た。

 一定すぎる足音にいち早くグリムが反応すれば、イデアは懐からサイリウムのような形状の棒を出して見せた。
「グリム氏、窓の溶接は頼みましたぞ」
グリムは、返事の代わりに一等強い炎を噴いて見せた。高熱の青い炎が、窓と窓枠の金属が熔かして境界を曖昧にしていく。その様子を見たイデアは、軽く頷いて手持ちの棒のスイッチを入れた。ヴォンと近未来的で小気味良い電子音が鳴ると、光の刃が展開した。
 魔導ビームサーベルだ、と監督生が眼を見張った。ロボコンでイデアのロボットが握っていたサーベルの小型版がそこにあった。
「時代はやはり非接触。拙者これでもフォースと共にあらんとした時期もあった故」

 金属の塊たるロボットも膾切りに出来る武器であるので、当然ながら人間などは簡単に両断された。
 ビームで焼き斬るので、流れる血も僅かだ。血が通っている筈の人体の一部が玩具のようにすっ飛ばされる様は玩具のようで、現実味の無さがいっそ恐ろしい。右腕を切り落とされた人間は、ユニーク魔法が解けて初めてまともに悲鳴をあげられるようになる。その攻撃から一拍遅れた歪な悲鳴が、一層の不気味さを醸した。
「ごめん、治療魔法までは手が回らないから病院でくっ付けてもらって!」
普通なら失血死であるが、獲物がビームサーベルで幸いだった。というのはイデアの弁であるが、きっと相手はそう簡単に割り切れはしないだろう。

 痛みでのたうつ人々を跨ぎ、イデアは監督生の首根を引っ掴んで非常階段から二階へ駆け上がる。
「治療魔法を施したら何処まで治るんですか?」
「アズール氏なら三日でくっ付ける」
「イデア先輩なら?」
「義肢作った方が早い」
喫茶店は、最上階だ。イデアは、普段より短くなった脚に不便を感じつつも、階段を一段飛ばしで駆けた。窓を溶接し終えたグリムも、二人に追い付いてきた。四つの脚は短いながらも、この場の誰より身軽で速かった。
「ヤベーんだゾ、奴等、窓に石投げ始めやがった。また入って来んのも時間の問題なんだゾ」
「時間を稼げるだけで上等」
上階から来た敵を、イデアが踊り場で斬り伏せる。イデアが斬り損ねた者は、グリムと監督生で階段から突き落とした。
「君達はニンゲンだろう! どうしてそこまで人魚に肩入れする!?」
背中から階段を落ちていった者が叫んだ。
「……喋らせる事まで出来たのね」
「耳を貸してもロクな事ないぞ」
三階の階段に差し掛かったイデアが監督生に忠告する。有象無象を斬っては捨てて、彼等の居るところは常に悲鳴の中心地だった。どちらが悪党か分かりはしない絵面だ。実際、操られているだけの人々にはいい迷惑だろう。
「そこに居るのは魔法の使えないニンゲンだ。貴女の同胞だ」
「ほら! やっぱロクな事言わない」
イデアは対面した見知らぬ男を叩き斬りながら言った。腕を斬られて絶叫する人々を前にしても彼は倦まなかった。寸分の躊躇も無く、人々を階下に捨てていく。
「彼等を憐れに思うなら止めたらどうなの。さっさとジェイド先輩を返してくれたなら、私達だってこんな真似しないわ」
監督生は、一瞬怯んだものの言い返した。モストロ・ラウンジで決起した時から、悪を為すくらいの覚悟はとうに決めていたからだ。

 「魂の無い人魚と呪われた男と組んで何になる?」
聞き覚えのあるフレーズに、イデアと監督生が顔を見合わせる。
「……あれは、バッシュ・フラー先輩の言葉じゃなくて、貴方だったの」
「フラー? ……ああ、そうとも。だが彼とて同じ事を思っていただろう。紛い物の二本脚を付けた生臭い連中や、不吉な炎を負った男より、君は僕等の方にずっと近い筈だ」
男は使役した者の名すらろくに覚えてはいなかった。その癖、亜人種とヒト属の間に引いた線を重要視して、仕分けている。その思考の歪さに気付かないのは、彼だけだ。
「貴女が頭を垂れるべきは彼等じゃない」
そして彼は、自身こそが支配者に相応しいと疑わない。
「あれ等は社会から弾き出されるべき異端だ!」

 「アッ」

 会話に意識を割かれていた監督生の髪が、階段から這い上がってきた者に掴まれた。中年の女だった。監督生より、十数センチは背が高かった。
「子分!」
グリムが駆け、監督生の髪を爪で掻き切った。
 耳を貸すなと言っただろうと、イデアが声を荒げる。

 イデアが監督生の元に駆け寄ろうとしたのと同時に、彼女は機敏に踏み込んだ。
 監督生は体勢を低くし、女性の太腿を掴んだ。そして、髪を掴んでいた手を頭で押しあげるようにして立ち上がれば、相手は重心を崩してよろめいた。その間隙に、監督生の小さな拳が鼻梁に捻じ込まれる。下から掬い上げるような、容赦を捨てた殴り方だった。
 イデアが呆気に取られている間に、女性は階段を転げていった。
 あまりに鮮やかで、あっという間の事だった。

 監督生は、姿を見せずに干渉してくる密猟者に向けて声を張った。
「貴方達と一緒くたにされずに済むなら異端で結構!」
華奢な身体に不似合いなまでに、よく通る声だった。不揃いに短くなった髪が、彼女のあどけない貌に振りかかる。
 お人好しで温和な筈の女に不釣合いな、瞋恚に満ちた双眸が髪の隙から覗いていた。
 イデアにとっては、初めて眼にする顔だった。
 イデアは、彼女が自身を「良い子なんかじゃない」と称した意味を、この時になって改めて知った。
 そしてふと気付く。今までイデアの観測していた彼女は、敵意を持った存在と合間見えた時には常に他人からのフォローを得ていて、彼女自身が敵愾心を剥き出しにしたり反撃に踏み切ったりする前に事態が収束あるいは転換していたのだと。別に彼女は最初から、今イデアの目の前に立つ彼女と何ら変ってはいないのだと。
 例えば、彼女が酔漢に絡まれた時、真っ先にジェイドが副支配人として事態の収拾を図った。その後にジュースの販売員を降りたのだって、彼女自身が止めると言い出した訳ではなく交代を申し出た従業員の善意によるものだった。召喚術の教員の横暴には、確かに彼女も憤ってはいたが、それを簒奪してしまったのは他でもないイデアの癇癪だ。イデアは、彼女は弱く、怒りや憎しみとは縁遠く、ふわふわとした儚い存在だと思い込んでいた。けれど実際は、そう思い込んだ対応をする事で、彼女の意思決定の瞬間を見逃し続けていただけなのだ。
 この女は、屈辱の味を知っている。悪辣で強欲な人魚の支配する領域でも働ける図太さと慎重さも持ち併せている。弱さへの自覚と、それでもなお捨てぬ矜持があった。この生き物が脆く夢見心地な可愛さだけで作られている筈がないと、少し考えれば分かる事だった。

 この女は存外、芯が強いのだ。時に食い物にされ、不勉強を詰られたり侮られたりしている彼女は間違いなく弱者だが、恐るべき外来種でもあった。
「貴方の偏見が世間とやらの常識なら、私は世間知らずで構いません。異端でも非常識でも、何でも結構」
世間一般の価値観と反する事が気に入ったものを貶めるに足る理由になるのなら、無知や非常識で構わない。そう胸を張れてしまうのも、所詮は彼女が余所から来た生き物だからかもしれない。
 異端どころか、彼女はこの世界にただ一人の異邦人だった。
 その秩序と生態系の外側の立ち位置は、種族や外見といった安易なラベリングよりも深く彼女を形作っていた。生臭い尾鰭も燃える髪も、きっと彼女には些事なのだ。特殊といえども、彼女は左利きやAB型の血液と同じ感慨でしか語らないだろう。ただまっさらな眼で、目の前の事象を見ている。

 実際の彼女は、イデアが思っていたよりも無知で愚かで、苛烈だった。
 イデアは、彼女が理想的な少女像に当て嵌らない事に愕然としながらも、幻滅に至るどころか彼女の生々しい輪郭に眼を凝らしていた。
 それどころか、この女と世界との隔絶を感じながら、不思議とイデアは彼女に共感していた。それは自身も非合理的な行為を良しとするくらいなら非常識で良しと思った事があるからかもしれない。天才の前に異端が付随する肩書きを負わされているイデアだから、この女の純粋さが眩しかった。
「君、そんな風に動けたの」
「モストロ・ラウンジではクレーマーの接客術も学ぶんです」
人を殴って階段から落したのは初めてですけど、と監督生。一般的な接客術の範疇を遥かに超えたその動作からは、職場の治安の悪さを伺わせた。主に新人研修を担当する副支配人の顔が脳裏にちらついて、イデアは頭を振った。


 上階から疎らな拍手が聞えて、イデアは顔を上げた。
「小エビちゃんも随分な啖呵切ったじゃん」
フロイドとカツオノエボシと呼ばれている生徒が、階段の手摺りに身を乗り出して覗いていた。
「上の階に来た奴等はみーんな片付けたよぉ」
オレ偉いでしょ〜と緩い口調で血の付いたままの手をヒラヒラ振ったフロイドに、監督生がぎこちなく手を振り返した。

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 違法オークションの会場を地下に持つ寂れた観光ホテルの駐車場に、場違いな赤毛の少年が駆け込んで行く。
「サーセン、ホテルミラコスタって何処っすか?」
赤毛の少年は余所者であるらしく、粗末な手書きの地図を片手に守衛に駆け寄った。少年の目的地を聞いた守衛が、目を瞬かせる。
「え? かなり遠いよ、君何処から来たの?」
「薔薇の王国っす。いやね、ダチの親戚がやってるっつーんだけど、地図だと此処っぽいんスよ」
彼の吊り目がちな眼元は、赤いハートのスートで飾られている。彼は監督生の悪友たるエース・トラッポラであり、彼本人ではなかった。
 監督生が持つゴーストカメラによる記憶の断片であり、エース・トラッポラの魂の一部分の再現だった。エースの要領の良さと対人能力優秀さも見事に再現されており、愛想の良さとリアクションの大きさで守衛達の注目を集め、大人達の庇護欲を上手い事擽った。
「うわ、何この地図。悪筆にも程がある」
案の定、遣り取りを見ていた守衛達がわらわらと集まり、揃って地図を覗き込む。
「この字、10番通りじゃなくて16番通りじゃないか?」
「ならコレaじゃなくてdか」
「なるほど、だから此処まで来ちゃったのか」
「もしかして全然違う感じっすか!? マジかー、結構交通費使って来たんだけど」
出鱈目な地図に振り回されている少年に、同情の目が集まる。
 少年は、砕けた口調ながらも大人への礼節はあり、若く快活で人懐こい雰囲気があった。だからこそこの少年を何とか助けてやろうと思うのだろう、大人達が頭を寄せ合って、近隣の安い宿や深夜でも動いている公共交通機関などの情報を出し合う。


 雑居ビルの一階にて、イデアは「コミュ強こっわ」と肩を竦めていた。
 エースが注目を集めている内に、守衛達は通信機と武器をすり盗られていたからだ。その瞬間を、遠隔操作した小型ドローンとハッキングしたホテルの監視カメラの両方で捕らえていた。
 アズール以外の生徒達は、雑居ビルの一階で集結を果たしていた。既に営業時間を終えて無人になっている個人事務所をこじ開け、電気を拝借してコンピュータを開いたり、魔導ビームサーベルを充電したりと主にイデアがやりたい放題していた。
 オクタヴィネルの面々の中にはフロイド同様に襲われたらしい者も居たが、概ね体力は残っていた。少なくとも、守衛達の間抜けぶりに無邪気に声をあげて笑い合う程度には元気だった。
 彼等は、ゴーストカメラで作った自分達の分身を街に放つ事で、追っ手から逃れる事に成功していた。とはいえ、メモリーに過ぎない彼等はユニーク魔法などは使えない上に、最大で二つの属性の魔法しか覚えられない代物だった。ただ野放しにしただけではあっという間に捕捉されてしまうであろう。だから、アズールだけは街に出て彼等を先導せねばならなかった。アズールの不在はその為だ。

 守衛達から仕事道具をすり盗ったのは、ラギーだ。
 勿論、彼もゴーストカメラによって蒐集された魂の一部分に過ぎない。本人はナイトレイブンカレッジで、オクタヴィネルの騒動など知らずにいる筈である。けれど、彼の魂に染み付いた手先の器用さは健在であった。
「これで給金もらってるんだから、羨ましいったらッス」
守衛達も魔法士の端くれではあるようで、獲物である警棒の柄には魔法石が嵌っていた。
「コバンザメちゃん、財布までスってんじゃん」
ラギーが盗ってきた物を確認したフロイドが、その手腕に感嘆する。オクタヴィネルの面々は、その声を受けて慌てて自身のポケットも確認した。案の定、二人ほど被害に遭っていた。
「そのラギー先輩はフェアリーガラで一緒に窃盗を働いた際のメモリーなので、手癖の良さが一番反映されてるんです」
妖精と見紛う純白の衣装に身を包んだラギーを相手に、監督生曰はさらりと白状した。
「そーいや、カニちゃんはアトランティカから写真盗んでくんのにも協力してたんだっけ」
フロイドは、ラギーが取ってきた警棒を自身の懐に入れた。それに倣って、オクタヴィネルの面々も警棒を手に取った。
「ええ、その時も丁度あんな感じで警備員さんの注目を集めてくれたお陰で上手く行ったんです」
「エースは息を吐くみてえにスルスル嘘吐くんだゾ!」
監督生は、守衛達と喋っているエースのメモリーを指差す。メモリーの彼等は単騎での戦闘においては圧倒的に不利ではあったが、彼女は適材適所を知っていた。
「ほんと、君って全然良い子なんかじゃなかった」
「お恥かしながら」


 個人事務所の面々は、突入に備えて右手にテーピングを巻いた。
 テーピングは一見すると普通の布だが、魔法で鉄の硬度に硬化され、擬似的な篭手となっていた。密猟者がマリオネットと呼ぶ状態の人々と対峙し続けたアズールの観察と検証によって、ユニーク魔法のトリガーは右手に傷を負わされる事だと判明したからだ。
「馬鹿だろ、このユニーク魔法の制約のガバガバさ。右手なんて咄嗟に出ちゃう方だろ……初見は大抵カモにされるって」
「カツオノエボシちゃんが言うと説得力あんね」
そも彼は、ウェイターの振り下ろしたアイスピックから身体を庇おうとして咄嗟に出した手を刺されたのだった。大仰に刃物を振りかぶられては狙いが右手の極一部だとは誰も思うまいと、カツオノエボシが管を巻く。
「クソッお前等サウスポーじゃん、他人事かよ」
フロイドとイデアは、自分でテーピングを巻いていた。
「日頃から右利き用の規格がデフォのシステムに胡坐を掻いてきた輩に何言われようと響かんでござる」
アズールの検証がどんな手順を踏まれたかは考えるだけでも血腥いので敢えて誰も聞きはしなかったが、アズールの優秀さを疑う者は無く、坦々と準備が進められた。
 敵の手の内を探り終えた今こそが、会場突入のチャンスだった。


 フロイドを筆頭とするオクタヴィネルの面々は雑居ビルを出て、エースに意識を取られている守衛の視覚から観光ホテルに近付いていく。そうなれば、エースの仕事も完了である。
 時間稼ぎの役目も終えたエースのメモリーは、守衛達を前に徐に懐から小瓶を出した。監督生がアズールから貰った、空気に触れると数秒で光と爆音を発する魔法薬の詰まった小瓶である。
 守衛達は、目の前の少年の怪しげな行動に驚き、漸く自身に武器も通信機も無い事に気付くも、次の瞬間には魔法薬の威力の前に伏していた。

 魔法薬の光が弱まると同時に、物陰に潜んでいたオクタヴィネルの面々が駐車場に飛び出した。そして眼が眩んでいる守衛達を速やかに暴行すると、制服を剥ぎ取った。
「駐車場にキメラを確認。逃げ出した商品と思われます。我々では抑えきれません。応援を要請します」
オクタヴィネル生が守衛に成り済ましたのを確認したイデアは、盗んだ通信機に虚偽の報告を流した。報告を受けて駐車場に駆け付けた連中は、全て魔法薬の餌食になった。
 ホテル内の監視カメラは既に支配済みで、相手方には砂嵐の映像しか確認させてやらないが、イデアの背後ではグリムが律儀にも獣の声を真似て唸っていた。

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 混乱に乗じてホテルへ侵入したオクタヴィネル生達は、地下のオークション会場に乱入してアペルピシアに呪いを仕込んだ術者を叩く班と、地上の客室フロアに突入してジェイドと密猟者を探す班に分かれた。
 地下はフロイドにイモナマコと呼ばれていた小太りな生徒と、カツオノエボシ、そしてラギーとエースのメモリーという少人数かつ目立たない人選だった。対して地上のフロアには、地下班とアズールを抜いたオクタヴィネル生の全員が集められた。

 折角守衛から制服を剥ぎ取って敵に見付かりづらい格好を整えたというのに、フロイド達地上班は客室フロアに着くなり早速そのアドバンテージをかなぐり捨てた。
 廊下の中央を肩で風を切って歩き、人目に付こうがお構い無しに片端から客室の扉を蹴り開ける。大声でジェイドの名を叫び、恫喝めいた声で威圧して回る。イデアから強請り取った、もとい譲り受けた魔導ビームサーベルを携え、鍵のかけられた部屋だろうが鉄の戸だろうが斬って押し入った。
「流石ヤクザ寮。討ち入りが堂に入り過ぎててワロえない」
イデアは雑居ビルに居座ったまま、ホテルのシステム系統を乗っ取り遠隔で彼等を支援していたが、フロイドの客室を荒らす手馴れた手付きには引き笑いを催していた。イデアが持っていたときはSFめいた風情があった魔導ビームサーベルも、フロイドが持てば高性能な長ドスである。
「笑ってるじゃねーか。めっちゃ人が集まってきてんだゾ」
イデアの手元のモニターからホテル内部の様子を確認したグリムと監督生は、半ば呆れ顔で憂う。焦りが無いのは、フロイド達がホテル内で目立つのは、計画の内だからだ。
 敵のユニーク魔法の解除方法が分かった今、本当に重要なのはアペルピシアに呪いを仕込んだ術者を叩く方とジェイドを見つける方で、その将の首に固執する合理的な必要性は無くなった。要は、地上の部隊は地下に眼を向けさせない為の陽動であり、敵の手駒となった者を引き摺り出す為の囮だった。
 とはいえ、散々に侮辱され身内を傷つけられ辛酸を舐めさせられた人魚達の殺気は本物だ。あわよくば然るべき報復を行いたいし、根こそぎ壊滅させてやりたいと、皆が憤りに満ちた眼をしていた。

 案の定、フロイド達の許には、操られた人々が殺到した。
 イデアは、乗っ取ったホテルのセキュリティシステムを利用し、防火シャッターを下ろしては追っ手とオクタヴィネル生を切り離し、彼等に優位な状況を整える。時に消火用のスプリンクラーから大量に水を出してやり、凍結魔法を打つだけで追っ手を氷漬けにできるようお膳立てをしてやった。
 今日はフロイドのユニーク魔法もコントロールが良好だ。彼は順調に相手の手駒を減らしていった。
 恐らくは、街の紹介に割かれている分のマリオネットも、ホテルに再集結させられているのだろう。街中で見た格好の人々がホテル内を駆けるようになってきていた。
 更には、客や従業員に混ざれるようなヒト属だけでなく、次第に獣人を始めとする亜人種も露骨に混じるようになっていく。それらは主にフロイドが引き付けてはパルクールめいた動きで躱し、隙の無い体術で捌いていった。寮を同じくするだけあって、彼等の連携もそこそこだった。
 相手もいよいよ形振り構わなくなってきたのを感じれば、オクタヴィネル生たちの口角が好戦的に吊り上がる。順当に残機を減らしていけば、相手はジェイドも出さざるを得なくなってくるであろうと踏んでいたからだ。
 向こうから来てくれるなら、探す手間が省けて都合が良い。特に、喫茶店の件でフロイドに人質が有効であったと知られた分、相手が双子の情に訴えてくる可能性は高い。彼等は、報復感情に任せた討ち入りの体で、相手の手駒を徹底的に潰す事に専念した。

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 地下のオークション会場に潜った生徒から、通信が入った。カツオノエボシからだった。
『ジェイコブを確保。 今からそっちに向かう』
イモナマコとカツオノエボシが茶髪の中年男性を両脇から抱え、エレベーター前まで引き摺っているところだった。

 オークション会場は、キメラが脱走したという偽りの報告のお陰で混乱の様相を見せていた。
 そのお陰で、守衛の格好をした彼等が若過ぎる事にまで、誰にも気付かれずに済んでいた。ラギーに至っては、制帽の下には獣人属の特徴である耳が押し込められているというのに、至って自然に紛れていた。
 流石にジェイコブに接触した際は偽の守衛だと気付かれたが、騒ぎになる前に鳩尾に一発入れて暫くは大人しくさせる事に成功した。ジェイコブは意識が飛ぶ寸前まで「裏切ったら殺される」だの「俺まで使い魔にされちまう」だの、「瞬き一つ手前の意志で出来なくなるのは御免だ」だのとごねていたが、誰も同情心を芽生えさせたりはしなかった。

 チン、と軽快な音と共にエレベーターが地下に到着する。
 順調だ、と報告する筈だったオクタヴィネル生の声は、引き攣った悲鳴に変った。エレベーターの中に、ジェイド・リーチが居たからだ。
 ターコイズブルーの髪を視界に捕らえたのも束の間、カツオノエボシはジェイドに蹴り飛ばされた。操られているジェイドには、同寮だの学友だのという一切の人間関係は反映されない。故に、体長一・九メートルの内半分以上を占める長い脚は加減も無く撓り、同胞の脇腹にめり込んだ。
 いち早くラギーが飛び退き、イモナマコとエースもジェイコブを引き摺りながら慌てて距離を取る。
 蹴り飛ばされたカツオノエボシは、床に転がったまま「肋が逝った」と自己申告した。二本指を立てているのは、ピースサインではなく折れた骨の数だった。

 ジェイドは、表情の抜け落ちた顔をしていた。彼の虚ろな眼差しが、未だ起き上がれないカツオノエボシで焦点を結ぶ。
『人魚の分際で、ヒトに楯突くな。お前等は水産資源だろう』
慇懃で婉曲的な無礼を得意とするジェイドには不似合いな罵倒が紡がれた。困っていようが苛立っていようが不敵に笑みを浮かべている筈の口許は歪み、密猟者の代弁をさせられる為に動いていた。
『よりによって、ソレをジェイド君の口で言うんスか』
カツオノエボシを助け起こしながら、ラギーが苦虫を噛み潰したような顔をした。
 人魚は陰惨で強欲で、獣人は野蛮で狡猾だというのが、ヒト属至上主義者達の決まり文句だった。けれど彼等に言わせれば、ヒトの傲慢と頭の固さこそが目に余る。到底お互い様にはできぬ域に達した確執が、そこに鎌首を擡げていた。
『下等生物がどいつもこいつも分不相応に……クソが! クソックソッ』
反論しようと息を吸ったものの肋の痛みで声を出し損ねたらしいカツオノエボシが、ジェイド越しの密猟者に中指を立てて抵抗の意志を示す。イモナマコが、黙ってマジカルペンを構えた。


 オクタヴィネル生の焦った声が、機械越しにイデアの鼓膜を揺らした。
『アイツ、商品と客に手ぇ出しやがった!』
四対一の攻防が膠着すると、ジェイドは直ぐに標的を変えた。
 亜人種の商品と従業員や客の手に傷を付けて回り始めたのだ。その血迷った所業には、オークションの司会者すらも眼を白黒させて逃げ惑う。
「……だいぶイっちゃってますな」
オークション関係者は商売相手の筈だが、そんな事は最早勘定に入っていないらしい。フロイド達にマリオネットを次々壊されていった密猟者が、ホテル内で駒の補充を試みたのだ。人魚の反乱を押し込めたいが為に、ただこの場での一時的な勝利の為に、あらゆる犠牲を払い始めたのだ。到底、健常な判断ではない。
 事後処理すら考えていないその行動は、オーバーブロットの前兆だ。下に見ていた生き物に反旗を翻される不快に、密猟者はとうに冷静さを欠いていた。

 イデアが舌打ちする。密猟者のユニーク魔法の支配下に置かれた者達が、ジェイドと同様に無差別に攻撃を始めたからだ。敵の駒が、鼠算式に増えていく。
「ゾンビパニック再びって感じ。引き出しの少ない脚本家の自主制作映画か?」
「んなこと言ってる場合じゃないんだゾ」
そうこうしている内に、従業員の殆どが男のユニーク魔法の餌食になった。
 イデアは管理システムに干渉して地上へ脱出するエレベーターを寄越してみたが、増え過ぎた敵に囲まれて無事に乗り込める道筋が確保できない状態だった。
 数人を治療したり無力化したりしても、敵が増えるスピードの方が多い。肝心のジェイドがアペルピシアに侵されている為に、治療魔法を打っただけではユニーク魔法の支配から取り戻せないのが痛手だった。彼が居る限り、敵が増やされ続ける。
 それどころか、ジェイドは従業員から商品の入った檻の鍵を取り上げ、支配下に置いた亜人種を会場に放ち始めた。
 ケンタウロスの脚力で追い掛け回されたオクタヴィネル生は、体勢を立て直す暇も与えられずに逃げの一手だ。巻き込まれた客も、会場に控えていた従業員達も、点でばらばらに逃げ惑う。
「アズールが魔法で治せるってんなら、さっさと腕でも何でも切り落としちまうんだゾ」
混沌の図に耐えかねたグリムが、切羽詰った声を出す。そうこうしている内に、イモナマコを庇ったエースがケンタウロスに轢かれた。エースのメモリーが、ただの平面に戻ってしまった。
「あれは魔導ビームで焼き切った場合の話でござる。普通の得物でやっても失血死が関の山ですな」
悔しいけれど、魔法は万能ではない。イデアは、混乱を極めるオークション会場を見詰めながら、どうにか逃走経路を作り出す方法に頭を絞る。
 今密猟者にオーバーブロットされた場合、濁った異常な魔力がマリオネットにされた人々に流れ込んでしまう可能性をも考えられる。そうなった時、ジェイドやラウンジの人魚達が無事でいられる確証は無い。その最悪の想定を避ける為に、ジェイコブとジェイドを一刻も早く回収する手段が必要だった。


 監督生が、撤退の方法についてイデアに相談を持ちかける。
「ハーピーを引き込みましょう。エレベーターの扉だけ開けて、昇降路を彼等に飛んで貰うんです」
ユニーク魔法の支配下に置かれる心配のない彼等を引き入れ、空中から逃げようというのだ。
「できるよ。確かにそっちのが昇降機より早いだろうね。彼等が協力してくれればだけど」
イデアの返答と同時に、監督生はラギーのメモリにジェイドから檻の鍵をすり盗るよう指示を出した。幸い、冷静さを欠いた相手の隙を突いて物を奪うのはラギーにとっては容易いようだった。怒れるリドル・ローズハートからもマジカルペンを奪った腕前は、ジェイド相手にも遺憾無く発揮された。

 檻から解き放たれた成体のハーピーは、梟の翼を持つ男と、鷲の翼を持つ女が二羽。幸いにも、カレッジと同様に公用語が通じるようなので、監督生がイデアの通信端末を借りて彼等を説得した。
 彼等との交渉の結果、雛の同胞たる雛四羽も連れ出す事で協力を得られた。ハーピー及び鳥人は、国際法で使い魔にしてはならないと規定される程度の知能と社会性を有している種だ。彼等は監督生の声を会場に居た女だと看破したが、脱出の機会を作った事に免じて理性的に応じてくれた。

 ハーピー達は、オクタヴィネル生二人とジェイコブと雛四羽を分担して乗せてやると、厚い胸筋に支えられた長大な翼を広げて羽ばたいた。
 ラギーのメモリーは、ハーピーの雛の檻を開けた段階で、さっさと平面に戻った。この状態で更にジェイドまで回収するとなれば、流石にラギーまで乗せるスペースは無いからだ。

 三対の猛禽の瞳が、混乱の坩堝と化した会場を鋭く睥睨する。
 長大な翼でシャンデリアを揺らす風を巻き起こしながら、人々の頭上を滑空していく。その力強さは、陸や海しか知らない者達には神秘的ですらあった。

 既に背にオクタヴィネル生をしがみ付かせたハーピーが、樹上生活に適応した脚でジェイドを文字通り鷲掴み、天井擦れ擦れまで飛翔した。薄茶の羽根が会場に舞い散る。
 ジェイドは身体を滅茶苦茶に捻って暴れたが、ハーピーの可変対趾足にしかと胴を掴まれては逃げられはしなかった。そこにどうにか硬直魔法を打ち込んで大人しくさせ、飛行を安定させる。
『チクショー! リザードマンが壁登って追いかけてきやがる!』
彼等は宙を一直線に切り裂いて、エレベーターホールを目指した。しかし、障害は出現した。
 指下板と呼ばれる鱗を持つ指を活かして、リザードマンが垂直面を登ってはハーピーを追い回していた。魔法で跳ね除けようにも、硬い鱗に覆われた皮膚は生半可な攻撃を通さない。
 リザードマンのカメレオンじみた長い舌が、逃げるハーピーの脚を掠めた。本来なら脅威にならないそれも、過積載のハーピーでは振り切れるか不安があった。その上、狭い昇降路までついて来られた場合、完全に彼等の方が優位となってしまう。彼等を完全に振り切っておく必要があった。
「殿軍が必要っすなぁ」
イデアは、長い溜息の後、アズールから渡された魔法増強薬を呷った。

 古代魔法と高等かつ新しい体系の呪文が入り混じった詠唱が、イデアの掠れた声で紡がれる。召喚の詠唱だった。
 監督生には理解の及ばない上に基礎的なものからは遥かに逸脱しているそれは、監視カメラに映るオークション会場に召喚の座標を指定し、使い魔を招き喚ばうシステムを構築する。
 高濃度の魔力が消費される気配に、グリムが毛を逆立てた。
 実際、イデアにかかる負荷は大きかった。変身薬の効能を維持する分の魔力は潰えて、イデアの青く燃える髪が宙をのたうち始めていた。黄金の瞳は、緊張に拡散気味になっている。おどろおどろしさすら感じさせる気配に、監督生の肌も粟立った。

 会場が青白い閃光に包まれ、巨大な魔獣が唸り声を上げて顕現した。
 真っ黒な、双頭の犬の怪物だった。
「ケルベロス!」
その姿に、監督生が歓声とも悲鳴ともつかない声をあげた。獣の姿が、いつかイデアが監督生に語ったグレートセブンが飼っていたという生き物を連想させたからだ。
「いや、あれはオルトロス。頭が二つだけでしょう」
イデアが静かに訂正する。低く掠れている上、蚊の羽ばたきのように小さい声だったが、監督生の鼓膜を鮮明に揺らした。
「名前の通り速いよ」


 オルトロスと呼ばれた生き物は、ケンタウロスを蹴散らし、ハーピーを追わんとする者に悉く噛み付いた。
 縦横無尽に駆けて会場を引っ掻き回し、操られた者共の連帯を封じていく。そうして隙無く四つの眼を光らせたオルトロスは、エレベーター前を陣取ってしまった。
 番犬の動きだった。扉の前で主人の許可無き者を拒むように全方位を威嚇するその佇まいは、冥府の王に仕えた地獄の門を守るかの犬のよう。

 ハーピーは、会場を旋回して今度こそリザードマンを引き離し、加速の為に充分な距離を確保する。そして、吸い込まれるようにエレベーターの昇降路に飛び込んだ。翼を充分に広げられない竪穴を、ハーピー達は宙を滑るような動きで器用にすり抜けていった。地上までほんの数秒もかからない、恐るべき急上昇だった。
 地上階に出たハーピーは、早々にオクタヴィネル生とジェイコブを振り落とすと、窓を突き破って雛達と共に屋外へと逃げていった。そのまま、別れの挨拶すら無く星月夜に消えていく。
「イデアお前、鼻血出てるんだゾ」
「え、ああ……日頃の不摂生が祟りましたな」
指摘されて初めて気付いたと言うように、イデアは袖口で鼻を拭った。監督生はハンカチを差し出すが、イデアは彼女の持ち物を汚す事を拒んだ。
 血色の悪い顔に赤が広がって、膚の生白さが目立つ。疲労と魔力の大量消費による鼻血だった。
 無理も無い。魔法陣も無く、詠唱のみであれだけの質量の魔獣を召喚したのだ。
 その上、モニターに向かい通しで全体の情報共有に神経を割かされていたし、監督生とはずっと視界を共有していたのだ。加えて慣れぬ戦闘も行った。常人なら既に目を回す負荷だろう。魔力増強剤でその場限りの魔力は補えても、体力はどうにもならない。イデアは「徹夜しなきゃ良かった」と呻いた。
「つくづく格好つかないなぁ僕」
「まさか。MVPです」
一階のエントランスを映すモニターでは、イモナマコとカツオノエボシがジェイドとジェイコブをそれぞれ引き摺って脱出するところだった。幸い、ジェイドでなくとも、彼に仕込まれた従業員は「お話し」が上手い。ジェイコブはさっさと呪いを解くだろう。



 監督生は、鼻血を出したイデアに代わって通信を引き受けていた。とは言え、やる事といえば、最早残っている仕事は各所への現状報告程度である。監督生は、治療及び事態の収拾に協力してくれた学園側の人々に謝辞を述べ、低頭平身で対応していた。
 彼女にとってはこの時に初めて知った事が、アペルピシアに侵されていたのはオクタヴィネルの人魚だけではなかったらしい。ロボコンでドリンク販売員をしていたラギーを始めとする獣人の一部も、アペルピシアに寄生されていたのだ。考えてみれば、尾鰭を隠して陸で暮らす人魚も被害に遭っているのだから、耳という特徴を丸出しにしたままの彼等がヒト属至上主義者に目を付けられない筈もない。ただ、人魚達より頑健な彼等は自覚症状が乏しかったらしく、オルトが学校中の生徒をスキャンして回って初めて分かった事だった。
 そういった事情から獣人の多いサバナクローにも大きく影響が及んだようで、治療にはレオナも引っ張り出されていた。また、ヴィルも自寮の人間が騒動に関わった負い目からか、治療に参加してくれていた。優秀な上級達の介入とオルトの医療ユニットの性能は、ツイステッドワンダーランドで二番目に有能と謡われる教師陣の働きを大いに助け、ユニーク魔法に支配されていた生徒達は瞬く間に自由を取り戻していった。

 教員の小言と二寮の寮長の嫌味のサラウンドを聞きつつ、監督生は安堵が込み上げてくるのを感じていた。
 フロイド達は未だ客室フロアで乱闘を繰り広げているが、数の多さに足を止められる事はあれど苦戦を強いられているようではなさそうだった。
 フロイド達がホテルで暴れているお陰で、密猟者が街中に放っている手駒達はホテルに集まっていき、アズールの手も空いてきた。

 グリムが、監督生の膝の上で伸びをする。後は消化試合だけといわんばかりに、緊張の糸が解れている。その脱力は、同じ部屋に座す者達にもゆるりと伝染していった。


 ジェイドも、漸くユニーク魔法の支配から脱却し、今はイデアと共に個人事務所の隅で休息を取っていた。
 治療を終えた直後のジェイドはアペルピシアに寄生された後遺症なのか頭が茫洋としているようで、誰かの名をしきりに呼んでいた。それが恋人の名である事は、誰もが声音から察するところであった。そして、ロボコンの会場をチェックさせられていたイデアは、あの日の会場に居た者の内にその名の主も居たと思い当たってしまっていた。だから、あのジェイドが多大な危険を冒して敵の懐まで潜った本当の動機は、その人に危害が及ぶのを恐れた為なのだとも察しがついた。
 イデアは、監督生が言った無償の愛なる感情について思い出していた。誰かの為に自身には全く益にならない事に突っ込んでいけるそれは、正に監督生が美徳と信じるものなのだろう。

 「ジェイド氏はあのヒト属至上主義者に一発入れに行かんでよろしいんでござるか」
イデアは、血濡れのティッシュが詰まった鼻を啜りながら聞いた。ジェイドの体調が芳しくない事も承知であったので、その質問はただの意地悪だった。案の定、ジェイドは口惜しげに首を振る。
「そうしたいところですが、まだ折れた骨がついていないので」
ジェイドは、カツオノエボシを蹴った際に足首を骨折していた。操られていた彼は、骨の折れた状態のまま歩いたり走ったりさせられただけでなく、滅茶苦茶に暴れさせられていたので、患部はすっかり嫌に熱を持って派手な腫れ方をしていた。
 ジェイドは馴染みのある困ったような笑みを浮かべていたが、珍しく本当に愉快とは真逆の状態であった。その証拠に、額から流れ出た脂汗が頬にまで伝っていた。
 折れた骨は治療魔法で再生を試みてはいるが、粉々の骨が肉を掻き分けて急激に修復しようと熱を持ち、身体を酷く軋ませているのだ。まともに受け答えができているだけでも賞賛に値する。それでも慇懃な口調を崩さないのは、偏に彼の意地だろう。
「鯵は骨が硬くて厄介ですね」
カツオノエボシと呼ばれているくせに鯵の人魚だったらしい生徒が、抗議に呻く。彼とて、ジェイドに蹴られた拍子に肋を折っているのだ。ジェイドだけには言われたくなかっただろう。
「……人魚ジョークです」
横で聞いていたイモナマコが、濡れ衣だと言わんばかりに首を振る。ジェイドの強がりに、イデアが半眼になった。


 客室フロアを映すモニターでは、丁度フロイドを先頭にしたオクタヴィネル一行が非常階段経由で五階へ辿り付いたところだった。
 突如、彼等の頭上より僅か前方に位置するスプリンクラーが、彼等の魔法とは無関係に異常な量の水を吐き出した。
 廊下に叩き付けるように降り注いだ水は、絨毯に広がってはいかずに螺旋状に渦巻く水の柱となる。その蠢く水の中から、コートを翻し、怜悧な美貌の男が顕現した。アズールの合流だった。

 気障な演出しやがる、とグリムが左目を眇めた。けれどやはり、アズールはオクタヴィネルの生徒達の前に悠然と立つのが一等様になる男であった。未だ余裕を感じさせる振る舞いが、寮長の風格を感じさせた。その態度は半ば強がりであり、士気を高める為の演出であろう。そんな事は皆どこか承知ではあったが、それでも彼等は歓声を上げた。
『いつまで遊んでいる気ですかフロイド』
歌うような、嗤うような、何処までも不敵な声音だった。支配者然としたアズールの微笑と共に、ステッキがフロアを叩く。鋭い音がフロアに響くと同時に、彼の足元から水が湧き出ていった。

 勢いよく噴出す水が、あっと言う間にフロア一帯を満たしていく。
 水流に飲まれたり溺れたりする有象無象を横目に、オクタヴィネル生達は瞬く間に人魚の姿に戻っていく。そして、常人には到底追いかけられないスピードで廊下を泳ぎ、敵を振り切った。
 その様子を監視カメラ越しに見ていた監督生が、アッと声をあげる。監視カメラが水没し、映像が届かなくなったからだ。
 けれど、彼等の優勢は映像が無くとも分かった。ホテルの窓から恐ろしい勢いで水が落ちていくのが雑居ビルの窓から視認できたからだ。道路を冠水させる勢いで、水が溢れかえる。人魚の独壇場だった。
 人魚達の、復讐心に満ちた高笑いが街に響いた。

 水槽にされていくホテルの様相に唖然としていた個人事務所の一同だが、真っ先に我に返ったのはイデアだった。
「……魔導ビームサーベル、水没してない?」
そも魔導ビームサーベルとは何かと問おうとしたジェイドだが、詠唱を紡いで防衛魔法を展開するイデアの顔色を見て押し黙る。表情の深刻さからして、破損や使用不能になるといった程度の問題ではないと察したからだ。
 ジェイドの思考回路が、あらゆる物体を水に浸けた時の反応を予測した。溶解、感電、発熱、発火、毒ガスの発生、爆発。
 その答え合わせをする前に、ホテルの窓から鮮烈な青い光が漏れた。
 オクタヴィネル生とグリムも慌てて、防衛魔法の為にペンを振る。

 観光ホテルの五階部分から屋上にかけてが、轟音と共に吹き飛んだ。
 イデアが叫ぶ。
「爆発オチなんてサイテー!」

.


 臨時休業二日目のモストロラウンジは、怪我人で溢れていた。
 モストロ・ラウンジの人魚達とイデアとオンボロ寮生が違法オークション会場に乗り込む蛮行から丸一日経った夕刻。怪我人と病み上がりの人魚ばかりではラウンジの運営も儘ならぬと、休業を余儀無くさせられていた。
 というのは建前で、実質、アペルピシアに寄生されていた生徒達の快気祝いと、ジェイド奪還の打ち上げで貸切状態であった。店内では、麦のジュースだという言い訳すら使わず、好き放題にアルコールを空けては飲めや歌えやの無秩序な宴会が敢行されていた。
「普通、あんな危険物をフロイドに持たせたりしませんよ」
ラウンジの隅の座席に小さく座っているイデアに、アズールがアルコールを持ってきた。
「いや、何も確認せずに水ジャバジャバ出したのアズール氏じゃん」
イデアもジェイド奪還の功労者としてラウンジに引っ張り出されていたが、他寮の祭りに混じる気力は無く、アズールとの口論に興じる他に誰とも喋ってはいなかった。
 魔導ビームサーベルの爆発に巻き込まれたオクタヴィネル生達は、骨折などの怪我を負った者はいるものの、松葉杖やキプスを付けて授業に出席する程度には無事であった。爆発を受けた時、彼等が人間より遥かに頑丈な人魚本来の形態であった事や、魔法士達が多重に防衛魔法を張った事や、彼等自身が優秀な魔法士であった事などの要因が幸いしたようである。アズールに至っては、彼だけ傷一つ負わずにホテルから帰還していた。寧ろ、二日連続で他寮生に囲まれているイデアの方が余程具合が悪そうである。

 左腕を三角巾で吊っているフロイドが、バーカウンターから声を張った。
「小エビちゃーん、グラス倒して」
フロイドに呼ばれた監督生が、彼の元に駆ける。カウンターでは、酒の入ったグラスがテーブルの端から端までずらりと並び、その上にもドリンクの入ったショットグラスが積まれている状態だった。フロイドは、イェーガーボムトレインの準備をしていたようである。
 爆発源に最も近かったフロイドは、最も酷い怪我を負っていたが、ケロリとした顔で酒瓶を弄っていた。
「私、これ成功できた試しなんてないですよ」
「いーの、ホラ」
オクタヴィネル生達が、やってやれと囃す。ラウンジにとって監督生は他寮から来るバイトの一人でしかない筈だが、オクタヴィネル生達は案外この女を気に入っていた。
 概ね、イデアが彼女を推していたのと同じ理由であろうが、そもそも余所の騒動の為に途方も無いリスクを負って動いてくれた女を邪険にできる筈も無いのだ。
「じゃあ、成功したら拍手でお願いします」
オクタヴィネル生に囲まれた監督生が、ショットグラスに指先を添えた。

 えいっと力の入った掛け声と共に、一番端のショットグラスが倒される。それは見事に隣のショットグラスに当たって、下のグラスに落ちてカクテルを完成させた。ドミノ式に、ショットグラスがぶつかり合って落ちていく。
 一定のリズムで刻まれる衝突音と落下音だが、次第にずれが大きくなっていった。ついに十個目のショットグラスが、グラスの外に落ちた。松葉杖をついたジェイドが、顔を逸らして苦笑した。オクタヴィネル生達の耐え切れぬ笑い声と共に、次々とショットグラスが見当違いな方に落下し、テーブルを酒で汚していく。
 失敗如きではテンションは下がらないらしい寮生達は、何に対する賞賛か分からない拍手を監督生に贈った。

 カツオノエボシが、馬鹿の顔でカウンターテーブルを濡らす酒を啜る。
「テーブルの酒舐めんのが一番美味めえ!」
「バッカじゃねーの」
フロイドは軽快に笑いつつ、成功していた方のグラスを監督生に寄越した。イモナマコは、落ち損ねたショットグラスを拾って、その中身を一気に呷っていた。
「そりゃそうだ、お前普段はアズールの靴舐めてっしな」
「舐めてねーし」
「先週。倉庫前でのタバコがバレた時」
「舐ーめーまーしーたー!」

 監督生が貰ったグラスをひと舐めしたグリムが、苦味を嫌って舌を出す。勢い余って炎を吐けば、バーカウンターがフランベされた。
「グリムくん、カルーアミルクなら飲めそう?」
青い髪の生徒が、スプリンクラーが反応するより早く鎮火し、グリムにカクテルを作った。
「牛乳か! 飲んでみたいんだゾ!」


 彼等を離れた所から見ているイデアには、皆目分からないノリであった。
 というより、騒いでいる本人達もそこまで考えてはいない。ただ、解放の喜びと日常の回帰を祝う気持ちで、頭を空にして笑っていた。
 喧騒の中で、監督生も頬を赤らめて笑っていた。随分と短くなってしまった髪が、楽しげに揺れている。
「貴方も混じって来なくてよろしいんですか」
イデアの対面に、ジェイドが座った。曲げる事が出来ない脚を通路に投げ出す様子は、惨めさよりも脚の長さが鼻についた。つくづく得な体型の男であった。
「無理無理。パリピの坩堝に拙者が飛び込んで行けるとでも? あのノリはマジで無理。秒で溶けるのが関の山でござる」
「左様で」
イデアがモストロ・ラウンジに来ている事すら、イレギュラーであった。
 恐らくは、打ち上げなど行かずとも誰もイデアを責めなかったであろう。
 それでもイデアがラウンジに顔を出したのは極めて不合理な衝動だった。あの短くなった髪が、気になって仕方なかったのだ。あの穏和と苛烈の二面性を露呈させた彼女に、吸い寄せられるようにラウンジについてきてしまったのだ。
 全くもって妙な感覚だった。
 監督生は一昨日まで、イデアにとってこの世の柔い部分だけを詰めた偶像だった。
 尊い感情だけくれる、穏和でお人好しで礼儀正しい生き物だった。都合良く無知で無垢な、可愛いばかりの推しだった。
 けれど、それが真実ではない事に気付いても、イデアの眼は彼女を追っていた。

 本当の彼女は、悪い事も出来れば、男共の品の無いノリにも混ざってしまえるような女だった。イデアが思うより、ずっと強かで、苛烈で、愚かしい矜持を持っていた。痛みを知っている、只管に等身大の人間だった。
 壊れた偶像を、不思議とイデアは惜しめなかった。
 きっと、現実には都合の良い夢のような少女など居はしないのだろう。
 否、たとえそんな存在があったとしても、イデアは今の監督生の方が好きだと思った。

 監督生の方を茫洋と見つめるイデアに、ジェイドが話題を振った。
「先日はどうもご迷惑をお掛けしました」
「まったく、君も無茶するよね」
イデアは、ジェイドとは一切眼を合わせず、アズールから貰った酒を呷った。
「実は僕、救出に来て下さった方にお詫びとお礼を兼ねて一人につき一つお願いを叶えて回る事になったんです。イデアさんからの要望はありますか?」
対価至上主義の慈悲の寮らしい落とし前の付け方だ、とイデアは思った。聞けば、アズールは今期のボーナスのカットを言い渡し、フロイドは靴を、グリムはツナ缶を所望したらしい。ジェイドが望みを確認していないのは、イデアだけとなっているようだった。
「因みに監督生さんは、レポートの手伝いを希望されましたよ。何でも、禁忌を犯したのが露呈して、召喚術の教師からレポート五十枚を追加されたとか」
ジェイドはさらりと明かした。
「その量をこなせば正しさが身に付くと思ってるかのような罰則、根性論に通ずる合理性の無さが鼻につきますなァ。実に愚か……というか、彼女が召喚術の件で罰を受けるなら僕も同罪の筈でしょ、拙者、何も聞いとらんのだが?」
何故、と聞こうとしたイデアだが、彼の決して鈍くはない頭の中では既に答えを得ていた。イデアを巻き込んだ立場であるという自覚がある監督生なら、イデアを罰から庇いもするだろう。
「言う予定も無さそうでしたからね」
口止めはされていないので、と罪悪感の欠片も無く明かしたジェイド。お茶目というには、些か悪意の多過ぎる微笑を浮かべていた。

 イデアは、面倒を逃れた安堵よりも、彼女に庇われた事へのショックで口を噤んだ。
 庇われる立場という非対称な関係に納得がいかなかった。何故なら、監督生は人魚達を相手には共犯だと笑っていたのだがら。それなのに、イデアでは共犯者にはなれないというのだ。その溝を深く感じて、ラウンジの喧騒がいっそう遠くなった。

 ラウンジの中央では、監督生がフロイドに無遠慮に髪を掻き乱されて笑っていた。
 酔っ払った男子生徒が、監督生に肩を組む。千鳥脚のステップで身体を揺らし、御機嫌な歌を紡ぎ出していた。一人が歌えば、周囲の人魚達も歌い始める。
 珊瑚の国の凱歌ですね、とジェイドが懐かしげに耳を傾ける。美しくも騒がしい合唱だった。
 監督生は彼等に歌詞を教えられて、合唱に加わっていた。
「……少し行ってきます。伴奏が必要なようなので」
イデアの隣で黙っていたアズールが席を立つ。監督生の音の外し方に目に余るものがあったらしい。
 人魚達の歌は人間の声帯で歌うのには向いていないのではと思ったイデアだが、グリムの様子を見るに、単に監督生の歌が下手なのだろう。それでも、人魚達は彼女と歌いたがった。

 ピアノの伴奏が加われば、合唱が一際大きくなった。
 青い髪の寮生が、グリムの前肢を取って何処かずれたステップを踏んでいる。その横では、すっかり酔ったイモナマコが花瓶と親しげに肩を組んでいた。
 盛り上がりを見せるラウンジの中央とは、イデアの席は全くの別物だった。勝手に陰キャ仲間だと思っていた監督生だが、イデアにはうんと遠かった。

 ジェイドも、はしゃぐ寮生達を何処か眩しそうに見つめていた。
「……監督生さんとは、たまに恋愛相談をするんです」
お恥かしながらそんな相談を出来るような身近な女子は彼女だけなので、とジェイド。
 ジェイドの告白は突然だった。けれど、イデアとジェイドは無駄なお喋りを楽しむ仲でもないので、きっとそれなりに意味のある事なのだろうと察してイデアは話を続けさせた。
「知ってるよ。監督生氏から聞いた」
恋をしているこの男が可愛いのだと聞いた時を思い出して、イデアは遠い眼をした。イデアは今更ながら、この男と監督生の奇妙な絆を羨ましく思った。
「正直、僕は監督生さんの恋路を応援してはいませんでした。悪趣味が過ぎると思っていたので。けれど、彼女には随分恩が出来てしまいましたし、お膳立てして差し上げるのも吝かではないかも、と思い直しまして」
唐突だった。イデアは情報の処理が追いつかず、ジェイドの言葉を遮った。
「待って、監督生氏にも居るの? その……好きな、相手が」
イデアの口に、苦いものが込み上げてくる。正直、推していた声優が結婚報告をした時より遥かにショックだった。追いかけていたアイドルが卒業ライブの最後に妊娠している事を暴露した時よりも、うんと打ちのめされた。
 これまでイデアとゲームしたり無為な時間を過ごしたりと親睦を深めていた間も、彼女の脳裏には好きな人が存在していたのかもしれない。そう思うと、絶望が鉛の質量をもって胃に降りてくる。
「おや、そちらは聞いていませんでしたか」
待って待ってと繰り返すイデアに、ジェイドは意地悪く笑う。明らかに、イデアの反応を愉しんでいた。
「は? 嘘でしょ? だって、全然そんな話聞いてない。何気無く好きって言っただけの菓子を覚えてわざわざ差し入れに来る娘に、好きな人が居たって? 僕にお粗末なゲームの腕を晒してる時間を好きな奴に割けば良かったんじゃないの。というか、好きな人が居るクセに男共と距離近くないか? どうして他人の作った指輪を平気で左手の薬指に填められる?」
イデアの脳内で、疑問符が騒々しく増殖する。手が届くと考えた試しは無いが、それでも執着を向ける女に好いた男が居るのは苦しかった。

 祝勝ムードのラウンジの中で、イデアだけが葬式の心地だった。
 その敏い耳でイデアの様子に気付いたらしいグリムが、喧騒から抜け出してイデアのテーブルに飛び乗った。グリムの灰色の毛並みは、人魚達に撫で回されてモサモサだった。
「子分のヤツ、本気で趣味わりーからオレ様も随分止めたんだゾ」
「エッ、グリム氏までトドメ刺しにくるの? 死では?」
ジェイドが面白可笑しく目を細めた。悪魔のような顔だった。
「まず、オレ様は理系の男はイヤミっぽいからやめとけっつたんだ」
偏見の塊で草、と普段なら一蹴したであろうイデアだが、この件にグリムに賛同したかった。内容はどうあれ、グリムが監督生にやめておけと言い続ける限りは彼を支持した。
「で、趣味もヘンだし、すぐ人を小馬鹿にやがる」
どうしてそんな男に惚れたのかと、イデアは頭を抱えた。
「おまけに、兄弟でいつもベッタリしてやがるし、歯は鋭いし、吊り眼がコエーし」
「そーそー、生徒の裏アカウントとか知ってるし、多分、人の秘密を掌握して笑ってるタチ」
便乗したのはフロイドだ。覚えのある台詞に、イデアが青褪める。
 羅列された特徴が示すのはジェイドしか居まいと、震える指で眼前の人物を指差した。
「違います」
「ほぎっ」
指を差されたジェイドは、イデアの指が圧し折れるのではないかという勢いで指を反らした。
「貴方、まさか自身に弟が居る事をお忘れですか」

 ジェイドに掴まれた人差し指は、イデア自身に向いていた。
「いや、そんな訳無いでしょ、何そのご都合主義」
「ほら、こんな朴念仁が良いなんて。悪趣味なんですよ彼女」
イデアの汗腺は、過去最高に活性化していた。寒くも暑くもないのに、汗がどっと吹き出た。ピアノの音も人魚の歌も、鼓膜を素通りして、自身の鼓動だけが嫌に大きく聞えた。
 期待による緊張と、揶揄われているのだと信じるが故の恐怖が、胃の腑の中でどろどろに溶け合っている。吐き気すら感じた。

 双子のウツボがイデアに囁く。
「制服だってまともに買えない上に、ラウンジの賄いで散々食わされたキノコを押し付けられても喜ぶような素寒貧が、他人の為にわざわざ自腹で菓子買うと思う? マカロンだって持たされてたのに?」
「貴方にお粗末なゲームの腕を晒してる彼女の時間は、正しく好いた方の為に割かれていた訳です」
「あと指輪だっけ? そりゃするでしょ」
聞きたいのはそれだけかと、二対のヘテロクロミアがイデアを映していた。
 果たして彼等はいつからイデアと監督生の下心に気付いていたのか。恐ろしくて聞けはしなかった。恐らく、アズールにも把握されているのだろう、とイデアは不都合な真実に気付いた。何せ、監督生の偽名に用いたリーベラとは、冥府に嫁いだ春の女神ペルセポネの別名だ。嘆きの島らしく偽名だと察しやすい名として何の意図も無くつけられたものとばかり思っていたイデアだが、流石に双子の意地の悪さに揉まれては察しも良くなる。
 イデアは顔を覆って、天を仰いだ。

 嬉しかった。光栄であった。けれど、途方も無い罪悪感と不納得を消化しきれずにいた。
「監督生氏はさ、もっと普通で誠実な人を好きになるべきなんじゃないの。その、無償の愛ってヤツを備えてる人とか。拙者みたいに排他的なコミュ障じゃなくて」
監督生に好いた男が居るなど耐えられないくせに、彼女の幸せを本気で検討しては、自身と彼女の不釣合いさに身を竦ませる。
「無償の愛? おや貴方、本件で何か彼女に要求なさったんですか」
「そうじゃないけど……そうじゃないけど……」
解釈違いも甚だしいと呻いて、喉から変な音を出した。この男の地を這う自己肯定感は、両足をその場に縫い留めたまま前進を許さない。

 鬱陶しい、と一蹴したのはフロイドだ。この男はジェイドと違って、イデアの膿んだ自意識にまで付き合うほどの恩義は無かった。
「じゃ後は直接聞きなよ。オレもー飽きたぁ!」
フロイドが、無事な方の腕でイデアを掴んだ。
 すると心得たとばかりにグリムとジェイドもフロイドに手を貸して、イデアをラウンジの中央に引き摺った。イデアが三度「無理でござる」と喚いたところで、ピアノの音が止んだ。


 モストロ・ラウンジの磨き抜かれた床に、イデアが転がされる。
 奇しくも、監督生の足元に跪く形となったイデアは、益々青褪めた。
「イ、イデアさんも歌います?」
「は、はひ……」
そうじゃねーだろバァカ、とフロイドの率直な罵倒が二人の遣り取りを遮った。
 イデアの世話を焼く双子に、グリムが何故そこまでしてやるのかと問えば「イデアさんの事を話す監督生さんって、可愛いらしいんです」とジェイドは何処かで聞いたような言葉を返した。人魚は義理堅いのである。

 イデアは、緊張で縺れる舌をどうにか動かした。
「いや、あの違くて……その、君に聞きたい事があって」
「はい。何なりと」
監督生はやはり、イデアの下手な台詞が紡ぎ終わるのを嫌な顔一つせずに待っていた。善良そうな春陽の如き眼差しが、イデアを見詰め返している。
「その、えっと……召喚術で、君だけ罰則を受けるって聞いて」
言うべき事はそれではないと自覚してはいたが、それもイデアが本心から聞きたい事の一つであった。
「おかしいと思うんだけど、僕達、共犯でしょ。一蓮托生って、そういう意味じゃなかったんでつか。僕ァ君の共犯者になりたかったんだけど。君はそれすら許してくれないって言うの」
言い出したら止らなかった。喋りなれていない舌が、拙くも冗長に回り続けた。
「一蓮托生って、ウチの宗派じゃないし君も知らないかも知れないけど、死んでも極楽浄土の同じ蓮の花の上に生まれようって約束だ。死が二人を別つまでなんてリア充どもの宣誓もチャチにしちゃうくらい、僕にとっては重くって、大事な盟約だ」
此処まで喋り倒して、イデアは漸く目の前の少女の頬が赤い事に気付いた。死が二人を別っても、なんて告白をすっとばしてプロポーズだ。けれど、イデアは自身の先走った妄想劇を自嘲する事もできなかった。監督生の紅潮が、怯えや怒りなどではなく紛れもない好意だとあまりに分かり易かったからだ。
「い、いいんですか。私、イデアさんが思うより優しい子じゃないし」
「良い子でもないって? 知ってるよ」
ヒールは圧し折るし、人を階段から殴り落とすし、窃盗の前歴もあるし、発想は物騒だし。とイデアが監督生の言葉を盗った。
「君は僕が思うよりずっと悪い事を知ってたし、非常識だったよ。それで、僕が思うより、ずっと素敵だった」
眼前の敵に啖呵を切った彼女の爛々とした瞳が、イデアの瞼に焼き付いていた。冒険活劇のヒロインを見るような気持ちで暢気に彼女を応援する事は、もう出来そうになかった。遠巻きに観測して満足するようなファン感情など、とうに越えていた。スポンサーもクレジットも無いその小さな背を、直接押してやるのが己であれと思う。

 彼女は恐るべき外来種であり侵略者だった。
 彼女が微笑むと、理屈の付け難い執着と憧憬がイデアの中で中和されずに混ざり合って、心地良いエラーを吐いてしまう。
 だから、衝動のままに彼女を抱き竦めたイデアが、他寮のラウンジの中央である事を考慮できなかったのも、心地良いエラーだった。

 酒の入った人魚達の祝福を受け、監督生は羞恥と幸福の混じった顔で笑っていた。
 イデアの胸元で揺れる彼女の髪は、春の日差しのような匂いがした。
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