1/2

「不動さん!不動遊星さん!」
表の戸を激しく叩く音に、こんな朝方に何の用かと思った。今日は休日の筈だったが、またシステムのことで呼び出されるのだろうか。思いながら戸を壊される前にと急いで部屋を出て、ドアまで駆け上がった。暫くPCばかりに向かっていて走っていなかった身体に、10代の頃は知りもしなかった重さを感じた。急いた声の様子に、ドアノブを捻る手も雑になる。
迎えた先には、精悍な顔つきをした20歳前後の若者が立っていた。走ってきたのか息を切らして遊星を見ているが、顔見知りではない。しかし問題なのは、顔や衣服から覗く腕にところどころミミズ腫れのような、真新しい跡があるということだ。
「あんた、どうしたんだ」
とりあえず傷の手当を、と中に招き入れようとして、その男の背にもう一人背負われていることに漸く気づいた。俯いてはいるが、見覚えがある。男の興奮からギョロっとした目が、訴えかけるように遊星を見つめていた。
「……名前という女を、ご存知ですか」
その名前と自分の予想に、相違はなかった。



いつか未来で、笑えたら




晴れているはずだというのに、肌にしっとりと纏わりつく空気が鬱陶しい。寝ている間に汗をかいてしまっていたので、出来ることなら着替えたかったが、そうはいかなかった。目の前で意識を失っている名前が気にかかるのもあるが、それ以前に着替えに適した服がなかった。
昨夜は雨が降っていた。この湿度はその名残だろう。じめっとして張り付くのは汗なのかどうかも判別できない。
遊星は起きがけすぐにベッド横の窓を開けた。今朝までざあざあと屋根を叩きつけるように降っていた雨は、すっかり薄い雲の向こうに引っ込んでしまったようだった。予報にもない突然の横殴りの雨に、昨夜は帰宅するなり慌てて洗濯物を取り込んだものだが、帰宅途中から激しくなった雨脚に間に合うはずもなく、今でも濡れそぼったままいつ洗い直すかと部屋の隅に置きっぱなしになっている。
雲はあれど、晴れ間が続いていて、どうやら長く続く雨ではなかったらしい。一人分とはいえ、夜勤続きで溜めに溜めた衣類の量は半端なものではない。助かったと思いながら今日ならば大丈夫だろうと、遊星は洗濯物を持ち上げて机の上に降ろした。名前がこのガレージに運ばれて来たのは、そんな時だった。

名前を寝かせた来客用のソファーに、そっと毛布をかける。椅子を引きずって近くに腰掛けたが、名前は身じろぎ一つせず眠りについていた。頬に当てたガーゼから目を外し、名前の顔を見る。久しぶりと言っても、それ程変わるはずのない期間であったはずだが、名前の容貌はかなり変わってしまっていた。食事を摂っていないのか、それとも睡眠が足りていないのか、肌が青白く、以前はふっくらしていた頬がやつれ、全体的にやせ細っている。
名前とはチームのみんなと別れたあの8年前を最後に、ぷっつりと連絡が途絶えていた。ブルーノと一等仲が良かったから、心配して何度も連絡をしたのだが、別れ際に仕事を見つけて目標が出来たからと、元気な声を聞いて安心していたのだ。
それがどうしてこんな事態になったのか。遊星はそう思わざるを得なかった。久方ぶりの休日も、溜まりに溜まった洗濯物も、既に頭の中から掻き消えていた。
ここへ背負ってきた男の声が蘇る。
「名前という女をご存知ですか」
「……どうしたんだ、何があった」
背負い直した拍子に、名前の頭が男の肩をぐらぐらと揺れる。覗き込んだ右頬が、赤く腫れていた。
「それが、店でお客と騒動を起こしちまいまして」
「騒動?」
「ええ、喧嘩を…」
確かに規則正しく上下する名前は、体中から酒の臭いがした。これほどに酔いつぶれるまで飲んで、そして腫れ上がるほどの喧嘩とは一体何があったのだろうか。名前が巻き込まれたのかもしれないと思ったが、そう言った遊星に男は静かに首を振った。
「この姉さんがお客に酒を浴びせたんですよ」
どうやら遊星の思っているより、事態は深刻なようだった。

数刻経って、何かが割れる音が響いた。しまった、と名前に飲ませようと水を注いでいたコップを持ったまま、慌ててガレージへ駆け戻った。近くにあるものを手当たり次第投げている名前を、ソファに座らせるように押し付ける。
「離して!離してよ!」
「落ち着くんだ名前!酔っているのか」
「あんな安酒で酔うもんか!あんな!あんな!」
もがく力は尋常ではなかった。この細い体のどこからそんな力が出ているのか、全く分からない。取り憑かれたように離せと叫ぶ姿に、遊星の知る名前の面影はなかった。テーブルに置いたコップから、名前の顔めがけて水を放った。「なにすんだ!」と乗り出した左頬を、平手で打つ。
「落ち着くんだ。いいか、名前」
出来るだけ諭すように紡げば、荒く上下していた胸が次第に静まり、頷きも首を振ることもせずに悔しげに唇を噛んで、名前は怒らせていた全身から力を抜いた。遊星は押さえつけていた手を離す。また暴れだすかとも思ったが、名前は力を失ったようにソファに身を崩して寄りかかっていた。
「喉が辛いだろう。今水を持ってきてやるからな」
「何で助けたんだ」
ソファに身を預けたまま、名前がぽつりと呟いた。宥めるつもりで言ったが、意識はここにないのかもしれなかった。
「助けたのは俺じゃない」
答えてから、数歩歩いて振り返る。名前が見つめる視線の先に、ぽっかり穴が開いているように見えた。何もない虚空が、遊星には見えるような気がした。
「何で……」
微かな空気の揺れを鼓膜が拾う。無言でガレージの戸を閉めて、耳に残る小さな声を反芻した。
開け放ったキッチンの窓から、季節外れの蜻蛉がふっと視界を横切った。



あんな奴。名前は思いながらソファから足を投げ出した。あんな奴。何度も頭の中で呟くが、その続きが浮かんでこない。あんな奴、死んでしまえばいい?それとも消えてしまえばいい?そのどちらも自分の抱いている感情とは全く違っていた。だが、もし今実際にそう思っていたとしても、それより前に遊星はガレージから消えてしまっていた。急な仕事の連絡が入ったらしかった。すぐ戻るからくれぐれもガレージから出るな、と身勝手なことを告げて、飛び出して行った背中が少し前。
「あんな奴…」
声に出してみる。やはり続く言葉は思い浮かびはしなかった。本当に死んでしまえば、こんなこと、言えもしないのだ。自分で思った言葉に嫌になった。
酒場の人間もそうだ。少し仕事で失敗したくらいで、死にたいなどとくやくやして、挙句の果てに死んでしまえばいいなどと、簡単に口から出して、笑っているのだ。こいつはなんにも分かっちゃいない。胃の奥がムカムカして、笑い声を聞いたが最後だった。それからの自分の行動は、よく覚えてはいない。まさかこのガレージに運び込まれるとは思っていなかったが、それでも後悔はしていなかった。
それにしても懐かしい空気だと感じた。いい意味ではない。昔はこの埃っぽいガレージの匂いがたまらなく好きだと感じたが、今はただ辛いだけだった。
出来ることならこのガレージにはいたくなかった。見渡しても目を瞑っても、耳を塞いでも、まったくあの頃のままなのだ。PCと工具以外使っているのかも分からない変わらない物の配置。埃と油の匂い。外から時折に聞こえる噴水の音。変わらないものが多すぎて、無いものばかりが目についてしまう。
邪魔臭いと思うほど場所を取っていたD・ホイールも、今は遊星号一台のスペースしかない。一日中のんべんだらりと過ごしていたジャックは、今や液晶の向こう側にしかおらず、この時間になればいつだって会えた双子は、もう旅立ってしまっている。忙しそうにしていたクロウの私物は全て運びだされ、アキの遊星を呼ぶ声も忘れてしまった。
このソファーだってそうだ。明け方までここに寝そべっていた人は、もういない。どこかへ行ったのではなく、どこにもいないのだ。
「何で助けたんだ」
無意識に口をついて出た。言う相手がいなければ、ただただ広いガレージに虚しく響くだけだった。
PCの乗ったデスクが目に入る。ブルーノと遊星が毎日のように肩を並べていた場所だ。二つの椅子の滅多に使いもしない片方が、景色の中で浮いたように感じられた。その背もたれの向こうに、写真立てが見え、行かなければいいものを、名前は引き寄せられるようにソファから立ち上がり、近づいてしまった。やはり近寄らなければよかったと、後悔した。
フレームの中に収まったチームメンバーの集合写真を机に叩きつけ、その隣にあったものを引っ掴んでガレージを転がるように飛び出した。こんなもの、さっさと捨ててしまえと思った。もう二度と目のつかない所へ、二度と戻らないように、海にでも川にでも捨ててしまえばいいのだ。
「こんなもの……!」
歪めた顔がヒリヒリと痛い。片手に握りしめた青い帽子に目を落とした。ブルーノが使っていた、あの帽子だ。今ならこれと一緒に、海に沈んでしまえそうだと思った。

シティを出たのは忘れてしまいたかったからだった。ここにある短くて一生に一度だけの凝縮された幸せを、全て振り払って置き去りにしてしまいたかった。
どうしてみんな歩き出せるのか分からなかった。遊星とジャックのデュエルを見るまでは、ずっと同じだと思っていた彼らが、いつの間にか一人で歩き出していた。ここにあるものを全て抱えて、そして出て行ってしまったのだ。彼らだけ前を向いて歩き出してしまった。出発の準備を整える彼らの様子を聞いて、名前だけが取り残されたように感じた。
ブルーノのことは何とも思わないのか。そう言って全員をなじりたくなる時があったが、名前にはそれが見当違いだということがよく理解できた。それがまた悔しくてたまらなかった。何も分からずになりふり構わず当たり散らして、すっきりしてしまいたいと何度も思ったが、できるはずもなかった。サテライト生まれの名前には、失うことが生きる前提なのだと分かっていたし、勿論遊星もジャックもクロウも、思っていたとしても口には出せないのだと知っていた。
サテライトはどこへでもついて歩く。WRGPでは誇りに思ったものだが、こんなことなら全て忘れてしまいたいと思った。そして、振り切るようにシティを出たのだ。でも、残ったのは落ちぶれた自分の姿だけだった。何をやっても力が出ない、鬱々とした体を持て余して、いつの間にか目的も見失い、ただ路頭に迷うだけとなっていた。ブルーノが好きでたまらなくて、彼のためなら一生を捧げてもいいとさえ決心した心は、とうに情熱だけが燃え尽きて、ぼろぼろと崩れ落ちていっていた。最初から、忘れられるわけがなかったのだ。
握りしめた帽子の感触が懐かしい。感傷に浸りたい気持ちなどこれっぽっちもなかったというのに、触れたブルーノの帽子から、じわりと記憶が手のひらを伝って流れ込んでくるような気がした。
名前は黙って路地を走り抜けた。昨夜の雨が、足元を湿らせている。

――名前
ブルーノは初対面からそう呼んだ。その時名前はブルーノの名前を知らなかった。けれど不思議と馴れ馴れしいとは感じなかった。それどころか、そう呼ばれるのが自然のような気がしたのだ。不思議なひとだった。
――名前はどこへ行くんだい?
ガレージを出て行こうとすると、いつも必ず声をかけられた。
――仕事と、あとはマーサハウスかな
大した内容などこれっぽっちもないというのに、それだけでブルーノは嬉しそうに「行ってらっしゃい」と手を振っていた。誰に対してもそうだった。遊星たちがどこかへ出かけようとすると、必ずブルーノは行き先を尋ねるのだ。そうするブルーノの気持ちが、名前には何となくわかった。ブルーノの様子は、マーサハウスで過し始めたころの名前とよく似ていた。人攫いにも泥棒にも、決して身を脅かされることのない安心できる空間にいるのに、心のどこかにいつも不安が付きまとうような、ブルーノも昔の名前と同じそんな感覚を無意識に持っているのかもしれなかった。
――今日はマーサの手伝いしてくるから、少し遅くなるね
――うん、気をつけて
名前が予定を告げるようになると、ブルーノから訊ねてくることはなくなった。戸口の前で振り返る名前を、D・ホイールから顔をあげてじっと待っていた。忘れずに振り向けば、ブルーノの安心したような微笑みが名前を見送った。
それがサテライトから解放された、名前にとっての、新しい日常だったのだ。

ブルーノが好きだと感じた。いつからそう思ったのかは分からない。気づいた時には、自分には彼が必要な存在だと感じていた。ブルーノのために告げていた予定は、話しかけるきっかけと、笑顔を見るための名前の日課になり、次第に名前もブルーノの予定を聞くようになっていた。
兄弟とはまた違う。遊星ともジャックともクロウとも、他の誰ともブルーノは違かった。ブルーノを見ていると、どんなことでも楽しく思えてくるのだ。話しているとブルーノ特有の雰囲気に包まれて、まるで名前自身も温かな陽だまりの一部であるような気がしてくる。ブルーノと接している間は、過去のどんな苦しみですら、愛せるような気さえしていた。本当に、不思議なひとだった。
そんなブルーノに一度だけ、名前は背負われたことがある。マーサハウスに行くと言ったきり帰ってこない名前を心配して、わざわざ迎えに来てくれたのだが、嬉しさのあまり駆け寄ろうとした名前が見事に転げて、背中を借りることになったのだった。
人に背負われたのは、夜の暗さに寝つけずにいた小さい頃、マーサがおぶって寝かしつけてくれて以来一度もなかったが、どうしてか前にもブルーノの背中に乗ったような感覚を覚えた。そのまま眠ってしまいたくなるほど、安心する温かい背中だった。
揺られながら色々な話をした。WRGPのことも、明日の献立のことも、みんなのことや、出会った経緯も。その中で、ブルーノは名前の生い立ちを聞きたがり、最後まで遮ることなく相槌を打った。誰が聞いても面白くもない苦労話が、ブルーノに話していると呆れるような笑い話に思えてきて、夢中になって話した。自分のことを話したかったのではなく、ブルーノの弾けるような笑い顔が見たかっただけなのかもしれなかった。
――マーサって人は、名前のお母さんなのかい?
――うん、私だけの親にはなってくれなかったけど、私にはたった一人の、自慢の母親なの
そっか。呟いて、足元から微かに砂利を踏む音。なまぬるい夜風が肌をなで、肌に触れるブルーノの髪を名前はくすぐったく感じた。
――君のお母さんに、会ってみたいな
ブルーノはどういう気持ちでそう言ったのか、今でも想像でしかわからない。でも奇遇にも、その時名前もブルーノの両親に会ってみたいと思っていた。この大きな彼の背中を温めた人の顔を、声を、笑顔を、知りたいと思った。
――私も、会ってみたい
ブルーノがすべてを思い出した時、お互いの行き先を聞かなくとも心から笑えるようになりたいと、名前は思ったのを覚えている。
記憶を取り戻したら、ポッポタイムで騒ぎ合った記憶がなくなってしまうのではないかと、全員が潜在的な不安を抱いていた。きっと、ブルーノの不安は途方も無いのだろう。しかしブルーノが頷けば、それだけで約束になる。だからこそ、名前は素直に会いたいと告げたのだ。
ブルーノは答えなかったが、そっと名前を噴水のブロックに降ろすと、包み込むように手を取った。じんわりと、ブルーノの熱が手のひらに染みこんでいくのを、夢見心地に感じていた。
――君がいてくれてよかった、本当に…
名前の眼前に広がったのは、溢れるような笑みだった。何が溢れたのかはブルーノしか分からない。けれど胸に火が灯されたように熱くなって、抱き寄せられた拍子に、名前もつられて笑い返したのはよく覚えている。
すがりついているのか抱きしめられているのか、滑稽な格好で、暫く星月夜に静かな笑い声を響かせていた。

水分を含んだ足元が縺れて、地面の上に膝から転がった。走りぬけようとした空き地は雑草の生い茂る緑の広場で、取り残されたような紫陽花がぽつんと一角で花を咲かせていた。
惨めだ。ひどく惨めだと名前は感じた。売地がアスファルトで固められているわけもなく、昨日の雨でぬかるんだ地面に突っ込んでしまった体は、全身泥まみれだ。
これも全部ブルーノのせいだと思ってしまいたかった。もう、抱え上げてくれる背はどこにもいない。思い出だけを植えつけて、忽然と消えてしまったのだ。
「あんな奴…」
怒りはこみ上げるが、行き場がない。腹いせに一緒に泥に濡れた帽子を投げ捨ててやろう。思いっきり振り上げて、草の上に叩きつけた。


menu|top


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -