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親愛なる弱き者へ


※採血の描写があります。

 左腕を出して、と彼にお願いすると、その美しい容貌からは想像もつかないがっしりとした腕が私の前に差し出された。肘を採血用の小さな枕に乗せ、タンクトップ姿のシャニは呑気なあくびをひとつ漏らす。今は深い夜ではなく真昼間だったけれど、このまま放っておけばうとうとと眠りに落ちてしまいそうだった。
 私は彼の手首をとんとんと軽く叩いた。こんな寝ぼけた刺激で睡魔を追い払えるはずもないので、さらにシャニに向かって呼びかける。
「シャニ、がんばって起きて。残りの検査は採血だけなんだから」
「うるさいなー、もう。さっさと採れよ」
 シャニはだるそうに答えながらも一瞬だけ薄く笑い、私の指示を待たずに左手で拳を作った。彼にとって、検診など慣れたものだ。私は衛生班の一員として、彼ら生体CPUの脈拍を測り、心臓や肺の音を聴き、最後に採血を行う。同じ生体CPUであるオルガとクロトは先に検査を済ませていて、医務室にいる人間は私とシャニの二人だけだった。
 この役目を仰せつかったとき、いいか、機械の点検作業と同じようにやるんだ、と直属の上官がばかにしたように笑いながら私に言った。そんなこと言われても、私はモビルスーツどころか車やバイクの点検だってしたことがないのに。肘の裏に浮き上がった血管を指先で探り、アルコールを含んだ綿で穿刺部を消毒する。私は彼に気付かれないように深く息を吸った。アルコールのつんとした臭いが鼻を刺す。クルーたちの健診は繰り返し何度も行ってきたにもかかわらず、シャニを相手にするとどうも緊張してしまう。
 注射針が血管に入ったことを確認すると、シャニはやはり私が指示する前に手のひらを広げた。
「勝手に広げちゃだめ」
 注意が気に食わなかったのか、はたまた愉快に思ったのか、彼は「慣れてるしぃ」と間延びした声を上げた。
「慣れててもだめなの」
「はいはい、怒んなよ」
 シャニは楽しそうに宥め、私の手元に視線を注いだ。注射器に流れ込む赤黒い血液を凝視している。軍隊に身を置く者といえど、どうしても注射が苦手で穿刺部から目をそらす人も少なくない。けれど、オルガもクロトも、そしてシャニも、採血をするときは必ず、静脈から抜き取られていく血液を当然のように見つめた。興味津々な眼差しで見入っているわけではなく、他にすることがないので暇つぶしに眺めているような、そんな投げやりな視線だった。
「痺れてない?」
「ぜんぜん」
「はい、お待たせ。終わったよ」
 注射針を抜き、絆創膏を貼り終えるまでを見守ると、シャニは目線を上げ、今度は艶やかな瞳を私に向ける。これからどうするべきか知っているくせに、このひとときをたっぷりと楽しむような――もっと素っ気なく言えば、もったいぶった空気が流れた。私はその謎めいたな眼差しに戸惑いながら、おずおずと口を開いた。
「傷口を10分くらい押さえておいて。あざになっちゃうよ」
「やだ。なまえが止血してよ」
「なに言ってるの。いつも自分で止血してるじゃない。それに、私も暇じゃないんだけど」
 一応は抗議してみたものの、無駄だろうな、と頭の隅で諦めた。案の定、採血をしていない方の手をぶらりと下げたまま、シャニは無言で訴えかけてくる。私は午後から始まる怒涛のスケジュールを思い出し、ため息をついた。
「仕方ないな、3分だけだからね。3分経ったら自分で止血してよ」
 シャニは唇を真一文字に結び、うんともすんとも言わなかった。返事がないことに引っ掛かりを覚えたけれど、とりあえず腕時計を外し、肘枕の横に置く。それから、血の滲んだ絆創膏の上から指を押し当て、ぎゅっと圧迫した。彼の顔をちらっと盗み見る。採血のときと同じように、私の手元を穴が開くほど凝視していた。
 シャニ・アンドラスという人は、ときどき気まぐれにわがままな行いをしては私を困らせる。血圧測定があるのにご飯を食べてから検診に来たり、視力検査では適当な答えを繰り返してやり直しになったり、そもそも寝坊をして部屋から出てこない日もあった。舐められているのだろうか、と最初はいやな気持ちになった。事実上、ラボの下っ端でもあるので、彼から嫌われているのかもしれない。けれども、私が「シャニ」と名前を呼ぶと、彼の唇はゆるやかな弧を描く。それに気付いてからは、シャニに求められるのは不思議といやではなくなっていった。私はこんな環境に来てしまったことを悔やんでいたし、愛する両親が暮らす家に一刻も早く帰りたかった。だから、シャニが私に見せる反抗的な態度に妙なシンパシーを感じたのかもしれない。
 シンパシーを感じるだけならまだマシだった。ここが戦場でなければどれだけよかっただろうと、ありもしないもうひとつの私とシャニを夢見ては睡眠不足に陥った。シャニに対して勝手な緊張感を抱くのも、自分を律するためなのだと思う。彼は私ではない。私も彼ではない。私とシャニの思いは決して交わらない。交わってはいけない。
 どちらも声を一言も発さないまま、3分が淡々と経過した。脈打つシャニの肘裏から指を離す。出血のピークは過ぎていたが、あともう少し圧迫する必要があるだろう。
「終わり。あとの7分は自分でお願いね」
 腕時計を付け直し、テーブルの上を大急ぎで片付ける。私はパソコンと3人分のサンプルを持って椅子から立ち上がった。医務室にぽつんと取り残されたシャニは、慌ただしく去る私を恨めしそうに見つめていた。後ろ髪を引かれる思いで医務室を出る。私は生体CPUの担当から外れるべきなのかもしれない。

 今日も業務をつつがなく終えることができてほっとしている。私は食堂で同僚たちと簡単な夕食を取り、酒を飲み始めた彼らを置いて一足先に部屋へ戻った。日頃の睡眠不足のせいで少し疲れていたのだ。それに、私はまだお酒が飲めない。
 扉がずらりと並ぶエリアへ足を運んだ途端、大きなあくびがひとつ出た。海の上に――しかも戦場に安全な場所などどこにもないけれど、居住区まで来るとどうしても気が緩んでしまう。
 反対方向から、ぶかぶかのジャケットを着た人がふらふらと歩いて来るのが見えた。自分の部屋まであと数歩という距離だった。シャニ、と思わず声をかけると、彼は私の姿に気が付き、にやりと唇の端を上げた。
「止血はちゃんとできたの?」
 念のためシャニの経過を伺うと、彼は口をつぐんだままジャケットの片腕を脱ぎ、私に採血の傷口を見せた。小さな痕を中心に紫がかったあざがいびつな模様を描き、ところどころ黄色に変色している。止血に失敗したことは誰の目にも明らかだった。
「自分で圧迫してって言ったのに」
 深いため息をつくと、シャニは嬉しそうに自分のあざを撫でた。自分で圧迫する気がないのなら、止血バンドを用意した方がいいのかもしれない。でも、止血バンドを私が巻いたところで、後でシャニが剥がしてしまったら意味がない。
 悩んだ末、私はシャニを自分の部屋の中へ入れた。同僚の女性との相部屋だったが、彼女は酒に酔っ払っている最中でしばらく戻ってこないはずだから、少しの間くらい彼を部屋に上げても問題ないだろう。
「そこに座って」
 ベッドの端を指差すと、シャニは素直に腰掛け、眠そうに目をこすった。私も彼の隣に座り、収納棚から取り出した3枚のハンカチをシーツの上に並べる。幾何学模様に覆われたシックなもの、花柄を散りばめた可愛らしいもの、手触りの良い無地のもの。すべて私の私物で、実家から持ってきたハンカチだった。
「なにしてんの」
 折りたたまれたハンカチを目の当たりにしたシャニが不思議そうにつぶやいた。意図をいまいち理解していないようだった。
「この中から好きなハンカチを選んで。採血した後に縛るから」
「へえ、わざわざそこまでするのかよ」
「シャニが自分で止血してくれないからでしょ」
 どれにする? と私は返答を急かした。私のハンカチで止血するなら、シャニもわがままを言わずに従うだろうと考えたのだった。ハンカチを私と思ってくれればいい。彼が望むなら、どれか一枚あげてもいいとさえ思っていた。
 シャニは大して迷う様子もなく、私の顔をまっすぐに見据えた。そして、感情の読み取れない表情を浮かべたまま断言する。
「べつにハンカチとかいらない。俺はなまえがいいから」
 私は自分の考えの甘さを思い知りながら、ただただ狼狽した。
「ねえシャニ、そんなこと言われても困るよ」
 そう、困る。彼だけを特別扱いするわけにはいかない。これ以上シャニに近付いてはいけない。崖の先端まで追い詰められたような気持ちになり、私は力なく俯いた。
 シャニはそんな私の手を取る。ひんやりと冷えた体温が指を丁寧に包み込み、繋いだ手が眼前に掲げられる。まるで儀式のような行為に戸惑っていると、いつの間にか距離を詰めていたシャニの息が私の額にかかる。冷たい手の感触と違って、彼の吐息は夏の茹だった空気みたいに熱かった。
「なんで困るんだよ。なまえは俺が欲しくないの? いつも物欲しそうな目で俺を見るくせに」
 唾を飲み込む音が生々しく響く。愚かにも、自分を律していると思い込んでいたのは私だけで、彼にはすべてお見通しだったのだ。
「ほしいよ」
 繋いだ手に力を込めてそう告げると、彼は満足げに目を細めた。
「私はあなたが欲しい。本当は血の一滴だって誰にも渡したくない」
「ふーん、衛生兵失格だね」
「シャニが言わせたくせに」
「だって、俺が頼めばなんでも言うことを聞いてくれるから」
 シャニは手を離し、ジャケットを脱ぎ捨てて逞しい腕を露わにした。採血をするときみたいに、肘を私の前に差し出す。
「ここにキスしてよ。俺の血をあいつらに渡したことを懺悔しろよ」
 彼の涼しげな笑い声が、紫色のあざと打ちひしがれる私に降り注ぐ。いいか、機械の点検作業と同じようにやるんだ。上官の嘲笑が頭の中で虚しく響き渡る。こんなことをしてもなんの解決にもならない。それでも私は、シャニのあざに優しく口付けることしかできなかった。


2023.12.09
タイトル「天文学」様より

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