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落花生実る

01



重たい体を寝台に横たえた時、隣の車両に、知ったような姿を見た気がした。
といっても、かれこれ4、5年は顔を合わせていないような旧知で、暫く思い出しもしなかったためか、薄情だけれど、浮かべる輪郭もどうもおぼろげだ。ホームで見かけた乗客には中国人も多いが、似たような褐色もまた多く、肌では見分けもつかない。
そうしてぼんやりと記憶を掻き回す間に、窓越しにちらりとだけ見えた後ろ姿は、いつの間にか視界から消えていて、私は思わずため息を付いた。連日歩き回った疲れのせいで、起き上がってまで確認する気にはならない。私は目頭を押さえながら、やっぱり見間違いだろうと自身を納得させた。
二等寝台は二段ベッドが両側から通路を挟んでずらりと並んだ構造になっていて、大して乗客のいない車両だったので、一段目だけがまばらに埋まっている。ほとんどの遮光カーテンは閉まっていて、動く人影はない。深夜の出発のせいで、早速就寝している人間も多いようだった。
壁伝いに這っていた小さなゴキブリを追い払ってから、まどろむ頭を枕に押し付けると、固かったはずのマットが泥のようになって、体がずぶずぶと沈んでいく心地がする。激しく揺れながら走りだした列車すらゆりかごに、隣の車両から漏れる微かな異国の囁き声を子守唄にして、重たかった四肢は次第に弛緩していった。

寝台列車は、クアラルンプールからタイのハジャイに向かっているところだ。マレーシアに長いこと留まっていたので、そろそろ出なければと思い立ったものの、特にこれといった目的も持っていなかった。
タイを選んだのは、日本から航空券でシンガポールへ入国し、インドネシア、フィリピンと周辺の島国をひと通り回り歩いたので、アジア圏を移動するならば北上するより他なかったからだ。
そんな無計画さだから、タイへ行くにしても、どこへ行くべきかは見当もつけていなかった。
ただ、逗留していた華僑の安ホテルの主人から、クアラルンプールから出ている夜行列車に乗れば、西側の国境の駅パダンブサールで一度入国手続きをするだけで、真っ直ぐにハジャイに着く、ということを聞いた。そうして勧められるがままにチケットを買ったせいで、まるで旅立ちを他人事のように感じるばかりか、前日には付き合いも大事だなんて思いながら荷物をまとめる始末だ。
数カ月前に日本を発った時には、因縁深いインドへ向かおうかと思い浮かべもしていたが、毎日市場を流し、異国でだらだらと日を送る内に、何か旅立つきっかけというものを失ってしまっていた。
主人はできるだけ部屋を埋めておきたいため、何度も「ホテルの部屋を空けておいてやる」とか「なんだったら荷物も置いて行ってもいい」などと言われたけれど、こうなったらもう、戻るつもりはない。
ただひたすらに、夜行列車はマレーシア半島を縦断している。

列車のすれ違うゴウ、という音を耳にして、ふと目を覚ました。薄目で天井を眺めながら、耳を澄ませて車両を窺ってみるが、列車が車体を揺らす騒音の中に、いびきらしき音が時折聞こえるだけだ。寝る前はなんとも思わなかった、車内の独特の臭いに気づく。少しでも疲れがとれたのかもしれなかった。
カーテンの隙間から薄っすらと差す灯りに、また褐色の肌が脳裏をよぎった。寝台の小刻みな揺れが、一度大きく跳ね、その振動に私は呻きながら寝返りをうつ。途端に、数時間前までおぼろげだった輪郭が、じんわりと滲んできた。一度開きかけた引き出しが、するりと滑りだしたのだろう。浅い眠りの狭間で、とりとめのない記憶がぽんぽんと跳ね上がる。
瞼を瞑ると、無理やり押し込んでいた満杯の記憶が溢れ、少し埃っぽい匂いを纏った光景が、雑然と頭のなかに散らばっていった。

学生の時インドで出会った友人は、私が思い起こす青春の傍らに、いつも立っていた。
歳が近いのに、既に占術師なんて子供騙しみたいな仕事で生計を立てていたけれど、胡散臭さは不思議とない男だった。
呼び名はすぐに思い出せる。アヴドゥルというエジプト人だ。名前はモハメド。どちらもイスラム系ではありふれた姓名ではあったのに、私が彼に抱いた印象はどちらかと言えば仏教的な考えを持っているということで、差別思想が少しも窺えない知識人だった。
背丈はおよそ190近くあった気がする。たいそうな長身で、その上筋肉質だったので、普段は寡黙なこともあって、いつも毅然として見えた。しかし、顔はあまりよろしくない。服装も随分とよれたものを着ていたからなおのこと、5年もの付き合いがあったのに、外見に関してはお世辞すら投げかけられる場面を、ついぞ見たことがなかった。
けれど、アヴドゥルが市街を歩く姿は悠然としていて、後ろをついて歩いた時などは、どこへ行くにも頼もしく思ったものだ。穏やかでいて厳格な風格には、どこか人を惹きつける魅力を纏っていた。
飽きるほどに話もした。当時私は留学中だったので、暇さえあれば政治や倫理について語り合い、時に意見をぶつけては煮えくり返りながら別れるなんてこともあったが、その翌日には相談事などを零して、口論をしていたことなどすっかり忘れている。
誰にも零せなかった悩みも吐き出し、そして喧嘩もする。そんな様子だから、互いに歯に衣着せぬ言動になっていくのに、そう時間はかからなかった。
「名前」
と呼ぶ低い声は、顔に似合わずいつでも柔らかかった。その音が好きで、私は自分の名前を案外いい響きなのかもしれないなんて、気に入りもした。
それにアヴドゥルは面倒見がいいたちのようで、私のこともよく気にかけてくれていた。
その頃は今よりもずっと、こと治安の悪い話題は尽きなかったので、私が出かけるようなことを言うと、
「女一人と見れば、乱暴になる連中も多い」
と心配をする。そうして何故かすまないと、まるで自分の過失を恥じるかのように詫びるのだ。アヴドゥルがかしこまることなんて少しもないと返しても、お前に不便をかけていると、頑として譲らない。インドを気に入っていると話していたからこそ、どこにでもある闇の部分が、思い切れなかったのかもしれなかった。
実際、信心深いヒンドゥー教徒に異教徒として紛れ込むと、外国人でしかも女と見ただけで、無遠慮に声をかけては下品な話題を投げかけてくる人々も大勢いて、道端で女性を見かけることも少なかったので、私にとってアヴドゥルの存在は何より頼りになっていた。
「遠出の際には必ず付き添う」
だなんて念を押すようにして言われもしたが、まさかそう何度も頼めるわけがない。遠慮をして知らせないことだって勿論あった。しかしアヴドゥルときたら、後で私が一人で田舎を回ったと知ると、必ず下宿先へ足を踏み鳴らして怒りに来るから驚きだ。
幾度目かの時、懲りずに下宿のベルを鳴らして、憤慨した様子で訪れたアヴドゥルを見た時、私は生真面目で実直な性格がおかしくってたまらなくなった。眉を寄せた顔が口を開くなり、堪えきれずに吹き出すと、
「何故笑う」
とまた憤慨するから私はますます口の中に笑いを押し込めることになる。
「私はお前を本気で心配しているんだぞ。気をつけねばならない場所もあるんだ」
「わかってる、ごめんって」
「本当にわかってるのか? お前は物事を軽んじるところがある」
「大丈夫、次はお願いするから」
アヴドゥルは、口に真綿を詰められたように言い淀んだ。私を戸口に立たせて、炎天下でまだまだ説教を続けるつもりだったのに、やけに素直な私に肩透かしを食らったらしい。アヴドゥルは続ける言葉を失って、黙考している様子だった。
日差しに目を細めながら黙って待っていると、腕を組む気配がする。少しだけ疑うような眼差しが私へ向けられていた。
「……誓うな?」
私は頷いた。何度も何度も、満面に笑って頷いた。にじみ出てくる嬉しさを押さえつけるので精一杯だったのだ。こんなに信頼できる人はいないと思った。アヴドゥルには遠慮はしない方がいい、とも思った。私はその日から、アヴドゥルへは下手な気遣いをしないようにしようと心に決めた。切に、信じられる人だと思ったからだ。
今でも思う。彼は、私の友人だ。きっとインドで唯一、心から信頼している、本当の。


列車はほぼ予定通りにハジャイへ着いた。
時刻はもう昼を過ぎている。ぐっすり寝られたのはいいものの、今度は入れ替わりに空腹の虫が騒ぎ出していた。微かな生ごみの臭いに混じって、どこからか甘栗の香ばしくて甘い匂いが漂ってくる。
ハジャイはタイからマレーシア国境へ走る国鉄の唯一の分岐点で、鉄道で出入国する際には、必ずこの街を通過することになる。人の流れが激しく常に途切れることがないため、商売をするにはうってつけの街なのだろう。
街には華僑が多いのだと、ホテルの主人から聞いていた。市場には輸入税を逃れた品物が多く、マレーシアよりずっと安い物価で物が手に入る。そのためにわざわざ国境を越えてまで買い出しをする華僑も大勢いて、町のそこかしこは中国人向けの店で溢れかえっているのだと。確かに呼び込みの声もシンガポールとは打って変わって、中国語が飛び交っている。
間接点のこの街は、両国を行き来する華僑の多さもさることながら、旅行者も立ち寄らずには国境を越えられないので、外国人向けの怪しい商売をするものも中には出てくる。
そういう活気と胡乱な空気を内包して、ハジャイはタイ南部一の都市として賑わっていた。

駅を出て、客引きを避けながら、その騒がしい通りを見回していた時だ。
「あっ」
と声が漏れた。駅から流れ出た集団の中に、記憶と重なる背中を見つけたのだ。まさかと思いながらも、私は咄嗟に声を上げていた。
「アヴドゥル?」
しかし、寝起きの掠れた声は、そこかしこから聞こえる中国語にかき消される。目の前をぞろぞろと横切る華僑らしき中国人の隙間から、徐々に離れていく男を覗きこむ。遠目から見る姿は、やはり似ている。
ついさっき思い出したばかりだ。こんなところで出会うはずもないと諌めてみても、見逃し難い直感が次々と湧いてくる。
何せきっかけは、寝台から似た人影を見かけた気がしたからだ。すると、あれは見間違いではなく本当にアヴドゥルで、知らない間に同じ列車に乗って、同じ旅程を進んでいたのかもしれない──
私は途端に興奮を覚えて、町の地図を貰うことも忘れ、繁華街へ向かう集団の背中を追いかけた。人違いなら謝れば済むことだけれど、声をかけなかったら、旅の間中気に病むことになる。
「アヴドゥル! モハメド・アヴドゥル!」
露店食堂に近づくに連れ、大声を張り上げないと、自分の声ですら聞こえないほどだ。精一杯喉を震わせて男の名前を叫ぶと、幾度目かの時、空耳を確かめるような顔で、ふと男が振り返り、半身の姿勢で足を止めた。空は晴れ渡っていて、男の顔がぱっと視界に浮かぶ。
私は思わず歓声を上げた。今度こそ腕を振りながら思いっきりに名前を呼んだ。誰も彼もが騒がしく、大声を気に留めるものはいない。食堂から漂う油の匂いが熱気に混じって肌へ押し寄せてくる。
「アヴドゥル! アヴドゥルーー!!」
そんな景色に紛れて、面食らったタコのような顔が、そこに立ちすくんでいた。

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