1/2

ミントのままではいられない

憂鬱な午後だった。
広場から通りに入ってすぐの、女店主が切り盛りするプランターだらけのオープンカフェは、季節ごとの花が楽しめるというので女性に人気があり、道行く人間も通り過ぎる時に鼻孔を掠める清涼な香りに、男女差がなく表情をやわらげる。
ぼくは、花は嫌いなわけではない。色彩があふれるバールで、フリージアに埋もれるようにして座っているのは気分が良かった。下水も排気の臭いもせず、女生徒の歓声ですら花の匂いに包まれれば、穏やかにあしらおうという寛容な気分が湧き上がる。
ぼくでさえそうなのだから、バールに足を運ぶものの多くには、輝くような午後のひとときが待っているのだろう。
「はぁ……」
と思わずため息を零すと、目の前の男が嫌そうな顔をしたので、続いて漏れるはずだった不満は仕方なくカフェラッテで飲み込んだ。甘いフリージアの香りが鼻から流れ込んで、舌の上でとろりと溶けた蜂蜜が体に浸透するように染みていくけれど、どんな甘みを取り入れようとも、胸を渦巻く苛立ちに似た尖った感情は解消されはしなかった。
「今日は随分陰気臭えな」
車雑誌を捲っていたミスタが顔を上げた。しかしぼくを見た後、「いつもと変わらねーか」と呟いてまたつまらなそうに雑誌へ目を戻す。無表情を皮肉ったらしい。
丸テーブルには食い散らかしたチェーナの残骸が飛び散っている。パンくずを男の方へさり気なく寄せながら、スープを口に含んだ。魚介の出汁がなんとも言えないまろやかさを残して胃に落ちていく。ぼくはムール貝を指で摘んで身を舌で掬ってから、殻をミスタの皿へ投げ入れた。からんという軽い音に、また虚しさがこみ上げてくる。
仕方ないだろう。授業も終わり自由に歩き回れる午後を、わざわざ派手なセーターを着たむさ苦しい男と顔を突き合わせているのだ。それもやたらと手を握り合いながら、幸福の絶頂を示してくるカップルに囲まれて座っているのだから苛立ちも募る。とにかく、我慢できないのだ。
「オイ、ここんとこ毎日奢ってくれるのはいいけどよ、いつまでこうしてりゃいいんだ」
またため息が漏れていたのか、ミスタは雑誌を開いたままテーブルに押し付けて、ぼくへ視線を送った。片肘をついた手は、自制するかのように静かに眉間を揉みしだいている。
ジョルノ、とミスタが遠慮がちに声を出した。
「何のためかは知らねーが、俺にも用事が……」
「細かいことはいいんですよミスタ、ぼくと毎日この時間、食事のたった数十分の間だけ、一緒にいてくれさえすればいいんです」
自分の口から次々と発せられる言葉に嫌気が差して、その感情を飲み込むようにしてパンを一気に頬張った。ミスタはぼくの言葉にあんぐりと口を開けている。
「気色悪ィな……」
という呟きが聞こえたかと思うと、目の端に映る男の顔は次第に歪んでいった。
ごほん、とわざとらしい響きで咳払いが落ちる。続いて椅子を引きずる音。向きを変えたらしい。
あまりにも騒がしいので、咀嚼しながらグラスを手にとってミスタへ目を向けると、男は半身でテーブルに肘をかけながら、視線をぼくへ合わせたり外したりと、四方八方へ忙しなく泳がせている。その間もあー、ともうー、とも言葉にならない声を漏らし、ミスタは頬を撫でていた手で口を抑え、それから反対の頬をなぞって耳を掻いた。
挙動不審にも程がある。男の言いたいことはもう既に分かっていた。できることなら忌々しいことを言う前に黙らせてやりたいが、それでも静止できないわけが、ぼくにはある。
そもそものっぴきならない理由がなければ、毎日ミスタを誘ってまでこんな人通りに面したオープンカフェに、飽きずに通ったりはしない。男のことが嫌いなわけではないが、誰だろうと顔を合わせすぎると邪魔臭くも思えてくる。たとえぼくから誘っているとしてもだ。その理由の中に、ミスタを思ってのことは何一つとしてないからかもしれない。
「い、言っとくけどなジョルノ」
テーブルをトントンと人差し指で落ち着きなく叩きながら、ミスタはようやくといった風に言葉を絞り出した。
「俺にはそ〜いう趣味はない! からな……わかってると思うが」
「ぼくにだってない」
苛立ちとともに吐き出す。そのことについては何度も言ったはずだった。ひと月も前から、数えきれないほど。

「女性は苦手だ……」
ため息混じりにそう言ったのがいけなかったのだ。
女子生徒に追い回され、予定していた他組織との会合に遅れかけたことで、取引が台無しになるところだった。そういう思いから疲労感が表情に滲み、胸からせり上がってきた気持ちがそのまま口をついて出てきてしまった。
更にタイミングの悪いことに、その時ぼくが何気なく開いていた雑誌のページは、ほぼ全裸の男が官能的なポーズを取っている男性用下着の広告だったので、それに手を添えながら吐き出された、アンニュイなため息の効いたその一言は、部屋にいた親衛隊の空気を凍らせた。
ギャングの世界というのは案外繊細で、男らしさの美徳を持った思想で蔓延している。家族にゲイなんて人間がいようものなら、ペストやリウマチのように隔離して秘匿するような人間が未だにいるほどだ。
幹部名義で購入した会合用の別荘には、ミスタと親衛隊しかいなかった。ミスタの欠点は、話を最後まで聞かないことだ。そして親衛隊は、常に最悪の事態を想定するような人間ばかりだった。
つまりその視覚のみで受け取った短絡的な判断と、ぼくの性癖が他組織に知られることでパッショーネそのものが蔑視を受ける状況を危惧する、二つの思考が重なった偶然によって、ぼくは見事に親衛隊や極々親しい組織の人間にゲイだと認識され、それを軍の機密事項であるかのように扱われている。
それならそれでいい。広まらないのなら、時を待てばいずれ誤解というのは解けていくものだからだ。
しかし最も厄介だったのは、ぼくが信頼していたよりも、ぼくに関する肝心の機密性が大して当てにはならかったということだ。
最も言われたくない相手だった。
「ジョルノ」
数週間経った頃、空腹を刺激するような香りを引き連れて、名前が神妙な様子でぼくを呼び止めた。
「あなた、その……気を悪くしたら謝るけど、ゲイなんですって?」
一瞬、息を呑む。声が出てこない。まず思考が追いついていなかった。
「……なんだって?」
「だから、」
ゲイよ、と口の横に手を当てて、わざわざ声を潜めて名前は言った。まるで子供の内緒話だ。
「……違いますよ。誰から聞いたんです? そんなでたらめ」
「いつもあなたといるお兄さんよ」
ほら、オシャレな帽子被ってる。と続けながら両手で頭をなぞる名前の仕草に、ぼくは脳裏にただ一人しか思い当たらない男を、記憶から無理やりに引っ張り出した。
名前はその間も、何故かにこにこと満足気にぼくを見つめている。
「あの人なんでしょ?」
「はい?」
「隠さなくたっていいのよ?」
「だから何がです?」
「パートナーなんでしょ?」
一歩一歩詰め寄るような問いかけに、思わず言葉に詰まった。
「どういう意味でです」
「どうって……そういう意味で」
名前が口元に浮かべる意味深な笑みに、困ったことになった、と思った。しかし同時に、彼女もなんら特別ではないということを思い知りもした。極々一般的な女性の、噂好きの特性を備えている。組織内でも漏洩の有り様なのだから、こんな美味しい話題を女性が放っておくわけがない。ことこういうことに関して、この人種はハイエナのようになることを、ぼくは重々知っていた。
黙って睨みつけると、名前は興味本位で質問攻めにしたことに、バツの悪そうに顔を俯けた。だって。小さく呟かれる声。彼女の目が、ちらりと上目にぼくを窺う。先ほどとは打って変わって不安を灯したその目には、しかしやはり、まだ疑りが篭っていた。
「……あなたを見る目が違うわ」
ぼくはその時、どんな顔をしていたのだろう。なんと答えただろうか。とにかくはっきりしていたのは、彼女の疑いは、あられもない方角から降りかかってきたということだ。
名前と出会った時、ぼくが思い描いた関係とはこんなはずじゃあなかった。彼女は1つ年上の同学で、人気のピッツェリアで働いている店員で、ぼくはその常連客というだけだ。
決して、ゲイなど詮索されるような間柄では。決して。

「マルゲリータを一枚、貰えますか?」
魔法の言葉は、ピッツァの名前で始まる。
両開き式の看板を閉じる音がすると、歩幅が大きくなる。最後には少し息を切らせて、看板をたたむ背中へ声をかける。幸福の瞬間を開く、魔法の言葉を。
エプロンのリボン結びの紐が跳ねてこちらを振り向くと、苗字名前は僅かに驚いてから、「いらっしゃいませ」と目を細める。その一瞬が好きだった。
彼女は寮近くのピッツェリアで働いていた。学校が周辺に点在していて、路面電車の停車地点にあり、生徒たちが時間ともなるとこぞって買いに来るおかげで客足が途切れることはなく、昼に開店しても客足の多い日には夕刻には店仕舞いしてしまうこともある繁盛ぶりだ。
噂は聞いていたが、混雑が面倒で行ってみたことはなかった。しかしギャングになって環境が変われば、足を運ぶ場所も変わる。
その時も夕方で、閉店間際だった。目の端に、件の店が飛び込む。看板を抱えた店員と思しき後ろ姿が、今にも店の中に入るところだ。慌てて追いついて、ぼくは弾んだ息を整えながら声をかけた。
「マルゲリータを一枚、売ってくれることはできませんか?」
懐かしさを覚える黒髪が振り返る。それが名前との出会いだった。

記憶から忘れかけていた店へ、わざわざ息を切らせてまで立ち寄る心境になったのには、ちょっとした背景があった。だからといって、大したことじゃあない。
今の高校へ入学させてくれたのは義父だが、無学な周囲の住民に見せつけるためであり、血も繋がっていない連れ子へ、父親としての義務を果たしていると顕示したいだけで、別段ぼくを思っての行動ではなかった。“ぼくのため”という理由は、両親の間にはノミより小さい感情も存在しないようだ。
わざわざぼくを追い出すために全寮制の高校へコネで入らせたのだから、今頃邪魔者もなく亭主関白を謳歌しているに違いなかった。何にせよ家から離れられるのなら、ぼくにとっても都合のいいことだったので、初めて利害が一致したことには幸運を覚えている。
養育力のない母を尊敬はしていないが、強かさにおいては一目置いている。イタリアに飽きれば義父を捨てて、さっさと別の場所へ飛び立つのだろう。つまり、ぼくの後見人はいないと言ってもいい。
そういうわけで、仕送りなど元から期待もしておらず、上手いこと申請した支援金で就学しているので、学業もなかなか疎かには出来ない。一日の授業を終えても、放課後には幹部からの報告を聞く必要がある。寮に部外者を入れて会合をするわけにもいかないし、また、一生徒を親衛隊が迎えに来ては目立っていけない。ぼくに両親が会いに来たことはおろか、話題にしたことすらないのだから、迎えが来るというのがぼくを知るものには前代未聞となってしまうのだ。
だから数キロ先で送迎の車を待機させるようにしてはいるが、それでも距離を歩く間、また、会合用に引き取った別邸まで移動する間に、お腹が飢えに呻いて仕方ないのだ。
名前の働くピッツェリアは、親衛隊の待つ道すがらの丁度いい場所にあった。
「でも、もう冷めきってますけど……」
「構いません。この匂いを嗅いだら、お腹がもうぺこぺこなんだ」
忍びないと言った風に声を沈めると、彼女は持ち上げていた看板を下ろして、店のドアを開けた。食事場所が二箇所しかない店内は狭いが、釜のある厨房からはまだ、ふんわりとした生地やらトッピングのトマトやらが焼けて混ざり合ったいい香りが漂っている。
この匂いは幸せでいて、胃袋には酷だ。食べ盛りの体に、欲求がどんどん膨らんでいく。
「あなた、ジョルノ君でしょ?」
「えっ?」
「去年のこの時期に、寮から急に失踪したじゃない。先生たちが必死で探しまわってたわ」
同じ学校なのだと、遅れて彼女が言った。トリッシュの護衛をしていた時のことだろう。記憶とともに不意に浮かぶ感傷を、ぼくは静かに押し留めた。
追われていたのもあって、一週間ほど無断で学校を欠席した。連絡など取れるはずもないし、あの両親が顕示欲以外でぼくに関心を示すわけがない。ふらりと寮に戻ってきた頃には、廊下には大きな顔写真が至る所に貼りだされていた。どうやら、行方不明の扱いにされていたらしい。その時のことを、彼女は覚えていたのだった。
「女の子をお金で追い払ったり、どんな不良なんだろうと思ってたけど……よかった」
「はぁ」
彼女がこの数分で、ぼくにどんな印象を抱いたのかは分からなかったが、想像とは違っていたようだった。妙に金持ちが良かったり、失踪したりという話ばかりを聞いて、余程の悪印象を抱いていたのかもしれない。
「私、苗字名前っていうの。あなたの一つ上よ」
そう言って厨房に入って行って、油っぽい店内にぼくは取り残された。店主に事情でも話しているのか、奥からはぼそぼそと微かな話し声が届く。暫くして、紙袋を携えた名前が戻ってきた。
「具があまり乗らなかったものなの」
どうせ売れないからおまけ、と名前がぼくの胸へ差し出した。はにかんだ頬にくっきりと浮かんだえくぼが、鮮明に目に焼きつく。
それからだ。開いている日には、足が自然とこのピッツェリアへ向くようになっていた。生地がいいのと彼女の人当たりの良さが気に入ったのだと思っていた。それにも間違いはない。しかし、捉えられたように彼女の元へ足繁く通う、まったく落ち着かなげな自分自身にも気づいていた。
きっかけは名前の一声だった。
「あら?」
と、袋にピッツァを詰め終えた彼女が言った。
「制服に埃がついてる」
ぼくの胸元に、彼女の白い手が伸びる。そっと触れた指先から、何かが点火する音がした。彼女の手を思わず握りしめる。はっとした名前の気配。彼女のすべやかな肌を手のひらに包み込んだ時、ぼくは自分の中に生まれていた燃えるような感情を初めて自覚したのだった。
「……自分で、」
一声目、ぼくは息継ぎをしなければならなかった。
「自分で、取れます……グラッツェ」
「え、ええ……」
困惑した声。握られた手に、余計なことをしたとでも思ったのかもしれない。ぼっと赤くなる彼女を、はっきりと可愛いと思った。今まで味わったことのない感覚だった。しかしそれでありながら、本能的に、胸に宿ったものが何であるのか、ぼくは理解していた。
無意識に、名前の触れた胸を抑える。確認する。
ぼくが……このぼくが、恋を──
気づいた時には、運命のような興奮さえ覚えていた。

それがどうしてなのか、ゲイと勘違いされる羽目になるなんて。出たところを呼び止められた店の前で、ぼくは唖然としたまま彼女を見つめ返した。
怒涛の問答が続いた後、眉間に皺の寄ったぼくを見て、名前は慌てて言葉を紡いだ。
「違うの、怒らないで……! 私、からかってるわけじゃなの、ただ……」
彼女は言葉を探すように何度か頷いて、ぼくと再び目を合わせた。
「本当なのか、知りたくて……」
ぼくは否、とも言うことが出来なかった。彼女がどうしてそんなことを聞くのか分からなかったからだ。
「それは単なる、好奇心からですか?」
ぼくの問いかけに、名前は口を閉じて、迷うように僅かに目を伏せた。答えなど待つ必要はなかった。
野暮な詮索をするような人ではないと思っていたのだけれど、彼女もやはり思春期の娘だったのだ、とぼくは失恋に似た思いを味わった。
「あなたと、友達になりたいの」
彼女の口から出たのは、ぼくが恐らくずっと待ち望んでいた言葉のはずだった。喜ばしい響きをたたえて彼女から零れたというのに。それは異性としてではなくゲイとして、交際に何の心配もない、女友達と同じであるかのような関係だ。
彼女の目は本気だった。
酷い言葉だ。けれど恋というのは、その辺の感情を鈍らせるらしい。名前の縋りつくような表情に、ぼくは遂に横に首を振ることが出来なかった。一緒にいられる口実になるのなら、と思ってしまったのだ。
ぼくの恋愛は、算段に染まることになった。

--|
menu|top


「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -