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ノックの音が聞こえたか



広瀬康一に洞察力はないが、人格を見る目には敬意を評していた。彼はほとんど感覚的にそれを感じ取っている。
理屈ではないので、きっと尋ねられても彼自身、理由をつけて人を説明することも紹介をすることもできないのだろう。そういう点では非常に不器用な人間だったが、その理由をつけず感覚的に人を信頼する性格がまた、広瀬康一が感覚的に人に好かれる所以となっていた。
広瀬康一──つまり康一君の感覚は何故か絶対だ。ハズレというものがない。人の変化に敏感で、異変を感じ取りやすい。
その康一君がある日、書斎の椅子に座っていたぼくの耳に口を寄せて、「あの方と何かあったんですか?」と唐突に尋ねてきたのだ。
康一君の視線の先には、ふた月前から雇い始めた家政婦が花瓶の水を取り替えていた。


康一君の人格に対して発動する勘は、飛び抜けて優れている。そしてそれはいい方にも、悪い方にも差異はないのだ。
まさか──とぼくが真っ先に思い浮かべたのは、家政婦の手癖の心配だった。思い立ったら動かずにはいられないのがぼくの性格だ。
疑心を解消しようと、早速女が調理をしているキッチンへ向かい、ヘブンズ・ドアーを出して歩み寄る。
しかし背後へ近づいた途端、不意にぼくの頭が急速に熱を持った。面白いことを思いついた時の合図だった。カッと頭が熱くなって、急に周りが見えなくなるのは不便だったが、家政婦に対してあるゲームを思いついたのは、ぼくにとっても前触れがなく意外なことだった。

一つ、康一君の勘と勝負してみよう──そんなことが真っ先に浮かんだ。
もし康一君の勘が働いて家政婦が盗みをしたのなら、ぼくはヘブンズ・ドアーできっちり家政婦の記録を読み、“盗んだものを返し、岸辺露伴のものは一切手を触れられない”と書き込む。
そうすればどんなに仕事をしようとしても触れられず、ドアノブも握れないので外にも出られず、その家政婦は泣きべそをかいてぼくに縋りつくことになるだろう。ぼくはひと通りそれを観察してから、派遣業者に送り返せばいいだけなのだ。
しかしもし康一君の勘が外れて何も起こらなかったのならば、来週辺り、康一君にぼくの取材に是が非でも付き合ってもらおうじゃないか。
我ながらいい考えだとほくそ笑んで、ぼくは家政婦に向けていた手を下ろした。
「あ、露伴先生」
ぼくの気配に気づいて振り返ったのは、苗字名前という20半ばの若い家政婦だ。
お玉を持った手をうろうろさせながら、「もしかしてもう昼食の時間でした?」とエプロンに入れていたらしい自分の時計を確認しようと、慌ただしくまさぐっている。
「いや、少し喉が渇いたと思ってね」
「今お淹れします!」
「いや…」
自分で淹れる、と言う前に家政婦は火を通していた鍋をサッと避け、代わりに薬缶を置いてお湯が沸く間にテキパキとカップと茶葉を用意してしまった。その手際には感嘆せざるを得ない。
若いが、適当に仕事をするような人間ではないようだと、それだけで感じられた。

そもそもぼくが家政婦を雇い始めたのには、これといった理由がない。もっともらしい理由をつければ、“一経験と参考のため”とでも言えるのだが、それはほとんど“ただの好奇心”とも言い直すことが出来た。
ぼくは自分の生活環境に他人を入れるのは、あまり好みではない。静かな土地で穏やかな空気を吸いながら、誰に急かされることなく自分自身のペースで仕事をしたいと思い、杜王町へ越してきたのだ。不躾に生活に干渉されることは、ぼくにとって好ましくはない。
でも、試してみたことのないものには、とことん興味があった。特に家政婦というのはドラマや小説ではよく見かけるものだが、体験をしたことはない。だから数日試してみようと、半ば興味本位で登録してみたのだった。
そうして最初に派遣されたのが、今ぼくの観察下にある苗字名前という女だった。

とりあえず食事のみを任せてみて思ったのは、「悪くはない」ということだ。
登録する際にぼくの年齢も独身だということもはっきり伝えていたはずだったので、てっきりイメージ通りの熟練した主婦が来るのかと思っていたのだが、たった数日だという理由からなのか、どう見ても20半ばの女が訪ねてきた時は驚いたものだった。が、味は見た目以上に熟練していると感じられた。
縄張りに踏み込まれることを極端に嫌うぼくが、こうして気づけばふた月も家事代行を頼み続けているのは、案外自炊をせずに済んで楽だったからだ。一種の物新しさに対する好奇心と、芽生え始めた怠け癖がだらだらと契約を引き延ばしていた。
何より、苗字名前という家政婦の作る料理は、ぼくの舌にとても合っていた。懐かしさを感じさせる、家庭の味だった。
だから毎日違う人間に代わる代わる入って台所を荒らされるよりならば、この“味覚の合う”苗字名前という家政婦を、ぼくが契約を切るまで派遣してもらおうと思ったのだ。

カタン、と目の前に木製の小さなトレーが置かれた。それに気づいて、テーブルに寄りかかっていた身を起こす。
「紅茶には何かおつけしますか?」
「いや、いいよ。部屋にチョコレートもあるからね」
ぼくがそう言うと、家政婦は何がおかしかったのか、トレーにティーポットを乗せながら微かに笑った。
「あと20分ほどでお料理できますので、ラップを掛けて置いておきますね」
「ああ、ありがとう」
家政婦の淹れた紅茶をソーサーごと手にとって、その場で少し啜りながら、コンロに鍋を戻して調理に戻った女の背中を横目に見た。
はたして盗むだろうか。ぼくは先程の女の笑顔を浮かべながら、康一君との一方的な勝負の行方を考えていた。
若い家政婦はもうぼくに構うことなく、まな板に向かって自分の仕事をこなしている。タンタンタンと、軽快にまな板を打つ音を辿れば、白い手が野菜を抑えているのが目に入った。
はじめて来た時、女は左手の薬指に指輪を嵌めていた。今は知らないが、仕事中は外しているのだろう。しかしその指輪が単なる予防であるということは、ぼくのスタンドを持ってすれば簡単に把握できることだった。
苗字名前のことは、ほぼ全て把握している。手癖の悪い家政婦も偶にいると聞いていたから、初日にきっちり彼女の過去を読ませてもらったのだ。
彼女は片親という以外、極々平凡な青春を過ごしてきたようだったが、半年前に勤めていた会社を辞め、今は発病して倒れた母親の面倒を見ているようだった。自由に動けなくなってしまった親の世話をするために、介護職に就きたいのだという。まだ親の容態が良くないので本格的に勤めるということは出来ないが、その研修のために地道に稼いでいるらしかった。
その内容はその時のぼくにとって、所謂“合格点”に十分到達していた。信用できそうな人柄だと思ったのだ。
しかしその反面、一人で支えている生活は苦しそうであるし、人の面倒を見るというのは自分の行動を制限され、精神的な負担も大きくなってくる。絶対に間違いはない、と断定することはなかった。
そして、康一君の一言へ繋ったのだ。

ぼくは苗字名前という家政婦の親孝行ぶりには、尊敬の念すら抱いていた。漫画ではすぐに読者の信頼を得る人物だろう。しかしこういう一見虫も殺せないような登場人物ほど、苦労から迷い、精神的なダメージを受け、真面目な性格ゆえに道を踏み外してしまうことがあるのだ。
あくまでも漫画の話ではあるが、こう考えながら彼女の様子を観察しているぼくは金品を盗まれる心配よりも、いかにも善人な彼女が“盗む”という、それまでのドラマを期待しているのかもしれなかった。


それから毎日彼女が昼食の支度をする時間、わざわざ飲み物を取りに台所へ顔を出し、仕事部屋に戻るふりをして彼女の様子を影から覗き込んでいた。
依頼内容は食事のみだったので、彼女の行動範囲は台所からリビングの間だけになる。彼女が仕事をしている二時間は、ぼくは原稿もそっちのけでこの軽いゲームに没頭していたのだが、4日も経つ頃にはあまりにも普段通りの様子に飽きてきて、途端に我が家でこそこそと探偵ごっこをしている自分の姿が馬鹿馬鹿しく思えてきたのだった。
「康一君の負けでいいよな」
ぼくはもう十分だと思い、肩をすくめた。家中すっかりいい匂いが漂っていて、恐らくあと数分もしない内に苗字名前はテキパキと調理器具を片付け始めるだろう。
空腹を誤魔化すためにボリボリと頭を掻きながら、身を隠していた壁から台所の方へひょいと顔を出す。

「あっ」
と零れそうになった声を飲み込んだ。
苗字名前は台所の食器棚の前で、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいた。そして床に手を触れると、何かを掴んでポケットに突っ込んだのだ。
考える間もなく、すかさずヘブンズ・ドアーを発動していた。
遂に来たか!──と疑心が確信に変わった高揚感を抱きながら、意識を失って床に倒れた家政婦の体を、膝をついて抱き起こす。
「さてさて、善人が盗みに至るまでの心理を見せて貰おうかな」
わくわくとしていた。ぼくは少なからずこの若い家政婦を信用して雇っていたのだが、漫画家として、研究材料として、苗字名前という人間の人格を見込んで、盗みというドラマを犯すこともまた期待していたのだ。
ヘブンズ・ドアーさえあれば、盗まれたとしても手元へ戻る保証はあるし、たとえゲームに勝とうが負けようが、どちらに転んでもぼくに損失は何もない。
知らず知らずに、口元に笑みが浮かんでいる。引き締めようとは思わなかった。親指で弾くようにページを捲って、先程の行為について記された記事を見つける。
一文字も漏らさまいと、食い入るようにそこへ視線を寄せた。

『食器棚とくずかごの隙間から花の種を見つけた。無料で配布されていたもののようだ。露伴先生は捨てるつもりだったのかもしれない。どんな花が咲くか分からないけど、小さい植木鉢が窓際に置いてあるので、植えてみたらだめだろうか。家の中は骨董品ばかりだから、台所に置いたらきっと家の中が少し華やぐかもしれない。その方がお茶を飲みに来た先生も、心が休まるかもしれない。先生に後で聞いてみよう』

唖然とした。白だ。真っ先ににその言葉が浮かんだ。
何度も読み返すが、間違いはない。白だ。彼女は何も盗んでいない。ぼくの勘違いだった。
それどころか彼女の仕事に対する姿勢は、“依頼内容をこなせばいい”という機械的なものには収まらないらしい。まるで仕事を通して、家事代行を通して、料理を通して、心の内側からのケアを行なっているようだ。

ぼくはページを開いたままにして、彼女が先ほど手を入れたエプロンのポケットを確認しようと手を伸ばした。中をまさぐって指先に当たったものを引き出すと、彼女自身の本に記された通り確かに、紙に包まれた何かの種が目に入った。
「しまったな」
ぼくは彼女が何かしらのネタになることを期待し過ぎていたようだ。ヘブンズ・ドアーで探したとしても、こんなに真面目な人間にはなかなか出会えないだろう。
折角だから全部読んでしまおうか、とぼくは思った。ヘブンズ・ドアーは彼女が盗んだ所を目撃してから使う予定だったけれど、ぼくの早とちりであっても彼女をもう本にしてしまったのだから、これを読まない手はない。
もう一度腕で彼女を支え直して、苗字名前がぼくの家に訪れた部分までページを遡った。ぼくが彼女に関して読んでいないのは、ふた月前の契約開始からだった。


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