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しまった。D・ホイールを走らせながら、頭を駆け巡るのはその単語ばかりだ。しまった、もっと気をつけていれば。遊星はアクセルを踏むが、これ以上のスピードを出せば、D・ホイールの速度制限に厳しいセキュリティが放っておくわけはなかった。
呼び出しというのも、指示の行き違いで書類が他の部署へ渡っていただけらしい。話を聞いて書類を再度手渡した後、簡単にモーメントの動作状況を確認して帰路についたため、予想していたより大して時間はかかっていない。それよりも名前の様子が心配だった。逸る思いでD・ホイールを飛ばし、ガレージのシャッターを押し上げたが、既にそこに名前の姿はなかった。
ゾラにでも頼むべきだったが、そっとしておくべきかもしれないと思い直し、急いでガレージを出たのがいけなかったのだろう。後悔したところで、ガレージを出ていった名前が見つかるはずもない。こんなに気持ちが焦るのも、数年ぶりに会った名前の状態が尋常ではなかったからだ。
ブルーノが死んだと告げて暫くの間も、不安定ながら必死で笑顔で振舞っていたが、この8年の間、誰に心境を打ち明けることもなく、一人で過去と戦っていたのかもしれなかった。その箍が、今になって外れてしまったのだろうか。
自暴自棄になった名前を放っておけば、きっと間違いを犯してしまうに違いない。遊星には自分事のように、それが予感できた。

ポッポタイムから少し離れた空き地に、名前の背が見えた。間に合ったと、ほっと胸をなで下ろすが、近づいた肩が震えていることに気づいた。草の上に前かがみに丸くなった名前の体から、押し殺した嗚咽が遊星のもとに届いた。
どうして。微かな呟きが、嗚咽に混じった。
「どうして死んでしまったんだ」
腕の間からブルーノの帽子が見えた。ガレージから持ちだしてきたのだろう。名前の泣いたわけが、遊星には一瞬にして分かってしまった。
どうして。繰り返す名前の手に、くしゃくしゃに黄ばんだ紙が握られている。あれは記憶のないブルーノの唯一の内緒事だった。最後まで、名前に内緒で大事にしまっていたものだった。帽子の裏に縫いつけていたのを何かの拍子に見つけてしまったのだろう。
『ブルーノ、道に迷わないようにね』
紙には確か、そんなことが書いてあったはずだった。その下には『迷った時はココ!』と矢印を引いて、名前の連絡先が記されている。記憶がないというのに、一人でふらりと出かけたがるブルーノを心配して、名前がいつだったか机の上に置いて行ったのだ。
――道に迷わないようにね
名前の文字が、涙で滲む。名前ですら忘れてしまっていたちっぽけで些細なものを、ブルーノは宝物のように大切にしていた。それを今になって知った名前の心中は計り知れない。
「名前…」
声を掛けようか迷ったが、思いとどまった。握りしめた古い書き置きは、彼等の感情の拠り所なのだ。慰めの言葉は、きっと見当違いになってしまうに違いなかった。
何度思い返しても、決してそこまで大事にとっておくような代物ではなかったのだ。少なくとも、遊星にもジャックにもクロウにも、それはお守りには成り得なかった。それをブルーノは大層丁寧に扱って、出かけるときには必ずポケットに入れて歩く程だった。
僕のお守りだと、大切そうに抱えていたのが、昨日のことのように鮮やかに蘇る。

――ったくそんな紙っぺら、また名前に貰えばいいじゃねぇか
書き置きをひらひらと靡かせて呆れたように言うクロウから、ブルーノは素早く取り返すとメモ用紙を守るように身を盾にして抗議した。
――だめだめ!僕はこれがいいんだよ
――子供かお前は
コーヒーを啜るジャックに、ジャックには分からないとブルーノが呟くのに、分かりたくもないとの返答。分かる分からないという騒ぎの中に、クロウが抱えてきた裁縫道具で帽子の裏にしっかりと縫い付けられる。何度もポケットから出し入れした用紙は折り目の角が破れてぐしゃぐしゃになっていたが、帽子の裏に入れれば当分破れるようなことはないと、クロウが考えたらしかった。
――これで暫くはなくさねーだろ
その一言を言い終える前に、裁縫道具と共にクロウは飛びついたブルーノによってソファの後ろへひっくり返る羽目となった。タイミングよく帰宅した名前の驚いた顔。散乱した針やハサミに、喧嘩があったのかと心配したので、遊星は苦笑しながら首を振った。からかうチャンスとばかりに顛末を話そうとするジャックとクロウに、真っ赤になったブルーノが慌てて駆け寄って口を塞いだのが、とても印象的だった。

帽子の裏に縫いつけた後も、何度も見返す姿。ブルーノは名前にとって、かけがえのない存在だったのだろう。そしてブルーノにとっても、恐らくは。
一人だけ過去のない中で、あの名前の書き置きは、ブルーノにとってどういう意味を持っていたのだろう。結局一度も自分の迷いを打ち明けないまま消えてしまった彼は、もしかしたら道という字に、別の何かを見ていたのかもしれない。

楽しかった日々。幸せと喜びに満ち溢れていた時間。それも今は、過去でしかない。どんなに足掻いても変わらず過去のままなのだ。懐かしさと一緒にこみ上げる寂漠とした悲しさは、どうしても隠しようがなかった。
それでも立っていかなければならない。歩いていかなければならないのだ。道端で座り込んでももう、こんな大きな身体を誰も運んでくれはしない。サテライトの小さかったあの頃とも、誰かに守られていた8年前とも、何もかもが違う。苦しかろうと、風が強かろうと、一人で歩いていかなければならないのだ。それを名前が分からないはずもない。
遊星はヘルメットを置いて、名前の側へ歩み寄った。気づかせてやらなければならない。教えるのではない。いくら願ったところで、ブルーノが戻らないことは名前が一番よく知っているはずだった。

「忘れようとするな」
気づいていたのだろう。静かに身動ぎをして、名前は首を振った。そして、そんなの卑怯だと、叫んだ。
「それじゃあずっと、私はあの人のために生きていなければならない」
「俺だって同じだ。暗闇の中に消えていくブルーノの姿を、死ぬまで抱えて生きていかなければならない」
自分の背後の黒々とした世界に取り残されて、小さくなっていく姿を浮かべる度に、ぞっと背筋を駆け抜ける冷たさは何年経っても消えはしない。何度も何度も、最後のブルーノの姿が浮かんでは、膝を折って蹲ってしまいたくなるのだ。
けれどそれは、ブルーノの望んでいることではないと断言できた。遊星が立ち止まって過去の闇に沈もうとするなら、ブルーノなら背中を叩いて歩かせようとするだろう。遊星がいつまで経っても忘れられない、ぞっとする、あの最後の瞬間のように。
そしてあの書き置きをお守りのように大事にして、幸せそうに頬を紅潮させていたブルーノは、何より名前が笑顔で手を振って、ガレージから出ていく日々を望んでいたはずだった。
「悲しみも過ちも、全て抱えていかなければならない。でも、それは枷なのか?」
名前は答えなかった。代わりに、蹲った足に埋めた顔から堪えきれなかった嗚咽が漏れる。じわりと全身に滲んでくるような声だった。
思い出の中のブルーノと、取り残された過去の自分と、決別しているのかもしれない。道を記した書き置きと、名前の腕に優しく抱かれるように収まっている帽子を見て、遊星にはそう思えた。

蜻蛉がすいすいと宙を泳いでいる。時期にはまだまだ早い。一匹だけ季節に迷い込んでしまったのだろうか。飛びづらそうにあっちへこっちへと何度も落ちかけては宙へはばたいている。思う存分飛べと思った。どこへでも好きな場所へ行って、好きに飛べばいい。生きていなければ、風を切ることも、雨上がりの匂いをかぐことも出来はしないのだ。
「名前、泣き止んだら笑っていろ」
無茶言うなと、名前が力なく呟いた。今朝の勢いはもうない。泣き疲れた肩がぬかるんだ地面の上に小さく丸まっていた。遊星が見てきたあの、業突く張りでその癖面倒見のいい明るい名前は、どこにもいなかった。数年前の自分の姿が重なった。
父親をなくした時、鬼柳を失った時、ブルーノを犠牲にした時。あの時の自分はどうしただろうか。遊星にはマーサがいて、ジャックがいて、クロウがいて、そしてアキや龍亞、龍可、牛尾達がいた。世の中の不条理に崩れ落ちそうになるのを、苦しんでいるのは俺だけではないと、教えられ支えられたのは、同じような世界で同じような不条理と戦っている人々のお陰だった。だからこそ、大事な人間を失っているのは、自分だけではないということは分かっている。それでも気持ちというのは、どうしようもないのだ。たった一人の肉親と、たった一人の親友を失う悲しさは、自分しか分からない。
人は一人では生きてはいけない。そんな当たり前のことを名前は振りきって、思い出の中に消えてしまった。だから今も、ぬかるみの中に座り込んだままでいる。ブルーノが死んで、もう8年だ。そろそろ前を向いて、歩いていかなければならない時が来ていた。
「ブルーノは」
名前の肩が微かに震えた。
「ブルーノはいつも笑っていたぞ」
儚げな肩から、ぎこちなく振り返った横顔が覗く。押し黙っていた名前が、静かに口を開いた。
「最期も……?」
「ああ、いつも通りの笑顔だ。名前が一番よく知っている、あの」
包み込まれる、陽だまりのような笑い顔を、忘れはしないだろう。また屈み込んでしまった名前の背を見て、揺らめきながら浮かぶ姿に目を細める。
蜻蛉が風を縫ってすいすい飛んでいた。何度も落ちかけながら、異なる季節の中で必死に飛び回っている。
今もブルーノは笑っているだろうか。ふとそんな思いに駆られる。どこまでも温かな風景しか思い浮かばない親友に、名前の恨みがましい気持ちも分かる気がした。
側で咲き誇る紫陽花の、青々とした葉から露が滑り落ちる。名前の泣いたような笑い声が一緒に、風に靡いた。
世の中は苦しみを知っている。年を重ねても、毎年、毎年思い出す微かな苦しみを。今は無理かもしれないが、置いていかれたせめてもの恨みに、最高の笑顔を見せてやればいい。ここでしか見れない笑顔を。
「ブルーノ」
空気に滲んで消えていったのは自分の声だったか、名前の声だったか、遊星には分からなかった。

もうすぐ、8月がやってくる。



遊戯王5D's未来組夢企画『みらいいろ』提出
11/08/25 短編
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