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霧が立ち込めていた。出発の朝だというのに、空はどんよりと暗い。肌にまとわりつく露の感覚を払って、最後の荷物をバスに詰め込んだ。
「お前ら荷物は乗せたか?」
窓から顔を出した子供達を仰ぐと、乗せたと元気な声が次々飛び出してくる。そして俺を急かすように錆びたバスの表面を無遠慮にバシバシと叩いた。何が可笑しいのか、ケタケタと軽快な笑い声がひっきりなしに聞こえる。
「おら、いいから全員顔出せー」
無理やり窓枠に詰め寄る団子みたいな子供達の顔を外から一つ一つ眺め、全員乗ったのを確認して、背後のアジトを見渡した。テントと空き箱ばかりが残る閑散とした廃墟の片隅には、もう人っ子一人の気配すらしなかった。
ここが今まで何年も住んでいた場所なんだなぁ。そうはっきりと思ってみると、微かに胸の底が締め付けられるような気持ちが込み上げてくる。

サテライト制度の廃止が決まって数週間が経っていた。幾人もが死を経験したあの戦いの後とは思えないほど、ゆっくりと時は過ぎている。やっぱりすぐにゃ変わらねーか、と俺ものんびりしたことを考えていたものだが、この時期になってようやく治安維持局も動き始めた。まずサテライト地区をどうにかしようということらしい。
不法投棄やゼロリバースで傷んだままの廃墟を整理しようと、住民は移動を余儀なくされていたが、いよいよこの無法地帯BAD地区にも順番が回ってきた。話に聞いてそれとなく準備はしていたものの、杜撰なサテライトのセキュリティが通達などするはずもなく、突然やってきたバスに急げ急げと叫びながらアジトを引っ掻き回し、大慌てで荷物をかき集めて乗せたのがつい数十分前の出来事だった。元々大した荷物などはなかったが、子供達のガラクタを分別するのに大層時間を食ってしまった。今アジトを見回れば、空き巣どころか台風に見舞われた惨状になっていることだろう。
先にバスに詰め込まれていた住人も同じような境遇だったのか、文句を言うものもいなければ騒ぎ立てるものもいない。皆が一様に無関心といった具合だ。生憎知り合いは一人も乗っておらず、車内は錆びたバスのエンジンが震える無言の空間だった。
「クロウ、早く!」
「兄ちゃんなにやってんの!」
「わぁーったっつーの!お前らちょっとは落ち着けよな!」
俺の可愛いガキ共は、感傷に浸る暇など与えてくれないようだった。
幸い人づてに住民達のために簡易住宅が設けられているということを聞き、逞しい子供達に不安などはないようだが、騒がしいのはどういうことか。不安がれとは言わない。だが数年過ごしたアジトだ。俺ばかりじゃなくて、お前らももう少し名残惜しんでもいいんじゃねーのか。
苦笑いしながら子供達とは別の、荷物の乗った二台目のバスに足をかける。と、ふと忘れものをした気になった。乗車したBAD地区の人間を仰ぎ、前に停まったバスの子供達を見る。ドアに手を掛けたまま後ろを振り返った。そうだ。
名前は――と言いかけて、俺は口をつぐんだ。名前はそうだ。あいつは…

運転手が咳払いをした。汚い口ひげを蓄えた親父で、見たところ今回限りでセキュリティから雇われたのか、俺達と何ら変わりないボロ布を身にまとったような格好をしている。権力を借りてデカイ顔しやがって。どうせ整備が終われば、同じ明日をも知れぬ身に戻るというのに。

緩慢な動きで段差に足を乗せる。もう一度振り返った。空っぽになったアジトから、俺の背を追いかけてくる足音が、今にも聞こえてきそうな気がした。



七月が泣くとき ― 01 彼女のこと



弥吉という行商人と出会ったのは、鬼柳がセキュリティに捕まってすぐの頃のことだった。その時は大して世話にはならなかったが、ピアスンが死んでからは頼るものもなく、盗品やかき集めたジャンクを売り払うことで、弥吉と頻繁に接するようになった。弥吉は俺が盗んだものを安く仕入れ、それを高値で売って歩く。長くそれで成り立っていた。
本人は三十と言うが、その割には酷くやせ細っていて、とても一日でサテライト中を練り歩けるような体つきには見えなかった。着ている服も何年も変えていないと分かる擦り切れたものを重ね着し、どうにか寒さをしのいでいるといった具合だ。シティとサテライトが繋がった今でこそ見れば胡散臭さを感じるだろうが、サテライトの中でもBADのような貧困地区ではそれが見慣れたスタイルだった。

弥吉はいつも朝方か日の沈む間際にやってきた。天秤棒を担いで亡霊のようにふらふらとやって来る姿は、ビルの暗闇の間から得体のしれないものを引き連れてくるようで薄気味が悪い。頬がこけた顔は夕暮れに見るには背筋に寒さを感じるような気もしたが、立ち止まって一度笑えば口元にえくぼが浮かび、人懐っこさを感じさせる面相をしていた。そのせいか怪奇な容貌に関わらず子ども達も不思議とよく懐き、弥吉の瓦礫を泳ぐ影を待ち遠しそうにする子供もあった。
「ガキがくっつくんじゃねーよ」
口に篭った特徴的な喋り方でよくそう言って、足に服にと掴まる手を払っていたが、俺にはどうも照れ隠しのように見えて仕方がなかった。馬鹿だのちょんだの言っておきながら、偶に帰り際にこっそり飴玉をくれてやるのだから案外子供好きなのかも知れないと思ったのを覚えている。

その弥吉の傍らにいつの間にか姿を見るようになったのが、名前だった。最初は名前なんぞ知らなかった。十位だろうか、丸みを帯びた肩と幼さの残る面立ちに、弥吉に娘がいたのかと意外に思っただけだった。
「あんたにゃ似てねーなぁ…」
しげしげと娘と弥吉を見比べていると、弥吉が静かに喉を震わせる。
「俺の娘じゃねーよ」
ちょいと、拾ったんだ。言って、娘の頭を撫でる。それを煩わしそうにして、娘はまばたきもせずじっと俺を睨みつけていた。いつも無言だった。弥吉は週に一度か二度訪れるが、何度会っても娘は挨拶もせず、アジトの人間を値踏みするようにじっと睨みつけていた。とにかく無愛想で、子供達も薄気味が悪いと遠巻きにしていた。
「あいつ、きっと幽霊だよ。弥吉を食うつもりなんだ」
「んなわけあるか。兄ちゃんだって昔はあんなもんだったよ」
テントの中で怖がって噂するのに、腹を抱えて笑いながら俺が言うと、
「だって一言も喋らないんだぜ」
と青い顔をして娘を思い出す様子は心底子供らしくて面白かったが、娘のことは確かに気になった。

「お前は俺の商売の邪魔がしてぇのか?」
二人がやって来たある日、俺がすっかり弥吉に寄り付かなくなった子供達に苦笑していると、弥吉が影をまとった面相でぎょろりと娘を捉えた。しかし、娘はじっと地面を見て口を開く様子はない。弥吉に対してもあまり口を聞かないようだった。弥吉が娘を小突く。
「おめぇはいつから口が聞けなくなったんだ」
俯いていた頭が僅かに揺れた。
「おい」
あっ、と声が零れかけた。見ていた子供達も驚いた顔をしていた。ガツンと鈍い音を立てて、弥吉の拳が娘の頭に垂直に落ちたのだ。弥吉は口は悪いしがさつな奴だが、大声を出すところも、暴力を振るうところも見たことはなかった。いつもただ静かに佇んで、気に食わなければ無言を決める。そういう奴だったのだ。
娘の頭に拳を入れた弥吉は、唸るような声で「おい」ともう一度声をかけた。娘の肩がびくりと跳ねる。
「…痛いよ!」
その時初めて娘の声を聞いた。何ら普通と変わりない、女の声だった。
「ったりめーだ。こんな場所だからこそ礼儀は知らなきゃならねぇ。返事はしろ、返事は」
「……」
「返事!」
「…はい」
面白くなさそうに目を逸らしていたが、拳を握る弥吉を見て、娘は静かに答えた。
それと。弥吉が続ける。
「てめぇのことはてめぇで名乗れ」

恐らく弥吉が初めて娘を連れてきてから、もうひと月になる。弥吉の声で娘の気の強そうな目が、ひたりと俺に向けられた。思わず身構えてしまった。
「……名前です。どうか、ご贔屓に」
名前と名乗った小さな娘は、綺麗にお辞儀をした。
やはり弥吉は甘い。名前の目を見れば、俺が気にくわないのだということはすぐ分かる。俺だけではない。子供達もだ。とても贔屓にしてくれと、心から思っているようには見えない。
しかし、弥吉は嬉しそうに名前の頭を撫でた。これが親なのかも知れないと思った。口では親ではない、拾ったのだとしきりに言うが、頬を窪ませて名前に人懐っこい笑みを浮かべる目の前の弥吉も、普段出さない大声と拳を使った先ほどの弥吉も、親のような顔をしていた。
「よろしくな、名前!」
手を差し出すが、やはりじっと見つめるだけで握り返す気配はない。仕方なく名前の頭をぽんぽんと撫でて、弥吉の親ばかに免じてやった。


それからまた日が経ち、秋が暮れる頃のことだった。相変わらず週に数度顔を見せていた弥吉と名前が珍しく来なくなった。
なんとなく気にしていると次の週の早朝、まだ夜が明けない時分に天秤棒にいつもはない荷物をぶら下げて現れたのだから、何かあったのかと驚いた。子供達はまだ寝静まっている。声を落として尋ねると、「何もねぇ…いや」と言葉を淀ませている。弥吉らしくない態度だった。
「話しづらいなら、中で茶でも淹れるぜ?」
「いや、いいんだ。長居すると話せなくなっちまう」
名前を見れば、ぼんやりとアジトを見回している。寂しさを紛らわすようなその表情を見逃さなかった。
俺は再び弥吉を振り返って「なにがあったんだ?」と尋ねた。弥吉はやはり言い淀んだが、勢い顔を上げると、天秤を下ろして唐突に頭を下げた。
「頼む、名前を預かってはくれねぇか」
一瞬、言葉の意味を量りかねた。だが、口を挟む間もなく弥吉は続ける。
「俺みたいな野郎が子供に頼むのは気が引けるが、おめえにしか頼めねぇんだ。生活が苦しいのは分かっている。でもこの地区でここ以上に安全な場所はねぇ。頼む」
「お、おい…つっても」
名前はどうなんだ。言おうとしたが口をつぐんだ。「頼む」と言ったきり、親の顔をした弥吉は名前の前で頭を下げたままでいる。
「孤児院には預けたくねぇんだ」
弥吉も俺も、少なくとも法に憚る行いで食いつないでいるのは確かだ。孤児院はサテライトでも比較的安定した地区に建てられセキュリティの管理が行き届いているため、預けたら最後、弥吉はもう名前には会えなくなるだろう。
そして弥吉に預ける蓄えがあるとは思えない。名前は三食の飯にありつけ、寝床にも困らなくはなるが、その代わりに玄関先にこっそり置き去りにされることになる。運が悪ければ引き取らずに追い返す孤児院もあるだろう。顔も見れない上に此方からは会いにもいけない、上手く行かなければ生涯孤独というのなら、弥吉は名前を捨てたも同然だ。
突然言い出したわけを聞きたかったが、口を引き結んでやせ細った肩を震わせる弥吉を見ていると、聞くのはどうしても躊躇われた。はっきりした男が、こうして頭を下げているのだ。余程の覚悟があったのだろう。

仕方ねぇと言いかけたのを飲み込んで、「分かった」と声を絞り出した。
「事情は知らねぇが、俺が面倒みてやる」
「クロウ…」
その瞬間の弥吉の顔は忘れもしない。情けないような、ほっとしたような、悔しいような、全てをないまぜにした顔で「すまねぇ」と息をつくように一言呟いた。

名前を見た。もしかしたら弥吉に縋りつくかも知れない。離れたくない、行きたくないと泣きつくかもしれないと思ったが、名前はぴくりとも動かずに俯いていた。その体をおもむろに動かし天秤から荷物を抜き出すと、あっさりと弥吉に背を向けて俺の元へ歩み寄った。砂利を踏みしめる音が身一つ離れた場所に立ち止まって、低い背が俺をすっと見上げる。
「どうぞよろしくお願いします」名前は初めて名前を告げたあの時のように綺麗なお辞儀をした。
「お、おう」
俺の方が余程動揺してしまっていた。寂しくねぇのか、こいつは。思った矢先、弥吉に連れられて来た数分前の名前の顔を思い出す。落ち着かなそうにあたりを見回して、薄っすらと不安を浮かべていた表情が蘇った。
きっとこいつだって望んでいたわけではない。そりゃそうだ。気に食わない奴らの元で厄介にならなければならないのだ。望むはずがない。寂しくないはずがないのだ。
でも少しも弥吉を振り返らない名前が、相当の覚悟をしてきたということだけは分かる。何を言われずとも気に食わない俺に頭を下げ、離れたくない弥吉に背を向けているのだ。弥吉ではない。名前自信が孤児院ではなく、俺のアジトを選んだのだった。
「汚ねぇとこだがよろしくな。一緒に住むからにはしっかり働いてもらうぞ名前!」
出来るだけ明るい声を出す。やはり上げられた顔に現れた目は鋭く、敵意に似た感情が滲んでいるようで、心からよろしくしたいと思っている人間の目には見えなかった。
しかし名前の後ろで、惜しむように様子を眺める弥吉は本物だった。だからこそ俺は弥吉のためにも、生意気のすぎる名前を最高の弥吉の娘として育てなければならなかった。

徐々に日が登り始め、気づけば朝霧が立ち込めていた。もうすぐ秋も暮れる。この霧が晴れれば北風が吹くだろう。きっと一人では凍えるような風だ。
面倒なもん背負っちまったかなと思ったが、もう言ったところでどうにもならない。弥吉が迎えに来るまで、これからずっと一緒に暮らしていくしかないのだ。
「とりあえず、ガキ共が起きるまで茶でも飲むか」
言ってテントへ歩き出したが、一向に付いてこない娘を振り返る。俺を迎えたのは、相変わらずじっと注がれる名前の射ぬくような視線だった。ため息を飲み込む。代わりに、これからどうしたものかと頭を掻いた。


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12/01/06 長編
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