1/2

瞼の裏のララバイ

01



サンルームの清潔な広い食堂で午前の疲れをとった後、空になった食器を片付けて職場への長い通路を歩くと、まだ昼休憩中なのか、機材の準備で忙しかった病棟は窓から燦々と日が差すばかりで人の気配はなく、がらんとしていた。
「うーん!」
人がいないのをいいことに、漏れる声を抑えず思いっきり背伸びをする。よく晴れた外の光が暖色の廊下を反射して、さわやかな空間に知れずに心が浮き立った。
明後日から私は、スピードワゴン財団が新しく設立した病院にカウンセラーとして配属されることになっていた。新しく開業する病院はまだ薬品や患者から漂う生活臭もなく、真新しい匂いばかりが漂っている。履き古したナースシューズがつややかなビニル床に吸い付いて、歩きやすく気持ちがいい。

ここへ来るまでは決してひとっ所にいられるような状態ではなかった。常に本部と支部の間を行き来し、他のチームに同行して現地における患者の精神的なケアをする役目を担っていたため、腰を落ち着ける暇もなく各地を飛び回っていた。
本当にいろんな所へ行った。言語には自信のある方ではないが、それでも現地の通訳を介してなんとかやってこられたし、そのお陰で一生分の旅をし、一生分の出会いをしてきたように思える。
それが二年目でようやく腰を落ち着けられるようになるのだと思うと、ほっとしたような、まだまだ旅をし足りないような、どちらとも言えないもどかしい気持ちになる。
「苗字さん」
「は、はい…!」
これから過ごす場所を確かめるように、手すりを撫でながら一歩一歩廊下をなぞっていると、後ろから財団の看護チームのチーフが両手いっぱいにシーツを抱えて私を呼び止めた。
すっかり油断していた。どこを見渡しても新しく綺麗な病棟に盛り上がり、鼻歌でも歌いそうな気分でいたために、私は顔をほんのりと赤らめながら後ろを振り返った。
明後日からといえ、まだベッドすら運ばれていない部屋も沢山あり、今日いっぱいは派遣された財団の人間は全て慌ただしく病院内を駆けずり回ることになるだろう。熟年のチーフは私の顔を見てほっと笑みを漏らしながら、きびきびと歩み寄った。
「丁度良かった。一番端の個室、まだベッドメイクをしていなかったと思うの。休憩が終わったらでいいから、シーツを敷いてきてくれない?」
「いいですよ、もう十分休みましたから」
きっと、昼も休まずに動き回っていたのだろう。少し汗の滲んだチーフの顔に笑ってから、私は廊下を引き返してシーツを受け取った。パリっとして、ノリの香りがする。
「無理しないで少し休まれて下さい」
「大丈夫よ、私、働いてないと落ち着かなくて!」
サバサバとした物言いでナースステーションへ引き返していく背中を見ながら、私は軽いシーツを抱え直した。

以前に同じようなことを言っていた人を、私は一人知っていた。その人は財団の人間ではなく、働いていないどころか、成人すらしていなかった。私が慌ただしく世界中を駆け回っていた、その時に出会った青年だ。
もう、一年が経つのだろうか。昼下がりの穏やかな空気に満ちた廊下を歩いていると、どこへ行っても必ず一人の青年を思い出してしまう。アスワンの白く染みの目立つ壁に囲まれた部屋のベッドに静かに腰掛けながら、包帯を巻いて見えるはずのない目で、いつも窓の外を眺めていた青年を。
「ここかな」
チーフに言われた部屋の軽い引き戸を開けた途端、眩しい光が反射して目を細めた。それにもすぐに慣れ、窓際に置かれた裸のベッドへ近寄った。彼がいた部屋も個室だったけれど、ここまで綺麗ではなく状態もあまりよくなかったように思える。
それでも私は穏やかな病棟の廊下やがらんとした個室を見ると、いつも彼のことを思い出してしまう。彼と目を合わせたこともない。まともに顔を見たこともなく、彼も私の顔を知りもしないというのに、それなのにどうしてか、とても強く心に残る青年だった。


スピードワゴン財団に超常現象に特化した部門があることは、財団の人間であれば誰でも知っている。世間ではあまり有名ではないらしいが、解決できない奇怪な現象に遭遇した時の最後の砦として、知る人ぞ知る裏の研究機関とされていた。
広い分野に手を伸ばす財団といえど、医療や自然保護、考古学といった社会的利益を目的とした研究を基本としていたために、その財団の中に超常現象というオカルトチックな機関があることは、たとえ知っていたとしても創設者、スピードワゴン氏の道楽だったのだろうと思われても仕方なかった。
しかし、内部の人間は必ずしもそうではなかった。特に医療に関わる多くの財団の人間は、冗談と笑い飛ばしていたとしても、いつか関わる日がやってきたために他の分野の団員よりも多くが、超常現象に対しての一定以上の理解を示していた。示さざるを得なかった、というべきかもしれない。
例に漏れず私も、その多くの中の一人だった。

ジョースター一族の名前を聞いたのは、私がアメリカのケア施設から東京支部の国際医療チームに派遣されて間もなくのことだった。創設者のスピードワゴン氏と深い繋がりのある命の恩人で、死後も延々支援し続けるというのが、財団の隠れた仕事だというのだ。“方針”ではなかった。それは財団の絶対的な掟のようであった。
「財団が超常現象を研究しているのは知っているな」
「はい…でもそれは」
創設者の趣味などではない、と上司は言った。とても新人を驚かすためのドッキリを仕掛けているような顔ではなかった。
「あるんだよ、本当に……超能力ってものが。ジョースター一族が、それを見つけたんだ」
ぽかんとして、私はすっかりその深刻な雰囲気に飲み込まれていた。信じる気持ちは全くなかった。でもずっしりと重たい空気に圧倒されてしまっていて、「嘘だ」と口にだすことも、「まさか」と笑い飛ばすことも出来なかった。
チームの他のメンバーの顔も、皆本気だった。神妙に頷くものさえいた。
「行ってみれば分かる」
そう言われて飛ばされたのが、話にあったジョースター一族が旅をしているという、エジプトのアスワンだったのだ。まったくもって、青天の霹靂だった。

私達はジョースター氏と行動を共にしていた青年を、数日間保護することを目的として派遣されていた。ジョースター一行の、とても信じ難い旅の話は機内で十分すぎるほどに説明されていたが、上手く飲み込めていなかったというのが事実だ。事情も知らなかった私が、そんな危険な旅のサポートのために了承も取らずいきなり派遣された災難を思えば、二の句も告げなかったと言った方が正しいのかもしれない。他の派遣員は全員志願していたものだったので、私の存在はやはり浮いていたようだった。
超常現象部門の話と、ジョースター一族の話。結局私がそれを信じたか信じなかったか。そんなことを考える間もなく、事は起きたように思う。
その一行の中の一人が負傷しているというので、状態を見ようとアスワンの病室に足を踏み入れた途端のことだった。
「誰だ!!」
突然、壁に何かが衝突し、砕ける音がした。同僚のすぐ横で陶器の花瓶が粉々に砕け散り、床に散乱していた。
「名前を名乗れ!」
低いがまだ若く張りのある青年の声がして、一同揃って声のした窓の方向へ顔を向けた。一歩も動くことが出来なかった。
兵隊がこちらに銃でも構えているかのように凍りついて、全員が息を呑んだ。しかしそこには、包帯を目に巻いた細身の青年がベッドから起き上がった姿勢で、目は見えないだろうけれど私達の方へ顔を向けて座っているだけだった。顔の筋肉は強張り、険しい顔付きをしていた。
私達が微動だにも出来なかったのは、その青年の正面にずらりと、コップやペン、本だけでなく、重い木製の椅子までもが宙に浮いていたからだ。少しでも動いたならば、床の花瓶の残骸のように、今にでも私達へ投げつけられることは予想できた。
「名前を言えッ!」
青年が大きな口を開いてもう一度叫ぶ。チームのリーダーが、口の震えを抑えながら声を出した。
「…す、スピードワゴン財団の者です。東京から、あなたの治療にと」
「財団の……?」
青年がそう呟く。暫く無言になった。固唾を飲んで見守っていると、宙に浮いていたものがまるで見えない人間が運んでいるかのようにふわりと泳いだ。目が見えないからか、青年は持ち上げたものがどこにあるのか分からないらしい。空中で手を彷徨わせてから、たどたどしい動きでペンと本を受け取った。
信じられない光景だった。しかし目の前で起こったことは現実で、信じるより他になかった。行ってみれば分かるという上司の言葉が、頭をよぎった。
「こら、花京院!無茶をするでない!」
息をつく間もなく、私達の後ろから太く力強い声が上がりぎょっとして振り返る。大柄な老年の男性が私のすぐ背後に立って、青年を睨みつけていた。
リーダーはその人を見ると帽子を脱いで頭を下げた。
「これは……ジョースター氏」
「財団の方々ですな。失礼致した。彼は今目が見えないので、少し過敏になっていてな…申し訳ない」
その男性も帽子を取ると、短い白髪の下から端正な顔が覗いた。若い頃はさぞ美男子だったのだろうと感じさせる、甘い顔立ちだった。
「すみません……ジョースターさん」
青年が小さく呟いた。私達に向かって叫んだ先ほどの声とは似ても似つかないほど、柔和で幼い感じのする声色だった。
それに、リーダーとハンドシェイクをしていたジョースター氏が振り向いて、呆れたように笑う。
「いや、いくら治療のためとはいえ、昨夜から一人にしてすまなかった。承太郎かポルナレフを一緒にいさせるべきだったな…」
ジョースター氏は滞在する時間もないというので、すぐにでもアスワンを発つと青年に告げていた。青年は当然だというように頷いて、船のあるナイル川のほとりまで見送りに病室を出た。
彼は目が見えないのだ。それなのにジョースター氏が構わないというのにも食い下がって、見送るといってきかなかった。その時の私には、彼のその必死さがとても不思議に思えて仕方なかったのを覚えている。

青年の名前は、花京院典明と言った。体は大きいが、ジョースター氏と話す声を聞いて若いとは思っていたけれど、驚くことにまだ17歳で、高校生だった。
病室に入った時は白いYシャツに制服のズボンを履いていたので、てっきりスーツなのかと思っていたが、ジョースター一行を見送りに部屋を出る時に彼は丈の長い学生服を身にまとったために、そこで初めて彼が本当に若年であったことを知った。
それは数日前にアメリカ本部の団員までが犠牲になり、ジョースター氏には死と隣り合わせの旅なのだと聞いていた私にとって、目の当たりにした超能力以上に理解し難く、信じられないことだった。

ホテルから来るのだという他の仲間を待つ間、私は財団の車に寄りかかるジョースター氏にそれとなく尋ねることにした。私がまたこの一行の元へ派遣されるとは、思えなかったからだ。その時の私は今よりもずっと未熟で、正義感にあふれていた。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
ジョースター氏は人好きのする目を開いて、「何かね?」と私に明るく眉を上げた。
「花京院君ですが…」
一瞬、聞いていいものか迷った。17歳の青年が死の旅に参加するからには、私にはとても想像できないような何か壮絶な事情があるのかもしれないと思ったからだ。
しかし、私の仕事はカウンセリングだった。傷ついた目の傷を治すのが他の団員の仕事なら、心の重荷を取り除くのが私の派遣された理由だった。
不思議そうに私を見るジョースターさんを見上げて、私はそのまま続けた。
「彼は何故この旅に?」
すぐに返答はなく、顎をさすって言葉を探しているところを見ると、目の前の紳士が相当悩んでいることが分かる。
そうだな、とジョースター氏は言った。
「DIOに屈したくないと言っていた。だが本心は分からん…ただ」
「ただ?」
「彼はあまり自分のことを話そうとしない」
答えにはなっていなかった。どうやらジョースター氏さえ、あの青年の心の内をしっかりと把握しているわけでは無いようだった。その声色はどこか「仕方ない」と言いたげで、私は胸に僅かな憤りが宿るのを感じた。
生死に関わる旅で、「仕方ない」などという見解があっていいはずがない。ましてや花京院典明という青年は、ジョースター氏とはまるで縁のない人間だというではないか。
「ですが、彼はまだ17歳ですよ?」
病院の入口に立っている花京院君へ聞こえないよう、声を潜めて私は言った。
私の言葉にジョースター氏は流石に困ったようで、先程よりも長く考える素振りを見せる。微かな唸り声の後、ジョースター氏はシワの刻まれた頬を動かして、絞りだすように声を発した。
「花京院は確かに若い……だが、誰でも一生に一度はどうにもならない壁にぶつかって、前にも後ろにも進めなくなる時がある。男は自分が思うよりずっと、生きることに対して弱い生き物だ。限界を悟れば簡単に死んでしまえるような生き物だ。彼は、そんな弱さと戦っているように思える」
死を乗り越えるために自ら死に向かう?ジョースター氏の言葉は不可解でならなかった。それは私が青年の背景を知らないからかもしれないが、とても納得できるものではなかった。
当の彼は、何故か気持ちよさそうに空を見上げている。

ジョースター一行を見送った後暫く、花京院君は静かにナイルのほとりに立っていた。ジョースター一行の船はぐんぐんと遠ざかっていくが、勿論彼にはそれも見えていないはずだ。それでもただ黙って、風の中の一行の匂いを辿るかのようにじっと佇んでいた。何を考えているのかは、包帯で覆い尽くされた顔からは読み取れなかった。


--|
menu|top


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -