小説
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行間で小休憩して待ってる


※学パロ転生 軽度の流血描写あり


 冷たい北風が部屋の中にまで吹き込み、テーブルの上に積まれた保健だよりが一枚、ひらひらと軽い音を立てながらドアの方へ飛ばされていった。慌てて立ち上がるのと同時に、保健室のドアが開いた。先生が会議から帰ってきたのだろうと思ったけれど、そこに立っていたのは、隣のクラスの男子だった。
「うわ、シャニじゃん」と、部屋の奥からクロトの飄々とした声が飛んできた。背中越しに衣擦れの音が聞こえ、続けてオルガの重苦しいため息が響く。頭痛のせいで午後のほとんどを保健室で過ごしたオルガは(先生が記した来室記録にはそう書いてあった)、吐き気がすると訴えるクロトがここに来たときも、同じように布団から顔を覗かせ、心底嫌そうにため息をついていた。放課後の保健室といえば、グラウンドや体育館でけがをした運動部の人がよく来る場所だった。けれども、今日は帰宅部の人ばかりが集まってくる日らしい。
 シャニ・アンドラスは自分の――かかとを潰した上履きに乗った保健だよりをじっと見つめ、膝を折ってその紙を拾い上げた。学校指定のジャージはヴィンテージのダメージジーンズのようにくたびれ、薄く擦り切れた穴から血の滲んだ膝が覗いている。膝を折り曲げたことによって皮膚がわずかに裂けたようだったが、彼は特に痛がる素振りも見せずに平然と立ち上がり、拾った紙を私に手渡した。
「ごめん、けがしてるのに拾わせちゃって」
「ちょっと転んだだけだし。早く保健室に行けーって、担任がうるせえから」と、シャニは不服そうに目を細めてそう答えた。
「手当てするね。いったんあの椅子に座って」
 棚の前に置かれた丸椅子を指差すと、彼は何も言わずにだらだらと歩き、すとんと丸椅子に腰掛けた。こんなことを思うのは変かもしれないけれど、薬品や救急用品が収まる棚の前におとなしく座るシャニは、どういうわけか保健室という張り詰めた空間にしっくりと馴染んでいた。不思議と、オルガとクロトもそうだった。
 保健委員である私ももうひとつの丸椅子に腰掛け、けがをしたシャニと向き合う。
「手当てをするのは私になっちゃうんだけど、それでもいい? 先生はちょうど職員会議に出てるんだ」
「いいよ」
「じゃあ、ジャージの裾をまくって。あっちの水道で傷を洗うよ」
 足首あたりに視線を落とし、早く、と目で促すと、シャニは無表情のまま「まくって」と私に要求した。
「何歳なの」
 幼い子どものような発言に、私もオルガのようなため息をついてしまった。彼の見た目の印象は子どもというよりも、猫っぽい――それも、雪山に生息するヤマネコみたいだった。しなやかで美しく、なにより近寄りがたい。
「そいつ、1年ダブってるんだよ。まあオルガなんかは2回留年してるけどね」
 ソファに寝そべるクロトがふいに口を挟んだ。ここからクロトの顔は見えないけれど、垂直に伸びた両手にはスマホが握られ、右に左に上下にと忙しく動いている。最近リリースされたばかりのアプリゲームで遊んでいるのだろう。全身に冷や汗をかくほどのひどい吐き気は一体どこに行ったのかと、クロトに聞いてみたくなった。
「黙ってろクロト」と、なおも頭痛にさいなまれるオルガが憎々しげに吐き捨てる。このふたりのけんかに巻き込まれるのはまっぴらごめんだった。私はシャニのジャージを渋々まくり上げ、あらわになった傷口を確認した。出血はしているけれど、それほどひどい傷でもない。水で洗い流し、きちんと止血すれば問題ないだろう。
 それにしても、1年留年するとジャージはここまでぼろぼろにほころびてしまうのだろうか。オルガのジャージ姿を思い浮かべ、その説は間違っていると即座に思い直した。
 私は椅子から立ち上がり、窓際に設置された銀色のシンクへシャニを招いた。シャニの足取りは、夢からさめた子どものようにふわふわと揺らいでいた。膝を擦りむいたこと自体をすっかり忘れてしまったかのように、彼はシンクの前でぼうっと佇んだ。そんなはずはないのに、シャニとその周囲の時間がぴたりと止まり、するどく尖った風がゆるやかに流れていく。私まで彼の醸し出す現実味のない空気に飲み込まれてしまいそうになる。けれど、ひねった蛇口から流れ出た水がシンクの表面を叩き、私の意識は高校の保健室に引き戻された。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
 傷口を水で洗い流す前に、私はシャニにそう言った。小学生にかけるような言葉だったかもしれないが、今の私には必要だった。私は、痛みに顔を歪めるシャニを見たくなかったのかもしれない。怖かった。痛みによって彼の――ひいては私と共有する夢見心地な世界が壊れてしまうかもしれないから。
 冷たい春の流水がシャニの脚を包む。私の不安は杞憂に終わり、彼は眉ひとつ動かさずに擦り傷を洗い流す。膝に滲んだ血は透明な水道水に溶け、シンクの上で鈍い輝きを放ちながら排水溝へ吸い込まれていった。シャニの長いまつげがゆっくりと瞬くのを見て、私は小さく息をのんだ。特別でもなんでもない保健委員としての仕事のひとつひとつが、彼の前でだけ急激にきらめき始める。軽いめまいを覚え、私は一瞬だけまぶたを閉じた。砂のような色合いの視界にも、シャニの影が浮かび上がってくるような気がした。
 私たちは再び、丸椅子に向かい合って座った。傷口に清潔なガーゼを当て、絆創膏を貼る。ついでに水で濡れた脚をタオルで拭き取ると、彼はくすぐったそうに膝を揺らした。その様子を見た瞬間、胸が詰まるような切なさを覚え、私はテーブルに移動して記録用紙を一枚取った。来室した生徒の記録を取るのも、保健委員の仕事だった。
「どこでどうやってけがをしたの」
 落ち着き払った声を出すよう努力した。少し離れた場所から問いかければ平静を装えるはずだと思っていたけれど、私の声の端はうわずっていた。シャニはとろんとした瞳をこちらに向け、「誰かとぶつかって転んだ」とシンプルな答えを返す。そして薄くぼやけた記憶をたどりながら「体育館で、なんかすげえ眠くて」と続け、電源プラグを抜いた電化製品のようにふっと口をつぐんだ。喋ることに飽き飽きしているようだった。
「シャニのくせに、よく我慢したじゃねえか」とオルガはばかにしたように笑った。クロトもうんうんと頷いて彼に同意する。
「ほんと。オルガなら、眠かろうがなんだろうが、ぶつかってきたそいつのことをボコボコにしてるよ」
「お前にだけは言われたくねえ」
 ふたりの言い争いに耳を傾けながら、私は残りのインクが少なくなったボールペンで「体育館でクラスメイトと衝突したため」と書き記した。数ヶ月前、暴力沙汰で停学になった3年生がいたと風のうわさで聞いた。それって、もしかするとシャニのことだったのかもしれない。そんなの絶対にオルガだろうと思っていたけれど、オルガは一応は登校していたようで、けれども卒業はできなかった。
 テーブルに置いた電波時計を見やる。シャニが保健室にやってきてから5分が経過していた。
「6時間目が終わってからずいぶん時間が経っているようだけど」
 今までどこに行ってたの、と訊ねると、彼は軽くあくびをし、荒れて皮がめくれた唇を開いた。
「迷子になってた」
 シャニはそう言ってニヤリと笑う。迷子になるなんてありえない。体育館から保健室までの道のりは、渡り廊下で繋がれた一本道なのだから。うそか本当か分からない彼の返事を聞いていると、自分の目をごしごしと擦りたくなってしまう。夢、という文字が頭の中に浮かび、さらさらと消えていった。夢にしては細部まではっきりと見える。
「なんか変な感じ」とシャニはぼんやりとつぶやいた。「前も手当てしてもらったっけ」
「さあ、覚えてないな。私は1年生のころから保健委員をやっているものだから」
 ざわめく胸のうちを隠しながら、私はそっけなく答えた。すべてを書き終えた記録用紙には、普段と比べるとわずかに歪んだ文字が不格好に並んでいる。恋に落ちたと認めるのは容易いけれど、身体中を駆け巡る新鮮な恋情はほろ苦く、どこか物悲しさを含んでいた。
 薄黒い雲に覆われた空からぽつぽつと小雨が降り出し、みるみるうちに大粒の雨に変化していく。急いで席を立つと、ソファに寝転がっていたクロトが窓を閉めてくれた。強い雨風にさらされた桜の木が薄ピンク色の花びらを撒き散らし、窓ガラスにびちゃびちゃと貼り付いた。
「最悪。傘持ってきてないよ」
 クロトはうんざりと吐き捨て、柔らかなソファの上に再び身体を預けた。オルガも小さくうめき声を上げ、鍛えた身体に布団をきつく巻きつける。オルガとクロトが保健室にやってくるのは、決まって天気の悪い日だった。台風が発生しやすい時期などは、学校に来ることすら嫌がる。
 そんなふたりとは対照的に、シャニは遠雷の音を聞きながらほほえんでいた。顔を出したばかりの若葉を残してちりぢりに吹き飛ぶ桜の花びらを、小刻みに震える窓ガラスから滴り落ちた冷たい雨粒を、ようやく完成した作品を眺める巨匠のように、満足げに眺めた。私は呼吸を忘れ、窓に貼り付いた雨粒の黒々とした陰影をまとったシャニをただただ見つめる。彼が口を開く瞬間を、じっと待っていた。
「いい天気」
 シャニのとろけたような甘い声が、沈んだ保健室に染み込むように響く。それは繊細な声色だったけれど、低く唸る風に負けないほどの強度を持っていた。
「シャニは雨が好きなの?」
「晴れよりはマシじゃん?」
 同意する理由も、否定する理由も思いつかなかったので、私は「あなたらしいね」と言った。真夏の強烈な日差しに照らされたシャニは、きっと熱湯を注がれた氷のようにたちまち溶けてしまう。私のおかしな返答を、彼は静かに笑って受け止めた。
 シャニは気持ちよさそうなあくびを漏らし、ジャージの裾をまくったまま立ち上がる。彼が向かった先にあるものは、カーテンで仕切られたベッドだった。窓際のベッドに目を付けると、シャニはぼろぼろの上履きをその辺に脱ぎ散らかした。けがのついでにひと眠りしてやろうという魂胆らしい。
 私はつかつかとシャニのそばに歩み寄り、かき集めるような手付きで掛け布団を没収した。布団を奪われた彼は、眠そうな顔を不機嫌そうに歪めて私を見上げる。
「なに? 昼寝するんだけど」
「昼寝するような時間じゃない」
 厳しく言い返すと、シャニは叱られた小学生のようにむくれ、私の元から布団を奪い返そうと手を伸ばす。そうはさせるものか。私は引きずらないように注意しながら布団を抱きしめ、彼から距離を取るために一歩一歩後ずさった。
 けち、とこぼすと、シャニは私ににじり寄った。私と彼の距離はあっという間に縮まり、掛け布団がぐいぐいと引っ張られる。儚げな容姿とは裏腹に、力が物凄く強い。すぐ隣のベッドに尻もちをつくと、シャニの据わった瞳が狼狽する私の目を貫いた。
「俺が何時に昼寝したっていいじゃんか」
 そう文句をつけながら、とうとうシャニは私の手から布団を引きずり出す。屈するものか! 私は彼の目をきっと睨みつけた。
「けがだけの人は家に帰って昼寝して」
「ふーん……」
 彼は乾いた声音でつぶやき、私が座るベッドに片膝をつく。シャニの吐いた熱い息が額にかかり、くすぐったくて肩が大げさに跳ねた。たったの数秒が何時間もの長さに感じられたが、シャニの身体はそれ以上近づくことはなく、彼は私の膝にも布団をかけ、ベッドの端に丸まって眠ろうとしていた。ばくばくと、全身が心臓になってしまったかのように脈打っている。残念に思う気持ちと、彼の睡眠を阻止しなければならないという保健委員としての使命が、私の頭の中でせめぎ合う。そうこうしている間にも、猫のように背中を丸めたシャニが眠りに落ちてしまいそうだった。
「ねえ、寝ないでってば。先生が帰ってくるよ」
「急に熱出てきちゃった」
 ゆっくりと目を開いたシャニは、口角をいたずらっぽく歪めながら楽しそうにささやいた。オルガもクロトも、そしてもちろんシャニも、先生という切り札に怯むような人ではなかった。私にはもう、彼や彼らに反撃するだけの力は残っていない。私はシーツを何度か叩いた。ばふ、ばふ、と気の抜ける音がする。
「どうせ仮病でしょ、いいからここで寝ないでよー! 放課後なんだから全員家で寝て!」
 うとうとするシャニの肩をぐらぐら揺さぶると、どこかで嗅いだことのある香りが鼻先をかすめた。手当てに消毒液や薬品は使っていないはずなのに、それどころか、保健室では嗅いだことのない無機質な香りがする。一瞬のことだったけれど、あれは確かに彼のまとう香りだった。肩を揺さぶられながら、シャニはくすくす笑っていた。
「てめえらうるせえよ、おちおち寝てらんねえ!」と廊下側のベッドから怒声が飛び、続けてソファの方から「オルガが一番うるせえ!」と罵声が上がる。私はシャニをベッドから引き剥がすことを諦め、疲れ果ててシーツの上に背中を預けた。入学してからずっと保健委員を続けてきたけれど、具合が悪いわけでもないのにベッドに寝転んでしまうなんて初めてのことだった。それに、旅行の宿泊先で一睡もできない私が、今は自分の家の布団よりもくつろいでいる。
 彼はかすれた声で「おやすみ」と言い、幸せそうにまどろんだ。保健室の中は騒がしかったけれど、シャニの健やかな寝息に耳を傾けると、私もだんだんと眠くなっていった。雷雨はもう止んだのだろうか。すべての感覚が遠ざかっていくなかで、かすかに感じるシャニのぬくもりだけがそばにあった。


2024.04.29
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

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