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その孤独を明け渡せ


 街角でアルバイトと思われる人から手渡された2枚のチラシは、ショッピングモールの一角にある映画館の割引券だった。レイトショー、20%OFF、3日間限定。にぎやかな赤文字が切り取り線の内側で自由気ままに踊っている。3日間が示す日にちを確認する。今日が最終日だ。
 帰路につきながら、レイトショーって未成年が入ってもいいんだっけ? と首を傾げた。あのアルバイトったら、適当な仕事にもほどがある。けど、無理もない。その日は早朝から寒波が押し寄せ、手袋をせずに外へ出ればたちまち指がかじかんでしまうほどだった。早く上がりたくてたまらず、このチラシを誰彼構わず押し付けていたに違いない。あるいは、わたしの顔がよほど老けこんでいたか、どちらかだと思う。後者だとしたら本当に失礼なアルバイトだ。大人たちに今更子ども扱いされたとしても、ばからしくて笑っちゃうけれど。わたしたちの身を守ってくれる大人なんて、世界中のどこを見渡したっていないもの。
 だだっ広い実験施設へ戻ったわたしは、起動テストを終えたクロトに例の割引券を見せた。彼は閑散とした食堂でカレーライスのようなものをつついているところだった。遠くの方から地響きが聞こえ、水を打ったように静まり返り、かと思えば衝撃はまた施設全体を小刻みに揺らす。わたしたちのつまらない日常を表現する音だ。
「ねえ。今夜、暇なら映画でも観に行かない? さっき外で割引券を2枚もらっちゃったんだよね」
 顔を上げたクロトが「映画あ?」と締まりのない声を上げた。
「えー、暇は暇だけど映画ねえ。今日ってアホみたいに寒いんじゃなかった?」
 明らかに乗り気でないクロトはテーブルに肘をつき、手元のスプーンをぶらぶらと弄び、もう一度「映画ねえ」と面倒くさそうにぼやいた。彼の返答はべつに意外な反応でもなんでもなく、いたって予想通りだった。わたしはトレーの横に置いた割引券を手に取り、もったいぶったため息をつきながら懐へしまった。
「行かないんだ。じゃあオルガかシャニを誘おうかな」
 無愛想に言い放つと、クロトの気だるげな眼差しに一瞬だけ鋭い光が宿る。
「やめときなよ。大体さ、あの二人がおとなしく映画なんか観れると思う?」
「無理だと思う。それに、クロトもね」
「うわー、なにそれ。心外なんだけど」
 クロトは唇の端をゆがめ、半分以上残った食事にさっさと見切りをつけた。座り心地の悪い椅子から立ち上がり、食器の乗ったトレーを返却口に返す。彼は制服のジャケットを不良漫画の短ランみたいに詰めているから、立ち上がると腰の細さがよく分かる。わたしはその華奢な後ろ姿を眺めながら、割引券は無駄にならずに済みそうだと安堵した。
 
 きらびやかなイルミネーションが視界のありとあらゆる場所で光り輝いている。ショッピングモールの庭園でぽつんと佇んでいると、彼は待ち合わせ時間通りに姿を現した。厚手のコートを着込み、寒さのせいで赤くなった顔をマフラーの中に埋めている。私服姿のクロトはどこにでもいるごく普通の少年に見えた。学校に通い、暇な時間にアルバイトをして、仲間と一緒にゲームセンターやファーストフード店に寄り集まっている、もちろん戦闘行為とは無縁の少年。実際のところ、彼は生体CPUを製造するラボの出身であり、コーディネイターを殺めるためにありとあらゆるお勉強をしてきたらしい。だから、試作機のパイロットとして実験に参加している。とはいうものの、パイロットという言葉が彼ら生体CPUにも当てはまるのか、わたしにはよく分からない。
 昼間も充分に冷え込んでいたけれど、風が吹きすさぶビル街は今にも雪が降り出しそうなほど寒く、わたしもクロトも身体を小刻みに震わせていた。わたしたちは険しい表情を浮かべ、お互いの顔をちらりと見た。やっぱりやめればよかったと、口に出さなくても冷気で乾燥した顔にしっかりと書いてある。幸い映画館の中は暖房が効いていて、ここに居る限りは凍えずに済みそうだった。
 エスカレーターを足早に登りながら、クロトは小さなくしゃみを2回ほどした。
「僕、あったかい飲み物とか飲みたい」
 わたしも思わず「ココアが飲みたい」と同意する。温かい飲み物を飲みながら、ふわふわの椅子に座ってゆったりと映画を楽しむ。なんて贅沢な映画体験なのだろう。想像するだけでわくわくと胸が膨らんだ。
 そんなわけだから、売店がすでに閉まっているのを目の当たりにしたときは、もう本当にがっかりした。せっかく膨らんだ期待感がみるみるうちにしぼんでいく。クロトなんか、機体のテストがうまくいかなかったときみたいに口汚く悪態をついていた。
 もうすぐ上映が始まるというのに、ロビーはわたしたち以外の足音はなく、チケットをもぎる係員はシアターの扉の前で蝋人形のように立ち尽くしている。タイトルは忘れてしまったけれど、わたしたちが観る映画は何十年か前に発表されたという作品のリバイバル上映だった。上映スケジュールが記載されたモニターを眺めながら「新作映画が全然ないね」とぼやくと、クロトは「映画なんて作ってる場合じゃないからね」と眠そうに答えた。
 翡翠色の床が美しいシアター内には、わたしとクロトと、それから冒頭だけもう一人の入場者がいた。前から数列目に腰掛けたその人はひどく酔っ払っていて、まだタイトルバックも出ていないというのに、足をもつれさせながら出口に吸い込まれていった。でも、仕方ないと思う。だってすごく退屈な映画だったから。すべてが死ぬほどつまらないってほどじゃないけれど、1時間半の上映時間中に何度もあくびをかみ殺してしまった。厳格な両親の元から家出してきた女の子が、パーティーで出会った男と束の間の恋に落ちる話なんて、どうかこの映画を観ながら安らかに眠ってくださいと頼まれているようなものだ。男の歯が浮くようなきざったらしい台詞にはいちいち鳥肌が立ったし、女の方はなにがそんなに悲しいのか知らないけれどめそめそとよく泣くので、わたしは劇中に登場する猫の数を数えていた。2匹。
 隣に座るクロトはわたしよりもずっとずっと退屈そうだった。シアターにわたしたち二人しかいないのをいいことに、前の座席に足を乗せたり、えんじ色の椅子をぎこぎこと音を立てながら揺らしたり、アンプルを折って薬を飲んだり、やっと正しい姿勢に戻ったかと思えば、背もたれに身体を預けて眠りこけていた。スクリーンが放つ不鮮明な光に包まれたあどけない寝顔がわたしの肩にのしかかる。クロトって、きっと寝相も悪いのだろうなと辟易した。赤い頭を乱暴に押しのけてもよかったのに、わたしはそのままの体勢を保ち、痴話げんかを繰り広げるカップルを睨みつけていた。

 ようやく上映が終わり、場内が明るくなってからも、クロトは半覚醒状態のままわたしの肩に頭を預け続けていた。彼が息をするたびに体重のかかった肩がゆるやかに上下し、温かな吐息がわたしの首筋に触れる。なんだか悪くない気分だったけれど、係員が出入り口に現れたので、わたしはなにかをもみ消すみたいに急いで立ち上がった。ちょうど良い枕を失ったクロトはうめき声を上げながら目を覚まし、なにが起きたのか分からないとでも言いたげにこちらを見上げる。重たそうなまぶたから覗く青い瞳は、今にもとろんと溶け出しそうなほど焦点が合っていなかった。
「おはよう。全部終わったよ」
「あ? ほんとだ」
 クロトは口元を手で隠しながらあくびをし、両腕をうんと伸ばしてから席を立った。行儀が良いんだか悪いんだかいまいち理解できない人だと思う。
 まともに観ていなかったくせに、彼はエスカレーターのベルトに寄りかかりながら「君ってあんな映画が好きなの?」とえらそうに訊ねた。クロトをレイトショーに誘ったのはわたしだけど、上映作品はわたしが好き好んで選んだわけじゃない。都合のつく時間帯に上映していた映画があれしかなかったから、選択するすべがないまま観たまでだ。それなのに、ほぼ寝ていたクロトに「あんな映画」呼ばわりされるなんて! 最初から最後までまんべんなくつまらなかったけど、さすがに「あんな映画」の肩を持ちたくなる。
「話は全然好きじゃない。けど、猫が可愛かったでしょ」
「猫なんか出てきたっけ?」
「出てきたよ。クロトがぐっすり寝ている間に、2匹も」
 案の定、ふーん、そうなんだ、と気の無い返事が返ってきた。盛り上がりに欠ける会話を早々に終えて映画館を出ると、肌を突き刺すような風がわたしたちを荒っぽく出迎えてくれた。手袋で覆った手をコートのポケットに突っ込み、閉店時間を過ぎたショッピングモールを早足で通り抜ける。映画館で感じた温もりが冷気によってどんどん剥ぎ取られていくみたいだった。
 色とりどりのイルミネーションに照らされたクロトは、血色を失った唇を震わせながらどこか遠くを指差した。道路を挟んだ向こう側に建つ、灯りのついた店だった。目をこらすと、カフェバー、深夜営業、といった看板の文字が読み取れた。彼は口を開き、白い息を吐き出す。
「今度こそ温かいものが飲みたいよ。もちろんなまえの奢りで」
「なんでわたしが奢らなきゃいけないわけ」
「なまえのせいで凍えそうになってるんだからさあ、当然だよね」
 ひどい寒さのために頭が回らなかったせいか、その嫌味ったらしい理屈に対して特に思うことはなかったけれど、べつにいいよと了承した。クロトの方から誘ってくるなんて、明日は雪ではなく槍が降るに違いない。
 そのカフェバーは1階全体が喫煙エリアになっていて、疲れた顔の店員がわたしたちの姿を見るなり2階の禁煙席へ案内してくれた。まだ日付が変わる前のためか、テーブルは8割ほど埋まり、酒を飲みながら駄弁る人や、ティーカップに紅茶をわずかに残したままぼんやりと物思いにふける人たちが、それぞれの深夜を過ごしていた。店の中は映画館よりも暖かく、古ぼけた窓ガラスにびっしりとついた結露が、街路樹に巻きついたイルミネーションの光をまとってきらきらと輝いている。この異様なまでの熱気は店の暖房からやってくるものじゃない。店内に集う大人たちの湿気た熱が、小さな空間を温めているのだった。
 窓際の席に着くと、水を置きに来た店員はアルコールメニューをさっと下げ、「お決まりになりましたらお呼びください」と告げてどこかへ行ってしまった。店員の後ろ姿を一瞥したクロトが、年季の入ったメニュー表を開きながらぼそっと呟く。
「べつに酒なんか飲まないっての」
「わあ、ソフトドリンクだけでもたくさんあるね。なに飲む?」
 彼はメニュー表を一通り見渡し、「ホットコーヒー」と短く答えた。
「クロトってコーヒー飲めるんだ。意外」
「童顔のくせにって言いたいんだろ。悪いけど味覚までお子様じゃないよ、なまえと違ってね」
「わたしだってお子様じゃないんだけど」
 むっと顔をしかめても、クロトは全く気にも留めていなかった。メニュー表をひっくり返し、わたしに見えるようにテーブルに置く。
「ほら、ココアもあるってさ」
 ミルクココアと書かれた文字をなぞる彼の指先を苦々しい思いで見つめながら、わたしは小さく頷いた。子どものわたしがまとう目に見えない鎧も、クロトにはお見通しなのだろうか。癪に障るような気恥ずかしいような、むずむずとした妙な気分になる。無駄に躍動する心臓の音をかき消したくて、わたしはわざと声量を上げて喋った。
「なにかちょっとしたものも食べたいな」
 ナッツとドライフルーツ、チョコレート、チーズの盛り合わせ、とクロトは訝しげな目でメニュー表を読み上げる。「へえ、本当にちょっとしたものしか置いてない。なんだよこの店」
 わたしは手を挙げ、通りかかった店員にすみませんと声をかけた。コーヒーにココア、それからちょっとした食べ物。どれもすぐにテーブルへ運ばれて来たので、わたしたちはようやく身体の芯を温めることができた。
 甘ったるいココアを少しずつ飲みながら、わたしは殻付きのアーモンドをこじ開けるクロトを見守った。殻を剥がすたびにぱきっ、ぱきっと心地よい音が鳴り響き、クロトの口の中からアーモンドを噛み砕く音が聞こえてくる。彼はコーヒーと一緒に運ばれてきたミルクと砂糖には一切手をつけなかった。さっき言った言葉に嘘偽りなく、黒々とした液体を平然と飲んでいる。
「リスにでもなった気分だよ」と文句を言いながら、彼はまたアーモンドの殻をこじ開けた。そしてわたしの視線に気付き、不思議そうに片眉を上げる。
「食べないの」
 クロトは取り出したばかりのアーモンドをわたしのソーサーに置いた。うっとうしいほどの熱気に包まれた部屋でホットココアを飲んだせいか身体が変に熱い。なんてことはないごく普通のアーモンドを噛み砕きながら、こんな熱波早く過ぎ去ればいいのにと願った。

 アルコールなんて一滴も飲んでいないのに、帰路につく足は羽根が生えたみたいに軽かった。あんなに嫌だった冷たい空気も、火照った身体を落ち着けるにはちょうど良い。わたしは首元に巻き付けていたマフラーをゆるめ、何度か深呼吸をした。
 コーヒーを飲んだばかりにもかかわらず、隣を歩くクロトは眠たそうだった。黒い手袋に包まれた手がぶらぶらと揺れている。彼は浮つくわたしに小言を言った。
「なんで一人でご機嫌になってるわけ? 今度はもっと面白い映画の割引券をもらってきてよね」
「無茶言わないでよ。もらいたくてもらえるものじゃないんだから」
 そういえば、とわたしは続ける。「好きなシーンがもう一つだけあった」
「えー、また猫の話?」
 わたしは首を横に振り、クロトの手を取った。誰もいない歩道の上で、ぜんまいが止まる寸前の人形のようにゆっくりと踊りだす。細い腰に手を回し、劇中で流れたうろ覚えの鼻歌を歌いながら、頼りない光を灯す街頭の下でくるくる回る。彼は突拍子もない状況に面食らいながらもわたしの踊りについてきてくれた。ラボの授業にダンスがあるとは到底思えないけれど、クロトの足取りは案外軽やかなものだった。
「なにすんだよ」
「気に入ったシーンの再現。寝てたから覚えてないでしょ」
「そりゃもちろん覚えてないけど。え、まさか酔ってる?」
「ココアしか飲んでないんだから酔わないよ」
 それなら、この身体の昂りは一体なにものなんだろう。こんなばかげた真似、普段のわたしなら絶対にしないのに。寒気を遮る手袋越しではなく、素手で彼に触れたい。クロトのありとあらゆる姿をこの目で確認したい。わたしの内臓をクロトに見てほしい。わたしの素顔を知っている人も、知られても構わないと思える人も、きっとこれからもクロトだけだから。
 踊り疲れて地面にへたり込むと、クロトはうんざりとした表情を崩さずにわたしの手を掴み、くたびれた身体を引っ張り上げてくれた。
「君さあ、絶対にお酒とか飲まないでよ。酔っ払ったら面倒くさいタイプだろ」
「クロトも飲んでよ。一緒に面倒くさくなろうよ」
「やだよ。生体CPUが酒なんか飲んだらどうなるか」
 カフェインは平気な顔して摂っていたくせに、ずいぶん弱気なことを言う。不思議なことに、わたしはクロトとお酒を飲む日が楽しみだとは思わなかった。酒を飲む前に二人とも死んじゃうかもしれないなと薄々気付いていたからだ。
 寒さで頬を赤らめたクロトは、わたしの手を繋いだまま「早く帰らないと雪が降ってきちゃうよ」とぶっきらぼうに急かした。


2023.12.25
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

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