小説
- ナノ -

ひとりではない檻


「こんな訓練、意味あんのか?」
 帰投する最中のお仲間二人に訊ねると、「さあね」だの「知らない」だのと投げやりな返答が返ってきた。どうやら、クロトもシャニも俺と同じ不満を抱いていたらしい。無意味な訓練を受けさせやがってと、どいつもこいつも唇をへの字にひん曲げている――おそらく、俺も。
 宇宙ってやつは、地球以上につまらない場所のようだった。それとも、この月基地を飛び出せば少しは面白いものに出会えるのだろうか。艦内へ戻り、まだ新鮮な記憶のなかから外の様子を思い起こす。足元をだだっ広く覆う岩石の地表以外は、どこを見渡しても黒一色だった。
 宙へ上がった俺たちが真っ先に受けた命令はこうだ。有事に備えて、まずは真空空間での訓練をすること。パイロットスーツを着ているにもかかわらず、いまさら機体の外でごちゃごちゃした訓練を受けるなんてばかげている。だいたい、有事ってヤツが一体どういう状態を指すのか、俺にはさっぱり分からない。ようは負けなきゃいいだけの話じゃねえか。
 なんとなく窓の外を見やる。さっきまで俺たちがそうしていたように、非戦闘員の連中がくだらない訓練を受けている様子が見えた。ノーマルスーツに身を包み、きびきびと真面目に作業する者が多いなかで、一人だけ無重力空間に翻弄されている間抜けな奴がいる。なまえだ。
「ガキがトランポリンで遊んでるみてえだな」
 立ち止まってぽつりと独り言を漏らすと、クロトとシャニも歩みを止め、窓の向こうに目をやった。
「トランポリンっていうか、僕の目には車輪の物真似に見えるけど」
「なんか楽しそー」
「どこがだよ。あいつ、今にも死にそうな顔してやがるぜ」
 3人でにやにや笑いながら見物していると、あたふたと逆さまに浮かぶなまえと目があった。ヘルメット越しでもはっきりと分かるほど、俺たちの方を恨めしげに睨みつけている。
「あーあ、バレちゃった」
 クロトは元の白けた表情に戻り、シャニはあくびをしながら「早く着替えて寝たい」と目をこすった。クロトとシャニが更衣室の方へ向かうのと同時に、連中の訓練も終わったようで、奴らは一斉に艦へ集まってくる。もうここに用はない。俺も踵を返し、更衣室へ向かった。

 更衣室まであと数歩というところで、後ろから肩をとんと軽く叩かれた。さっさと着替えて本でも読みふけってやりたいのに、うっとうしい。
 不機嫌な声を上げながら後ろを振り向くと、そこには似合わないノーマルスーツを着たなまえが立っていた。外したヘルメットを腕に携え、柔和で馴れ馴れしい表情を浮かべている。こいつはうっとうしさの塊みたいな奴だ。俺がたった今漏らした小さな舌打ちも、なまえの耳には届いていない。なまえの明朗な声によってかき消されてしまったからだ。
「サブナック少尉!」
 人目もはばからず、なまえは嬉しそうに俺の名前を呼んだ。
「なんの用だよ」
 仕方なく返事すると、なまえは平然と「用は特にないですけど」などとのたまう。じゃあ話しかけるな、と文句を言いたいところだったが、あいつはなにかを思い出したように目を見開いた。
「少尉、さっき私のこと笑ってましたよね」
「そりゃあ笑うだろ。お前、あの運動神経でよく入隊できたな」
「やめてくださいよ。これでも落ち込んでるんですから」
 なまえは額に手を当て、「大丈夫なのかなあ」と大きなため息をついた。訓練の結果が散々すぎて、先行きが不安になっているらしい。そこまで不安になることか? と、俺は目を細めてなまえの憂鬱そうな面持ちを見下ろす。撃って撃って、撃ちまくって、敵を一匹残らず墜とせばいいだけの話だ。そうすれば、こいつらがノーマルスーツで逃げ惑う必要もなくなる。
 けれどまあ、そんなくだらないことのために戦うなんてまっぴらごめんだ。
「なんだろう、このにおい」
 自分の手首を顔の中央に近づけ、なまえは鼻を鳴らしながらにおいを吸い込んだ。次に腕、反対側の手のにおいを嗅ぎ、今度はヘルメットを鼻に近づける。
「なにやってんだ」
「スーツからラズベリーみたいな甘酸っぱいにおいがするんですよ。ほら」
 ノーマルスーツに包まれた指が、俺の鼻先に近づいてくる。甘ったるい香りが否応なく鼻の奥へ流れ込み、俺は思わず顔をしかめた。どこかで一度か二度、嗅いだことのあるにおいだった。
「どうですか?」
「どうって、金属が溶けたにおいじゃねえか」
 率直に答えると、なまえは不思議そうな目で俺を見る。
「金属? そうかなあ、人によって感じ方が違うんですかね」
 そう言いながら指を引っ込めたなまえは、顔に垂れた髪を流れるような手つきでかきあげた。溶けた金属のにおいとはまた別の種類の香りが、ごく狭い空間にふわりとただよう。ほかでは嗅いだことのない、なまえ独自のにおいだった。あえて言うなら、なまえのそのにおいはバニラのアイスクリームと似ている。まだ地球にいたころ、こいつは休日になると、寄港先の街でキッチンカーを見つけてはアイスを食べていた。少尉にも食べさせたいと駄々をこね、無理やり付き合わされた日もある。アイスの食べすぎで同じようなにおいになっちまったんだろう、多分。
 宇宙空間のなかでは、アイスクリームどころか嗜好品の類いはめったにお目にかかれなくなる。こいつが俺を外に連れ出す口実は晴れてなくなるわけだ。しばらくは落ち着いて読書に集中できるだろう。
 ふいに、なまえのにおいが鼻腔に色濃く流れ込んできた。視界の端にあいつの頭が見える。なまえが俺の肩あたりに顔を寄せているのだ。
「なんだよ」
「サブナック少尉のスーツからもラズベリーの香りがします。もしかして、これって宇宙のにおいなのかな」
 小声ではあるけれど、あいつの声色は隠しきれない好奇心のせいで弾んでいた。なまえは俺のパイロットスーツのにおいを嗅ぎ、「やっぱり同じにおいだ」と呑気に再確認する。
 なまえがすぐ側にいると、あいつのバニラ風味なにおいと溶けた金属とが混ざり合った香りが全身を巡り、脳みそにゆっくりと染みこんでいくような感覚に陥る。不快に思ったのはほんの一瞬だけだった。
 だから俺はなまえの首筋に顔を埋め、胸いっぱいに吸い込んでやった。
「わ、ちょっと少尉、なに」
「仕返し。お前と同じことしてんだよ」
「ここ、廊下ですよ!」
 真っ赤になったなまえは俺の元から一歩退き、誰もいなくなった廊下をきょろきょろ見渡す。そして、更衣室のドアの向こう側から漏れ聞こえるざわめきを聴きながら目を白黒させる。訓練で無様な姿を晒す方がよっぽど恥ずかしいと思うが、こいつにとってはそうじゃないらしい。不安症なのか能天気なのか、いまいち理解できない奴だ。
「展望デッキへ行きませんか」と、なまえは頬を赤らめたまま俺を誘った。「更衣室もしばらくは空かないと思いますし」
「更衣室が空くまでな」
 ぶっきらぼうに了承すると、なまえは弾けるような笑顔を浮かべて俺の手を取った。温かくも冷たくもない、ノーマルスーツをまとった手のひらが俺を包み込む。なんだか妙な感触だった。こいつはいつだって体温が高く、手を握っているだけで眠くなるというのに。なまえの微妙な体温を感じながら、俺はあくびを噛み殺した。
 なまえは手すりに掴まって移動しているにもかかわらず、天井に何度も頭をぶつけそうになっていた。そのせいで、俺の淡い眠気は一気に覚めてしまった。なまえの身体が浮き上がるたび、俺があいつの手を引きずり下ろすように引っ張る。艦尾に着くころにはさすがに安定してきたようで、繋いだ手を離すと、なまえは「やっと慣れてきました」と頼りなく笑った。
 地球を臨む展望デッキには、俺たち二人以外誰もいなかった。傷ひとつない窓に、なまえと俺の姿が映り込む。自分からここに来たいと言い出したくせに、なまえの表情はひどく不安そうだった。
「子どものころ、宇宙旅行へ行くのが夢でした」
「そうかよ。宇宙に行くことだけは叶ったな」
「こんな形で来ることになるなんて、思ってもみませんでしたけどね」
 なまえは地球の後方に広がる無数の星々を見渡し、肩を強張らせながらごくんと喉を上下させる。
「きれいだけど、ちょっと怖いです」
 少尉は全然平気そうですね、と付け加え、なまえは俺にほほえみかけた。
「地球も宇宙も大して変わりゃしねえ」
 俺は命令を受ければ機体を駆り、目の前の敵を虫けらのように叩き潰す。敵を殺せない兵器に存在意義はない。重力があろうとなかろうと、俺たちの成すべきことはなにも変わっちゃいない。
「その余裕を少しくらい私に分けてくださいよ、もう」
「ああ? いやに決まってんだろ」
「けち」
 なまえはむすっと唇を尖らせると、窓の向こうにたたずむ地球を再び見据えた。面白みのない風景をいくら眺めたところで恐怖が軽減するわけでもないだろうに、視界から俺すらも消え失せてしまったかのように、なまえは一点をじっと見つめ続けていた。
 しばらく沈黙したあと、なまえはおもむろに口を開いた。
「子どものころの少尉は、どんな夢を持っていたんですか?」
 なにを話すのかと思えばそんなことか、と俺は味気ない気分になった。
「さあな。どうせくだらねえ夢でも見てたんだろうよ」
 なまえは意味を理解できなかったらしく、目を丸くしながら「そうですか」と気の抜けた返事を漏らした。だから、鼻で笑ってやった。こいつのことも、過去を思い出せない俺のことも。俺には過去の記憶もロマンチックな夢もいらない。拳を握りしめると、硬い指の感触が自分自身の手のひらに伝わった。
 あいつは俺の横顔を見上げたまま、「私、戦争が終わったらサブナック少尉と旅行に出かけたいです」と唐突に告げた。目線を落とすと、窓には俺を嬉々として見つめるなまえの横顔が映りこんでいる。
「おい、いきなりなんの話だよ」
「今の夢の話です」
 今。実体がある方のなまえに視線をやる。きらきらと輝くまなざしが、俺の頭を、四肢を、胴体を絡め取っていくようだった。どんなに振り払っても、いつの間にか俺の側に寄り添ってくる。草原に入ったときによく見かけるひっつき虫みたいだ。こいつのすべてが面倒になり、振り払うのをやめたのはずいぶん前のことだったと思う。
「宇宙じゃなくても、どこでもいいです。また一緒にアイスを食べたいし、ああそうだ。少尉が好きな小説の舞台になった場所へ行くのもいいですね。聖地巡礼ってやつ」
「なに勝手に決めてんだよ。俺を巻き添えにすんな」
「夢なんだから、言うだけただですよ」
 なまえはあっけらかんと言い放ち、楽しそうに笑った。旅行、アイスクリーム、聖地巡礼。想像しても、胸が踊るものなどなにひとつなかった。なんて退屈な夢なのだろう。ひょっとしてこいつ、この期に及んで俺のことをただの人間だと思っているのだろうか。もしそうなのだとしたら、本当にバカだ。
 あいつは地球に背を向け、片足で床を蹴ってふわりと宙に浮かび上がる。宇宙の甘酸っぱいにおいと、なまえ自身の香りを展望デッキに振りまきながら。
「サブナック少尉、そろそろ着替えに行きましょうか」
 こちらを振り返ったなまえに向かって「ああ」と短く答えると、あいつはまた天井に頭をぶつけた。


2023.10.08
タイトル「失青」様より

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