推しの推しが巻き込まれた事件に巻き込まれた件

 イデア・シュラウドに人間の推しができた。
 次元ではなく、学年が二つ下の少女。それもアイドルではなく、同じ学園に在籍する女生徒だった。
 ナイトレイブンカレッジは魔法士を養成する男子校である、という大前提を大きく覆した魔法を使えない生徒。個性が殴り合う個人主義の煮凝りじみた学園の悶着をどうにか調整する為に放り込まれた学園長の小間使い。異端児と名高いオンボロ寮の監督生が、イデアのお気に入りだった。

 学園で唯一の女子で唯一魔法が使えない身分で、なのに毎度お約束的に騒動の中心に居て、可愛いモフモフの魔獣とワンセット扱い。そんな彼女に対するイデアの第一印象は「逆ハーか? リアルにその設定はイタいっていうか人生ハードモード過ぎでは?」だった。今でもこの娘の人生ハード過ぎでは? という憐憫は健在だが、実際に授業や雑務で接触するにつれ友人と称される関係になる頃には、すっかりファンになっていた。
 次々と舞い込むトラブルに駆り出される彼女を、冒険活劇のヒロインを見るような気持ちで応援していた。
 常時フルボイス。ついでに会えるし会いに来る。生きているだけで新規絵が更新される供給過多に若干の胃もたれすら感じるが、慣れると手厚過ぎて他のコンテンツでは満たされなくなる。監督生氏しか勝たん。
 何故なら、彼女はかなりイデアに優しかった。というか、彼女は敵対する相手でもなければ誰にでも概ね優しかった。お人好しで面倒見が良い性格なのだ。自意識過剰に被害妄想増し増しの自我肥大したオタクにもその性質が発揮されたという話に過ぎない気もするが、一貫性がある事はアナログな事象にも規則性を求めるイデアを大いに安心させた。
 彼女は、タブレット越しだろうが生身で対面しようが、イデアが縺れる舌を懸命に動かしている間も決して遮らずに傾聴してくれる。ゲームの腕はお粗末だが、イデアの中二病を悪趣味とは言わない。オルトのメンテナンスにも手を貸してくれる。三頭犬や魔導工学を格好良いと眼を輝かせてくれる。イデアの実家については何も聞かないし、燃えている髪について美しさを見出す事はあれど、気味悪がった試しは無かった。いつもイデアに、春の木漏れ日のような笑みを向けてくれる。
 要は、イデアの中では可愛い後輩への庇護欲と女の子への下心が既に悪魔合体していたのである。


 イグニハイド寮の自室で、イデアはモニターに映る監督生がくるくると動く様を凝視していた。
 普段なら既卒生の遺失物であろうサイズの合っていない男物の制服に身を包んでいる彼女は、モストロ・ラウンジのスタッフとしてユニフォームに身を包んでいた。万年金欠の彼女は、モストロ・ラウンジの労働力である。ただしこの日は、オクタヴィネルの黒を基調とした寮服ではなく、モストロ・ラウンジのロゴの入ったスッタッフティーシャツに、スポーティーなサンバイザー、生脚魅惑のハーフパンツという装いだった。イベントの為に、オクタヴィネル寮生及び従業員達は屋外営業に駆り出されているのである。いわばイベント限定衣装だった。
 別に服装自体はユニセックスであり他の従業員と変わりなかったが、サイズの合っている服を着ているだけで彼女の印象は随分と変る。その上、十リットル分の飲料が入ったタンクを背負っている所為で、脇が圧迫される形で胸が強調されていた。一応、イデアはこの服装に関して雇用者兼企画者のアズールに苦言を呈した事があった。けれどあの利益重視の男は「貴方があのユニフォームをどのように不適切と感じたのか監督生さんにお伝えした上で決めましょう」と言い出したので、前言を撤回せざるを得なかった。あのオタクそういう目で見てんの? キモッなんて思われたらイデアは死んでしまう。
 イデアは数秒の葛藤の後、彼女の周りを浮遊するライターの火のような小型極まるドローンを操作し、飛び切りの角度から静止画像を一枚撮った。SSRに相応しいグラフィックである。
 
 盗撮ではない、とイデアは思っている。
 監督生の周囲にイデアの製作した超小型ドローンが浮いている事は彼女も承知だったので。その上、彼女の横に居るオルトの視覚情報をイデアがリアルタイムで観測できる事は、オルトの性能を知る者なら皆知っていたので。
「兄さんも来ればよかったのに」
オルトは監督生に話しかけたが、その実、オルトの感覚機器を通して聞いているであろうイデアを誘っていた。
「そうね。イデア先輩が一番詳しいでしょうし。先輩が居てくれたら、私もオルト君ももっと楽しくなると思うわ」
監督生も、オルトの弟心が為す魂胆を承知の上で返事をする。
 サイドストリートとコロシアムの観客席には出店がずらりと並び、出店のテントとテントの間にはガーランドや万国旗が下げられている。出店の殆どはモストロ・ラウンジからの出店だが、よく見ればサイエンス部やイグニハイドの一部が運営するテントや、一般企業と思しきブースもあった。マジフト大会を思わせるお祭りムードだ。イデアには苦手な空気である。イデアはタブレットから、オルトに「無理」とだけ綴ったメッセージを送信した。
 ドローンにもスピーカーは付けているが、イデアは今のところこの機能を使うつもりは無かった。イデアにとって監督生は偶像に片脚を突っ込んだ存在なのである。


 そも、イデアが彼女の周囲に堂々とドローンを飛ばせているのは、イデアがコロシアムで行われるイベントの参加者だからであり、この行事の行く末を見届ける責任があったからだ。それを、退屈だの興味が無いだの外に出たくないだのとごねた結果、リモート参戦に落ち着いたのである。
 イデアが参加させられている催しは、ロボコンと呼ばれる自律機械のコンテストだ。
 魔導工学の技術で組み上げたロボットをトーナメント式で戦わせるのだ。
 マジフト大会に比べれば知名度と盛り上がりに欠ける催しではあったる。全寮強制出場という訳でもないので、機械オタク向けのコンテストだと言う者も居る。イデアとて、教員に出席日数の少なさを理由に脅されなければ参加する予定は無かった。

 だが、観客が少ないかと言えば否だ。舞台がコロシアムである事から察せられる通り、ロボットは最小サイズでも人間大だ。ウィッカーマン程もあるロボットを組んでくる者も珍しくはなかった。鉄と鉄がぶつかり合って油や火花を派手に散らす闘いは、やはり男児を引き付ける浪漫があるらしい。「工学には明るくないが、機械同士の破壊劇は見たい」という生徒も観客席には多く集まった。
 そしてやはり、企業やプロの技術者も見に来る。その上、魔導工学と言えばイデア・シュラウドが異端の天才としてナイトレイブンカレッジ内外で名を馳せていたので、今年の客は特に多かった。

 さっさと運営側に回ったアズールは、開催校枠の出店スペースの殆どにモストロ・ラウンジを突っ込んでいた。去年までは裏で賭博も行ったが、今年はイデアの一強にしかならないラインナップの為に開催はされなかった。よって、出店で利益を上げようと主客に力が入っていた。
 その結果、監督生はドリンク販売員として駆り出され、盛り上がるお祭りムードにイデアは益々引き篭もる決意を固めた次第である。
 ロボコンの試合に関しては、製作者不在でもイデアのロボットは勝つだろうし、何かあってもオルトがどうにかするだろう。イデアは「マジフトでマレウス氏が殿堂入りしたみたいに体良く出場権剥奪してくれないかな」と、かなり傲慢かつ消極的なモチベーションで臨んでいた。


 コロシアムの中には、監督生と同じ格好をした従業員が大勢居た。
 色違いのスタッフティーシャツの彼等は、社員教育の徹底振りをうかがわせる完璧な愛想笑いを振りまいている。壁沿いにはホットスナックの販売をしている者もいるが、やはり目立つのはタンクを負って客席を巡回するドリンク販売員達である。
「ルビーベリーひとつ」
監督生に向かって、観客席の男が挙手をする。
「はい、ただいま参ります。六百マドルご用意ください」
監督生はオルトと離れ、観客席に分け入った。彼女は料金を受け取ると、無駄の無い手付きで肩口からノズルを外してプラカップに規定量のジュースを注ぎ入れた。ルビーベリーと称するだけあって、ジュースは本当にルビーのように赤かった。
「大変だねえ、重くない? 君、華奢だよね」
「はい、重いです。満タンだと十四キロあるので」
世間話を求めた男を、イデアは顔認証システムにかける。すると直ぐに彼がこの学園の生徒ではなく、ロイヤルソードアカデミーの生徒である事が分かった。バスケ部の合同練習で本校にもよく出入りしている二年生だ。その間、僅か一秒。
 学外の生徒の情報は完璧ではないが、著名人や部活の合同練習等で頻繁に出入りする顔くらいの情報はインプットされているのだ。特に、ロイヤルソードのボンボンの弱みは積極的に握れと、アズール以外からも依頼があった。彼女に付き纏うイデアの小型ドローンが糾弾されないのは、そういう訳である。
「じゃ、もう一杯分軽くするの手伝おっかな」
バスケ部の隣の男が、注文の体で世間話に便乗する。最初から纏めて頼めよ、と悪態を吐くイデアの舌打ちは彼等に届かない。代わりに彼等の個人情報がイデアに届いた。
「ありがとうございます。六百マドルです」
「どうも。君可愛いね、どこ校の子? モストロ・ラウンジってココの学内カフェだろ?」
ナイトレイブンカレッジは男子校なので、彼等は彼女がここに在籍する生徒だとは夢にも思わない。
「人魚が仕切ってるってマジ?」
「すみません。私は臨時バイトなので詳しい事はちょっと」
特殊な身の上を外部に言い触らさぬよう口止めされているらしい彼女は、当たり障り無い返答で話を切り上げた。

 その後も彼女は、四方八方から声をかけられ、順調にタンクの重量を減らしていた。イデアも順調に、ナンパ男達の恥ずかしい口説き文句の記録を集めた。
 開催場所が男子校である手前、女子の販売員は彼女のみである。その所為か、彼女は異常な頻度で呼ばれていた。
 いや、絶対その所為じゃないでしょ、普通に可愛いからだよ。彼女、拙者の陰キャ仲間だけど、普通に愛想は良いし礼儀正しいしリアルなJKだもの。というか、共学で普段から女の子見てる奴等から見ても可愛いんだからやっぱその衣装マズかったって。せめてハーフパンツの下にレギンス履くとかできなかったの? というイデアの不平は、アズールに届かなかった。


 ロボコンも残りの試合数が半分をきった頃、監督生は既にタンク四つを空にし、バックヤードに訪れていた。
 彼女はバックヤードの最奥に設置された基地で、フロイドに背を向けてタンクを詰め替えてもらっていた。四度目の詰め替えなので、双方とも手慣れたものである。タンク一つにつき十リットル、カップにして二十四杯。平均して十分でそれらを売り捌いていた。販売数では監督生が圧巻のトップ成績である。
「小エビちゃんもバーリィ売りなよ。売上ヤベェことなるよ」
『やめろっ監督生氏に酔っ払いの相手とかさせられる訳ないだろっ』
「ウワッ喋った」
思わず口を挟んでしまったイデアは、動揺でドローンに不可解な動きをさせた。
『ヒィッ公式に口出ししてしまったッ害悪オタクじゃん死にます、いやでも絶対監督生氏にビール売らせるのはダメ、無理、リスクが高過ぎる。モストロ・ラウンジってそういう店なんですか?』
オタク特有の早口で衝動的な反省と批判の言葉を零すイデアだが、フロイドに「そーいう店だよ」とあっさり切って捨てられた。フロイドも監督生もイデアの文法には慣れているのだ。イデアは大人しく、マイクをオフに戻した。

 バーリィは麦のジュース、つまりビールである。無論、倫理的なあれそれに引っ掛かるが、教職員とて世話になっている手前、ジュースの名でゴリ押せていた。監督生が売り捌くルビーベリーのジュースは一杯六百マドルだが、バーリィは一杯千マドル。販売数ではトップの監督生がラギーとジェイドに売上金で抜かれているのは、そういった事情だった。
 しかし、当然、飲酒した人間を相手にしなくてはならないので、後半になるほど接客が厄介になってくる。スラムとサバナクローで治安の悪さに慣れ親しんだラギーや、頭抜けた長身で絡まれづらいジェイドには苦ではなかろうが、監督生には荷が重過ぎる。
「つかホタルイカ先輩さ、暇なら他の販売員も監視してきてよ。カツオノエボシちゃんとかまだ全然詰め替え来てねーの。絶対サボってるよアイツ」
『無理です、拙者今ロボコンで忙しい』
ドローンの多機能性が把握されると面倒だな、と思いながらイデアは返答した。

 嘘吐けオラ、とフロイドがドローン相手にドスの効いた声で凄んだところで、ラギーが詰め替えに来た。
 ラギーは監督生とほぼ同じ格好だが、胸元にはいつものスカーフがあり、背負っているタンクのデザインも違っていた。黄色に白のラインの入ったタンクに、黒のサンセリフ体でBARLEYと書かれている。
 ラギーは、監督生の背負う赤いタンクを一瞥して口を開く。
「監督生君くんもバーリィ売りゃいいじゃないッスか。売上ヤベェことなるッスよ」
「丁度さっきお断りしてたところなんです」

 ラギーは、フロイドがイモナマコくんと呼ぶ小太りの生徒に背を預け、タンクの詰め替えを行った。
 彼は三回目の詰め替えであった。これでラギーはジェイドを抜いて、売上トップに躍り出た。拍手を送る監督生に、ラギーが近況を報告する。
「八杯目のお代わりしてくれた先輩、もうベロベロで小便混ぜても気付かねーだろうなってくらい出来上がってるし最悪」
未成年飲酒の最悪なところは、若さに任せて自己管理のなっていない飲み方をする輩が少なくないところだ。この惨状を目にしていて、よくも監督生を誘ったものだとイデアは頭を抱えた。
「それ去年フロイドがクソ客にやってた。支配人ガチギレ」
イモナマコが品性に欠けた笑い声で明かした。やめておけばいいのに、ラギーもヘラヘラ笑って聞き返す。
「マジ? フロイド君度胸あるッスね」
「マジマジ。めっちゃアズールに怒られた。裏方しかさせてもらえなくなるから稼ぎたいなら止めときなよ」
フロイドは、親指で自身を示してラギーに忠告した。監督生は冗談だと思って笑っているが、イデアは去年のアズールがどれだけ激怒したかを聞いていたので笑えなかった。
「やらねーッスよ、流石に。俺が仕入れも負担してるなら別ッスけど」
異物混入がアドになる立場なら決行すると言わんばかりのラギー。今更ながら、治安が最悪なのである。だが、この土地でビールを売る行為は、その程度のメンタルが無くてはやり通せないという事でもあった。世知辛い適者生存の原理である。


 監督生はフロイドから塩分とクエン酸の入ったキャンディを口に突っ込まれた後、客席へと送り出された。
「私も売ってるのがジュエルパインのジュースだったらジョークに混じれたかしら」
イデアが動揺で咳き込んだ。マイクがオフの状態だったか、慌てて確かめる。間違っても、一部の人には御褒美でしかないからやめなよ、なんてツッコミを聞かせる訳にはいかなかったからだ。
 男子達の下品なトークに混ざれなかった彼女は、唇を尖らせていた。男子校で唯一の女子なので、些細な疎外感が積み重なって寂しく思う事も多々あるのだろう。イデアは「下ネタには混ざらない清純な君でいてくれ」と思ったものの、何も言ってやれなかった。今のタイミングでは何を言ってもキモいな、と自己完結してしまったからだ。

 監督生は、客席に見知った顔を見つけてパッと顔を綻ばせた。
 ドローンが、赤毛の少年と小動物を抱いた黒髪の少年を映した。エースとグリムとデュース、彼女の同級生達だ。
「ハァイ。お待ちどうさまです、ルビーベリーでーす」
彼等に駆け寄った彼女は、返答を待たずにカップを三つ用意した。少年達が慌てて財布を探るが、彼女は朗らかな笑みで断った。
「私の奢り。グリムを預かってくれてるお駄賃」
皆には内緒にしてね、と彼女が囁いた辺りで、イデアは羨ましさで泣いた。イデアも生身で会場に行けたなら、彼女にルビーベリーをサーブしてもらえただろう。けれど彼女に奢ってもらうのは、同級生の特権だった。タメ口も、ちょっと距離の近い態度も、同学年の彼等にしか与えられないものだった。
「サンキュー、そのユニ似合ってんじゃん」
「本当?」
カップを受け取ったエースがご機嫌に笑う。グリムの保育料という体面らしいが、彼女はしっかりグリムの分も用意していた。
「ああ、スポーツ万能っぽい」
「んふふ嬉しい」
色気の無いデュースの返答にも、彼女は気を良くしていた。その後、彼等はあの出店の生徒が作るクレープが一番美味しいだの、イデアのロボットが順調に勝ち進んでいるだのと、極めて短い会話を交わした。
 三分に満たない情報交換を終え、彼女は友人達と別れて業務に戻った。別れ際に頭を撫で回されたグリムは、モサモサにされた毛並みのまま彼女を見送った。


 ロボコンも終盤、いよいよ決勝戦だった。
 丁度イデアの作った三メートル程の鎧武者を模したロボットが、魔導ビームサーベルで相手のロボットを膾切りにしている所だった。戦闘の挙動はシルバーとジャミルから学習させたので、無駄無く隙も無い美しさすら感じさせる滑らかな動きだった。サーベルを掻い潜られて接近戦になっても余裕、の筈だがその機能が活かされる予感は未だに無かった。決着は間近である。

 既にビールの入ったカップを持った男が、監督生を呼び止める。
「ねェ、オネーサン大変だね、重くない?」
「はい、重いです。満タンだと十四キロあるので」
多数の客と何度も繰り返したやり取りだった。こういう輩には「タンクを軽くするのを手伝ってください」とでも言っておけとアズールが事前研修で吹き込んだからだ。案の定、ルビーベリーは売れた。
「普通さ、タンクに軽量化魔法かけるから重かないんだよね。魔法使えない奴ってホント大変そう」
「そうなんですか、ヒャッ」
ルビーベリーのジュースが、彼女の胸元にかけられた。赤い液体はティーシャツを肌に貼り付かせ、ベタつく甘い匂いをさせた。イデアも彼女も、出来事の突然さに唖然と硬直してしまった。
「下等生物の出したジュースなんて飲めたモンじゃないよ」
彼女の顔に、空のカップが投げつけられた。
 近距離過ぎて避け損なった彼女は、真正面からそれを受けた。プラカップに前歯が当たって、カツンと音がした。半径二メートルで、哄笑が響く。嫌な愉悦を含んだ嗤いだった。
 イデアは、ドローンに魔導ビームを発射する機能を付けなかった事を酷く後悔した。数フレームのラグを経て、正気と怒気を取り戻したイデアは救援と報復の為にオルトを呼ぶ。暴漢の顔を記録し、然るべき所に通報――する前にジェイドが気付いて駆け付けた。

 ジェイドの「接客」は早業だった。
「お客様、飲み過ぎではございませんか。僕と一緒に救護室に参りましょう」
ジェイドはタンクを背負ったまま、いとも簡単に暴漢の手を捻り上げ、押さえ込んで客席から引きずり出した。男は何か喚くが、痛みと動揺の所為で碌に呂律が回っていないらしかった。
「貴方はバックヤードへ。フロイドかアズールが着替えを出してくれるでしょう」
ジェイドは呆然とする監督生に指示だけ出して、男を速やかに人目に付かぬ所へ連行していった。監督生が礼を言う間すら無かった。イデアも実質、何もしていない。オルトも間に合わなかった。
『よ、酔っ払いの戯言なんて、気にしちゃダメだよ。バ、バックヤード、ほら、バックヤード行こ』
漸く声を絞り出したイデアに、監督生は小さな声で礼を言った。まだショックから抜け切っていない声だった。それでも、彼女は落ちたカップを回収して、ぎこちない歩調で歩き出した。
 そうだ、所詮は戯言なのだ。せめてイデアが咄嗟に反論できていたら、カップまで投げつけられずに済んだかも知れないのに。ずっと彼女を見ていたのに。イデアは何も力になれなかった。傍観者のままだった自己への嫌悪で、イデアは自身の喉を掻き毟った。

 そも、イデアは彼女を観測しては充足感を得ているだけで、今までだって彼女に対して何か気の利いた事を言ってやれた試しが無かった。
 イデアにとって彼女は、この世の柔い部分だけを詰めた偶像だった。ステージ上や画面上で見るアイドル達と同じように、尊い感情だけくれる生き物だった。彼女は、イデアの実家たるシュラウド家が何故呪われたと形容されるかも知らないし、オルトの身体が何故機械なのかも聞いてこない。自身を囲む現実とは何処か隔絶した存在だと思っていた。
 けれど彼女は、別にステージに立っている訳でもなく、逃げ込める舞台袖なんてものも無くて、どうしようもなく生身の人間だった。今更になってイデアは、彼女が只管に等身大の人間である事を突き付けられた。
 そんな事をすっかり失念していた自身が情けなかった。 


 結局、彼女はアズールの判断でジュースの販売員から降ろされた。
 コロシアム内の出店でフランクフルトを売っていた青髪の二年生が、彼女と役割を交代すると申し出てくれたからだ。
「気にしないで。ああいう人たちって、周りが魔法士ばかりで調子に乗ってるだけ。ただの馬鹿ないじめっ子だよ」
彼女に代わってタンクを背負ったのは、中性的で小柄な生徒だった。男子生徒達と群れると、非力そうに見える。けれど今は、その無害そうな印象が役立っていた。その柔らかい雰囲気をもって、彼女の硬直した精神が漸く解かされていったようだった。
 腕力も身長もある男達は、こういう時には驚く程に無力なのだ。そして、機械越しの音声はもっと無力だった。
「このタンク、魔法がかかってないとすごく重いね。なのに、魔法を使って背負ってる人たちよりもきみの方がよく動いてる。……きみが下等だなんて、誰も頷かないよ」
ずっとイデアが言いたかった事を、彼はいとも簡単に言ってのけた。何の嫌味も下心も感じさせない声だった。

 結局、監督生はドリンクの売上も販売数もラギーに抜かれた。けれど、気丈にもフランクフルトを最後まで売り切った。

 イデアのロボットは優勝したが、やはりイデアに達成の喜びはなく、頭の中はただ己のコミュニケーション不全への自嘲で占めていた。
 魔導ビームサーベルを振り回すロボットが作れたって、彼女の眼前の問題を両断してやる事すらできない。そんな己を、イデアは果てしなく無価値に感じた。

.

 大会明け、監督生は抜け切らぬ労働の疲れが呼び込む睡魔と闘いつつ、授業に参加していた。
 召喚術基礎の担当教員は、トレインより幾分か年嵩の白髪の目立つ男だ。黒板に殆ど字を書かず、眼をショボショボさせながら口述メインの講義をする事でお馴染みであった。
「本日は、召喚術における倫理を主題とする。そも召喚術とは、何らかの存在を召喚する魔術である。広義には口寄せ、つまり霊を自分に降ろす術も含まれたが、本校では質量のあるものを招き喚ばう術として取り扱う。何故なら降霊は故人が必要であり、学生に扱える領分ではないからだ。その辺の倫理的配慮の欠如がもたらした社会問題については、テキスト一〇四ページ……」
召喚術の教師は、テキストを読むのが上手い。低く渋みのある声が一字も違えず滑らかに音読をしてくれる。感情の無い声が滔々と続く。結果、内容の高度さに知的好奇心が振り落とされた者から眠気に襲われていくのだ。
「この件ように素人のイタコ芸と魔術的な降霊は非魔法士には見分けが付かず、非魔法士を対象とした詐欺行為が横行した為、ツイステッドワンダー歴一九六四年、霊界通信法が改められる運びとなった」
特に一年のカリキュラムでは、召喚の実践などはほぼ行わず、基礎知識を頭に叩きこむだけなのだ。それだけ危険で、覚えるべき項目が多い教科であるという事だが、背筋を伸ばして真剣に聴講しているのは最前列に座すジャックとセべクくらいのものだった。

 監督生の膝の上では、すっかり船を漕いでいるグリムが鎮座している。
 その左隣には既に半眼のデュースが、その更に左には頬杖をついたまま微動だにしないエースが座している。
 監督生の右隣に座すオルトは睡魔とは無縁の様子だったが、真剣に聴講しているかと言えばそうでもなかった。兄のイデアが召喚術を得意とする手前、オルトには一年のカリキュラムで習うような知識は全てインプット済みであるからだ。彼は監督生と「ゴーストが居るのに口寄せって要るの?」「あれはまた原理が違うんだよ」と筆談していた。監督生は、テキストの隅に注釈としてオルトの説明をそのまま書き加えた。その分の末尾に、丸っこい疑問符が四つ付け足された。解説をいまいち消化しきれていないらしい。もっとちゃんと予習すれば良かった、と彼女は小さく欠伸をした。
 監督生は、この世界に来る前は魔法に無邪気な憧憬を抱く少女であった。けれど、勉学として魔法の実態に近付いてみれば、難解で理屈の多い事に辟易しつつあった。これは、幼い頃に抱いたテクノロジーが何でも叶えてくれるという幻想を科学の知識が打ち落として行った感覚に近かった。充分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かないと言うけれど、こんなところまで似なくても良かったのに。などとファンタジーへの失望を監督生は感じつつあった。
「さて諸君。居眠りをしている生徒が、今学期の最大人数を更新したぞ。おめでとう。そんなに召喚術のガイダンスは退屈だろうか」
テキストを音読するのと変らぬ口調で詰問した教員に、起きている数少ない生徒が乾いた笑いを見せる。ここで寝ている生徒をたたき起こしてやるような良心は、ナイトレイブンカレッジの生徒には無縁のものだった。

 監督生は不味いと思ってグリムを揺するが、軟体じみた柔い身体が無抵抗に揺れるばかり。隣のデュースは、三度突いてやっと起床した。
「先日の召喚術のリスクについて学んだ時はまだまともな授業態度であると思ったが……倫理は覚えずとも我が身に危険は無いので寝て良し、と思っているのだね」
愚かなことである、と教員が抑揚の乏しい声で言った。
 この退屈で大人しい教員が怒りを露わにする姿は、一年生にとっては初めてのものであった。
 ここで生徒達は漸く、教壇に立つ老人が大魔法士である事を思い出した。


 教室を睥睨する教員と、監督生の眼が合う。
 教員の手振りで、監督生は起立するよう指示された。
 教室が静まる。寝息を立てていた者も流石に違和感に気付いて目を開け始める。未だ洟提灯を膨らませているのはグリムだけである。
「何故君が立たされたか分かるか?」
「あ、欠伸をしてしまったから……?」
監督生は、叱られる子供そのものの声で答えた。罪悪感と不安が、彼女の背筋を丸めさせていた。
「それは論理的な解答ではないな。君の相棒を見たまえ。罰するならもっと適任が居るだろう」
よりによって、グリムはこのタイミングでフガッと大きな鼾を掻いた。間抜けにも、彼は自分の鼾の大きさに驚いて飛び起きた。
 グリムは目を白黒させて、監督生が何故立たされているのかを問うてくる。それは今、監督生が必死で考えさせられている事柄だというのに。
「私が一番、魔術に疎いから?」
監督生は羞恥を堪えて、自身の弱みに言及した。
「なるほど?」
監督生は俯き、自身のテキストを見遣った。彼女のテキストには、カレッジの生徒なら恐らくはエレメンタリースクール以前で既に常識として習得しているであろう基礎知識が、注釈として赤ペンでわざわざ書かれている。やたらと貼られた付箋には、要点ではなく疑問点ばかりが書き込まれている。劣等生のテキストだ。
「ではデュース・スペード。ツイステッドワンダー歴一九七三年の国際法改正によって新たに使い魔にしてはならない生き物として追加された生物は?」
急に話を振られたデュースが、飛び上がるように起立した。
「えっ、えっと、神族、妖精族、神獣、瑞獣、獣人、ヒト、ヒトのゴースト……?」
戸惑いながらも、彼は指を折って答えていく。監督生の記憶が確かなら、前回のテスト範囲だった箇所だ。けれどデュースの顔色の悪さは、全く復習していませんと訴えていた。
「誰か、補足がある者は?」
ジャックが真剣な顔で挙手をする。こんな時でも、この男は凛と前を向いていた。
「神獣や瑞獣は、それらを扱える術者自体が特殊かつ稀なため規制には含まれません」
「よろしい。厳密には獣人もヒトも、以前から魔法士に関してのみ規制はされていた。七三年に追加された分として挙げるなら、非魔法士の獣人とヒトと述べるのが正確だ」
監督生も、この問いになら内心では答える事ができていた。使い魔にされ得るという事は、その生き物の人権を認められない事と同義なのだと授業で聞かされた際のインパクトが余りに強かったからだ。監督生はその時、魔法の使えぬ己と生徒達との断絶を知った。
 魔法とは万人に夢を与える美しい力ではなかったのだと、心の痛みを以って思い知った。

 デュースの着座が許される。だが監督生は依然、立たされたままだった。
「さてオンボロ寮の。一九九八年の改正で新たに規制された使い魔は?」
「規定以上のIQと社会性がある事が確認された亜人種全般。そして生命倫理に反する人工生物」
これによって広義の人間という言葉には一部の亜人種も含むようになった為、狭義の人間を示すヒト属という呼称が生まれたのだ。
 彼女の隣のオルトは、人差し指と親指で輪を作って正解だと伝えた。監督生は、これ以上の恥を掻かずに済んだ事を秘かに安堵した。
「よろしい。では、その亜人種の具体例を三つ挙げられるか?」
ジャックがまた挙手をする。けれど教員は、監督生に答えさせた。
「人魚、巨人、鳥人」
よろしい、と教員がまた頷く。彼は監督生の方を見ず、黒板に坦々と魔方陣を描き始めていた。
「では生命倫理に反する人工生物を三つ」
やはり教員は黒板の方を向いたまま質問を重ねた。白いチョークで描かれた魔方陣は、半径一メートル程度で、生徒を構いながら掻いているとは思えぬ程に複雑を極めている。
「ホムンクルス、ゾンビ、キメラ」
監督生は緊張で湿り始めた指を強く握りながら答えた。また無感動で紋切り型の「よろしい」が返ってくる。教員は未だ、陣の中に古代魔法の一節が細々と書き入れていた。一年生が眼にするには余りに高度な術式であると、魔法に疎い監督生でも直感する緻密さだ。

 魔方陣を描ききった教員は漸く教室を振り返り、クラス全体に聞いた。
「さて、彼女が最も魔術に疎いという予想に異論のある者は?」
ジャックとデュースが勢い良く挙手した。それを見て、他の生徒も肘の曲がった挙手をする。

 質問は振り出しに戻った。
 監督生は己が何故立たされているのか、また答えを探さざるを得なかった。ここで「先生に嫌われているからです」なんて言う度胸は彼女に無かったが、半ば本気でそれが正解ではないかと思えてきていた。テストとて筆記は悪くなかった筈だ。同じ質問を二度しに行かないよう気を付けていた。教員とて、質問に来る監督生に鬱陶しいという顔をした事はなかった。今日になって突然、大勢の前で晒し上げられ、理不尽なクイズをさせられている。どうしてこんな目に遭っているのか、彼女は本当に分からなかった。
 監督生の脳裏に、意味も無くイデアの「論理的に考えなよ」と囁く声が反芻される。イデアは子供のようなところもあるが存外、教員と似た事を言う時があった。
 監督生は体側で拳を作って、このクラスの中で唯一という自身の特徴を頭の中に羅列した。どうか己がこれ以上惨めにならない回答で許される事を祈りながら、口を開く。
「……私だけ、魔法が使えないから」
論理的になったじゃないか、と教員が返す。けれど、答えとしては不合格だったようで、彼女はまだ着座を許されなかった。
 監督生は、この教員の豹変に恐怖を覚え始めていた。
 怒りがあるとはいえ、一人の生徒をこんな風に晒し上げたりする人ではなかった筈だと、記憶を辿る。何が気に食わなくてこんな事をされているのだろう。分からなかった。
 どうして、と心の柔らかい部分が痛んだ。大人を無防備に信頼していた筈の少女の感性が、脆く崩れていく。

 「答えは、君が一番、魔法への抵抗力が無くて、私を信頼しているからだ」

 教員が監督生の額を指先で突いた。
 痛むような勢いも無かった。それなのに、監督生の喉からは引き攣った息が漏れ、膝の力が抜けた。座席に勢い良く尻が付く。恭順を示す僕のように、頭が垂れたまま上げられない。監督生は、一体自分が何をされたのが分からなかった。監督生の様子を心配するグリムの声が、彼女の耳には異様に遠く聞えた。
「自我のある生物を己の使い魔として契約あるいは支配する時、最も肝心なのは相手に術者の優位を認めさせる事だ。敬意を育むといえば聞こえは良いが、要は平伏させるのだ。殊に我々魔法士は生物を支配下に置く事を、魂に首輪を付けると称する」
首輪を付けられた気分はどうか、と教員が監督生に尋ねた。それはやはりテキストを読むのと変らぬ口調で、一層不気味だった。セベクとジャックも、青い顔をして監督生の様態を伺っていた。
 そんな中で、後方の席に座していたエペルが手を挙げた。戸惑いを隠せない様相だが、怯えるのが性に合わぬ男であった。
「先生、さっきヒトを使い魔にするのは違法だって」
「無論」
教員は淀みなく答えた。
「今回は教育的見地からの特別措置だ。倫理を学ばぬ術者がどのような惨事を引き起こすか、諸君等はテキストではなく実地で見たいのだろう」

 教員が嫌に聞き取りづらい詠唱を始めると、監督生は座席から消えてしまった。

 このジジィ狂ってやがる。そう吠えたのはデュースで、反射的に立ち上がったのはエースだった。グリムは金切り声を上げて、監督生が居た所から飛び退いた。
 だが教室の大半の生徒は、淡く光り始めた黒板の魔方陣に目を奪われていた。
 陣の中央から、ずるりと人の頭が出てくる。頭部からは髪が垂れ下がって顔が視認し難いが、監督生で間違い無さそうな姿である。腹周りまで召喚陣から突き出た段階で、教員は彼女が頭から床に落ちぬよう手を添えた。
「もし、魔法への抵抗力が半端に強い者が下手な抵抗をすると、召喚中に肉体と精神が離反するか、肉体そのものが切れ切れになってしまう」
君にはその心配が薄くてよかった、と教員は一人頷く。無事「召喚」された監督生は、茫洋とした眼で教室を見回していた。夢遊病患者の目付きだった。
「一応言っておくが、召喚陣にしかと服従のコードを書き入れていたとしても、術者の力量が見合わなければ牙を剥かれる事もあり得る。諸君等は決して真似をしてはならない」
服従という単語が、少年達の心に嫌な影を落とした。クラスメイトが命令を遂行する機構に成り下がった様に、彼等は固唾を呑んだ。

 教員は、監督生にステッキを手渡した。
「そら、セベク・ジグボルトを襲え」
監督生は酷く驚いた顔で、拒否の言葉を口にした。しかしその手は既にステッキを握り締め、セベクに向けて振り下ろしていた。セベクが身体を倒して避けると、ステッキは机に勢い良く当たって、先端の装飾が割れた。本気の力だった。
「ご、ごめんなさい、セベク、ど、どうしましょ」
座席から飛び退いたセベクを監督生が追う。机を足蹴にして、他人のテキストも踏み超えて、監督生は獲物へと最短距離を走った。ごめんなさい、避けてね、助けて、などと哀れで弱弱しい小動物の声音で、フルスイングのステッキが迫る。
 セベクは反撃を試みたが、監督生の怯えきった顔を見て踏み留まった。体術を得意とする屈強な男と、操られていようとフィジカルは至って平凡な人間の少女だ。まともにやり合ったら縊り殺されるのは監督生の方だ。ここで殴り返されても、監督生は受身よりも攻撃を優先するだろう。服従のコードが記された召喚陣を潜った以上、彼女は自身の自我とは無関係に召喚者の干渉を受けているのだから。

 教員の指揮でステッキを振り回す監督生は、震えていた声を不意に安定させて言い放った。
「侮っている生き物に攻撃される気分はどうだ、セベク・ジグボルト?」
聞き慣れた少女の声音に、不似合いに男性的な口調だった。監督生は、私が言ったんじゃないと首を振るが、どう聞いても彼女の声であったし、彼女の口は動いていた。
 無論、彼女の意志で切った啖呵ではなく、教員が彼女を操って言わせたに過ぎないが、その光景はあまりに不気味だった。術者がその気になれば言葉すら奪われ、弁明や謝罪の機会すら与えられずに害を為すだけの生き物にされてしまうのだ。支配を受けた者の絶望を身を以って察した監督生の眦に、涙が溜まっていた。

 セベクは拳を引っ込めて、攻撃を捌く事に専念した。生徒達は誰ともなく立ち上がっており、教室の脇に退避していた。そのお陰で、セベクも幾分か逃げたり躱したりがし易くなった。
 傍観させられている生徒達の中でも、賢い者はステッキを柔らかい物質に変える呪文を打つ事を試みた。しかし、やたらと動かれては狙いが定まらない。エースもその中の一人だった。監督生の腕ごと柔らかくしてしまったらどうしよう、などと思って中々呪文に集中できないのだ。
「は、ヒッ、やだっヤダって、イギギィッ……ッ」
ステッキを握り締める監督生の眼から、ついぞ涙が零れた。そして、唇から血が溢れる。自らの暴走を止めようと、舌を噛んだのだ。
「おお、抗うか」
しかし抵抗はほんの一瞬で終わった。口から滂沱と血を滴らせたまま、監督生の腕はセベクの喉を真っ直ぐ狙っていた。出血が酷い。

 セベクはマジカルペンの柄で、彼女のステッキを受ける。
 侮るなよ人間! とセベクが吠えた。
「たかが人間風情に心配される僕ではない!」
ステッキが弾かれて、教室を舞った。
 監督生の裸の拳を、セベクは掌で受け止めた。そのまま彼女の腕を取って、机上に組み伏せる。
「お見事」
教員の温い拍手と共に、監督生の身体が弛緩する。教員は詠唱を介さず、監督生の舌の怪我を治癒させた。
「術者を狙わないのも賢かった。もっとも、学生の魔法を受けて倒れるような魔法士には教員など務まりましないが……万一、諸君が私に攻撃していたなら彼女は私の盾として飛び出しただろう」
当然ながら教員側としては、監督生に最悪の事態が訪れないよう守ってやる技量が自身にある事を弁えた上で行ってはいた。しかし相手は術者の力量を鑑みる練度のない一年生。教室内は、ただただ大魔法士の横暴に竦む者ばかりになった。

 特に酷いのは監督生だ。
 教員が終了を宣言すると監督生はあっさりと使い魔としての支配から解放され、自由の身に戻った。けれど、ステッキを振り回した手は、ジンと痺れたままだ。セベクに拘束された腕や肩が痣になっている。舌が痛んで、口の中は血の味で充満していた。何より、学友に不当な暴力を振るった事実で、心が悲しみに満ち満ちていた。
「酷い……こんな、悪趣味です……」
「悪趣味だとも。倫理に反する行いとは、そういうものだ」
教員はこれでもかなり優しい部類だと述べた。彼が命じれば、監督生は四階の教室の窓から飛び降りる事も拒否できないし、少年達の前だろうと裸踊りだってしてしまうだろう。狙ったのがセベクでなければ、双方共に酷い怪我をしたに違いない。
「なお、一九七三年以前の魔法の力を持たないヒトに対しては、こういった仕打ちが合法的に行われた訳だ。そして現在も、その仕打ちを許されている者達は、己の権利を勝ち取ろうと運動をしている」
利用できる使い魔が減っていく事を嘆く魔法士も居たが、監督生は権利を主張する使い魔側の立場で聞いていた。
「時代にそぐう在り方も含めて、諸君等はこの教科と向き合わねばならない。その事を努々忘れてくれるな。さて、今回の講義について、一万字以上のレポートを今週末までに出すように」


 授業終了の鐘が鳴った。
 生徒達は、我先にと教室を出た。教員に対する畏怖もあるだろうが、次の時間は昼休みだからだ。早く大食堂に走らなくては人気メニューは売り切れてしまう。
 グリムはエースとデュースと連れたって、廊下を走って行った。けれど監督生は、机に頬を預けたまま恨めしげに教員を見遣るだけだった。
「言っておくが、私ならば君以外の生徒でも使役できなくはなかった」
現に去年はラギーとシルバーを戦わせた、と教員が気だるげに打ち明けた。オルトもその記録を知っているらしく、監督生に「黙っててゴメンね」と告げた。
「リスクの低さから君を選んだというのは、正直言って魔法師としての理屈に過ぎん。一等大事だったのは、立ち直りの早さだ。魂に首輪を付けられた屈従の感覚を生徒がいつまでも引き摺ったままでは適わん」
術者が首輪を解いても、肝心の立ち上がる気力が戻らぬ者も居るらしい。流石に生徒がそうなっては、教育どころではない。
「どうして、私なら平気と思うんですか」
「君の前回のテスト、先週のレポート。こうして今も君が私を睨んでいる事実」
もっと根拠が必要か? と教員が肩を竦める。普通の少女は、己を今すぐ殺せると実証されたばかりの男を睨め付けなどしないものだ。

 教員は、監督生のテキストに視線を落とした。見知らぬ単語ばかり並ぶテキストをどうにか解読しようとした跡が克明にある。知れば知っただけ非魔法士にとって嫌な知識ばかりを叩き付けてくるこの教科に、彼女は向き合い続けていた。そしてゼロから強制スタートさせられた身で、既に大釜程度なら召喚が出来る友人よりも、彼女は深い知識を身に付けるに至っていた。この努力は皆に出来るものではない事を、彼は長い教員歴を以って知っている。恐らく、人はこれを希望といったり不屈といったりするのだろう。
「あと、私は昨日のコロシアムも見に行ったよ。場外乱闘と言うには少し派手さに欠けたが」
監督生が盛大に顔を顰めた。

.

 昼休み、イデアは昨日から徹夜して制作した超小型ドローン二号機を完成させ、本校舎で飛ばしていた。
 制作は随分と急ぎだった。コロシアムの一件で、イデアはドローンにも対人用魔導ビームの射出装置を搭載べきだったと本気で反省したからだ。イデアは、生産性の無い後悔を嫌う男であった。

 授業を終えて大食堂へ向かう監督生の傍を、蛍よろしくドローンが浮遊する。
 彼は召喚術での出来事をオルトを経由して知り、居ても立っても居られずドローンを飛ばしてきたのだ。
『また! 間に合わなかった! あのイカれジジイ、よりによって監督生氏に何てコトしてくれたでござるか!? もうこうなったらPTAが黙ってないぞ、ていうかそんなんしたら逆に興味示すに決まってんじゃん。生徒の顔見ろよ。ここはナイトレイブンカレッジだぞ、揃いも揃ってヴィラン、ヴィラン! やっちゃダメって言われたコト程やりたくなるような奴等しか居ないんだが!?』
新設したビーム機能で職員室を焼き払おう、とイデアが徹夜明けの理性のまま発言する。本気か否かは監督生には判断が付きかねたが、最悪な事にこの男にはそれができるだけの技術と大儀が揃ってしまっていた。
 監督生はオルトにグリム達を頼んで、小声でイデアの癇癪を宥める。本来なら監督生が慰められる立場の筈が、すっかり逆転している。自分の立ち直りが早いんじゃなくて、自分の周りには立ち直らざるを得ないようにする人が多いんじゃないのかしら。などと監督生は思い始めていた。
「イデア先輩、私はもういいですからっ、というか、先輩がそこまで気に病むことじゃ……」
ドローンが余りにも小さいので、傍から見ると監督生は独り言の大きい奴にしか見えない。それを彼女は恥かしく思ったが、イデアは全く意に介していなかった。自覚的かは兎も角、イデアの苛立ちの根源は、彼女への庇護心よりももっと利己的な部分にあったからだ。
 イデアは、推し作家の売上目標を知っていながら一切作品を買わないファンを心底軽侮していた。だが、現状の自分は正にそれだった。つい昨日、彼女にも現世の屈辱と懊悩が牙を剥くのだと切実に実感したばかりだというのに、結局イデアは何一つ力にはなれていない。推せずして何が推しか。
『畜生! 台無しにしやがった! お前はいつもそうだ。このドローンはお前の人生そのものだ。お前はいつも失敗ばかりだ。お前は色んな事に手を付けるが、一つだってやり遂げられない』
「……誰もお前を愛さない? そんな訳ないじゃないですか。一旦落ち着きません?」
ネットの定型文を流用し始めたイデアに、とりあえず監督生は学習したての知識で便乗した。オタクのネタはこの世界の事情に疎い監督生には出典すら分からないものばかりだが、イデアが引用するインターネットコンテンツを覚え始めていた。
 台詞を盗られた挙句に諭されたイデアの双眸が、監督生を映す。
「もう済んだ事なので私は平気ですよ。術は授業の終わりと同時に解けましたし。本当にマズければオルト君が止めてくれたでしょうし」
思えば先生が生徒を取り返しの付かない目に合わせたりはする筈がないですよね、と監督生が敢えて楽天的な声音を出せば、イデアは鼻を鳴らした。


 イデアを宥め終え、今度こそ大食堂へ向かう監督生の腕を、後ろから引く者があった。
 突然の事に監督生がヒャッとか細い悲鳴をあげれば、早速ドローンに搭載されたばかりのビームが火を吹いた。
「あっっぶね、ハ? 何今の」
フロイドだった。ターコイズブルーの髪の先端が、僅かに焼き切れていた。ヘテロクロミアが、まん丸に見開かれている。
『威嚇射撃でござる』
「はぁ?」
フロイドが低い声で凄んだ。金の左眼を思い切り眇めて、歪ませた口から鋭い歯を剥き出しにする。いつものイデアなら、もののコンマ数秒で態度を改め、平謝りに転じただろう。
 けれどイデアの脳は、フロイドの威嚇を素通りさせてしまった。監督生も、眼を瞬かせながらフロイドを見上げていた。
「先輩、どうしてジェイド先輩の格好をしてらっしゃるんですか」
金の左眼とオリーブの右眼、水色の髪に混じる黒い房も青いピアスも左側。着崩しなど無くしっかり襟元まで釦の留まった制服に、手袋までしてあった。その姿は、黙ってさえいればジェイド・リーチそのものだった。

 小首を傾げる監督生に、フロイドは低く唸った。今度は威嚇ではない。不機嫌をぶつけるタイミングを逸らされて気不味い、という程度のニュアンスだった。
「ゲェ変身薬の効果切れてる? まいっか、オレ今日ジェイドなんだわ……でさ、小エビちゃんに今すぐラウンジ来てくんね?」
フロイドは頭をガシガシ掻いた。けれど一応はジェイドの格好をしていている意識が働くのか、跳ねたり広がったりした髪を撫で付けて元に戻す事も忘れなかった。
「いや、変身薬って。気軽に言いますが禁薬ですぞ」
「というか何もかも突飛ですね」
監督生が良いとも悪いとも言わない内に、フロイドは彼女の手を引いた。モストロ・ラウンジに続く鏡舎は、大食堂とは真反対の方向である。
『処す? 処す?』
「いえ、穏便にいきたいです。オルトさん経由でグリムに伝えていただけると助かります」
『kk』
経験上、監督生はこの状態で抵抗しても肩から腕の骨がすっぽ抜けるだけだと理解していたので、出来る限りフロイドに足並みを合わせた。フロイドの規格外に長い脚に合わせると、彼女は必然的に走る事になる。
 彼女が走れば、何故かフロイドも走った。
 そうなるとやはり移動速度が合わず、最終的に監督生はフロイドの小脇に抱えられるようにして鏡へ飛び込む事になった。

.

 オクタヴィネル寮内、鏡舎正面のモストロ・ラウンジは、臨時休業の看板が下がっていた。
 店内は、いつものジャズ調のバックミュージックと壁面水槽のライティングを生かしたムーディな照明は停止しており、至って事務的に白色の灯りが付けられている。
 けれど、中に居る生徒達は休業中とは思えぬ程に多かった。恐らくはモストロ・ラウンジでもそこそこのポジションを任される連中なのであろう、監督生も何度が世話になった覚えもある顔が並んでいた。

 イデアは予想外の人口密度に、ヒィとか細い声を漏らした。
「イデアさんまで連れてきたんですか」
平べったい眼をしたアズールに、フロイドが気だるく頷く。
「まあ良いでしょう」
ドローンを打ち落とした所でどうせ「見る」のでしょう、とアズール。窃盗防止に店内は幾つか監視カメラが設置されていたし、スマホを携帯している生徒も多かった。どれもイデアが簡単にクラックできてしまう物だと、アズールは知っていた。

 監督生はあれよあれよと店の一番奥のボックス席に突っ込まれた。右も左もオクタヴィネル生で固めた正面に、アズールが座った。この一角だけ切り取ると、完全にヤクザの事務所である。
 イデアはドローン越しだというのに「ヒッたくさん人が見てる」と呻いた。監督生も、威圧感に怯みはした。しかし債務者になった記憶は無い。殴る予定ならばとうにフロイドがやっただろう。彼女は自身にそんな理屈を言い聞かせて、威圧感に気弱になる心を理性の盾の内側に隠して対応した。
 アズールは口を開く前に、監督生の手元にモストロ・ラウンジのポイントカードを滑り込ませた。枚数にして三枚。どれも既にスタンプが捺してある。
「貴方に頼みがあります。これは、後日僕が貴方の願いを聞く、という対価です」
先払いで結構、とアズールが監督生にカードを握りこませた。けれど、肝心の依頼内容が伏せられたままでは監督生も首を縦には振れなかった。
『ウワ確実に厄介事でござる』
花京院の魂を賭けても良い、とイデア。監督生は花京院を知らないが、アズールが自ら何か差し出すなど尋常でない事だけは頷けた。

 監督生が情報開示を求める前に、フロイドが畳み掛ける。
「小エビちゃんさー、ジェイドに借りがあったよねぇ? 断れる立場じゃねえよなぁ?」
フロイドはジェイドの顔をしたままだったが、既にボウタイを取り払い、チンピラの風情だった。ジェイドへの借りとは、コロシアムで暴漢の対応をしてもらった事だろう。監督生はまだ、ジェイドにまともに礼を言えていないままだった。
「確かに感謝してます。でも、ジェイド先輩は副支配人で、私は従業員です。あれは先輩の業務の範疇でしょう。不当な債務です」
監督生は冷静な態度を心がけつつフロイドに反論した。この主張は正しかったようで、アズールはフロイドを引き下がらせた。
 オクタヴィネルに足を踏み入れて搾取されまいとするならば、契約書を端から端まで読んで、言質を取り合うしかないのだ。ラウンジでの就労経験は慎重さを醸成し、各寮で潜った修羅場の数が彼女を強かにしていた。
 イデアはドローンを飛ばす高度を上げ、店の間取りや配置を俯瞰する。彼女の望む穏便が失われた際に、彼女の退路を確保してやらなくてはならないからだ。

 無駄に場慣れしやがった、とフロイドが面倒臭そうに監督生を睥睨した。アズールが脚を組み替え、彼女を丸め込む為の言葉を探す。
 雑魚の説得は、主にジェイドの得意分野だった。けれど、当のジェイドはモストロ・ラウンジには居なかった。
「……もしかして、その頼みって今ここに本物のジェイド先輩が居ない事と関係します?」
監督生はふと生まれた疑問を口にした。彼女はまだフロイドがジェイドの姿をしていた理由を聞いていなかった。面白可笑しくやっているだけなら、フロイドの機嫌が悪過ぎる。誰もフロイドの仮装を弄らないのも妙だった。それが嫌に不穏な気配を生んでいるのだと、監督生の危機察知能力が告げていた。
「全部お話してくださらないなら、ポイントカードをお返しして帰ります。私、まだお昼食べてないんですよ」
問答無用で帰れば良いのに、とイデアがドローン越しに発した。けれど彼女は、知らぬ振りして逃げても、自身は学園で起こる騒動に必ず巻き込まれる定めなのだと諦観に近い観念を持っていた。逃げ込む場所がオンボロ寮しか無い身分と言うのは、そういうものなのだ。ならば無知のまま事態に対峙するより、受身を取れるよう備えるべきだと経験則が語っていた。


 アズールとフロイドが、顔を見合わせる。フロイドは無言のまま自身のピアスを外し、アズールに預けた。監督生やイデアには察しがたいアイコンタクトであったが、彼等の中では打ち合わせが済んだらしい。
「ランチミーティングにしますか」
と言っても、喋るのはほぼアズールだ。それってミーティングと呼び得るんですか、などとオクタヴィネル生が聞かない辺り、この寮長が仕切る寮ではそういう扱いなのだろう。
 フロイドは監督生の返事を待たず、猫背気味の足取りで厨房に引っ込んだ。数人のオクタヴィネル生が彼の後に続いて厨房に入っていく。監督生の周りに詰めていた男子生徒の人数が減ると、若干ではあるが威圧感も減った。
「正直、現段階だと推論が多くて僕も明瞭に説明して差し上げることが難しいんですが、前提を共有しておきましょう」
だから具体的な指示を省いて柔軟に「頼みを聞く」とだけ言質をとっておきたかったのだと、アズールは白状した。監督生としては、そんな契約は恐ろしくて碌にできたものではない。けれど確かに、何でも頼みを聞くという点においては、ポイントカードを三枚分と等価ではあった。寧ろ、アズールの方が優秀な分、ポイントカードは対価としては出来過ぎている。
 だから余計に、監督生は自身に如何なる厄介事に関わらせる気でいるのかと身構えた。

 アズールは、彩度の低い青色の瞳で監督生を真っ直ぐ見遣った。
「僕達は、ジェイドが誘拐されたと考えています」
想定以上に深刻な気配のする単語に、監督生が瞠目する。イデアも頓狂な声を出した。けれど彼はすぐに復活して根拠を短く尋ねた。

 アズールは自身のタブレットを出し、地図を展開させた。
「これがジェイドの現在地です。フロイドの物と同じ石から作られているので、ピアスを紛失してさえなければ居場所が分かるんです」
「GPSみたいなものかしら」
監督生は、この世界に人工衛星が打ち上げられているのかすら知らなかった。だがグローバル・ポジショニング・システムの概念とその略語は共通のようで、イデアはもっと原始的な御守だと返事をした。元は地図と組み合わせたりなどせず、ただ相手が居る方角を指すだけの指針として使われたものらしい。今では通信魔法やスマホの台頭ですっかり見なくなった古い手段であるが、星の見えぬ海中では未だ有用であるとの事だった。

 アズールが三連の青い菱形で構成されたピアスを抓み、地図の上に翳した。するとピアスの先端部分から、地図のある一点に向かって青い光が一直線に伸びていった。タブレットを操作して地図の倍率を上げて、より詳細な位置を追っていくと、ピンポイントで建物の一角を指し示している事が窺えた。
 その住所を見てイデアは渋い声を出したが、監督生はただ二人の説明を待った。監督生には、学外の地理は魔法史で習った程度の解像度でしか分からない。よって、現代の市街地を見せられても、情報が知識と結び付かないのだ。
『なんというか、古くから科学派の聖地として知られてた所ですな。本当に何と言ったら良いやら……兎角、ジェイド氏は自ら行きそうにない上に歓迎されそうにもない場所に居る訳でござる』
アズールが視線だけで肯った。イデアが露骨に監督生には話しづらいという空気を醸すので、彼女は余計に引っ掛かりを覚えた。
「科学派はジェイド先輩を歓迎しないんですか」
監督生は、そもそも科学派なる派閥を耳にした事がなかった。彼女は先日のロボットコンテストを思い出して、視線をドローンに向けた。その表情は、イデアも科学派なる立場なのかと聞きたがっていた。
『アー……拙者はあんま派閥とか気にした事ないんですけど、単純に科学の素養があるから科学派ってワケでもないんですなこれが。科学派は元々、魔法至上主義に対するカウンターとしての言葉で、魔法使えない人間だけでも利便性を追求していく思想だったっていうか……まあ、今じゃ過激化してたり、機械に魔導具組み込むようになってたり、派閥が更に混沌としてて説明が複雑っていうか』
イデアが拙く説明を紡ぐ。知っている情報を早口で流し込もうとするのはオタクの悪い癖だ。見かねたアズールが説明を引き継ぐ。
「科学派には元々、人魚や魔獣は人間の道具であるべきという思想があるんですよ。今でこそ科学派には魔力の弱い人間も混じるようになりましたが、魔法を使える亜人種に対する反感は寧ろ強化される一方といったところです」
監督生は、顔を曇らせた。魔法士の一部が魔法を使えない者を下等生物と呼ぶ事を、彼女は身を以って知っている。剥き出しの差別心に触れた事は、一度や二度ではなかった。授業では、魔法を使えない人間の人権が認められたのが遅かった事を知った。
 そういった人間もまた、時として差別をする側に回る事もあるのだ。イデアが言い淀んだ訳である。
「亜人種の魔法士への、反感……」
人魚で魔法士のジェイドが歓迎される筈がない。もし、本当にジェイドが彼等に攫われているなら、惨い仕打ちを受けている可能性が高い。

 そして同時に、監督生の感情的ではない部分が、自身がアズールに呼ばれた理由について納得していた。彼女は先刻の授業で、何故自分が指名されたか論理的に考えろと言われた時と同じ事を考えていた。
「……私は魔法が使えないから、科学派に怪しまれず接触できるって事ですか」
やめなよ、とイデアがドローン越しに宥める。
「話が早くて助かります」
『いや何考えてんの馬鹿でしょアズール氏。いやこれは煽りとかじゃなくマジで。監督生氏がそんな事に付き合う義理無いでござるよ。学生とはいえ魔法士一人、それもジェイド氏を攫える連中の懐になんざ行かせられる訳がないだろ』
さっさと教員にでも相談しろ、とイデアが声を荒げる。上級生として、正しい判断だった。

 けれどアズールは首を振った。
 アズールは、懐からポストカード程度のサイズの紙を一枚テーブルに置いた。ジェイドが昨夜の内に残した書置きらしい。簡潔というより最低限度というべき言葉で、外出の旨と警告が綴られていた。いつもの冷静沈着と慇懃をインクに溶かしたような整然とした字とは言い難いが、確かに彼の字だった。何故か行間が滅茶苦茶で、字の大きさがバラバラだったり謎の傾きがあったりと不気味な歪さがあった。只管に不穏である。
「ジェイドは少なくとも、学園を出るところまでは彼自身の意思で動いていた。書置きはジェイドの肉筆に間違いありませんでしたから。不確定要素が多過ぎるものの、公にするべきではないという彼の意図を汲むべきだと僕等は考えています」
現段階では、とアズールが付け足す。だから、まだジェイドの不在を他寮に漏らさぬ為にフロイドはジェイドの格好をしているのだろう。フロイドの不在は気紛れなサボタージュで通るが、副寮長の立場で折り目正しい印象のジェイドはそうもいかないからだ。
『――校内に内通者が居るって言いたいの』
「恐らくは」
攫われたのは、ラウンジの副支配人と用心棒を兼ねつつ、深海の実家に居た時分から護身術も嗜んできた一・九メートルの男だ。魔力も武力も申し分ない優秀な人魚だ。具体的な犯行手段について想像が及ばない監督生にも、その程度の仕込みがなくてはあれには手を出せまいと一種の納得を覚えた。
「昨日のロボコンで、客から妙に素性を聞かれたという従業員が複数居ました。人魚と明かすと殊更に絡まれたようで、握手を求められる者も居ました。今思えば、握手までさせられたのは軒並みジェイドと親しかった寮生です」
ジェイドの交友関係を調査できていたという点は、内通者の存在する可能性を強めていた。

 アズールは、握手をさせられたという寮生に手を見せるよう指示した。
 テーブルの周辺に控えていた三人が、監督生に半歩詰め寄ってから右の手袋を外して見せた。普段は白手袋で給仕するオクタヴィネル生達だが、あの日はロボコンに合わせたスポーティーなユニフォームだった為、手袋をしていないかった。その剥き出しの手が、徒になったらしい。
 彼等の右手は、掌を中心に青黴に侵されたような緑青と黄緑の斑が浮き上がっていた。一部だが、白色の軟毛のような物も散見できる。黄褐色で鱗片状の突起が生え始めている者も居た。奇病じみた様相だ。
← →




back
top
[bookmark]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -