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苗字名前の本は、このようにして始まった。

『今日から入る人は、有名な漫画家らしい。そういえば、どこかで名前を聞いたことがある気がする。名前を知らないだけで読んでいたりして。』
『独身らしいけど大丈夫かな。随分若いみたいだから、心配はいらないのかも。人も足りないし数日だから我慢しよう。でも一応指輪はつけていこうかな。お母さんのをちょっと借りて行ったりして!』
『岸辺さんは二十歳って聞いていたけど、とてもそうは見えないなぁ。漫画家とか作家さんって、ずっと座って運動しないから老けるの早いのかな。』

読んでいる途中で思わず眉が寄った。失礼な奴だなと思って、顔を上げてぼくは無意識に鏡を探していた。生憎、顔の映りそうなものは台所には見当たらず、仕方なく本になった女の顔へ視線を戻した。
この家政婦が言うほどぼくは老けていないはずだ。少なくとも、年齢相応に見えるはずだ、と反論してやりたかったが、それは全て読み終わってから言ってやろうと心に決めた。
続きを指でなぞる。たったふた月なのに、思うよりも控えている文字が多い。女は独り言の多いたちのようだった。

『下見に来た時も思ったけど、家が大きすぎて迷ってしまいそう。でも台所も広いから料理している時は気持ちいいな!』
『昨日の味付けは岸辺さんの口に合わなかったみたい。作りおきがゴミ箱に入っているのが見えてしまってショック……出来るだけ意見を聞いてみよう』
『岸辺さん、最近は全部食べてくれているみたい。自信が付いてきた!』
『近所の方が岸辺さんのことを“露伴先生”って呼んでいるのを聞いていたら、私もうっかり“露伴先生”って呼んでしまった。岸辺さん、ちょっとびっくりしてたけど失礼じゃなかったかな』
『参考書を買いに行ったら、新刊コーナーで露伴先生の漫画を見つけた。思わず買ってしまったけど、露伴先生には内緒にしておこう』
『恐ろしいことに、いつの間にか手には最新刊まで全巻持っていて、気がついたら朝になっていた。なんだか寝不足だけど、仕事はしっかりしないと』
『案の定料理をひっくり返してしまった。お皿が割れなくて良かったけど、勿体ないことをした。露伴先生は謝ったら許してくれたものの、もう徹夜はしないことにする。』

思わず笑ってしまった。なるほど、確かに前に皿の中身を床へぶちまけていたことがあったような気がする。そうか、あの時のことか。
「フーン、ぼくの漫画を読んでねぇ」
くつくつと笑いながらまたページを捲った。てっきり漫画に興味のない珍しいやつだと思っていたが、やはり同年代らしい。特に気にもとめていない失態だったが、それなら許してやってもいいと思った。

『紅茶を淹れてきてほしいと言われたので、露伴先生の仕事部屋にお邪魔した。初めて入ったけど、凄く広くて本やインクの匂いがする。なんだかとても落ち着いた。』
『露伴先生の庭にあざみが咲いていた。丁度先生の部屋の前だけど気づいているだろうか。もしかしたら先生も仕事をしながら見ているかもしれない。』
『母の容態が良くなってきた。少しずつ体を起こせるようになってほっとした。ほとんど毎日露伴先生の話ばかりしていたので、母から聞いてくるようになった。ちょっと恥ずかしい。』
『スーパーでトマトの安売りをしていた。露伴先生の冷蔵庫にもトマトが入っていた気がする。作る料理が思いついたので、家で試してみてから今度作ってみよう』
『露伴先生が旅行から帰ってきて、写真を整理していた。ちらっと覗いたら見てもいいと言ってくれた。旅行の話がとても面白くて、案外お喋り好きなのかもしれないと思った。』
『露伴先生はベルガモットの匂りが好きみたい。アールグレイの茶葉が湿った時の香りが漂うと、先生の横顔が少し和らぐ気がする。』
『今日パン屋の前で露伴先生を──』

急に、顔を伏せたくなった。屈めた腰のあたりをムズムズとした感覚が襲っている。もしかしたら、さっきからずっとそうだったのかもしれない。徐々にじわじわと、その感覚が這い上がってくるのだ。
露伴先生──その活字がどうも、むず痒くて仕方ない。
続きを読むかと思ったが、なんだか欲求は満たされてしまっていた。今度こそ、これで十分だという気持ちでいっぱいになっていた。もういい。もう、いいだろう。
読む気はなかったが、残りはあとどれくらいだろうかと、一応次のページを捲る。
滑らかな上質紙を挟んだ指で撫でながら、意識せずとも飛び込んでくる文字を辿って、つとページの隅へ目をやった。今までとは違う小さな、薄い文字が指の影から見える。ひっそりと、そこにあった。
『どうしよう露伴先生のこと……』

気づけばぱたん、と押さえつけるように本を閉じていた。
「………」
なんだ、これは──言うはずだった。口から出てくるはずだったのに、何故か声にならなかった。なんだこれは。
じんじんと、耳に何かがせり上がってくる音がする。顔が熱い。重力に顔面の血が引っ張られているように重い。自分でもわかる。これは、人に見せてはいけない顔だ。
「露…伴、先生……?」
動揺した声が耳を撫でた。びくっとして顔を上げると、ぼくの腕に抱えられていた苗字名前が、恐る恐るぼくの名前を呼んでいた。その目や額は、ぼくの骨ばった手で隠されている。
自分がスタンドを解いていたのに気づかなかった。僕は本を閉じた瞬間から、彼女の顔を手で覆ったままでいたようだった。
「す、すまない、倒れそうになっていたから…」
と用意していた理由を告げて、慌てて顔から手を離す。
「い、いえ…ありがとうございます……」
腕の中から現れた苗字名前の顔は、ぼくの想像を遥かに超えていた。自分の顔を見られちゃたまらないと思って、顔を背けようとしたぼくの目に入ったのは、今まで見てきたどんな映画よりもリアルな、“羞恥”の表情だったのだ。
困ったような、嬉しいような、それでいて悲しいような。照れると人はこんな顔をするのかと思わず見入ってしまった。
彼女を支えていた片腕に、無意識にぎゅっと力が入る。柔らかな体が、少しだけ硬くなった。
「……すぐに、お茶を淹れます」
そう言って起き上がる時、ぼくの胸に僅かに寄せられた手の感触がこそばゆい。
あの方と何かあったんですか?──
不意に康一君の声がぼくの脳裏に蘇った。何かあったのはぼくの方じゃない。彼女の方だ。つまり君の感覚は、全く外れちゃいなかった。いつも通り飛び抜けて、冴えていたのだ。
赤らんだ顔をどうしようかと思った。ぼくの腕を抜け出して慌てて紅茶の元へ逃げ去った彼女が、靴を鳴らしてぼくの方へ振り向くのも時間の問題だ。
「まいったよ……」
俯いたまま息を吐くように呟いてから立ち上がり、薬缶でお湯をわかしている彼女の背中に声を掛けた。
「名前さん」
慣れない感覚だ。そういえば彼女の名前を呼んだのは、初めてかもしれない。
「……はい」
何拍も置いてから、彼女は薬缶に向かったまま、出来るだけ明るく返事をしたようだった。ぼくはしゃがんで、食器棚の下から花瓶を探すふりをして、それからこう言った。
「庭のあざみの花を数輪、台所に飾りたいと思うんだ」
肩越しに、彼女を覗きこむ。薬缶を落ち着かなく見つめていた顔が、ゆっくりと振り向くのが見えた。
「良かったら、摘んで来てくれないかい」

その時の苗字名前の表情と言ったら、筆舌に尽くしがたい。とにかく、幸せそうだったのだ。見ているこちらまで照れてしまいそうになるほど、顔立ちの全てに喜びが滲んでいたのだ。
「はい、すぐに…!」
薬缶の火を止めると、引き出しから取り出したハサミを抱えて飛び出すように台所を出ていった彼女の背中に、ぼくからは力の抜けた笑い声が出た。
「ふ……」
顔の熱は未だに収まらない。適当な花瓶を引きずり出してテーブルの上に乗せてから、さてどうしようかと立ち尽くした。まずは彼女が戻ってくる前に、この情けない赤ら顔を直さなければならない。
しかしその後は?──思っても何も思い浮かびはしなかった。
彼女に任せてしまおう。そうするのがいい。これは岸辺露伴の勘だが、きっと彼女ならいい展開へ導いてくれるはずだ。多分、悪い方向へは行かないだろう。
ひとつ頷いて、直ぐに頭を切り替える。それを、逃げているとは少しも思わなかった。

それで結局康一君とのゲームは、勝手に勘違いをしたぼくが負けたということになるのか。けれど、そういう言い方をした康一君が悪いとも取れないだろうか。それならぼくの取材に付き合ってもらっても、全然構わないだろう。
露伴先生──
あざみを抱えて駆け寄ってくるだろう、今にも聞こえてきそうな柔らかい声を反芻しながら、コンロの火をつけた。やっぱりぼくにとっては、どちらに転んでも損はなかったようだ。
「カップは…二組用意しておこう」
湯気と一緒に頭に浮かんだ、彼女のやわらかな笑顔を振り払う。
あくまでもこれは、ぼくの淹れる紅茶の方が何倍も美味いということを、彼女に教えてやるためだ。

もうすぐ聞こえる靴音に、ぼくはこれから彼女へ使うだろう一番最初の言い訳を考えた。ゆっくりと、彼女を待つように。


|終
12/11/12 短編
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