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初恋

01



そのおばあさんと出会ったのは、夏も終わりを迎えた頃だった。私は部活動中に足を骨折してから、毎週県立の大きな病院へリハビリに通っていて、何時間待っても人の減らない待合室で、長い時間を無駄にしていたのだった。
そこに、いつも見るおばあさんがいた。歳はもう60も過ぎたくらいだろうか。同じ長椅子の大体決まった位置に腰掛けて、ピンと背を伸ばして座っている、品のいい人だった。
ある時、私が暇つぶしという苦行に耐えかねて欠伸を漏らすと、そのおばあさんとふと目が合ってしまった。逸らそうにも、不精をしたせいで手を当てずにぽっかり開けた大口が、ばっちりとおばあさんに見られてしまっていた。行儀の悪さに気づいて、しまったと思っても、まんまるく目を見開いてお互いに唖然としている状態だったのだから、知らん振りをするのも不自然なように思えた。
私は真っ赤になりながら、照れ臭そうに笑うことにした。幸い暖房を入れ始めた病院内は、初秋にしては暑すぎるくらいだ。そのせいで、欠伸もでてしまったのだろうけれど。
向かえ側に腰掛けていたおばあさんは、私の様子に怪訝な顔つきをするわけでもなく、ぱっと相好を崩した。座った姿も若く見えたけれど、愛嬌のある笑みが皺を刻むと、人見知りの私でもほっとする気持ちになる不思議な笑顔だった。
「これだけ待たされると、疲れちゃうわねぇ」
本当に恥ずかしくなった私に、おばあさんは朗らかな調子で話しかけてきた。人で溢れた待合室の騒がしい雰囲気には、その声は強く響くこともなく、よく馴染んで私の耳に届いた。
「はい……毎週来てるので、座った途端に飽きちゃいます」
「分かるわ、私とおんなじね」
恥ずかしい所を見られたせいか、それを笑いあったせいか、少しの身構えもなく、驚くほど軽い気持ちで声が出る。幾らか言葉を交わした後、もうすぐお昼時ということもあって、話題は病院内の食堂のランチへと移っていった。
ほっとした。話し相手が出来れば、時間も早く過ぎていくだろうと思ったのだ。おばあさんも私と同じ気持だったようで、ひとしきり盛り上がった後、
「良かったわ、一人って本当に退屈なの」
と胸に手を当てて笑った。
廊下の奥から清潔そうなナース服を身にまとった看護師さんが現れ、受付番号が呼ばれる。私とおばあさんは会話を中断して、手に握りしめていた受付番号を確認した。「あら」という声が上がった。
「やっと私が呼ばれたわ」
おばあさんが嬉しそうに私に微笑んで、壁に掴まりながら重たそうに立ち上がる。その時になって初めて、老いを感じさせる動きを見せたので、私はおばあさんが思うよりももっと歳なのかもしれないと感じるようになった。しかしそれも一瞬のことで、しゃんと胸を張った姿は、ショッピングモールのウィンドウできらびやかに飾られたマネキンみたいに堂々としている。
数歩歩いてからおばあさんは、見惚れていた私を振り返った。
「とっても楽しかったわ。あなたももうすぐの辛抱よ」
私はおばあさんの大袈裟な表情で言った「辛抱」の響きがあまりにもおかしくて、ついつい笑ってしまったのだった。

おばあさんとは何度か顔を合わせている内に、お互いの退屈を解消するために話をするようになった。
人付き合いの上手い方ではない私は勿論、最初はお辞儀をするだけだったのだ。でも、人だらけの広い病院内だというのに知り合いもおらず、一人で延々と順番を待ち続ける孤独感があったのか、おばあさんは私を見つけるなりぽつりぽつりと当たり障りのない話を振るようになった。
それが続く内に、私の方もすっかり気を許して、「今日の調子はどうですか?」なんて自分から話しかけるようになる。一言二言が段々に会話になり、席が空いていれば隣へ座るようになると、いつの間にか何も言わずとも、お互いに席をとっておくようにさえなっていた。
「あなたはどこを怪我したの?」
という問いに、私が足を骨折したと言うと、おばあさんは「私もあなたくらいの頃に足を折ってしまったわ」とお揃いだと笑った。
「私は腰の骨を折っちゃったのよ。この歳だからもう歩けないって言われたけど、なんだか知らない内にくっついちゃって」
とんでもない内容だというのに、「どうしちゃったのかしら」なんてひょうきんな喋り方に、私は笑い声を漏らしてしまった。
「良かったわ、この歳になると、喋りたくてたまらないの」
おばあさんがどこか子供っぽくて、年齢も関係なく気さくに話しかけてくれるせいか、人見知りの酷いたちなのに、気づけば私はまるで旧年来の知人のような心持ちで接していて、それが妙に心地よかった。
欠伸に支配されていた待ち時間は、こうして笑いに溢れるようになっていた。

数度目のことだった。初めて会話をしてからとうにふた月は過ぎて、雪がちらほらと降り始めたことから、まだひと月以上も先だというのに、町のいたる所ではクリスマスの話題をよく耳にするようになる。経過次第では、私のリハビリを終了してもいいと言われていた頃だった。
院内でも、入院患者のための装飾が秋から冬バージョンに変えられ、クリスマスを意識した色が明るく目立っている。それを眺めていたおばあさんが、ふと思いついたように言った。
「あなた、彼氏はいるの?」
おばあさんにとっては、何となくだったのだろう。私を見つめる表情には、興味以外の感情は見られない。
「いないですよ、これっぽっちも」
「あら、」
肩を竦めながらの、私のあっさりとした答えに、おばあさんは意外そうに目を丸めた。
周りは年頃とあって異性への興味を持ち始めているというのに、私ときたらその方向に関しては殊にぼんやりとしすぎていたせいで、色めき立つ雰囲気に完全に置いてけぼりを食らっている。親にも「女やもめの枯れ枝」とからかわれては、ふて腐れる日々なのだ。
男の幼馴染みはいるが、漫画やドラマであるような乙女チックな展開になるかと思えば、そちらもぼんやりとしていてまったくもってそんな感じではない。
「本気で恋、したことないんです」
と私は頬をかいた。そんな私に、おばあさんは何かを感じたらしい。
「私もそんなものだったわ。今の夫とだって、恋をして一緒になったわけじゃないもの」
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ。去年脳溢血で死んでしまうまで、一度だって私を怒鳴ったりすることもない、優しくて誠実な人だったわ」
羨ましいと言った私に、おばあさんは「でもね」と続けた。
「やっぱりそこに恋なんて一度もなかったのよ」
恋がない。それはつまり、好きで結婚したわけではない、ということなのだろうか。
じゃあどうして──と聞きかけて、私は口をつぐんだ。まさか。そんな予感が、胸にせり上がってきたからだった。
「好きな人がいたの」
おばあさんが言った。
「想い合っていたけど……だめね。彼は、臆病だったから」
そんなの悲しすぎる、と思っても、私は簡単には言葉には出せなかった。
おばあさんは穏やかに笑っていたけれど、その胸中は知れない。まだ20年も生きていない私には、気の遠くなるほどの思いが、その笑顔が染み込んだ皺に、刻まれているような気がしたのだ。


病院からの帰り道、自販機で煙草を買っている承太郎と会った。
いつも煙草を買うなと、私が口を酸っぱくして言っているというのに、前から歩いてくる私の姿を見ても悪びれもせずお金を投入し、ボタンを押した。ピッという軽い電子音のすぐ後に、マルボロのロゴが入った箱が、軽い音を立てて取り出し口に落ちる。
屈みこんだ大きな背中を見下ろして立つと、取り出し口に手を突っ込んでいた承太郎は、「おう」と言いながら体を起こして、私へ箱を見せつけるように空中で弾いてキャッチをした。
「そんなのばっかり吸ってると、今に早死するんだから」
「てめーの命じゃねぇだろうが」
雪がちらほらと降っていた。承太郎の鬱陶しそうな声が、薄暗い住宅街に落ちる。承太郎は煙草の箱を、潰れるのも気にせずに制服のズボンのポケットへぎゅっと押し込むと、私に構わずに歩道を歩き始めた。彼の足から予想できる歩幅よりも、それはずっと狭い。
町内でも広い一戸建ての多いこの区画は、20年ほど前の新興住宅地開発当初に高値で買い入れた、大きな家が多い。そのせいか人通りも少なく道幅も広々として、垣根や塀から覗く手入れされた庭の風情を眺めるには、穏やかで丁度いい道だった。
私はゆるゆると歩く承太郎の背中を、駆け足で追いかけて隣へ並んだ。私が歩調を合わせるなり、「病院は行ったのか?」と承太郎が静かに口を開いた。
「うん、今日で終わりでいいって」
「随分かかったな」
「承太郎じゃないんだから、これが普通でしょフツウ!」
「そうか?」
怪我をしてもあっという間に完治してしまう承太郎に、過保護な聖子おばさんは心配しつつも「おじいちゃん似ね」とうっとりとしていたことを思い出し、私は羨ましく思った。私は数ヶ月もかかったというのに、承太郎ならきっと半分くらいの期間で治してしまうのだろう。
口内の温度が外の冷たい空気に馴染んで、白い息が薄くなり、風景に溶け込み始めている。肩から落ちてきたマフラーを巻き直しながら、「そういえば」と私はのっぽの幼馴染みを見上げた。
「承太郎に話してなかったけど、病院ですごく素敵なおばあさんに出会ったの」
「ほー」
前を向いたまま黙々と歩いているばかりか、承太郎の声には少しも感情が込もっていない。寝起きのような適当な声だ。
「……興味ないでしょ」
「ああ、ねぇな」
またもやどうでもよさそうに即答だ。
うわさ話どころか、他人の人間関係にもとことん興味のないやつだとは思っていたけれど、ここまで来ると心配になる。
「どうせお前のは煽てられて喜んでるだけだろ」
「あー!そういうのは最後まで人の話を聞いてから言うものです!」
ムキになると、スカしていた承太郎が喉を鳴らして意地悪く笑った。
百メートルは続くと見える白塀の中程で、承太郎が立ち止まった。屋根に瓦が敷いてある木造の大きな門が、着崩した学ランをまとった承太郎の背後にそびえ立っている。“空条”の表札を眺めながら、私は言い返そうと開きかけた口をつぐんだ。
空条家はこの界隈では有名な豪邸だけれど、新築の家ではない。世界的にも有名なのだというジャズ・ミュージシャンのおじさんが、聖子おばさんとの結婚後に、資産家が売り出していた平屋を庭ごと買って、住みやすいように改築したのだという。
おじさんは昔から忙しく公演で海外を飛び回っていてあまり日本にいることはなかったので、自分の腰を落ち着ける邸宅というよりは、不動産王のお嬢様として育てられたおばさんが窮屈感を覚えないように建てたものなのだろう。それにしたって、隣の地区に並ぶ極々普通の一軒家の一つに住む私にしてみれば、規格外な敷地の広さには、いつ見ても呆気にとられる。
庭を作る時に新しく持ってきて植えたらしい杉の大木が、承太郎の背丈以上もある高い塀からも見え、その枝が風に揺れてサラサラと音を立てている。
私は門に手をかける幼馴染みを見送る素振りで屋根の下に入った。大きな背中は振り返らない。まるで寺門のような高さの棟を見上げて、落ち着かなく足元の石畳へ視線を落とす。カバンを持つ手を持ち替えて、聖子おばさんが掃きそびれた落ち葉をつま先で蹴る。
「おい」
と、俯いた頭のてっぺんに、ようやく低い声がかかった。上目におそるおそる窺うと、門の蹴放しを跨いだ承太郎が呆れた顔をして、口を尖らせていた私を振り返っていた。
「……入るのか?」
入らねぇのか──とまで続きそうな声色に、私は遊び相手にしていた落ち葉からぱっと顔を上げる。
頻繁に寄って行くくせに、いつも承太郎に誘われるまではとぼけたように待ち続ける私が、いい加減白々しく思えたのに違いない。私が笑いながら頷いて寒さにかじかんだ手をこすり合わせると、振り返りざまの承太郎は、「やれやれだぜ」と零したそうにため息を付いた。


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