推しの推しが巻き込まれた事件に巻き込まれた件3

 フロイドは、頬杖を付くふりをして側頭骨の後下方部に押し当てていた指輪から、骨伝導によるアナウンスを受けた。事前の打ち合わせ通り、監督生と同様に指輪に付いた石を一度だけ叩いて返事をする。
 よれたパーカーにどこぞのご当地マスコットのキーホルダーが付いた旅行用バックバックを背負ったフロイドは、頭の弱い学生旅行客を装っていた。けれど、視線の鋭さを隠しきれてはいなかった。バックパックの中には突入に備えた鈍器と飛び道具が詰まっていたし、彼の頭の中はそれ以上に物騒な事柄でいっぱいだった。
 フロイドは、カツオノエボシちゃんと呼んでいる寮生と共に、二十四時間営業の喫茶店の窓際の席を陣取って外を眺めていた。喫茶店は、オークションが行われる建物の斜向かいに位置する雑居ビルの最上階であり、窓からは建物に出入りする人々の様子がよく見えた。
 オークション会場となるそこは、一見するとただの寂れた六階建ての観光ホテルだが、日が落ちてからは頻繁に堅気ではなさそうな車や馬車が入っていった。
 フロイドは、建物内の人間の数をざっと予測した。建物の見取り図はイデアが調べて用意したが、敷地面積と地下空間の間取りに違和感があった。恐らくは、地下に公にはできない空間があるのだろう。オークション前後なら、ジェイドはそこに要る筈だと彼は踏んでいた。
「ドリンクバー、無い? じゃアイスコーヒー二つ」
不機嫌丸出しに黙したままのフロイドに代わって、カツオノエボシがドリンクを注文する。ウェイターは無言かつ無表情にそれを承って、店の奥へと去った。モストロ・ラウンジで日々アズールに扱かれている従業員の性か、二人は接客ナメてやがんのかよ毒吐く。
 フロイドが特別素直だっただけで、機嫌の良い人魚など居なかったのである。
 何なら、ウェイターの右手に切り傷が見えるのも彼等の気に障った。目立つ行動を避ける理由がないのなら、不衛生を理由に因縁をつけて喫茶店を憂さ晴らしの舞台にしていただろう。
「フロイド君よォ、もちっと場に馴染む努力をしたらどーよ」
周りの目が無い事を確認したカツオノエボシが、苛立った声音でフロイドを詰る。
 フロイドは舌打ちを一つ零して、窓の向こうに視線を戻した。

.

 監督生は、亜人種の購入を検討している雰囲気を醸しつつ、オークション会場を見渡した。
 オークションの会場は、表向きには観光客向けのホテルを装った建物の地下にあった。通常のオークション会場ならば会員登録や身元確認などが必要だろうが、違法中の違法である為に身元確認は御法度のようであり、チェックイン以上の手続きは無かった。
 会場は人も多く、招かれざる者が紛れていても分かりはしないであろうと思わせる雰囲気だった。魔法の使えない女である事も、警戒の眼が少ない理由だろう。監督生の潜入は、誰に疑いの眼を向けられる事も無く成功していた。

 会場ではまだオークションそのものは始まっておらず、プレビューという売り出される商品を前もって鑑賞できる時間だった。
 見ていて気持ちの良いものではないが、購入意欲が全く無いと思われるのも厄介なので、監督生は亜人種の入ったゲージの付近を歩いて回った。キメラや鳥人の他、監督生には名も分からないゲル状の生き物や植物や、虫らしきものも多数あった。けれど、展示されている生き物の中に、ジェイドの姿はなかった。
「マダム、貴女もケンタウロスをお目当てに?」
監督生に、髭面の男が話しかける。彼等が脚を止めていたのは、生後間もないケンタウロスの檻の前だった。半人半馬のそれは、監督生は元の世界でも映画や小説で存在を知っていたものの、実際に眼にするのは初めてだった。好色で酒好きの暴れ者のイメージもあるが高い知能と草原随一の機動性を誇る美しい亜人種だ。檻の中の個体は、両腕の拘束と猿轡が噛まされていた。
「いいえ。ケンタウロスは間に合ってますの」
青い鬣も下半身も馬そのものだが、顔や上半身は幼女のそれなので、その怯えた瞳に射抜かれると監督生の良心は痛みを訴えてしまう。しかし彼女は、それを無視しなければならなかった。アズールに仕込まれた作法をよく思い出しつつ、自身の設定と矛盾が生まれないよう世間話に応じる方に神経を注いだ。
「おや、羨ましい。農地を大きくしていくと、どうしてもケンタウロスの手が足りなくなってね。こっちは毎年一頭ずつ買い足している有様さ」
「ふふ、ご隆盛ですのね」
愚痴の体を取った自慢話に、監督生は言葉少なく相槌を打つ。
 聞けば男は、五十代ほど前から広大な農地や放牧地をケンタウロスに整備させている大地主の一族だった。その頃はケンタウロスは法の下にも家畜の扱いであった為に、彼の一族は今なおケンタウロスを家畜や獣として認識し続けているのだ。そうでなくともケンタウロスは農奴としての需要が高いが、伝統と名が付くまでになった因習は殊更に厄介であった。違法な取引でしかケンタウロスを手に入れられなくなった時勢を嘆いている男に、監督生は適当に頷き通して話を切り上げて立ち去った。
 この男がジェイドの件に関わっているとは思えないので、彼に構っているのは無駄だと踏んだのだ。

 そうしている内に、指輪を通してアズールからの通信が入る。
『こちら通信本部兼指令部隊、設営が完了しました。監督生さんの緊急退避用の召喚陣も整いました』
監督生は、事前の打ち合わせ通りに指輪に付いた石を一度叩いて返事をした。
 フロイドのようにずっと頬杖を付いている訳にもいかない彼女が指輪からの通信を聞けるのは、通信が入る前に左腕が動いてピアスを触る所作に見せかけた動作で己の頭部を触るようになっているからだ。
 この時の左腕は、彼女の意思ではなくイデアによる遠隔操作だ。彼女は予め、宿屋に用意された召喚陣とは別に、身体を服従させるコードを記した召喚陣を潜っていた。
 監督生の想定では、潜入が露呈して私刑を受けても決して口を割らないようにする為に身体を強制操作出来る事の利点を説いていたが、現状では存外平和的に活用されていた。だから頭の良い人って好き、と監督生はイデアの連絡手段を秘かに気に入っている。
 ナイトレイブンカレッジの悪徳を観測し過ぎてしまっているが故に、この女の想定は時折一般の少女の感性から大きく逸脱するようになっていた。その順応性は彼女の危機回避に大いに役立ってはいるが、他者からの配慮や優しさに多大な希少価値を感じる副作用も齎していた。


  監督生は、ミノタウロスの檻の前で脚を止めた。成熟した雄の個体が、余りにも激しく唸っていたからだ。
 ミノタウロスは、牛の頭に轡噛まされ、人の身体には拘束着を付けられた状態で檻の中央で磔にされており、唸る以外の威嚇行為はできない状態だった。オークションでは使い魔や観賞用として売られるものが多い為、見目麗しいものや幼い個体が多いので、屈強な雄は珍しかった。この雄のキャプションに、繁殖用と記されていた。種牛なのだ。
 凶暴で知能の高い生き物ほど、幼い状態から育てることが推奨されている。繁殖させて産まれた子を取り上げるのが、最も確実に刷り込みを行える方法なのだ。
 ミノタウロスの檻の隣には、実物こそ展示されては居なかったが、冷凍保存された種だけの出品もあることが明記されていた。
 ジェイドの居場所が分かっているのに、ジェイドが出品されなかった場合までアズールが想定していた本当の意味を、監督生は漸く察した。此処に居るような魔力の弱い魔法士達に、健全な状態のジェイドを御する事など出来るとは思っていないからだ。アペルピシアを植えてその自我を薄れさせたとしても、商品としての価値は優秀な人魚という遺伝子で充分なのだ。

 性成熟に至っている亜人種の展示は、悉くそういった需要によるものらしい。ミノタウロスの他にも、ハーピーが磔になっている檻もあった。
 鳥人と括られる彼等は、腕が長大な翼になっており、脚は鱗状の硬い皮膚に覆われた趾になっている。その外観から天使に擬えられる事もしばしばある鳥人達だが、その神々しさは潰えて、恨みがましい視線を寄越すばかりだった。


 監督生は、まだ高校生のジェイド・リーチの横顔を思い出す。
 歳相応には到底見えない食えない男だったが、好きなものを楽しそうに追いかける面があった。拘束や強制された人生が、これ以上無く不似合いな性分だった。好いた人がいると言って、楽しそうに恋人に似合うアクセサリーを選んでいた。
 殴る蹴るといった単純な暴力への畏怖とはまた違った忌避感が、監督生の背を駆けていく。
 俯きたい衝動を堪えて、何でもない顔を精一杯維持しつつ、監督生はその場を離れる。
 ジェイドを助ける算段で来ている彼女だが、彼等まで助ける程の余裕は無いからだ。


 暫く潜入を続けていると、監督生はスタッフの中にアペルピシアに呪いを仕込んだと男の姿を確認した。
 茶髪で、垂れ眼が協調された面長の中年男性。間違いなくジョセフ・ジェイコブその人だ。監督生の視野を共有するイデアとアズールも彼に気付いて、すかさずフロイドとモストロ・ラウンジの待機班にも進捗が伝達される。
 アペルピシアを植えた男は未だ見付かっていないが、それでも、彼等の心持は随分と軽くなった。ジョセフ・ジェイコブさえ叩いてアペルピシアを治療可能な状態にすれば、モストロ・ラウンジに居る人魚達の問題がひとまず解決するからだ。アペルピシアが消えれば、ジェイドの置かれている状況も改善されるだろうし、現場への増員も見込める。


 次いで監督生は、人工生物の展示区画へ向かった。そろそろ人の顔の付いている生き物が檻に入っている図を眺め続けるのは精神的に良くないと判断したからだ。
 人工生物の区画では、様々なキメラが並んでいる。ライオンの頭と山羊の胴体に毒蛇の尻尾を持つ者が多いが、ライオンと山羊の頭に鰐じみた胴から有頭の蛇を尾に持つものもあった。多くは幼体で売り出されているが、中には調教済みとして成体も売り出されていた。人工的に作られた命だけあってバリエーションに富んでいる。
 しかしどれも共通して、歪に癒合させられた身体に複数個の魂が強引に押し込められていた。イデア曰く、冒涜的な魂の在り方だ。監督生には魂なるものの在り方は今ひとつ実感の無い話であったが、人魚の魂の有無を気にする輩が歪な魂を持つ生き物をわざわざ作っているのが変だという事くらい分かる。
 幼体のキメラは、自身が人の業に塗れた悍ましい存在だなどとは微塵も知るまい。無垢な瞳をクリクリさせて、ゲージの傍を人が通る度に人懐こく鳴いている。

 無垢な瞳に追い立てられ、監督生は品種改良済みの魔法植物の区画に脚を伸ばす。その途中、彼女はまたも参加者に話しかけられた。
「マダム、ここのオークションは初めてですか?」
三十代半ばの、不自然に足音のしない男だった。亜麻色のオールバックを品良く整えた彼は、愛想の良過ぎる笑窪を携えて監督生を窺っていた。厄介な事に、オークションの競合相手を探りに来たというよりは、監督生もといリーベラ婦人そのものに関心があるようだった。
 監督生は、余裕を繕って貴婦人らしく男を見つめ返した。けれど頭の内では、この男とどう話題を展開すべきか悩みに悩んでいた。監督生を一見客と断定してみせる程度にこのオークションの常連なのであれば、当然内々の事情にも詳しいだろう。情報は引き出しておきたい。しかし、監督生をい訝しんでいるのだとしたら、これ以上の不審さを嗅ぎ取られる前に逃げ果せたい。
 監督生が髪を掻き上げるふりをして指輪を耳の後ろの頭蓋骨に当てると、アズールが「設定に反しない言い回しであれば人魚が目当てだと言っても良いでしょう」と助け舟を出した。その横ではイデアが猛烈なスピードでキーボードを操作し、この男の素性を突き止めようと動いてくれているらしかった。
「ええ……けれど、ここでの詮索はご法度ではなくて?」
ひとまずイデアの情報収集を待つ事にした監督生は、下手には出ず、けれど突っぱね過ぎない悪戯っぽい愛嬌を残した声音で聞き返した。
「失礼、美しい人。その魅力の前では人の箍など脆いものです。ご容赦願いたい」
気障な言い回しに、通信機越しに聞いていたイデアが思わず呻く。
 監督生も僅かばかり驚いた。けれど、彼女にとってそれ以上の反応をする程のものではなかった。今の彼女の姿が老け薬によって作られた仮初のものだという所為もあるが、最大の理由は免疫が出来ていたからだ。これしきの賞賛は慣れていると言わんばかりの態度で賺して、監督生は微笑み返した。
「ここの案内をしてくださるなら不問に致しましょう。お察しの通り、わたくしはこちらにお邪魔したのは初めてですので」
監督生の微塵も可愛げの無い態度に、男の片眉が吊り上がる。
 実際、監督生は社交辞令でなくともこれしきの賞賛には慣れていたのだ。

 監督生は馬車に乗る前、モストロ・ラウンジの更衣室に突っ込まれてドレスアップさせられた際、イデアのオタク特有の過剰な形容で褒めちぎられていた。
 は? 監督生氏、三十路の外見でも可愛いの? エターナル可愛いじゃん。約束されたSSR。尊さが遺伝子に素早く届く! いや待って無理、本当に監督生氏? 春陽の如き神々しさ。女神では? 実在してるの嘘でしょ? しんどくて涙出てきた。体中の老廃物を排出させ、心身共に健やかさをもたらし、空は晴れ渡り虹が架かり、荒野に花は咲き乱れ、鳥が歌い、泉が湧き出して水田を潤し、豊かに実った穂が頭を垂れる……と読経の如く言い切りしきりにカメラを向けるイデアの痴態を経験した後では、大抵の賛辞は霞むのである。
「……随分と口説かれ慣れてらっしゃるようだ」
そも、イデアは黙ってさえいれば儚げで陰のある美丈夫だというのに、その恵まれた顔面を惜しげもなく崩した上で粘着質な笑い方で台無しにしてくる時点で、どんな言葉よりも雄弁なのだ。だというのに無駄に荘厳で羞恥心をかなぐり捨てた台詞の数々も残らず酷いものだから、聞いていて恥かしくない訳が無い。
「まさか、わたくしが初心だなどととお思いに?」
イデアは無意識にも、監督生の免疫機構となっていた。だから彼女は、この男の前で悠然と胸を張れた。
 監督生の視線は、自然と左手薬指の指輪へと向いた。頭にはイデアが浮かんでいたが、この指につけられた装飾のお陰で、傍目にはもっと意味深に映った事だろう。

 監督生の左腕が遠隔操作され、通信を伝達した。イデアが男の素性を割り出したのだ。
『もう少し探れますか? どうやらこの男、オークションに亜人種を提供している密猟者の一人のようです』
直接ジェイドに繋がるかは兎も角、バックヤードには詳しかろうとアズールが期待をかける。監督生は指先で指輪の石を一度叩いて、了承を伝えた。
 
 薬指の指輪は要らぬ社交を躱す作用もあったが、彼女の態度次第では後腐れの無い火遊びの相手と誤認され易くなるし、厄介な虫を寄せ付ける記号にもなり得る。身の振り方を間違えぬよう気をつけながら、監督生は男に話を振る。
「それで、貴方の方はよく此処にいらっしゃるの?」
「ええ、常連です。落札だけでなく、時に出品もする程度には」
実に素直な回答だった。男は、自身を亜人種専門のハンターと名乗った。
「今日のお目当ては?」
監督生は努めて自然な興味を装って世間話を続けた。
「ハーピーの卵を買う予定でした」
監督生は、亜人種の並ぶ区画に視線を向けた。ハーピーは、成体が三羽出品されていた他、雛が四羽、卵が六個展示されていた。
「ああいうものは卵から返してインプリンティングするに限ると聞きますが、雛を見たら余りに鳥そのもので興が削がれてしまって」
確かに雛の乳児の頭身では、鳥らしさが目立っていた。成長して上半身が発達すれば人間らしい要素も目立ってくるのだろうが、男は雛を羽毛クッションの中身のような様相だと嘲っていた。
 人とは認めないくせに人に似た生き物であるという事項に価値を見出だす男の思想は監督生の理解の範疇に無かったが、彼女は適当に相槌を打って済ませた。
「してマダム、貴女のお目当ては?」
「リーベラと呼んでくれてもよろしくてよ」
アズール曰く嘆きの島らしい偽名とのことだが、男が勝手に合点してくれたので、監督生は特にそれ以上の自己紹介をする必要は無くなった。
 監督生は会場を一通り見渡してから、男に一歩半歩み寄って顔を近付けた。
「人魚よ」
監督生は、うんと声を潜めて打ち明ける。
「遠縁の子がナイトレイブンカレッジに通っているのだけど、そこの人魚が一尾消えたと聞いたの。もしや此処に出てくるんじゃないかと期待して伺ったのに、残念だわ」
用意してきた設定をさも素性が露呈しかねない秘密事項であるかのように告げれば、男の眼が細まった。嘘を吐く時は本当の要素を適度に混ぜるのがコツだと、彼女はアズールを筆頭とするナイトレイブンカレッジの弁の立つ悪党達から学んでいた。
「アレは鑑賞には向かない種でしたよ」
魔力の無い彼女が人魚を求めるとなれば、愛玩や鑑賞の類でしか用途が無いと思われるのも道理だろう。けれど男の反応は監督生の期待を遥かに上回るものだった。
「ご存知なの?」
「アレは私が私的に捕らえたものですから。いやはや、期待させて申し訳ない」

 大当たりだ。
 監督生の眼が、驚きに見開かれた。イデアとアズールにも、緊張が走る。
「……ナイトレイブンカレッジの生徒を私的に? 恐ろしい手腕ね」
「光栄です」
監督生は耳に髪をかける行為を模した動作で、指輪の通信を聞いた。イデアが更に密猟者の身元を洗ったらしく、出身校と本名が発覚した。案の定、魔法が使える者の通う教育機関に通っていたようである。ナイトレイブンカレッジ程の偏差値も知名度も無ければ、多様性も無い人間だけの男子校だ。特に目立ったところの無い履歴だが、召喚術と動植物学の成績は常に上位にあった。その上、ユニーク魔法は「傷を負わせた亜人種の魂を支配下に置ける」というものだった。悪辣過ぎるユニーク魔法が学生時代は危険視されなかったのは、人間だけに囲まれた環境だった所為だろう。けれど、彼は己の能力の活かし方も心得ていたという訳だ。アズールは、奥歯が折れそうな程に憤りと畏怖を露わにして歯を食い締めていた。
「生態系の序列を無視してタコに傅くウツボが居ると聞いてこれはと思ったのですが、思ったより従順さに欠けていまして……丁度今、私が取っている部屋にその人魚を連れてきているのです。オークションが退屈になってしまった者同士、一緒に抜け出しませんか」
男が、監督生に手を差し出す。そのエスコートに、彼女は逡巡すら無く頷いた。
「嬉しいわ」
男の能力からして、男が私的にジェイドを捉えたという主張に信憑性はある。ジェイドの不在が確定した会場に留まるよりは、自称常連客について歩く方が収穫も多かろうという判断だった。
 監督生には聞こえない指輪の向こうで、イデアが「単に人気の無い場所に誘う為の罠の可能性は?」とごねたが、アズールが「その為のあなたでしょう」と一喝していた。見張りの筈のグリムも、二人の後ろから不安げにモニターを覗き込んで監督生の様子を窺う始末だった。


 客室のあるフロアへと上昇するエレベーターの中で、男はまたも監督生を褒めた。
「貴女は美しい」
「あら有り難う」
気障通り越してウザい、とイデアが吐き捨てる。社交辞令にしてはしつこいそれは、イデアでなくとも眉を潜めるべき熱があった。監督生も、男の眼に宿る執着に気付いて、愛想笑いを凍らせた。エレベーターは未だ目的の階に着かず、密室のまま上昇を続けている。
「外見の事ではないんですよ、リーベラ婦人。いえ、監督生さんと呼ばれていましたか」
思わず後退った監督生の背に、壁が押し当たる。
 身元が割れている。
 最早、指輪を叩いて合図するまでもない。グリムが半ば反射で撤退を叫ぶ。
 イデアもそれに心から賛同したが、理性で辛うじて踏み止まった。学園の様子を知る者から情報を得ているにしても、この姿の女を監督生と断言できる者となれば、随分限られる。情報戦で劣った彼等は、此処で男の様子を見なくては、いっそうの遅れを取ると悟ったからだ。

 密猟者は、学園での監督生の様子を知っているようだった。けれど、彼女が異世界から来た事や並々ならぬイレギュラーな事情を経て在学している件に関しては調べが及んでいないようでもあった。
「よもや名門男子校に女子が出入りしているとは思いませんでした。それとも日頃から女装をしている男なのですか? マァど僕はちらでも結構ですが」
彼にとって、監督生の素性や容姿は瑣末な事であるらしい。
「貴女も随分、稀有な方だ。僕のコレクションに相応しいくらいには」
コレクション、と監督生が言葉をなぞる。

 この男にとって、人魚もハーピーも、鎖を付けて手元に置いておくだけの、尊厳を必要としない物なのだ。監督生は人間ではあるが、魔法士の男にとっては魔法の使えない彼女もコレクションと同列のカテゴリなのだろう。
「バレてらっしゃるので白状しましょう。僕のユニーク魔法は、傷付けたものの魂を支配下に置く事だ。如何に反抗的な輩だろうと、少しばかり気力を削いでやれば簡単にマリオネットができあがる」
だが君はどうだろう、と支配者気取りの密猟者が問いかける。彼は監督生の魂が如何なる状態にあるのかも知っているようだった。
「貴女は興味深かった。脅されている訳でもなく錯乱している訳でもなく、恩義と人情からリスクを選んだ。狂っている訳でもなく恐れを知らない訳でもなく、魂に首輪を付けられる事を選んだ。その驚くべき忠義は、いっそ美しい。傅く相手を、もっと真剣に選びさえすれば」
魂に首輪を付けられていながら、その状態に苦痛を示さないどころか自ら思考して目的を遂げようと動く監督生を、男は興味深そうに見遣った。珍種を見る瞳だ。
「貴方も私に首輪を付けてみたいとおっしゃるの?」
監督生は、怯えを見せずに聞き返した。殆どは虚勢であったが、彼女を庇護下に置くイデアへの信頼がそれを完璧なものにしていた。男が彼女の挑発めいた確認に、当然のようにそうだと肯う。
「寧ろ、貴女の唯一の間違いを正して差し上げたいのだ。貴女が稀有な献身を向けるべき相手は、もっと尊い者であるべきだ」
彼は陶然と、自身を支配者に相応しい器だと評した。けれど、双眸はやはりコレクターの眼差しだった。従順で都合の良い玩具が欲しいのだ。己より劣ると認識している者が上等な玩具を持っている事が許せないのだ。監督生を自身と同じ生き物だとは、微塵も思ってはいない。

 密猟者の手が、監督生に伸びる。
 その瞬間、ついぞ我慢ならなくなったイデアが監督生を召喚した。


 ビジネスホテルの小汚い床に広げられた紙に描かれた召喚陣から、監督生がマーメイドラインのドレスを引き摺って出現する。
 撤退の成功に、イデアは大きく息を吐いた。
 
 監督生は召喚酔いでしゃがみ込んだ。そして数拍の間焦点を彷徨わせた後、アズールとイデアを交互に見た。
「えっと、イデアさんで合ってます?」
「ア、ハイ」
「召喚ありがとうございました」
「イエ……」
イデアは自身が変身薬を飲んだ事を思い出して、コミュニケーション障害丸出しの返事をした。

 漸く平衡感覚が安定してきたらしく、監督生は召喚陣の上に立ち上がる。その胸元に、グリムが飛び込んだ。作戦自体はまだ続くものの、子分の無事に安堵を我慢できないのだ。
 監督生はグリムを抱き上げ、ベッドに腰掛ける。
「ジェイド先輩の元まで辿りつけずに申し訳ありません」
潜入を終えれば、監督生に出来る事など何も無いに等しい。後は標的の居場所がはっきりしている内に別部隊が攻め込むのみだ。不甲斐無さに唇を噛む。
「敵がはっきりしただけで良しとしましょう」
 ジェイドが居るらしいフロアは、エレベータに設定した階であると一先ずは信じる事にして、イデアがフロイドに連絡を取る。
 アズールは、監督生に老け薬の解除薬を手渡した。
「それにしてもあなた、よくも自身の魂に首輪を付けるなんて了承しましたね」
「いいえ、私が提案したんです」
なおのこと恐ろしい、とアズールは返そうとして口を噤んだ。
 あの男は、監督生が魂に首輪を付けられる事を選んだと称した。彼の方が提案時の仔細を知っているような口振りではないか。監督生がイデアに提案した際の現場に居合わせたのは、フロイドと内通者のバッシュ・フラーだけだ。
『……そういえばあの野郎、オレが何が聞く前から爪が一枚剥がれてた』
監督生の帰還を確認したフロイドは、指輪越しに明瞭な声で喋った。指の骨を一本一本圧し折ってやった時に、まだ痛めつけた覚えのない箇所の傷が目に付いたのだと彼は言った。ただその時は、捕獲の際の悶着で剥がれたのだろうと気にも留めなかったのだ。
『あのユニーク魔法が人間も支配できるモンなら、アイツが既に操られてたって可能性は?』
男の口振りと態度からして、ユニーク魔法で人間も支配下に置く事が可能だろうと皆が確信していた。恐らく、亜人種のみを対象とする効能で知られているのは、同類に警戒される事を避けた所為だろう。
 そして海の魔女やイデアがやったように、彼と視界を共有していたならば、密猟者が監督生の提案を知っている事に辻褄が合う。何を知っていて何を知り得ていないかに関わらず末端の関係者に口を噤ませておく為の措置を講じていたとするならば、バッシュにユニーク魔法を施していようと何ら不自然は無い。

 イデアは既に青くなっていた顔を益々青くして、モストロ・ラウンジとの通信を強制的に切断した。
「それだけじゃない。多分、二次感染もアリだ」
監督生は、老け薬の出来上がった報告を受けてイデアの部屋を後にした。つまり、バッシュには潜入の為に作られた監督生の容姿は知り得ない筈である。可能性があるとするならば、モストロ・ラウンジに待機する人魚達を経由した情報だという線だ。
「……ラウンジの人魚達の右手はアペルピシアに肉を穿たれてた。アペルピシアを仕込んだ男の手にも、火傷があった」
皆、傷を負っている状態と言って良い。使役した者が付けた傷でもユニーク魔法の発動条件を満たすならば、モストロ・ラウンジの人魚達の知り得た情報をあの男が知っているのも頷ける。
 ジェイドの書置きの滅茶苦茶な行間や謎の傾きと散逸も、自身の視野から情報が漏れる事を警戒して手元を見ずに書いたものだとしたら、納得がいく。

 監督生は、既に密猟者の支配下かもしれない面々を思い出して、その人数の多さと知られているかもしれない情報の重要さに考えを至らせ、悲鳴じみた声をあげた。
「そんなメチャクチャな効果アリなんですか?」
その様子は、潜入時と比べて声音も仕草も幼かった。すっかり薬の効能も無くなり、虚勢を張る必要も無くなると、今更ながらに恐ろしさが込み上げていた。恐らく彼女は、イデアの召喚が遅ければ彼にユニーク魔法を行使されていた事だろう。
「世の中にはあるかもしれませんが、彼の経歴にはそぐいませんね」
カレッジの馬車にすら乗れなかった男だ、とアズールが眼鏡を押し上げる。オクタヴィネルの頂点に立つ彼ですら、相手の力を奪うユニーク魔法は消耗が激し過ぎるという欠点があり、黄金の契約書として制約を課す事で実用化していた。それでも、相手にサインをさせる必要があったり、手元から離れた離れた契約書は簡単に破壊できたりと、不便も多い。
 離れた場所から内通者もラウンジの従業員も操っていたとなれば、尋常でない魔力を要する筈だ。何処かにもっと制約があるか、解除の方法が容易である等と考えた方が自然だろう。
「魔法の効果は永続しない。恐らくは、付けた傷が塞がるまでが期限か」
アズールは、傷を治癒させない為にアペルピシアを仕込んだと考えるならその線が濃かろうと予測した。
「アペルピシアが対象を弱らせる為の手段なら、本来はある程度の耐性があれば回避できるものだったとか?」
これはイデアの説だ。

 監督生は、密猟者との会話や仕草をつぶさに思い出そうと努めた。
 彼等の会話はアズールもイデアも聞いてはいたが、実際の雰囲気を知っているのは彼女だけなのだ。ここで役に立たねば、危険を冒した意味が無い。
 敵のユニーク魔法の真相を暴かぬままに突入はさせられない。知り得た情報を必死に反芻して、彼等は手掛かりを探す。

 『ギャッ』
監督生が声をあげたのと、フロイドの悲鳴が聞えるのはほぼ同時だった。
『ウェイターにカツオノエボシちゃんが刺された!』
その報告を皮切りに、通信機から聞える物音が激しくなった。

 アイスピック振り回してやがる、とフロイドが叫ぶ。
 ウェイターによる突然の襲撃だった。その危機に咄嗟に反応したカツオノエボシの掌に、ピックが貫通したらしい。フロイドが持っているのは音声による通信機のみの為、詳しい状態は見えないが、混乱だけは声音からも雄弁に伝わった。
「落ち着きなさいフロイド、ウェイターの身体に傷は?」
『あったぁ! 畜生ォ』
ウェイターの右手に切り傷があった事を思い出して、フロイドは悪態を吐いた。
「手! 傷は手ですか!?」
監督生は、イデアのマイクに顔を寄せてフロイドに問いかけた。
『そぉ、手ッ、ヤベッ、カツオノエボシちゃんも駄目だ操られてる!!』
キッチンから包丁持ってきやがった、とフロイド。イデアの二次感染可能説が最悪の形で実証されてしまったらしい。

 フロイドのユニーク魔法は魔法を弾けても、物理的な攻撃には無力だ。
 普段なら素直に殴り返すフロイドだが、不用意な接近が傷を付けられる切欠となるリスクを考えると腰が引ける。応援を呼ぶ事は、新たな犠牲者が増えるリスクを鑑みると避けたい選択肢であった。もどかしく思いながらもフロイドは彼等に接触しないよう魔法で応戦するが、地の理も無ければ人数的にも不利だった。
「クライムサスペンスから急にゾンビパニックに変わるの止めてもらえません??」
イデアが誰にともなく悪態を吐く。彼は恐るべきタイピングの速さでフロイドの居る喫茶店の防犯カメラに侵入し、現場の画像を出した。
 見れば、操られているのはウェイターとカツオノエボシだけではないようで、消火器を担いだウェイトレスやフライパンを振り回すオーナーらしき老人が揃っていた。モストロ・ラウンジでも中々見ない乱闘の図である。
 喫茶店のスタッフ全員が、最初から男の手駒だったのだ。オークション会場となるホテルを確認し易い立地のビルであるから、相手も当然警戒するだろう。男の能力を鑑みて妥当性に納得するより早く、フロイドは自身の置かれた圧倒的に不利な立場に苛立ちを募らせた。

 フロイドは彼等との接触を避ける事を第一優先に、逃げ回りつつも椅子を投げたりレジスターをぶつけたりと辛うじて応戦する。
「フロイド先輩、ユニーク魔法の発動に必要なのは手の傷です! 多分ですけど!」
その言葉を聞くや否や、フロイドは無言で眼前のウェイトレスを蹴り込んだ。いつもなら「間違ってたら絞めるから」くらいは言ったであろう彼だが、今回はその余裕すらも無いらしい。
 脇腹を蹴り込まれたウェイトレスの身体は、勢い良くテーブル席に突っ込んだ。受身を一切取らず、衝突実験用の人形を思わせる無抵抗さで女が転げていく。フロイドの百センチをゆうに超える長い脚から繰り出される蹴りは、女の身体が壊れるには一発で充分な威力だった。
「根拠は?」
フロイドに代わって、イデアが監督生に確認した。
「これだけ操れる人が、ハーピーは卵から孵そうとしたんです。多分、ハーピーの腕は翼になっているから」
カツオノエボシの怪我は、右掌へのアイスピックの穿通だ。ウェイターは手の切り傷。ラウンジの人魚もアペルピシアを仕込んだ男も、内通者のバッシュも、傷はどれも手にあった。ユニーク魔法の作用する範囲が亜人種や人間なのは、知能の問題ではなく身体構造の所為だとしたら、ハーピーが例外となる説明が付く。
「……なら腕を切り落とす等して本体に腕が無い事にしたら、ユニーク魔法を打ち消せませんかね」
提案したのはアズールだ。日頃は荒事担当のリーチ兄弟の所為で目立たないが、この男も大概は物騒な思考回路をしていた。
「なら傷の治療から試すのが定石では?」
「いちいち治療魔法をかけていくより物理的に切断していく方がフロイドのブロットが溜まらずに済みます」
とはいえ、その破滅的な作戦を身内やジェイド相手に出来るかといえば否だ。ユニーク魔法を安全に解除する術を探らねばならないのも急務だった。

 そうこうしている内に、ウェイトレスが起き上がる。明らかに折れている前腕や肋を庇いもせずに、天井から紐で吊るされているような直立の姿勢を見せた。マジでゾンビじゃん、とイデアが袖口を噛む。
 ゾンビと違うのは、操る者の知性と統率がある点だ。一対一ではフロイドの体術に敵わぬと分かれば、操られている彼等はタイミングを合わせてフロイドににじり寄っていった。
『もーうぜぇから動き止めてから考えんね』
フロイドは隠し持ったマジカルペンを振って、水属性の魔法を放った。魔法で出現した水の球は、彼等の足元を包んだタイミングで凍り、枷の役割を果たした。
 それらは見事に擬似ゾンビ達の動きを封じたが、フロイドの考えるほど悠長な事態でもなかった。
 カツオノエボシが手にしていた包丁を逆手に持ち直すと、それを自身の腹に突き立てたのである。
『オワーーッ』
フロイドは咄嗟に包丁とスポンジを魔法で入れ替えた。どうにか腹の傷は浅く済ませたが、そうなれば次は舌を噛み切る動作を見せたので、フロイドがまた叫んだ。
「フロイド氏、回復魔法っ回復魔法っ」
イデアがさっさと腕の傷を治せと叫ぶが、如何せん通信手段は骨伝導。目の前の事で手一杯になったフロイドには届かなかった。
 仲間を人質に取られると、後手に回らざるを得ない上に冷静さが一気に削げる。フロイドが冷静さを取り戻すまで、少々手こずりそうであった。

 彼等は、最悪の魔法士と対峙してしまった事を改めて痛感した。
 もし、あのユニーク魔法が距離に関わらず同じ作用が出来るなら、モストロ・ラウンジで待機する生徒も同じ事をさせられかねない。早急な保護が必要だが、下手に動けば操った者の視覚を通して向こうに悟られる。嫌な可能性に神経を割かざるを得ない展開に、アズールが苛々と指を噛んだ。


 今まで見張り業を完全に放棄していたグリムだが、ふいに炎の宿った耳をしきりに動かして警戒の姿勢を見せた。
 その様子に勘付いた監督生がグリムに何事かと問う。アウェー真っ只中で得られる答えが芳しい訳も無く、彼等はグリムが喋り始める前にマジカルペンを懐から出した。
「足音が沢山こっちに来てるんだゾ。四人、いや五人は居やがる。足音が殆ど同じで気味悪ぃんだゾ」
揃い過ぎた行進を操られている者達の特徴だとグリムが確信が持ったのは、監視カメラ越しに操られた者達の動きを見たからだ。怪我をしていようがお構い無しの強制操作は、歩き方すらも自由が無い。無個性過ぎるそれは却って不自然過ぎて特徴となっていた。
「僕が出ましょう。イデアさんはその間にオクタヴィネル、いえ学園中の手に怪我のある者の保護を要請してください」
イデアはアズールの判断に異を唱えなかった。万一、操られている者の中にオクタヴィネル生が居たとしても、イデアでは判別できないからだ。

 アズールは鞄を引っくり返して、中身をベッドの上に広げた。監督生が会場に持っていけなかった荷物を預かっていた他は、戦闘を想定して拵えた道具ばかりだった。具体的には、魔法増強薬と、スタングレネード代わりの空気に触れると数秒で光と爆音を発する魔法薬の詰まった小瓶、そして魔法でも何でもない手投げ式の小型爆弾が幾つか。アズールはそれらを自身のコートの内ポケットに幾つか仕舞うと、残りをイデアと監督生にもそれらを分配させた。
 監督生は、魔法増強薬の瓶をグリムのリボンに括りつけてやり、爆発物の類は自身で持つ事にした。手投げ爆弾などゲームでしか使用した事がないし、そのゲームの腕も悪いのでイデアに笑われている始末だが、そんな泣き言はとても言える空気ではなかった。
「あなた達は学園に指示を出したら、窓から脱出してフロイドと合流してください。アレは自身の身体能力の高さと同時に人質が有効な事も示してしまった。きっと集中的に狙われる」
フロイドまで操られて向こうの駒にされれば、これ以上無く絶望的になる。
「上手い事撹乱して追っ手を撒いてやってください、できますね?」
アズールは、監督生の荷物の一つであるゴーストカメラを指差した。監督生は、彼の言わんとする事を察して神妙に頷いた。
「なに、フロイドは簡単にやられるタマじゃありませんよ。ただ今は尻を叩いてやれる人材が近くに居ないだけで」
イデアが横目でフロイドの様子を確認すると、彼は未だに自殺を試みる同級生といたちごっこを続けていた。半ばパニックのフロイドはまだ怪我こそしていないが、無為に体力と魔力を消耗させ続けている。その間に、氷の枷に拘束されたウェイター達は、自らの脚を切断する事で機動性を取り戻そうと、手近な獲物で滅茶苦茶に脚を刺していた。画面の何処をとっても混沌と血生臭さが広がっている。学園での軽快な態度が嘘のような、泥仕合じみた展開だ。
 それでもアズールは、フロイドの意地と身体能力に信頼を置いていた。オークション会場に突入する時には、彼が万全でなくては困ると説いた。
「アズール氏は平気? 此処も時期にフロイド氏と同等かそれ以上の人数を捌く羽目になると思うけど」
「幾らでも相手取りましょう。僕だって紳士的でない交渉をしたい気分の時だってある」
アズールは、魔法石の嵌ったステッキを悠然と構えた。救出部隊の指揮だの寮生の安全確保だのと優先事項に追われて憤りを発散させる間が無いだけで、この男とて衝動を持て余していた。悪友であり腹心であるジェイドを奪われた個人的な苛立ちが魔法石に漲って、暴力に変換される瞬間を溢れんばかりに待ち侘びている。
「kk。さっきオルトに要請した。片っ端からスキャンして手に傷のあるヤツを一斉に拘束して口に布でも詰める方向で準備させてる」
「なるほど、オルトさんの身体なら、手に傷が出来る筈もないので誰に伝えるより確実ですね」
オルトのスキャン機能ならアナログの身体検査より効率が良い。情報漏洩を心配しなくて良い協力者を集めるのも容易だろう。アズールはそれを聞いて、さっさと廊下に出て行った。


 監督生は荷を纏めて、部屋の窓から顔を出して地面との距離を確認する。
 部屋は三階の角部屋に位置しているようだった。空は既に暗くなっていたが、街灯が多いので石畳の地面がよく見えた。
 アズールが早速攻撃を仕掛けたようで、幾つか壁を経た所から爆破音が聞えてきた。
 けれど、グリムが「また足音が増えた」と新たな刺客の参入を察知した。アズールも、早々には片付けられそうにないようである。

 イデアはオルト経由で教員達に助力を求める事に成功したらしく、バッドボーイ! と馴染みのある怒号が部屋に響いた。
 厄介なものに首を突っ込むなと大魔法士達が揃いも揃ってがなるので、二人と一匹は首を竦めた。けれど、漸く大人に相談できた事実は監督生の心を若干軽くした。
「拘束した人達を匿うスペースが必要なら、オンボロ寮に空きベッドが沢山ありますから使ってください。寮の鍵は閉めちゃったけど、合言葉でゴーストが開けてくれます」
『いい提案だバットガール、無断外出と授業放棄の反省文は三十枚で勘弁してやろう』
とはいえ、厄介な寄生植物に集団で寄生されている上に未解明な部分も多いユニーク魔法や多過ぎる人質の疑いのある生徒達の存在は、教員をもってしても対症療法で手一杯らしい。その所為か、説教は二人が覚悟したよりはうんと短かった。
 もしも彼等が潜入せねば、ユニーク魔法の存在も暴けずいっそうの混乱を生んだであろう事を考慮しての譲歩だ。あわや校内で原因不明の集団自殺をさせられるリスクを抱え込むところだった学園長は、早くも謝罪会見の練習を始めている。
 ユニーク魔法を付与された生徒を学園内に仕込んだのは、学園側の様子を観測するだけでなく、教員達が組織立ってジェイドの奪還を試みた場合に脅迫もとい交渉材料として機能させる為でもあったのだろう。学園の不特定多数とジェイド一人の犠牲を天秤にかけさせたら、迷い無く大人の決断とやらを選ぶのがディア・クロウリーだ。

 結局教員達は、敵を討てば根本解決できるのならそうせよと尊大な口調で許した。もっとも、相変わらず事なかれ主義を貫いた学園長がこの事件を公にする事を避けた為、オークションを警察にリークする案が潰れたからでもあるのだが。
『して子犬。声が普段と違うが、変身薬に手を出してはいまいな?』
「ヒッ」
イデアの分かり易い悲鳴で、違法薬物の所持と服用が呆気無く露呈し、彼とアズールは魔法薬学のレポートを課せられた。
 けれどクルーウェルの説教が後半になると、イデアは半眼で聞き流しながら手元の機器を弄り始めていた。繊細なようでふてぶてしいのがこの男なので、直接的に彼を巻き込む原因になった監督生の罪悪感は思ったほど疼きはしなかった。監督生は、自身の状態が露呈すれば召喚術の教員からも大目玉を食らうだろうと思い、グリムが余計な口を聞かないよう口を塞ぎつつ、クルーウェルのご高説に相槌を打つに努めた。


 それから学園長の毒にも薬にもならない激励を聞いた後、脱出の準備にかかった。
 グリムが爪でベッドのシーツを裂き、その布を結って繋ぎ合わせて長いロープを作る。これを窓から垂らして壁面を降りる際の支えにするのだ。布の結び目は、手足をかけるのに丁度良い突起となった。
「魔法の絨毯が暴走した時の高さより全然マシだゾ」
ロープの端を窓付近の調度品に引っ掛けて、グリムは窓からロープを下げた。そして、身軽な動作で外に消えて行った。
 猫に似た身体をしている所為か、グリムはあっという間に地上に降りた。その様子に勇気を貰って、監督生も覚悟を決めた顔をした。
 彼女は動きやすいようドレスの裾をすっぱり裂き、靴を壁に叩きつけてヒールを圧し折った。走っても靴が脱げぬよう、平らになった靴と足の甲を余った布で巻いて固定する。明らかに修羅場慣れした手際の良さだった。
「ね、グリム。もし落っこちちゃったら受け止めてね」
「無茶言うな、オレ様がペシャンコになっちまう」
監督生は窓から顔を出して短い会話で心を落ち着かせた後、するするロープ伝いに降りていった。

 最後にイデアも、監督生に倣って粗末な簡易ロープを掴んで窓の外へと降りた。
「ア゛ッ」
数メートル程下降した辺りで、イデアの手元の繊維が切れた。
 体長七十センチ程度の魔物と小柄な少女が大丈夫だったというのは、何も耐久性の保障にはならないのだ。イデアは背中から地面に落ちた。グリムの気休めのような衝撃吸収魔法が落下直前にイデアの背を撫でたが、無事だったのは偏に変身薬で多少肉の付いた身体になっていたお陰だ。いつもの不健康に痩せた身体のイデアならば、落下の衝撃で何処かしら折っていただろう。もっとも、あの骨と皮ばかりの身体なら途中でロープが切れる事自体無かったかもしれないが。
「た、立てます? 大丈夫ですか?」
「ウン……強化魔法かけてから降りれば良かった」
イデアは痛みで少し涙ぐんだ。監督生が見下ろしている状態ではなかったら、暫く不貞寝でもしていただろう。

 緩慢に立ち上がったイデアは、痛む背を擦りながら、途中で切れた布を魔法で元に戻した。
 寂れた宿屋の窓に、歪な白い布が巣穴に戻る蛇のように吸い込まれて回収されていく。これで窓から逃げたという痕跡が分かりづらくなれば、彼等も動きやすい。

 イデアは、手元の端末でフロイドの状況を確認した。カツオノエボシと呼ばれた生徒の拘束が解かれていたあたり、どうやら回復魔法は有効であるらしかった。しかし相変わらず喫茶店内は、男がマリオネットと称する状態の人々が蠢いていたし、雑居ビルには次々と刺客が入っていくのが伺えた。アズールとほぼ同じ状態と言って良い。違うのは、フロイドがまだ増えゆく刺客の存在に気付いていない事と、脱出経路が確保されていない点である。
「しかし寄越してくる数が多過ぎではござらんか。準備が良過ぎるというか、常習では?」
イデアは、拐われた者を取り返そうと身内が動いたのは自分が初めてという訳ではない事を察していた。そして、今までそのどれもが成功しなかったであろう事も悟ってしまった。
「オークションの開催日の前後は予め会場周辺の人々の手に傷を負わせている、とかでしょうか」
「多分。僕等みたいなのの他にも警察のガサ入れとかも警戒するだろうし、あの能力があるなら哨戒は当然用意する」
イデアは痛む背を丸めて、のたのた歩き出した。街中の監視カメラに侵入しては、人に眼に触れずに済むルートを探して監督生を先導する。
 科学派の聖地として知られていた場所は、機械の眼が多い分イデアにはやり易いらしい。ナイトレイブンカレッジやその膝元の街では、遠見の水晶だのファミリアーと呼ばれる小動物を中心とした使い魔などが使われる事の方が多い為、こうもいかないらしい。
「ユニーク魔法の支配下の人達を一斉に動かさざるを得ない状態にしたら、オーバーブロットに追い込めません?」
イデアの背中を追いかける監督生が、思考を巡らせる。
「気軽に言ってくれるけど、どの範囲まで被害が及ぶか分かったもんじゃないからお勧めはしない。言っとくけど、隔月くらいの頻度でオバブった魔法士に対峙してる君が異常なんだからね」
「こちとら好きで対峙してる訳でもねーんだゾ」
グリムの反論はもっともで、イデアが肩を竦めた。
 然して建設的ではない相談が続く。人魚達の非常時に反して閑散とし過ぎた街への不穏さを誤魔化すように、雑談めいた話題が断続的に紡がれた。イデアの独り言じみた掠れた声も、よく届く夜だった。


 二人は、等間隔に設置された電灯の下を通って、フロイドの居る喫茶店へと歩を進める。
 監督生は、監視カメラもLED式の電灯が当たり前にあった故郷の土地を薄らと思い出していた。

 科学派の街は、監督生の元居た世界によく似ていた。
 機械に溢れていて、魔法の火ではなく電気の灯りが夜を照らす街だった。
 この街の街灯は、電気式で、物理法則に則って地面に立っていた。魔導品のランタンのように謎の動力で浮いていたりしないし、鬼火がふわふわと追いかけてきたりもしない。
 そちらの方が魔法を知る前の監督生には当たり前だった筈なのに、学園で過ごす内にいつの間にか二度と見る事はない光景かもしれないと思うようになってしまっていた。

 そも、魔法が気軽に使える者の人口が多い地域では、衛生と装飾以外の公共物の設営はあまり進まないのだ。
 例えば、杖の先に光を灯すのは子供でも覚えられる原始的な魔法であるから、背が高い上に場所を取る街灯を連続的に設置しているような土地はこの世界では特殊だった。水とて同様で、カレッジには未だに井戸が残っていたし、その所為でオンボロ寮の水回り工事が随分と先伸ばしにされていた。監督生は魔法が使えない所為で原始的な生活をする他にないとばかり思っていたが、どうやら所属するコミュニティの問題だったようである。
 皮肉にも、魔法の存在しない世界から来た監督生にとっては、この街は懐かしい雰囲気だった。忌むべき者達の本拠地だいうのに、忘れかけていた彼女の「普通」がそこにあった。カレッジにしか友人が居ないというのに、カレッジ周辺とは逆の発展を遂げているこの街を羨ましく思ってしまう。

 冷たく軋む彼女の心情を知ってか知らずか、イデアは「この街のコンセプト自体は嫌いじゃないんだけど」とぼやいた。
 斜向かいの道路の監視カメラが不自然に首を振って、辺り一帯の情報をイデアに提供した。周囲の無人を確かめた彼は、監督生の手を引いて道路を突っ切る。
「科学は人を豊かにする筈なのに」
今のイデアの顔の造形は全くの別人になっているというのに、その憂いを帯びた表情は彼そのものだった。
「私もそう思います」
人に作れない物は無いと豪語し、科学と魔法の境を限りなく狭めた男の背を追う。そうすると、監督生の足取りは幾分か軽くなった心地がした。
「ま、散々悪用してる拙者が言う事じゃないんでござるか」
いつもの皮肉ぶった目つきの悪い笑みでイデアが振り返る。彼の冷笑の何割かは照れ隠しだと、監督生はとうに経験から知っていた。

 能力の足りない者でも不自由が無い暮らしが出来る街だ。きっと結成初期の科学派も、そういうコンセプトだったのだろう。
 時代の更新と共に多様性が生まれるに従って社会を分断していた要素がヒト属の中の魔法の有無だけでなくなって、ヒト属の選民思想や特権意識が街のカラーを塗り替えるまでは、真に豊かな街だったに違いないのだ。
 監督生は漸く、素直に街の凋落を惜しむ事ができた。
 発光ダイオードの光に照らされた光景の中に、いつもの彼の不可思議な青い炎が揺れていない事を物寂しく感じた。
← →




back
top
[bookmark]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -