推しの推しが巻き込まれた事件に巻き込まれた件2

 思わず息を呑んだ監督生に、アズールが彼等を侵す緑について説明した。魔法植物に寄生されているのだと。
「アペルピシアです。本来は学園から遠く離れた限られた浜辺でしか活動しない植物ですし、魔力への耐性の強い魔法士の皮膚にもしかと根を張っている辺り、何者かの細工がされているのは明白。恐らくは、治癒を阻害する呪いの類かと」
彼の説明によれば、アペルピシアは宿主の血を介して養分を吸うだけでなく、気力まで啜る魔法植物であるらしい。黄褐色で鱗片状の突起は、退化した葉だ。栄養源は宿主なので光合成の必要が無いのだ。更に植物が育てば、皮膚を突き破って太い茎が育ち、穂状の花序を作り、多数の淡紫色の花を付ける。そうなればもう魔法士と言えどただの養分だとアズールは言い切った。体力も気力も吸われては、宿主は虚無と絶望しか残っていない心のまま生きながらにして死んでいく。典型的な鬱患者と同様の症状が出るのだ。
 治療薬を作って寄生の進行を遅らせようと試みてはいるが、アズールの腕を持ってしてもまるで上手くいかないらしい。元より、水棲の生き物である人魚には、木属性たる植物は相性が悪いようだった。
「アペルピシアに呪術を仕込んだ術者が居るなら、その術者を叩いて解除させた方が早い」
恐らくは、ジェイドもその線で動いている筈だ。ジェイドは自らの身柄と引き換えに、敵の所在を暴いて伝える事には成功していた。

 アズールが忌々しげに舌打ちを零した。憤慨で歪んだ唇から、噛み締めた歯が覗く。
 ラウンジの支配人にとって、従業員の危機を管理しきれなかった事は大いなる失態だ。ましてジェイドの危機となる兆候を見逃したなど、腸が煮えくり返って仕方がないだろう。

 アズールとフロイドを始めとする彼等はずっと裏方であった為に寄生を逃れていたが、ドリンク販売をしていたジェイドは恐らく無事ではないだろう。ジェイドが自力で帰ってくる見込みが薄いのも、この可能性の所為だ。
 被害者の中には、監督生を慮ってドリンク販売とフランクフルトの販売の役割を代わってくれた生徒も居た。フロイドがヒメスズキちゃんと呼んでいた、中性的な青い髪の生徒だ。
 寄生された者の中でも、彼の手が最も酷い様子だった。どうやら、運動したり魔法を使ったりすると侵食の進行が早まるらしい。その傾向に気付いたのは、彼が一限目の体力育成で酷い貧血に倒れてからだったという。

 ヒメスズキと呼ばれた生徒は、自身の掌を開閉させながら植物に蝕まれた皮膚を睨んだ。斑が手首まで広がり、既に葉の繁生が見られる。痛ましい限りの様態だった。
「今じゃすっかり根を張って本性を現してきてるけど、昨日の段階じゃ違和感にすら気付かなかったんだ。でも多分、ジェイドくんは気付いたか、気付かされたんじゃないのかな」
恐らくは、ここに残っている寄生された生徒はジェイドにとって人質として機能したであろう、と彼は言った。オクタヴィネルのモットーは自己責任で、ジェイドが物騒かつ薄情な男だったとしても、彼はモストロ・ラウンジの副支配人だった。
 監督生は、自身に代わって暴漢と対峙したジェイドの毅然とした横顔を思い浮かべた。彼は、自分の果たすべき責任は果たす男だった。恐ろしいが、面倒見が良い時もあり、頼れる先輩だった。


 厨房から出てきたフロイドが、大股でテーブルに戻ってきた。その両手には、大皿を二枚ずつ持っている。
「ハイ、賄い惣菜サンドでぇす。食ったら協力してよ」
四枚の皿が、粗野な動作でテーブル中央に並んだ。オクタヴィネル生達も今まで昼食どころではなかったらしく、目の前の料理に一斉に手を伸ばした。魔法植物に寄生された生徒達も、手袋を嵌め直して昼餉にありつく。
「協力って、具体的にはどんな風に動けば良いんでしょう」
まさか科学派とやらに人魚を攫いませんでしたかと馬鹿正直に聞いて回る訳にもいくまい、と監督生は首を傾げる。彼女は未だ、膝の上で拳を作ったままサンドに手を付けようとはしなかった。
「多分だけど、ジェイドはオークションにかけられる。小エビちゃんにはそこに潜ってほしいワケ」
フロイドが、監督生の横にどっかり座った。絶対に協力する理由を作ってやろうという確固たる意思で、彼は監督生の口元にサンドを押し付ける。監督生は慌てて口を両手で塞いだが、質問は止めなかった。
「オークションですか?」
口に手を当てたままのくぐもった声で、監督生は聞き返した。
「そ、違法っつっても、人魚を使い魔にしたいヤツって多いんだよ。観賞用だったり、海洋調査の共連れだったり」
使い魔、と彼女は鸚鵡返しに聞き返す。脳裏に召喚術の教員がちらついていた。
 確かに傍目から見る分には、ジェイドは見目麗しく、優秀で慇懃で何をしてもスマートな男だった。事実、ジェイドは他寮からもスーパー秘書と評される程である。その奔放さや凶暴な好奇心といった本性を知らなければ、使えると思うのかもしれない。けれど監督生の疑問はまだあった。
「使い魔って、科学派の人も使うんですか? 彼等、魔法が使えない人や魔力の弱い人なんじゃ?」
「アー、そこも説明しなきゃなの?」
監督生の無知に、フロイドが面倒臭さを隠さない様子で呻いた。説得の前段階の説明でこんなにも時間が削がれるのが、フロイドには耐え難いようだった。説明も解説も、やはり普段ならばジェイドの担当分野だったので。

 既に惣菜サンドを半分ほど食べているアズールが説明を請け負う。
「人魚や魔獣は人間の道具であるべきだという過激科学派の思想と相性が良いんですよ。科学派を魔法士として侮りながらも、亜人種への差別心から手を組む輩も少なくはないという事です」
そういう輩はヒト属中心主義者なんて呼ばれたりします、とアズール。亜人種と呼ばれていた者達が人間の扱いをされるようになった時勢でも、未だ人間といえばヒト属を指す風潮からして、人魚達への風当たりの厳しさは察するに余りある。彼の口調は至って落ち着いていたが、その声は氷のように冷たかった。
「そも、魔力の弱い魔法士と召喚術の相性は良いんです。今は人工生物だとか人工飼育のベタ慣れ個体とか、従順な使い魔を作ることで制御に多大な魔力を割かないようにできますから」
人工飼育だのベタ慣れだのという言葉は、本当に家畜や愛玩動物のようで、ジェイドにはあまりに不似合いだ。監督生は、知れば知る程に柔い幻想の削ぎ落とされていく魔術の実態に、口を閉ざした。
 フロイドは、自分で作った惣菜サンドに齧り付く。硬めに焼かれたバケットに挟まれた鶏南蛮が、芳ばしい匂いを発していた。けれど、誰もそれを愉しむ気分にはなれそうになかった。

 監督生の脳裏で、召喚術の教授の感情も抑揚も無い語り口が甦る。
 ツイステッドワンダー歴一九七三年の国際法改正によって新たに使い魔にしてはならないと定められた生物の一覧に、人魚は載っていなかった。ヒトと獣人の魔法が使えぬ者達がやっと人権なるものを手にした四年後に、漸く知能と社会性を認められたのが人魚という種族だ。付箋だらけの萎びたテキストの情報が、監督生の記憶と情動に結び付いた瞬間だった。
 魂に首環を付けられた感覚が、監督生の胸にはまだ残っている。聞きたくなかった命令に抗えず、友を傷付けようとしてしまった悲しみがぶり返す。
 監督生にとって、彼等の話は全く他人事ではなかった。
「……先輩、私……、私にできることなら……」
監督生は、決意に震える手でスカートの端を握り締めた。
 彼らの憤りに、彼女の心が共鳴していた。

 「その話、待ったーーーー!!!!」

 監督生が言い切る直前、モストロ・ラウンジの扉が開け放たれた。グリムの乱入であった。
 図らずも、監督生がオンボロ寮を担保に契約を迫られた時とは真逆の構図となった。
「いや、寮長! 俺ちゃんと施錠しましたって!」
フロイドがカツオノエボシちゃんと呼ぶ学生が、闖入を許した件について弁明する。アズールは、彼を責めはしなかった。彼の視線は、大見得を切ったグリムが仁王立ちするフロアではなく、開け放たれたままの入り口を見ていた。
「……アナログのセキュリティにも強かったんですね、あなた」
これだから工学の天才は厄介だと、アズールは苦々しく呟いた。
「ホタルイカ先輩、犯罪者の才能あり過ぎでしょ」
入り口の扉に長身痩躯を隠しつつ、イデアが顔を覗かせる。元々悪い顔色が、殊更に悪く、息を切らしていた。
「き、君等だけには言われたくなかったでござる」
イデアの青い炎のような髪が、燃焼音を出して揺れていた。格好は恐らく部屋着だ。もはやドローン越しの反論では監督生を止められまいと察した彼は、イグニハイドの自室から走って来たのだ。本校舎を駆け回ってグリムを探し、日頃は陽キャの社交場として忌避するモストロ・ラウンジまで生身で来ていた。ちなみに、グリムより圧倒的に賢く殺傷能力も高いオルトを伴わなかったのは、弟の前では「後輩を見捨てろ」と言い募る己を晒したくないイデアの僅かばかりの見栄だった。
 イデアは弟が居るだけあって面倒見の良い部分はあるが、それ以上に他人への興味が無かった。その上、他人の範囲が非常識に広かった。この必死さは、恐らくは弟を除けば監督生くらいにしか発揮されないものだった。挙動は不審者であり行為も犯罪めいてはいるが、庇護欲は本物だった。

 とはいえ、アズールとて折角手に入れかけた手駒を手放す気はさらさら無い。寧ろ、監督生にドローンが付随してしまったのを認めた時から、イデアごと巻き込む算段だった。
「丁度良かった。監督生さんもイデアさんが手を貸してくださった方が心強いでしょう」
アズールは分かりやすく愛想の良い笑みでイデアを歓迎した。
 アズールは、寮長同士かつ同じ部の者として、イデアの頭脳と能力を認めていた。オクタヴィネルの人魚達よりも、イデアの方が科学派もといヒト属中心主義者にも馴染める素養はある。この男の情報収集力と技術力は、単純に魅力的だった。
「違うから。僕ァ止めに来たんだよ」
イデアがグリムの小さな身体を盾にして、監督生の座るテーブルまで歩み寄った。狸や猫と代わらぬ体躯のグリムでは長身のイデアは全く隠せてはいない。けれど、グリムの柔らかな毛皮の感触は、イデアのメンタルに少々のバフをかける効果はあった。
「そうなんだゾ! やい子分、人魚の事情なんてオレ様達が知った事じゃねえんだ。さっさと帰るんだゾ」
監督生の前まで連れてこられたグリムが、恥も人情も捨てた文句を垂れる。
 けれど監督生は首を縦には振らなかった。寧ろ、グリムの突き放した口振りは逆効果となった。
「アザラシちゃんが一番他人事じゃねー身分なんじゃねぇの?」
「な、何でオレ様が」
グリムは、瞳孔の開いたフロイドに首根を掴まれた。地上から約二メートルの高さに吊るされたグリムの尻尾は、哀れにも両脚の間で丸まっている。
「だってグリム、貴方は未だに使い魔として禁止された生き物の外に居るのよ。貴方に関しては、滅茶苦茶な命令で虐待されたって合法なの。誰も貴方を虐げた人を責めちゃくれないのよ」
「ふなっ」
召喚術の授業を聞いていたでしょう、と監督生が眉を下げる。彼女はフロイドからグリムを救ってはくれなかった。寧ろフロイドの意見に同意していた。

 イデアが争点を戻そうとするが、オクタヴィネル生の合いの手の方が早かった。
「使い魔同士なら闘鶏みてえにコカトリスと戦わすのも合法だよぉ、アザラシちゃん」
「生きたまま解剖したって抵抗されねえから麻酔要らずよ」
「無茶な威力の昇竜拳打たされて全身骨折したホビットの動画見る?」
慈悲の魔女を仰ぐ寮生達は、無慈悲な事案にも詳しかった。それでも耳をペタリと伏せて首を振るグリムを、フロイドが脅す。
「アザラシちゃんなら合法だからぁ、今すぐ他人事じゃなくしてやることもできんだけど?」
「怖ぇーんだゾお前ら!」
グリムが青い眼に涙を溜めて叫んだ。

 監督生は小動物相手に少し脅し過ぎたと思い直し、フロイドの腕を引いてグリムを自身の視線の高さまで下げさせた。
「ジェイド先輩の身にそんな怖い事が起きようとしていて、グリムは目を瞑っていられるの?」
宥めるような、優しい声音でグリムを諭す。
 強い恫喝の後に優しさを見せるその対応は、図らずもイギリスの軍事界においてはマットとジェフの名で知られる協力を引き出す心理戦術と酷似してしまった。平たく言えば、飴と鞭の効果である。
「ねえグリム。ジェイド先輩はね、私を酔っ払いから庇ってれたわ」
監督生の手が、グリムの頬を優しく撫でていく。アズールは、純粋にドメスティック・バイオレンスでありがちな構図だなと感じていた。この世界で猛獣使いと称される女なので、そういう才能もあるのだろう。
「貴方がスカラビアで地の果てまで飛ばされた時、背中に乗せて寮舎まで泳いでくれたのもジェイド先輩じゃなかったかしら」
「そ、そんなの……」
今は関係ないんだゾ、と言いかけたグリムだが、言葉尻が明らかに小さくなっていた。
「万年金欠のオンボロ寮にキノコを差し入れてくれるのは誰だったかしら」
ねえグリム、と彼女が囁く度、魔獣の顔に浮かんだ戸惑いの色が濃くなっていく。
 監督生は、グリムの小さな額に慈しむようなキスを落とした。夜が怖くて寝付けないと駄々を捏ねる子供にするような、穏やかな優しさに満ちた所作だった。
「悲しいけれど、私もグリムも弱いのよ。だからこそ助け合ってきたでしょう。貴方、助けてくれる人を見捨てて生きていけるの?」
魔法の使えぬ女と、人並の権利を有さぬ獣。どちらも世の理不尽と学園の都合に振り回されて生きてきた。時に強運に救われ、時に魔法士達の手を借りて。一人前の学生ですらない彼女達にとって唯一強み足り得るのは、協調などという学園では稀少極まる精神性、ただそれだけなのだ。
 それだけは己の手で手放してはならないのだと、彼女は小さな魔獣に諭す。それは綺麗事として収めるには余りに切実な弱者の生存戦略であり、彼女の唯一と言っていい矜持であった。

 フロイドがグリムから手を離せば、グリムは監督生の腕の中に納まった。
 グリムは監督生の胸に顔を埋めて、身体を小さく丸めた。
「こ、子分がどうしてもって言うなら、オレ様も手を貸してやらなくもねえんだゾ」
相変わらず尊大な口調の了承であったが、グリムの態度は随分としおらしいものに落ち着いた。


 さて、とアズールが手を叩く。
「先ずは、内通者の炙り出しと、下手人の特定、潜入の準備に分かれましょう。フロイドは引き続きジェイドの格好で校内を洗ってください。イデアさんはロボコンの際の映像から、アペルピシアを蒔いた下手人の特定をお願いします」
アズールはイデアに、助手が欲しいなら此処に居るオクタヴィネル生を好きなだけ使えと肩を叩いた。
「エッ? 拙者は説得してもらえない感じでござるか? グリム氏だけ?」
グリムはあんなに優しい声で宥めてもらったのに? 頬を撫でられて、額にキスまでしてもらったのに? とイデアは袖口を噛んだ。
「おや、監督生さんとグリムさんが動くっていうのに、あなたは彼女達を見捨てられるんですか」
アズールはイデアの庇護欲もとい下心に容赦無く付け込んだ。

 監督生は、フロイドと共にオクタヴィネル生と輪になってジェイド救出決起集会に参加していた。
「僕達に接客の作法を仕込んでくれたのはジェイドさんだった!」
「そうだそうだ!」
「厄介な客が暴れた時、大抵はジェイドが出てくれた!」
「そうだそうだ!」
従業員の一人がジェイドへの恩を叫べば、すぐさま賛同の声があがる。物騒な思考回路の愉快犯といえど腐っても副寮長。ジェイドはそれなりに慕われているようだった。
「寮長がエグいシフトを組んだ時、再調整を検討してくれたのはいつもジェイド君だった!」
「支配人が無茶な売上目標立てた時、再検討させられるのはジェイドさんくらいのもんだった!」
「そうだそうだ!」
「フロイドに理不尽に絡まれてる時、ジェイドは三割くらいの頻度で助け船を出してくれた!」
「そうだそうだ! 七割くらい放置だったけど!」
オクタヴィネル生達が、ジェイドを失ってはならぬと拳を突き上げる。
 身内の尻拭いによってジェイドが人徳を醸成している事が窺い知れて、イデアは相対評価の弊害を感じた。オクタヴィネル生達も自身で口に出してみるとマッチポンプかしらと思わなくもなかった。けれど彼無くしてはオクタヴィネルが立ち行かないのもまた事実なので、馬鹿のふりをして円陣を組んだ。
「ジェイド・リーチを奪還するぞー!」
「オーー!!」
イデアは、このメンタリティの集団に自分までもが組み込まれた事に仄かな絶望を感じた。
「うっざ……このノリ無理っすわ……」


 肩を抱き合うオクタヴィネル生達の輪からすり抜けて、監督生がイデアとアズールの傍に戻ってくる。
 イデアとアズールは、一緒に円陣を組もうと誘われるのではと身構えた。そんな事をされては、イデアは間違い無く自室に直行する。けれど、それは杞憂だった。
「協力する生徒の安全を保障する事と、この件の損害を補填する事。この二点をコレで約束してくれますか」
監督生は、先程貰ったばかりのモストロ・ラウンジのポイントカードをアズールに手渡した。主語の範囲が妙にが抽象的なのは、この範囲にイデアも適応させたいからであろう。
「おや、よろしいんですか」
もっと自身に利益のある使い方をするべきだとグリムが抗議したが、監督生はこれでよしと譲らなかった。グリムとイデアまで巻き込んだのは自身の所為でもあるのだから、これくらいの保険は必要だろうと宣う。彼等と手を組むと決めた後も、監督生は下手に欲はかかずに手堅く振舞うべきだというスタンスを崩さなかった。

 監督生が、テーブルに残っていたグリムに惣菜サンドをグリムに食べさせた。潰された昼餉への補填という名分ができたので、漸く彼女達は貸し借りを気にせず飲食が出来るようになったのだった。逆に言えば、食べたからには共犯にならずには済まされない。
「イデア先輩も、巻き込まれてくださってありがとうございます」
監督生は、イデアにも惣菜サンドを勧めた。食べ残した分が考慮されるだけハデスがペルセポネに与えた柘榴の方が幾分か優しかろう、とイデアは内心で毒吐いた。けれど対面では口が格段に鈍った。まして、草食動物とすら称される監督生の黒目がちな双眸が、イデアを真っ直ぐ捉えていた。期待で満ちた少女の眼差しは、まんまとイデアの譲歩を引き出した。
「独特な言い回しでござるな」
巻き込んで申し訳ありませんなどと真っ当な言い方をしては、手前の決定が間違いだと認める事になるので言えはしなかったのだろう。イデアはそんな思惑も承知しながら、サンドを受け取った。青で彩られた大きな口に、硬めのバケットが押し込まれる。これで道連れは確定である。
 アズールと監督生は、山羊みたいな顔で咀嚼するイデアをしてやったりと言わんばかりの顔で見ていた。
「これで一蓮托生ってワケですな」
イデアが譲ってやると、監督生は安堵の笑みを浮かべて頷いた。バケットも鶏南蛮もすっかり冷めていたが、モストロ・ラウンジの食材が原料なだけあって贅沢な味がした。

 監督生が、イデアの手を取った。
 あざといったらありゃしない、と身構えたイデアだが、生身の身体はそうは動いてくれなかった。身長差故に上目遣いとなった双眸がイデアの庇護欲を刺激したからだ。その指先の体温に肩が跳ねて、手を硬く握り返してしまっていた。その骨の細さにまた驚いて、余計に力が入った。
「私に出来る事なら、何でも精一杯やります。先輩も一緒に頑張ってはくれませんか」
監督生は、朗らかで意志の強い口調だった。けれど、彼女の指先がぎこちなく強張っている事に、イデアは気付いてしまった。握った手からは、押し殺した恐怖と当然の緊張が伝わってくる。
「は、はひ」
彼女が緊張と覚悟で湿り気を帯びた手を伸ばす先が己であるという事実に、イデアの情緒が押し潰された。
 生返事未満の反応しかできなかったイデアだが、内心では蓮の台の半座を分かつ間柄の気分である。オタクはファンサに弱かった。
 
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 果たして、オクタヴィネルの人魚達とオンボロ寮の二人とイデアは、大きく分けて三班に別れて動く事となった。
 校内で内通者を探すフロイド班と、人魚達の掌にアペルピシアを仕込んだ人間から相手の情報を探るイデア班と、モストロ・ラウンジで潜入の準備を進めるアズール班だ。

 アズール班では、潜入の為の下準備の傍ら、アペルピシアに侵された生徒の治療を続けていた。
 監督生は主に、アズールから潜入先での振舞いや教養を叩き込まれていた。グリムは、アズールの離席時に監督生の練習を監督してやるのが仕事になっていた。

 イデア班、というべきか殆どイデア個人だが、彼は二時間半で寄生植物を仕込んだ人物を突き止めた。
 下手人は学生ではなく、グレーのスーツに丸眼鏡で、白いカイゼル髭を蓄えた中年男性だった。交友関係や思想、ユニーク魔法、最近のクレジットカードの利用履歴まで、既にアズールに報告済みだ。
 この手際の良さは、被害生徒の証言によってロボットコンテストの映像記録から下手人の映っている記録を探せた事が幸いした結果だ。右手に治りかけの火傷があるなど印象深い男であったので、従業員の殆どが彼の人相を細かく記憶していたのだ。
 鮮明な顔の画像が手に入れば、身元を辿るのはイデアにとっては単純作業だった。モストロ・ラウンジではコンピューターの設備が上等とは言えないので、自室にオクタヴィネル生を入れざるを得なくなった事にイデアは苦痛を示したが、それ以外の躓きは無かった。幾度ものクラッキングと膨大なデータから情報を抽出する作業を必要としたし、奴のユニーク魔法や交遊関係に至るまでにはコンピュータ二台が使い物にならなくなったが、損害はアズールが補填するという約束のお陰でイデアは効率を重視できたのだ。
 イデアの対人恐怖を煽るオクタヴィネル生も、下手人の顔を確認する以外の仕事は特に無かったので、早々に解散させて後半二時間はほぼイデアの一人仕事だった。

 自身に割り振られた仕事を一通り終えたイデアは今、フロイドの捕らえた内通者の吐いた情報の裏取りをさせられていた。
 フロイド班は、校内の内通者を探したが、あまり芳しい成果を得られてはいなかった。ポムフィオーレから内通者を一人炙り出したものの、それ以外の収穫はまるで無し。内通者達が上手なのではなく、単にフロイドが捕らえた者が下っ端過ぎるのだ。


 イデアの自室の真ん中で、内通者がフロイドに鳩尾を殴られて悶えた。
 彼の本名は、バッシュ・フラー。今は嘔吐寸前の酷い顔をしているが、本来は白皙の金髪美少年だった。
 ポムフィオーレの二年生で、アズールが黄金の契約書で労働を強いた過去もある。ヴィル・シェーンハイトの強烈なシンパであり、マジカメや普段の言動にも外見至上主義的な面がよく出ていた。殊に、獣人に対して「歪な耳」と吐き捨ててサバナクローと揉めるなど、亜人種への侮蔑は酷かった。ヒト属の外見を至上としているらしく、マジカメの裏アカウントには人魚に対して「生臭い」だの「離れ眼」だのと好き勝手書き連ねていた。少し調べただけで、万人が「学内で亜人種に何かあったらまずこいつを疑うべき」と思わざるを得ない強烈な憎悪が次々と出てくる。分かり易い程の、典型的な差別者だ。
 本当に後ろ暗い事を遂行したい者は彼を隠れ蓑に使うだろう。イデアはある意味、彼がジェイドの件を深くは知らない事に納得を覚えていた。
 現に、彼は有用な情報を一切出さなかった。証言も茫洋としていて、頭がよろしくない。隠さない差別感情を利用されて、肝心な情報は共有されずに使われていたのだろう。彼の交友関係から、本件に関わている可能性の高い生徒を割り出したが、悉く家事都合だのと称して週末から休暇を取っていたり、退学の手続きが済んでいたりと、接触が叶わなかった。
 要は、フロイドに捕まったバッシュ一名をエスケープゴートにして、他は既に逃げているのだ。

 未だ手の空いたオクタヴィネル生が、内通者達の自室を漁って手掛かりを引き続き探してはいるが、凡そ無駄であろう。
 フロイドは、イデアの自室を借りて内通者の尋問を続けていたが、握っている情報の乏しさからして憂さ晴らしにしかなってはいなかった。
「あー、ウッゼェ、尋問も調べ物もジェイドの仕事じゃん。なんでジェイドが居ないワケ? お前等の所為だよ!!」
オゲェッと汚らしい声があがる。ディスプレイを注視する事でなるべくフロイドの行為を意識しないよう努めていたイデアだが、電子機器が沢山ある部屋で吐かれたり失禁されたりしたら最悪だと思って、自身の部屋の諸々に防水魔法をかけた。
 イデアにとしては、苛立つフロイドと同じ部屋に居るだけでも物凄いストレスだった。

 イデアは、フロイドか自身のブロットが濁る前にアズールが助け舟を寄越してくれる事を祈っていた。同時に、全体指揮と監督生の演技指導と寮生の治療を平行して処理するアズールの多忙ぶりを鑑みて、無理であろう事も悟っていた。
 そんなイデアの苦悩を見通しているかのようなタイミングで、アズールがイデア宛にメッセージを寄越した。
『休憩を兼ねて監督生さんを向かわせます。彼女に資料を持たせておくので眼を通しておいて下さい』
「いや、今メチャクチャ散らかってんですが?」
イデアが背後を振り返ると、丁度フロイドが内通者の頭を踏み付けているところだった。


 かくして、イデアの自室に監督生が投入された。
 監督生は、差し入れとしてマカロンを持たされていた。本来はモストロ・ラウンジで提供される筈だったが、臨時休業の為に廃棄期限内に提供し切れない分が出来てしまったようだった。廃棄するくらいなら各々の腹に入れてしまえという打算と気遣いである。
 加えて監督生は、自身の小遣いでポテトチップスとドクターペッパーを持ち込んでいた。どちらも、イデアが監督生の前で好きだと言った覚えのある物だった。
「神では?」
「相変わらず大袈裟ですね」
監督生は、イデアの横に腰掛けた。彼等の背後では、フロイドが延長コードで内通者を縛り上げている。差し入れに興味が移ったらしい彼は、放置しても内通者が逃げ出さないよう屈腕屈脚で固定していた。フロイドが四本のコードを犠牲にした事を横目に確認したイデアだが、アズールに請求しようと決めて言及を避けた。
「いや本当。丁度塩気が欲しかったとこっすわ」
監督生が、ポテトチップスの袋を開けた。真っ先に手を伸ばしたのはフロイドだった。イデアは、フロイドの拳の皮が殴り過ぎて剥けているのを視認したが、見なかった事にした。
「前に先輩が言ってた山椒レモンのフレーバーですよ。限定って聞いて気になってたんです」
陰惨なまでに鋭いフロイドの歯が、厚切りのチップスを小気味良く噛み砕く。爽やかなレモンと山椒の香りが、部屋に広がった。血と暴力の匂いを覆い隠すように。
 監督生がフロイドの蛮行に一切言及しないので、イデアも全力でスルーする方針に舵を切る。そう試みたが、やはり無理だった。
「……その、監督生氏って、ああいうの平気なタチでござった!?」
イデアが、縛られて玩具の犬のような体勢で転がる内通者を指差した。イデアにとって、監督生はお人好しで面倒見が良い少女だった。顔面が崩壊するまで殴られた挙句縛られている男を肴にスナックを貪るなど、解釈違いも甚だしかったのだ。
「あー……正直苦手ですよ。でも協力した以上は私も共犯なので、彼に同情するのは違うと思って」
監督生が、漸く素直に内通者の方を見た。不規則な吐息が存在を嫌に主張するそれは、目に付かないようにする方が難しかった。
「ビックリした……拙者とフロイド氏にしか見えてない感じかと思った……」

 イデアと監督生は、改めて内通者を見遣った。
 内通者は、縛られているだけでなく、歯が既に何本か折れていた。腫れ上がった瞼に覆われた眼は、瞳の色を確認する事も難しい。人相という概念を暴力で念入りに擦り潰され、寮長の方針に倣って美白を意識していたであろう膚は埃と血と痣でくすんでいる。長いプラチナブロンドの髪は、引っ掴まれて引き摺り回される為のハンドルの役割を果たすだけになっていた。凄惨と称するに足る様態である。
「でも大丈夫です。すぐに慣れます。こういうのだって、覚悟の内なので」
監督生は、意識的に内通者を睨んだ。彼女は人魚達に手を貸すと決めた時から、ある程度の悪徳に加担する覚悟も決めていた。潜入に失敗したら、自分とて眼前の生徒と同じ目に遭うだろうと想定していた。こうしている間にも、ジェイドが彼より惨い扱いを受けていない保証も無いのだ。
「そうでござろうか。やっぱやめたら? 君、優し過ぎるもの」
アズールやフロイドとの約束を反故にするのは恐ろしいが、それも何とかしてみせようとイデアは勇気を振り絞った。けれど、監督生は首を振る。
「別にどうしても君がやらなきゃ駄目って訳じゃない。魔力の無いヒトなんて、学園の外を探せばわんさか居るだろ。それこそ生徒の親類にだって。アズール氏なら君の代役をすぐに探せる」
そうかも知れませんね、と監督生。フロイドは進行中の計画を崩しかねないイデアの発言に苛立った目を向けたものの、黙って聞いていた。監督生に考えを改める素振りが一切無かったからだ。
「大体、君がジェイド氏に感じてる恩義だって、氏にしてみれば業務の範疇ですぞ」
「そうだと思います。でも恩とか優しさとかじゃなくて、単に私がそうしたいんです」
その頑なさに、イデアは胸が苦しくなるような苛立ちを覚えた。イデアには、他人の為に身を切る者の精神を理解しきれない。監督生のお人好しぶりならあるいはと解釈してはいたが、こうも説得しているイデアを蔑ろにしてまで困苦の道を進む合理的な理由は無い筈だった。
 人が合理を欠く理由に幾つか思い当たったイデアは、最も実現して欲しくない可能性を挙げた。
「……何、君、ジェイド氏が好きなの?」
口に出すと、苛立ちは一層強まった。ロマンチズムへの侮蔑が、女という未知の生き物への忌避感と混線して、憎悪に近い感傷を生んだ。頭の片隅の嫌に残る理性的な部分が、己の醜悪な感情を俯瞰してこれは嫉妬だと警鐘を鳴らす。
「やめときなよ。アレが君に優しいのは好奇心か、君が従業員で敵対する理由も無いからだ。下手に近付くと痛い目見るぞ。腹黒いし、自分が面白けりゃ何だってやるタイプだ。生徒の裏アカウントとか知ってるし、人の秘密を掌握して笑ってるタチだ」
他人の事なんてプレパラートに挟んだ標本くらいにしか思ってない男だと、イデアは一口に言い切った。背後に居るその片割れに注意を払う事を忘れて、あの男に心の柔い部分まで晒す愚かさを説いた。
 監督生は、眼を瞬たかせてイデアの事を見ていた。彼の炎のように揺れる青い髪は、焦燥につられて不安定に爆ぜ、時折赤い火の粉を飛ばしている。
「別に、恋愛感情の好きって訳じゃないんです。というか、ジェイド先輩から彼女居るって聞いてたので、そういう風に見た事も無かったです」
ラウンジの休憩時間に女物のアクセサリーのカタログを開いて、贈り物を選ぶ為の意見を訊かれた事もあると監督生は報告した。
「そ、そうなの、いや全然興味無いですけど? や、興味無いってのはジェイド氏の事であって、アレッこれ別に弁明の必要無いヤツでは? 何でこんなペラペラ喋ってんだろ僕、死にたい。死にます」
フロイドは横目でイデアの展開しているコンピュータのディスプレイを見た。イデアは、内通者の家族だけでなく友人まで調べ上げ、詳細なプロフィールとユニーク魔法に加えて、彼等のマジカメの裏アカウントまで突き止めていた。ジェイドに近付けば痛い目を見ると説いたイデアだが、このデジタル時代において身辺調査の精度と凶悪さなら彼の方が俄然厄介だ。そも、他人をどうとも思っていないのはイデアとて同じであろうに。悋気は簡単に人にダブルスタンダードを許す。
 いつもにも増して変なホタルイカ先輩、とフロイドは内通者の上に座った。イデア自身、己のエラーに辟易していた。

 監督生は神妙な顔を作って、グリムにすら言っていなかった動機をイデアに打ち明けた。
「イデアさんの言葉を借りるなら、ジェイド先輩は私の推しなんです」
「推し」
間抜けな顔で復唱するイデアに、監督生が頷く。好きではあるが、友愛やその類のものだと監督生は述べた。
「たまにジェイド先輩の恋愛相談に乗るんです。彼女さんの事を話すジェイド先輩って、可愛いんです。あのオクタヴィネルの、あの副寮長が、ただの十七の男の子になるんです」
推せるでしょう、と監督生が同意を求めるが、頷いたのはフロイドだけだった。
 監督生は、見ず知らずの世界に放り込まれて、時に住居を奪われかけ、時に雑用を押し付けられ、危険を伴う事件の解決に駆り出される生活を強いられて生きてきた。学園長の庇護下に納まってはいるものの、その庇護の見返りを常に要求され続けている。ナイトレイブンカレッジとは、そういった搾取体質と利己主義の煮凝りであり、対価を払えない者にはとことん厳しかった。そんなカレッジで、よりによって対価至上主義を掲げる寮長の統べる寮で、無償の愛なる感情を持っている者は眩しかった。物騒で陰惨で、気が乗らなければ手前の命がかかっていようがお構いなしに破滅へ舵を切る事ができる男が、利潤とは無関係に大切にしている他人がいる。その事実が、監督生には尊く映った。
 冷たい印象の男の双眸が幸せと慈愛で緩む瞬間、監督生は希望を分け与えられているような気になるのだ。
「いや、分かんないっすわ。拙者、リア充は滅ぶべきと思っとりますので」
イデアは、彼女が他人の為に動く事を不服に思いながらも、その性質を尊んでいた。彼女は、カレッジでは極めて珍しくも、努力だの情だのを尊ぶ人好しだった。けれどイデアが好いたのは、そういう女だった。
「……でも、推しの為に動きたいのは分かりますわ。拙者もそういうタチなんで」
推さずして何が推しか。そう自身に言い聞かせたイデアは、監督生に譲歩の姿勢を見せた。ジェイドが安牌だと分かって安堵した分、気が大きくなっていた。

 イデアの視線を受け、監督生は場違いに幼い照れた顔で明かす。
「あと、頼られたのが嬉しかったって言ったら呆れますか」
とんでもないバグを内包したまま、イデアの口が勝手に返事をする。彼女が人並の欲と残酷さを持ち合わせた生身の人間である事が妙に嬉しかった。
「呆れるよ。だけどやっぱり、僕が君に手を貸すのだって同じ理由だ」
「ふふ、良かった」
ああ、この笑顔は推せるな、と思いながらイデアは協力の意思を固めた。


 イデアとフロイドは、マカロンとポテトチップスを交互に口に運びながら監督生が持って来た資料を捲る。
 その間、監督生はイデアのタブレットを借りて下手人や内通者のプロフィールを参照していた。
「衣装とか化粧もアズール氏の監修?」
「はい。今、アズール先輩に老け薬を調合してもらってるんですけど、それが完成したら衣装合わせにラウンジに戻るよう言われてます」
資料にも書いてあった事だが、監督生はイデアの遠縁の親戚を名乗る婦人という設定が誂えられているらしい。本当にイデアの親戚と信じてもらえるかは然して重要ではなく、そう名乗って「イデアから盗んだ技術を科学派に売り込みに来た」という筋で主宰との接触を図るつもりなのだ。
 実のところ、イデアは魔導工学の寵児として科学派から声をかけられた経験もあった。呪われたシュラウドという家系や、人外めいた燃える頭髪が好ましくない所為か煩く勧誘された事は無いが、イデアの技術力は喉から手が出るほど欲しいに違いない。
「流石にデビュタントでそんなアングラなオークションなんて行かんでしょうからなぁ。じゃ、なんかテキトーにソレっぽいデータ作っときまつ。悪用されると面倒だから、ちゃんと破綻してるヤツ」
またベント限定衣装衣装が来ちゃった、とイデアは心の片隅で思った。けれどいざ真剣な本人を前にすると、浮かれた心情よりは心配が格段に勝る。イデアは頭の中で、自身に出来得る最大限の支援方法をリスト化していた。
「骨伝導? とかでコッソリ指示聞ける感じの装置作れねえ?」
粗方の資料を読み終えたフロイドが、イデアに要望を出す。普段なら余裕で可能だろうが何やかんやとごねるイデアも、今日は二つ返事である。
「ありますぞ、指輪型のが」
マジか、とフロイドが目を剥いた。スパイにでもなる気だった? という揶揄は有用性に免じて飲み下された。その代わり、マカロンがまた一つフロイドの腹に消えた。

 イデアが対人への苦手意識を発揮しなければ、彼とフロイドは天才同士で波長が合った。
 二人のレスポンスは、飛び石状に進んでいく。すっかり置き去りにされた監督生は、黙ってポテトチップスを啄ばみながらイデアの調べた情報を読み込んだ。実際に最前線で科学派と接触するのは彼女なので、予備知識は可能な限り頭に入れておけとアズールに再三言われていたからだ。
 

 放置された時間が長かったからか、内通者が掠れた声で呻いた。
「魂の無い人魚の分際で……呪われた男と組んだところで何ができる……薄気味悪い……」
フロイドと物理的な距離ができて気が緩んだ所為なのか、殴られ過ぎて既に頭の螺子が外れているのか、彼は嘲りを露わにした。折角の差し入れで機嫌が戻りかけていたフロイドが、すっかり瞳孔を開いて獰猛な顔に戻る。
 案の定、フロイドは「そんなに死にてぇならそう言えよ」と唸るが早いか長い脚が撓らせた。ギュエッと男子の声帯から捻り出されたとは思い難い悲鳴をあげて、男子生徒がのたうつ。
 イデアは咄嗟に監督生の様子を窺ったが、彼女は宣言通り、唇を噛んで蛮行から目を逸らすまいとしていた。
「……先輩、この学園の生徒は闇の鏡に魂の資質を判別するんでしたよね。それって彼等に魂がある事の証明にはならないんですか」
「さあ。理屈に価値を置かない人には証明って無力だよ」
今の科学派に科学の素養は無いと、イデアは侮蔑の篭った眼を向けた。イデアは論理的ではない理屈を振りかざす者の中でも、根性論を押し付ける体育教師の次くらいには偏見で語る差別主義者達を忌んでいた。
「そう、みたいですね」
監督生の瞳は、暗い侮蔑の色を湛えていた。イデアにとっては、初めて見る類の表情だった。けれどイデアは暢気にも、この少女は優しくない顔もできたのかと場違いな感嘆を覚えていた。

 フロイドに頭を鷲掴まれて床に幾度も頭を叩き付けられる内通者を視界の隅に納めたまま、イデアはポテトチップスを食んだ。監督生もそれに倣って口にマカロンを放り込んでみたが、口内が嫌に乾いて不快さが募るだけだった。
「イデア先輩。私、本当に優し過ぎたりしないし、良い子なんかじゃないんです」
「そうなの?」
フロイドが、内通者に床に付いていた鼻血を舐め取らせる。確かに良い子はこんな光景を黙って見てはいないだろうという納得と、この男に比べたら大抵の者は良い子に違いないという体感的な不納得がイデアの中で両立していた。
「まあ、君が言うならそうなんでござろうな」
そうなんです、と監督生。
 いつかは彼女に清純であれと思ったイデアだが、監督生が良い子である事を選ばないならそれでも良しという気分であった。監督生が偶像足り得る少女像とは遠く離れていたとしても、不思議とイデアは彼女に対する態度を変えようとは思えなかったのだ。
「まだアズール先輩に話してないんですけど、私の提案も聞いてくれます?」
監督生は、漸く決心が固まったばかりという顔をしていた。天才二人の遣り取りの後では、心底言いづらかったのだろう。硬い表情のまま、どうか馬鹿にしないで聞いてくださいと念を押してくるので、イデアは神妙な顔を作って頷いた。
「イデア先輩って、召喚術がお得意でしたよね」
「ウン」
「ええ、先生もオルト君も、先輩が一番上手くできるっておっしゃってましたもの。召喚術の実技テストも、見事だと聞いてます」
監督生は、轆轤でも回すような動作をつけて喋った。どうして人は不慣れな事を一生懸命に喋る時には手遊びが激しくなるのだろうかと思いながら、イデアはドクターペッパーを呷った。
「その、先輩が私の魂に首輪を付けることって可能ですか?」
「ゴポッオゲッ、ひ、げほっ、ど、どどうして!?」
イデアはドクターペッパーを噴き出した。変に喋ろうとして、却って滅茶苦茶に噎せた。監督生にかからないよう咄嗟にそっぽを向いたが、床に茶褐色の液体が勢いよく散っていった。
「ウワッきったね」
内通者の指を一本一本折っていたフロイドも、流石に顔を上げて飛び退いた。部屋の諸々に防水魔法がかられていたのが幸いして床以外に被害は無いが、酷い絵面である。
 だがイデアはそれどころではなかった。
「き、君、自分が何言ってんのか分かってる!?」
「す、すみません、流石に犯罪行為は嫌ですよね」
「そうじゃないでしょ、何で急に捨て身になるの」
犯罪行為といえば、情報収集の段階で不正アクセス三昧のイデアには今更であった。けれど、監督生の身を害する行為を進んでできるかと言えば別だ。
 まして、監督生は実際に一度その屈辱を体験していた。ジェイドもその苦役を味わっているかもしれないという動機から、人魚達に協力したのではなかったか。
「捨て身って訳じゃ……うぅ」
イデアに詰られた監督生が、少し弱気になった。
「小エビちゃんさ、無茶な操作されて全身骨折したホビット見た事ある? 自分から使い魔になるのはヒトのやることじゃねーよ」
フロイドまでもが監督生を宥めにかかった。
「イ、イデア先輩はそんな事しないもの」
「全裸のニンフが公衆便所で飼われてたニュース知らねーの?」
「先輩はそんな事しないったら!」
しませんよね!? と同意を求められてイデアは壊れた玩具のように首を何度も上下させた。
「しません、しませんけども! しようと思えばできちゃうってのが問題でしょ、分かってよ」
イデアに肩を揺すられて、監督生は困った顔をした。実際に困った事を言っているのは監督生の方なのだから、始末が悪い。
 どうにか自身の提案を続けようと、監督生はできる限り穏やかな声を出した。
「それこそ今更ですよ。フロイド先輩もイデア先輩も、しようと思えば魔法なんて使わなくても私くらい好きに出来るでしょう」
監督生が、視線で内通者を示した。捕獲に多少の魔法を必要としたが、痛めつけるのに使ったのはフロイドの腕力と脚力だけだった。相手が監督生であれば、フロイドは捕獲にすら魔法を使わずに済むだろう。実際、彼女は学園の中でも暴力や魔法での加害に晒される事は少なくなかった。友人やグリムと行動を共にしていない時は特に酷い。学園で唯一魔法が使えぬ身だと侮られ、唯一の女子だからと軽んじられる事もあった。
 監督生の肩を掴んでいたイデアが、おずおずと手の力を抜いた。小柄な少女と長身の部類に入るイデアの体格差を改めて意識すると、肩の薄さすら恐ろしくなったからだ。
「でも、先輩方は私に酷い事はしないでしょう。しようと思えばできちゃうけど、しないんです。いつもと一緒でしょう? だからイデア先輩も信用しますし、別に捨て身じゃないです」
フロイドとイデアが顔を見合わせる。
 気紛れと暴力性が異種交配したような亜人種に、監督生は理性を認めた。ピッキングもクラッキングも軽々やってのけるコミュニケーション不全の不審者めいた異端者を、彼女は信用すると言った。眩しいばかりの瞳だった。けれど、悪漢達に扱かれ修羅場に揉まれてきた彼女の言葉だから、無垢な楽天家の妄想と切って捨てる事も難しい。

 彼等は、学園長がこの女を猛獣使い称した理由を漸く悟った。巻き込んだ筈のフロイドもすっかり彼女のペースに巻き込まれていて、イデアは幼子のように眼を瞬かせた。
「先生に使役されて操作されていた時、強い痛みや怪我でも全く動きが鈍らなかったんです。不測の事態を想定するなら、強制的に動かす用意があった方が良いと思いませんか?」
「初手から物騒な想定。君、やっぱジェイド氏に毒されてるんじゃないの」
授業の直後は悪趣味な仕打ちだとむくれていた彼女だが、その経験すらとうに手前の糧にできないかと検討を終えていた。その立ち上がりの速さと強かさに、イデアは驚きを隠せなかった。けれど、監督生が偶像足り得る少女像とは遠く離れた姿であっても、イデアは彼女を突き放す事を選択肢に入れられはしなかった。そして、イデアの倫理を置き去りにするのに何ら抵抗の無い合理主義の面が、彼女のアイデアに賛同の意志を見せていた。
「……ま、緊急時の手段は用意すべきですわな」
監督生の固い遂行の意思とイデアへの多大な信頼の詰まった瞳につられて、イデアも腹を括った。
 改めて、共犯の二文字がイデアの胸に落ちてくる。推しだとか、理想の押し付けで片付けられる感情の範疇は、とうに超えているように思えた。その自覚を今更になって思い知る。
 魂に首輪なるものを付けたところで、この女には一生敵うまいと思った。

.

 古くは科学派の聖地として知られた輝石の国の旧市街地に、監督生達を乗せた馬車が到着したのは日暮れも間近という時刻だった。
 嘗ては聖地であり、もう少し昔はその歴史を利用した観光地になりかけていたが、今は寂れた町並みであった。等間隔に並んだ街灯に挟まれた石畳の上を、馬車は車輪をガタゴト鳴らしながら減速して、鈍重に停車した。

 アペルピシアに侵された生徒以外の動けるジェイド救出要員が全員馬車に詰め込まれた為、車中は優美な外装に反して満員電車にも勝るとも劣らぬ劣悪ぶりであった。アズールが有事に備えて空間拡張魔法に割く魔力を温存したのが一番の要因である。ここに来るまで、イデアは数度「資源をケチって士気を下げるなど愚の骨頂」だのと喚き、その度にフロイドに舌打ちされたりグリムに叩かれたりしていた。魔法は使わなくてもストレスでブロットが溜まる方が早いのでは、とは誰も言い出さなかったが恐らくは誰もが思うところだった。
 そんな過積載の馬車を牽くのは、モストロ・ラウンジの食材搬入用に飼育しているペガサスだ。外見は翼のある馬として乙女達も夢見る生き物ではあるが、荷を引く事に特化した血統のそれは乗馬用の馬より横に大きくずんぐりとしていた。モストロ・ラウンジでは、空と陸はペガサスに荷を運ばせ、オクタヴィネル寮内の海はケルピーなる水馬に切り替えて輸送するのが常なのだ。
 今回は、学園長の許可の取れそうにない外出の為に闇の鏡を使えず、かといって人魚やイデアに箒で遠出する技術も無く、ラウンジのペガサスを駆り出した次第であった。人間の輸送に荷馬車では怪しまれると踏んで、馬車はラウンジにあった南瓜にアズールが魔法をかけて四輪のキャリッジに仕立てていた。
 監督生にはよく分からない事情だが、馬車に変えるなら南瓜が適当であるというのが魔法士の常識であるらしい。とはいえ、魔法で変化させた物の姿は永続しない。馬車の中で最後の打ち合わせを行う彼等に、ゆっくり息を吐ける余裕は無かった。

 停車した馬車の中で、アズールが早口に切り出す。アペルピシアに侵された人魚はラウンジで待機していたが、通信機越しに息を呑んで耳を傾けた。
「では最終確認です。通信での発言は此方から、監督生さんは返事のみ。肯定なら指輪に付いた石を一度叩き、否定なら二度、緊急事態なら三度」
監督生は頷いて、左手薬指に付けた指輪型の通信機を一度叩いて見せた。

 老け薬を服用した彼女は、三十路ほどの外見年齢で、リーベラと名乗らされていた。
 化粧は普段の必要最低限のものではなく、アズールが私費で揃えた。偏光パールの青が美しいアイシャドウは、共犯の魔法士達の加護が込められていた。
 髪は緩く巻いてから纏められ、漆黒の夜会服によく映えた。マーメイドラインの縫製は、オークション関係者に対する人魚達からのささやかな皮肉である。
「オークションでジェイドが出た場合は?」
「アペルピシアを操る術者を探しつつ、先輩を競り落とします。商品引取りの際に、此方にも売り込みたい商品があると交渉。人が捌けたタイミングで合図。別班の突入を待ちます」
別班とは二種あった。一つは、脅迫と交渉で納められそうな場合の為のアズール。もう一つは、武力交渉が必要と判断された場合の為のフロイド率いるモストロ・ラウンジの武闘派従業員達。このどちらが必要か判断するのは、監督生の仕事ではない。
 監督生の仕事は、敵陣の様子を出来る限り探って伝える事と、ジェイドの居場所を割り出す事であった。監督生の見聞きした情報はイデアが受け取り、彼がリアルタイムで関係者達を調べ上げては交渉あるいは脅迫のネタを探す。そしてその情報を共有したアズールが詳細な方針を定めるという分担だった。
「よろしい。ではジェイドが出品されなかった場合は?」
「ジェイド先輩を落札し損ねた場合と同じ動きをします。オークション閉会後、主宰に挨拶。売り込みたい商品があると交渉し、人が捌けたタイミングで合図。別班の突入を待ちます」
直立不動で受け答える監督生は、優美なドレスを着ているにも関わらず軍隊のような風情があった。アズールに所作を監督される中で、教官と一兵卒の関係が構築されていたのだ。グリムも、アズールが喋っているときは踵を揃えた直立体勢のまま口を閉ざしている。フェアリーガラでレオナがヴィルに扱かれていた時とどちらがマシかと思う具合であった。
「アペルピシアを植えた男の人相は?」
「丸眼鏡で、白いカイゼル髭の四十代男性。白髪で猫背がち。四角っぽい輪郭、奥二重のアーモンド型の目で、虹彩は灰緑。左耳朶に黒子。右手に火傷」
「もう結構。アペルピシアに呪いを仕込んだと思われる術者は?」
「ジョセフ・ジェイコブ。茶髪の四十三歳、男性。垂れ眼で、面長の顔」
監督生は彼をイデアとプレイしたゲームに登場する大司教に似ていると記憶していたが、アズールには伝わらないのでどうにか顔面の特徴を一つ一つ絞り出した。
 この後も、内通したと思われる学生達の特徴や、関わりがあるであろう人物について、アズールは監督生の記憶を確認した。フロイドは「こんなトコ来てる奴全員絞めてやりゃいーじゃん」と首を鳴らしていた。実質、それが最終手段になる覚悟と用意はあった。
「では、あなたが人魚の為に潜入した者だとばれたら?」
「指輪に付いた石を三度叩き、撤退して別班に任せます」
滑らかに諳んじられた計画に、アズールが厳かに頷いた。
 いよいよ、監督生が馬車から送り出される。
「しっかりやってくるんだゾ」
グリムが監督生に手を振った。通信機越しにラウンジから遠隔で様子を窺っている人魚達も、彼女に激励の言葉を寄越した。
「では、リーベラ婦人。お気をつけて」


 監督生を見送った車中の一同は、引き続きアズールの指揮で最終確認を行ってから持ち場に付く。
 フロイド率いるモストロ・ラウンジの武闘派従業員達は、マジカルペンと獲物を懐に隠し持ちつつオークションが行われる建物が視界に入る場所に散った。
 最後まで馬車に残ったのは、グリムとイデアとアズールだ。魔獣の姿はこの地では目立つので、グリムはアズールの鞄に入って移動する予定であった。
 イデアの方は、馬車から降りる前に変身薬を飲まねばならなかった。イデアの青く燃える長髪は魔獣よりも目立つ上に、科学に傾倒する者なら誰が見てもかのイデア・シュラウドだと分かってしまうからだ。
「ヴェ、まっず」
変身薬を呷ったイデアの容姿が、成長を早送りするように変形していった。違和感はあるが、耐えられない激痛は無く、薬の質が良いのは明らかだった。
 イデアの鷲鼻気味の尖った印象の顔は、鼻筋の太い鰓の張った男らしいものに変った。青い髪は闇夜のような黒に、痩せぎすの身は骨太で筋肉が張り詰めた血色の良いものに変った。これでは誰もイデアと判るまい。

 その実、この容姿はオクタヴィネル生の中から、人魚や獣人ではなく確実に事案とも関わりが無いであろう生徒から姿を拝借したものだった。
「それにしても変身薬って違法でござろう。何でホイホイ用意できちゃうかな」
全くの別人に姿を変えるのは、国際法で固く禁じられた行為だ。殊に、誰かに成り済ますのは罪が重かった。砂漠にグレートセブンが居た時代、乞食の男が王子に成り代わって砂漠の国の姫を誑かす事で国を乗っ取りかけた事件があったからだ。どのエレメンタリースクールも魔法史で必ず扱う大犯罪だ。
 イデアは、そんな危うい事が出来る変身薬を当然のような顔で用意していたアズールに若干引いていた。
 アズールの説明では、人魚は魚の種によっては性転換したり体色が変わったりする事もあるので、そういった薬にも明るい一族がいるらしい。一体どのような取引で彼が薬を手にしたかまではイデアも聞かなかったが、こういったヒトには無い事情と能力は確かに人魚達を不気味たらしめていた。亜人種を迫害したがる者の根底にあるのは、自身とは異なる者への畏怖なのだ。
 もっとも、イデアは人魚を恐ろしいと思った事はなかった。恐ろしがるべきなのは、アズールという個人だとしかと弁えていた。
 そのアズールにしてみれば、イデアとて恐るべき男であった。
「人間の魂に首輪を付けるのも違法ですよ」
違法はお互い様なので、触法行為という「弱み」は互いには黙したまま墓場まで持って行く事で相殺しようとどちらともなく取り決めた。グリムは図らずも二寮の寮長の秘密を握った訳だが、この獣の意識はオークション会場の監督生にしか注がれていなかった。
「まあ、監督生さんに速やかな撤退の手段があるのは理想的ではありますが」
アズールが、イデアの使い魔となった監督生の判断を褒めた。この男も、目的の為には手段を選ばぬ性質であったからだ。


 アズールは、変身薬を飲んだイデアの様子が安定した事を確認した後、鞄にグリムを隠して馬車を出た。イデアもそれに続く。
 積載物が無くなった馬車は、瞬く間にただの南瓜に戻った。それも鞄に押し込んで、アズールはペガサスを空に放った。あれはモストロ・ラウンジの所有物であり、その支配人たるアズールの使い魔なので、必要になればまた喚べるのだ。
 身軽になったイデアとアズールは、オークション会場と離れ過ぎてはいない宿を探して部屋を借りた。明らかに血縁ではなさそうな男二人が相部屋を希望した所為でカップルかと誤解を受けたのか、二人はシングルベッドの部屋に通されたが、他人の姿を借りているイデアにはどうでもいい事だった。

 部屋を借りたのは、手っ取り早く人目を避ける手段が欲しかったのと、電子機器を展開させたり召喚陣を敷設したりする空間が欲しかったからだ。
「グリムさんは外の様子に耳を澄ませていてください。従業員が来た場合は、扉を開けずにあしらうように」
部屋に着くなり鞄から這い出したグリムに、アズールが指示をする。
 グリムは武力交渉に備えて屋外待機する方が性に合ってはいたが、部屋に篭って作業せねばならない仕様上無防備になりがちな頭脳担当には見張り役が必要だと、獣の聴力をあてにされていたのだ。もっとも、ヒト属中心主義の蔓延る土地で魔獣が外をふらついては居られないので、アズールの目の届く範囲に居させたいという危機管理も兼ねてはいたが。

 イデアはアズールにコンピュータの設営を任せて、予め召喚陣を描いておいた紙を床に広げた。
 召喚陣の一部を自身の血で上書きし、触媒をセッティングする。陣の図柄自体は、監督生が召喚術の授業で潜らされたものと殆ど同じ図柄だった。彼はオルトが記録した授業の映像から、教員が描いた陣と詠唱の様子を確かめ、自身が扱い易いように多少の手を加えてカスタムしていた。具体的には、より被召喚者への負担が少なく、かつ召喚にかかる時間を短くなるような調整をしていた。血や触媒の用意は、召喚時にイデアが消費する魔力のコストを抑える為の細工でもある。
 彼女がオークション会場で危機に瀕した場合、イデアがこの陣を指定して監督生を召喚する事で、会場から宿屋へと彼女を一瞬で移せるという寸法なのだ。空間移転魔法は高等過ぎる上に、遠くに居る他人に作用させるとなれば聞いた事すらない所業だが、召喚という形ならば彼女の現在地を問わず確実にワープがさせる事ができる。これが、監督生がイデアの使い魔になる利点の一つ目だった。

 イデアとアズールは、ほぼ同時に設営を終え、コンピュータの前に座った。
 コンピュータの画面には、オークション会場が映っていた。流石に会場でドローンは飛ばせないので、イデアは監督生の眼を借りて投影していた。これが監督生がイデアの使い魔になる利点の二つ目であった。オクタヴィネルが崇めるかの海の魔女は、僕としていた二匹のウツボと視界を共有できた。イデアはそれと同じ事をしているのだ。もっとも、それを映像として投影して第三者にも共有している分、海の魔女よりも気軽なものではなかった。
 前線に立たないイデアだが、監督生に色々と細工を施した事で、魔力の消費を強いられ続けている。常時体力と魔力が消耗している。その所為か、モストロ・ラウンジでも自室でも食べてきた筈のイデアは、無性に空腹感を覚えていた。
 講義の片手間に黒板とチョークだけで人間を召喚した上でけろりとしている教員の所業は、天才の肩書きを持つイデアからしてもハードルが高い行為であった。

 アズールは、監督生が会場に何事もなく潜り込んだのを確認して、通信を入れる。
「こちら通信本部兼指令部隊、設営が完了しました。監督生さんの緊急退避用の召喚陣も整いました」
通信本部からの連絡は、モストロラウンジの待機班と、フロイドと監督生の三箇所に届く。
『こちらモストロ・ラウンジ、万全です』
肉声での返事ができるのは、ラウンジのみだ。残る二箇所からの返答は、言語ではなく小さなカツンという音で伝わった。通信用の指輪型装置を叩く音だ。どちらも現状では問題無く持ち場に付けたようである。
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