花柄のあくび
※現代パロディ
もう、ほんとうに最悪。最悪な夜はなにも今日に始まったことではなく、毎日毎日残業続きでへとへとなのだから、いい加減に身体もこの生活に慣れてほしい。けれども、パソコンのモニターを見つめる目はぼんやりと霞んでくるし、眼精疲労のせいで頭がずきずきと痛み続けている。私の頭の中にあるものは脳みそではなく、絡まり合った糸くずがぎっしりと詰まっているのかもしれない。定時を過ぎた頃から、自分がなにをタイピングしているのかさっぱり分からなくなっていた。
面白みのない数値が踊るモニターから目を離し、夜景がきらめく窓の外を見やる。隣の高層ビルも、あっちのビルも、最近新しく建設されたナントカヒルズとかいう小洒落たビルも、オフィスエリアの階層はみな明かりが灯っている。彼らの素性は一切知らないけれど、ここ一帯に残業仲間がいる。そう思うだけで少しだけ元気が出た。
口元をゆるませながら夜景を眺めていると、冷たい窓ガラスに鋭い眼差しが映り込んだ。明るい髪色が目立つその男の人は、明らかに私に向かって睨みを利かせている。わずかに湧いた活力は吹き飛び、心臓が縮み上がり、背筋もぞくっと寒くなった。
窓ガラス越しを私を睨みつけた人は、隣のそのまた隣の席に座るオルガ・サブナックという名の先輩だった。彼も残業仲間ではあるのに全く励まされている気がしないのは、私が先輩のことを怖がっているせいだ。私だけじゃない。同期も後輩もみな、この見目麗しい先輩を畏怖の対象として見ている。高校時代はとんでもないヤンキーだったとか、飲み会で上司をぶん殴っただとか、ほかにも色々、嘘か本当か分からない不穏な噂が尽きないからだ。また、噂の真偽を本人に確かめた者は誰もいなかった。
いつもは定時のチャイムが鳴った途端にさっさと帰るくせに、どうして彼は私の体調が悪い日に限って残業しているのだろう。しかも、部屋には私たち以外の姿はなく、どんよりと重苦しい空気がただよっている。
先輩の様子をおそるおそる窺い見る。彼はもう、窓ガラスなんか見ていなかった。けたたましい音を立てながらキーボードを叩き、眉間にしわを寄せ、唸り声を上げるパソコンといやいや向き合っている。先輩は普段からタイピング音がうるさく、特にエンターキーを押すときはキーが外れそうになるほど強く叩き込む癖があるけれど、今日はいつにも増して迫力ある打鍵を披露してくれていた。たぶん、残業のせいで不機嫌になっているのだと思う。そもそも機嫌の良い先輩なんて、入社して以来一度も見たことがない。
不機嫌でも充分に美しい横顔をいくら眺めたところで仕事は一向に終わらないので、私は薄暗い気分に陥りながら自分のパソコンと向き合った。どちらにせよ、今日中には到底終わらない仕事を任されてしまったのだ。ほんとうに泣きたくなってしまう。おまけに先輩の席からは、ペパーミントタブレットをがしゃがしゃと勢いよく取り出し、一気にバキバキと噛み砕く怪音が聞こえてくる。今この場でイヤホンをしたら嫌味だと思われるかな、と私は肩をがっくり落とした。
ただひたすらにキーボードを叩き続け、一体どれほどの時間が経過しただろう。画面の端に表示された無愛想なポップアップを目に留めた瞬間、喉がひゅっと鳴った。パソコンをシャットダウンしてください、といった旨のメッセージが書かれたそれは、私にとって安寧であり、同時に結論を薄く長く引き伸ばした憂鬱でもあった。今日も仕事が終わらなかったということは――今日は金曜日だから、来週の月曜日も再びこの業務の続きと向き合わなければならない。もう、どこか遠くへ逃げて音信不通になってしまいたいという、後ろ向きな願望が頭の中で膨れ上がってしまう。
私はゆるやかな手付きでパソコンの電源を落とした。あと10分ほどでフロアの電気が消えてしまうので、のんびりしている場合ではないけれど、書類の向きを揃えつつ丁寧に片付け、ボタンを気にするふりをしながらコートを羽織った。
そんなのろまな私とは対照的に、先輩はデスクをてきぱきと片付け、紺色のコートに袖を通した。そして、私の方をちらりと一瞥し、ぶっきらぼうに「お疲れ」とだけ呟くと、彼は颯爽と退室していった。部屋にひとり残された私は、ほっとため息をつく。あのサブナック先輩と一緒にエレベーターに乗るなんて、気まずいにもほどがある。彼と密室で過ごすくらいならいっそ階段を降りて帰りたいところだけれど、あいにくここは高層ビルの35階であり、残業を重ねた身体に鞭を打つようなものだった。
もう一度夜景を眺めたあと、私は音を立てないようにそっとドアを開けた。すでに照明の消えた廊下は人の気配がなく、胸を撫で下ろしながら歩く。エレベーターホールに足を踏み入れたそのとき、私はトイレにでも寄ればよかったと激しく後悔した。エレベーターの扉の前に、雑誌のモデルのような背中を発見したからだ。ライムイエローの髪を後ろに流した、今の私が最も見たくない人の姿だった。
とはいえ、もうここまで来たら腹を括るしかない。私は覚悟を決めて彼の隣に並んだ。どうせ明日も明後日も休みなのだからと考えれば、どんなに怖い目に遭ってもぎりぎり我慢できる気がした。
「お疲れさまです」
できるだけ明るい声を作り、私はサブナック先輩の横顔を見上げた。心なしか彼の額に青筋が浮いている気がして、恐ろしかった。
「おう」
「エレベーター、混んでいるみたいですね」
「押しても押しても来やしねえ。ぶっ壊れてんのか?」
苛立った先輩は、光ったままの下りボタンをカチカチと何度も押した。いくら連打したところで早く到着するわけではないと思うが、そんなことを指摘したら私の命が危ないかもしれないので言えなかった。
怯えているうちに、上部の階数表示パネルがオレンジ色に光る。
「……やっと来やがったか」と、疲れた顔の先輩が憎々しげに吐き捨てる。ひと安心したのも束の間、
エレベーターの中は空っぽだった。緊張するあまり、胸の内側がちくちくと痛んだ。
私は操作盤の前に立ち、先輩は腕を組みながら後方の壁に背を預けた。エントランスホールのボタンを押すと、扉がゆっくりと閉まる。
「先輩が残業なんて、珍しいですね」
「どういうつもりか知らねえけど、同僚の尻拭いが俺に回ってきやがったんだよ。あの野郎、明日絶対にしばく」
どうしてこんなに物騒な人と一緒に帰るはめになっているのだろう。反応に困り果てた私は「暴力はやめてください」と弱々しく返すだけで精一杯だった。
これで会話が一段落すると思ったのに、先輩はかったるそうに「お前は?」と私の背中へ問いかける。
「私、ですか」
「いっつもこんな時間まで仕事してんのか?」
「ええ、まあ」
力なく頷くと、重たい音を立てながらエレベーターの扉が開いた。
「まったく、なんのための残業対策なんだか」
ほとんど独り言のような返事を残し、サブナック先輩はエレベーターから降りていった。私も唇をきゅっと結び、エントランスホールへ降りる。駅に向かう私たちは、どこからどう見ても関係性の薄い先輩後輩の図そのものだった。先輩の隣に並んで歩くべきか、後ろにつくべきかよく分からず、彼の半歩後ろをこわごわ歩いている。早く先輩の存在を感じない場所へ行きたい。早く一人になって雑踏に紛れたい。
私の必死の願いもむなしく、先輩は私が使う路線の改札口へ向かっていく。慌てた私は歩く速度を上げ、改札にICカードをタッチする彼にこう訊ねた。
「もしかして先輩は、この路線を毎日使っているのでしょうか」
「お前も?」
「私もです」
いやな顔をされるかな、と不安だったけれど、先輩は疲弊した表情のまま「へー」とぼんやり呟いた。疲労のせいでいつものきれがなく、頭が回ってないように見える。
しかも、よくよく話を聞くと、同じ路線である上に乗り換え先の駅も同じだと言うので驚いた。帰りはともかく、朝の時間帯に鉢合わせる機会がなかったのが不思議なくらいだった。思い返せば先輩は、就業時間に間に合うぎりぎりに出勤してくる。駅や車内で会わないのも当然といえば当然なのかもしれない。
私たちが地下鉄のホームに到着すると、暗闇の中からヘッドライトが近づいてくるのが見えた。ちょうど良いタイミングでやってきた電車は、生暖かい風を起こしながらホームへ滑り込む。微妙な距離を保ちながら電車を待つ私と先輩の姿が、電車の窓ガラスに映り込んでいる。変な風景、と率直に思った。怖くて仕方がなかった先輩と、こうして帰路を共にしているなんて。サブナック先輩のことは、やっぱり今でも恐ろしい。けれど、昨日よりは恐怖を感じなかった。
車内の座席は2つだけ空いていた。それも、隣り合った席がぽっかりと。先輩は座席までつかつかと歩み寄り、腕を組んで座った。そして目の前に立つ私をじろりと見上げる。
「座んねえのか」
「私は大丈夫です」
「大丈夫? 死人みたいな顔してるくせによく言うぜ」
先輩の唇が挑戦的に歪む。チークもリップも残業する前の休憩時間にきちんと塗り直したというのに、そんなに顔色が悪く見えるのだろうか。暗い地下鉄の窓に映る自分の顔を確認しても、いまいちピンと来なかった。
先輩はいらいらした口調で「いいから座っとけ」と命じた。「乗り換えまで時間あんだから」
「失礼します……」
一体なにが失礼なのか分からないけれど、私はか細い声で断りを入れながら先輩の隣に腰掛けた。この絶妙な居心地の悪さは、初めての経験じゃない。席替えで不良の男子と隣同士になってしまった中学時代を、少しだけ思い出した。
電車が動き出すと、先輩は鞄の中から文庫本を取り出した。先輩って本とか読むんだ、と意外な気持ちが沸き起こった。その文庫は書店のブックカバーが巻かれていて、なんの本なのか見当もつかない。先輩の性格を考えれば、自己啓発本でないことは確かだった。案外ビジネス書だったりして。
「仕事の本ですか?」
私の問いかけに、彼は本に目線を落としたまま「小説」とだけ答え、しおり替わりのスリップが挟まれたページを開いた。よく見ると、文庫の紙はゆるやかに波打っていた。きっと、お風呂の中でもその小説を読んでいるのだろう。そう思うと、なんだか優しい気分になってくるのだった。
私は口元に手を当て、小さくあくびをした。電車の走行音と紙をめくる音を聞いているうちに、なんだか眠たくなってきてしまった。エアコンの利いた車内は春のように暖かいし、揺れる椅子の振動がさらに眠気を誘う。
まぶたが徐々に重くなり、しばらくの間、私は先輩の肩に頭を預けてうとうとと微睡んだ。こんなことをしてはいけないと分かっている。にもかかわらず、睡魔に支配された身体は、先輩の温もりを感じながら全く動こうとしない。私が今寄りかかっている相手は会社の先輩で、しかもみんなからひどく怖がられている人なのに。
淡い焦燥感とは裏腹に、先輩の肩にもたれて眠る時間は、家で気絶するように寝るよりもずっと気持ちがよかった。サブナック先輩は、よく晴れた休日の昼間に二度寝するような安心感を覚えていい相手じゃない。けれども私は、できればこの人と朝までぴったりとくっついていたいと願ってしまうのだった。
急に、身体が大きくがくんと揺れた。その衝撃ではっと目を覚ますと、ぼやけて霞んだ視界に先輩のむすっとした表情が映る。彼は座席から立ち上がるところだった。そこでようやく、先輩に頭を押しのけられたことに気がついた。
寝ぼけた私を見下ろし、彼は「降りるぞ」と言い放った。まばたきを繰り返しながら周りを見渡すと、電車の扉がちょうど開くところだった。窓の外には見知った景色が広がっている。私は急いで腰を上げ、電車を降りていく先輩の背中を追いかけた。階段の前で彼に声をかけると、額に冷や汗が滲んだ。
「先輩、すみません。本当にすみません……」
「ああ?」
「起こしてもらっちゃって……。その前に肩貸してもらっちゃって本当に申し訳ないです」
必死に謝り続けたつもりだったけれど、先輩は黙りこくったまま階段を登り続けた。背中からほとばしる威圧感が恐ろしすぎて、私は俯きながら彼のビジネスシューズを見つめていた。
改札を通り過ぎると、先輩は鞄からなにかを取り出し、振り返って私に差し出した。
「やる」
彼の手には、花のイラストが散りばめられたプラスチックのフィルムがあった。カモミールの香りの、蒸気で目元を温めてくれる機能がついたアイマスクだった。先輩だって疲れているのに、残業続きの私を気遣ってくれるらしい。嬉しいけれど、やっぱり戸惑いを隠しきれなかった。
「ありがとうございます」
なぜ、とは聞けなかった。アイマスクをこわごわ受け取ると、先輩は眉根を寄せたまま私に背を向け、別の路線へ向かっていった。私は一枚のアイマスクを手のひらに乗せ、みるみるうちに小さくなっていく彼の後ろ姿をぽかんと見つめた。まぶたが痙攣し、退勤した直後よりも倍増した疲労感がどっと身体に押し寄せてくる。心臓もどくどくと激しく鼓動し、うるさいほどだった。
私はよどんだ地下の空気を深く吸い込んだ。こんなことで――怖い先輩に少し優しくされたくらいでときめいてしまうなんて、どうかしている。どうかしているけれど、早く先輩に会いたい。
2024.02.22
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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