オリオンの瞬きを数えて
単位がどうこう、とかいうつまらない忠告と、すがるような「お願いします」が、放課後のざわめく職員室のなかでぴったりと重なった。私は椅子にふんぞり返って座る担任から目を離し、切羽詰まった声の主を盗み見た。バスケ部の田岡茂一監督だ。姿勢をぴんと正し、学年主任の先生にぺこぺこ頭を下げている。
私はそっと聞き耳を立てることにした。正直聴覚を研ぎ澄ませなくとも、茂一も主任も声量が大きいせいで、声自体は普通に聞こえる。問題は話の内容だった。部活動が始まる放課後にもなって、一体なにを必死に訴えているのだろうか。
「バスケ部には福田が必要なんです」
茂一は身振り手振りをしながらそう申し立てると、再び頭を下げた。よく見かけるテレビドラマのワンシーンみたいだった。あまりの気迫に、他の先生たちも茂一の方へちらりと視線をやる。私は茂一と主任を食い入るように見つめていたかった。でも担任に叱られている手前、堂々と見物するわけにはいかない。もちろんこれはお芝居などではなく現実に起こっていることなのだけれど、こんなに何度も頭を下げている大人を見たのは初めてのことだったから。
書類まみれの机を眺めながら、私の頭は話題の同級生の顔をはっきりと思い浮かべていた。福田吉兆。おめでたそうな名前やいかつい見た目とは裏腹に、結構かわいいところがあるやつだった。1年生のときは同じクラスで、2年生になってからは別々の教室で過ごしている。教室や外で顔を合わせれば談笑する(といっても、福田はあまりにこにこと笑ったりしないけれども)、1年生の頃の私たちはそんな間柄だった。
福田は今、部活に参加することができない。彼から直接話を聞いたわけではないけれど、それは練習試合中のことだったという。茂一に手をあげたせいで、彼は部活動を無期限に禁じられた。その話を人づてに聞いたとき、私はなんともいえない物悲しい気分に陥った。バスケにのめり込む福田の姿を知っているからだ。
あやうく茂一のことを嫌いになるところだったけれど、こうして福田の部活禁止処分を解くよう懸命に訴えているのもまた茂一だった。私は心の中で叫んだ。茂一、がんばれ。できることなら私も加勢したい。
「おいみょうじ、よそ見してる場合か。話はまだ終わってないぞ」
担任はうわの空な私を叱りつけると、また「単位がどうこう」と小言を再開する。私の中ではもう終わってるんだよ、と言い返したいけれど、そんな憎まれ口を叩いたら後が怖いから絶対に言わない。ああ、学校って本当に本当につまらない。私には、福田のように夢中になれるものがひとつもないのだ。将来成し遂げたいことも、自分がなにを好きなのかも、今のところさっぱり分からなかった。私は自分が何者なのか理解できないまま、態度だけがばかみたいにデカいろくでなしの大人になってしまうのだろうか。授業をサボったところで、子どものまま生きていける保証はどこにもないのに、大人への逃避行動がやめられない。
深いため息をつくと、隣から「校長に話を通しましょう」という主任の声が聞こえてきた。私の周囲にただよう湿ったため息が、少しだけ乾いた気がした。
その翌日、私は福田と廊下でばったり出くわした。放課後のチャイムと同時に保健室を抜け出し、昇降口へ向かう途中だった。
「福田」
思わず声をかけると、向こうからやってきた彼は立ち止まり、「久しぶり」とつぶやきながら私を見下ろした。彼が携えているのは通学鞄だけじゃない。福田の肩から下がったスポーツバッグが小さく揺れ、やがてぴたりと静止する。胸の底から次から次に湧き上がる喜びが、私の唇の端を自然と押し上げた。
「……にやけすぎ」と、福田が当然のように指摘する。唇をきゅっと引き締めても、またすぐに頬がゆるんでしまう。仕方がないので、私はにやついたまま彼に探りを入れた。
「ねえ福田、さっき校長先生に呼ばれたでしょ」
福田の来た道にある部屋といえば、職員室か校長室の二択だ。彼は怪訝そうな声を上げた。
「なんで知ってるんだ」
「昨日職員室でね、茂一が主任の先生に頭下げていたのを見たよ。校長に話をさせてくれって」
険しかった福田の表情にぱっと光が灯る。私の勘違いかもしれないけれど、目の表面がぼんやりと潤んでいるように見えた。
「これから体育館に行くんでしょ。顔を見れば分かるよ」
よかったね、とほほえみかけると、福田は自制するように目を細め、むすっと口角を下げた。素直に喜べばいいのに、相変わらず強情な人だと思う。けれど、その芯の強さが福田の良いところでもあるのだ。きっと部活を禁じられている間も、誰に命じられるわけでもなく練習に励んでいたに違いない。彼はそういう人だから。私に生まれつき備わっていないものを持っている福田は、自ら光を放つ恒星のように眩しかった。
「なんだよ」
じっと見つめすぎてしまったのか、彼は気まずそうに目を逸らす。まただ。福田は一年の頃から、私とあまり目を合わせてくれない。無視されたり、ひどい言葉を浴びせてくるようなことは一度もないので、嫌われているわけではないと思うけれど、今のように目を逸らされるたびに私は少しさみしい気持ちになる。
「いや、ちょっとしみじみしちゃった。茂一もいいところあるよねー」
へらへら笑うと、脳天に軽い衝撃が走った。ぽすっ、と間抜けな音がする。やわらかなチョップが私の頭に打ち付けられたのだ。痛みなど微塵もないにもかかわらず、リアクションは反射的に「いたっ」と口をついて出る。
おそるおそる彼の顔色を窺う。その表情は驚くほど変化がなかった。
「田岡先生を呼び捨てにすんな」
怒る理由ってそこなんだ、と意外に思いながら、私は「ごめん……」とか細い声で謝った。茂一じゃなくて田岡先生。田岡先生。心の中で10回ほど繰り返す。こんなことで福田に嫌われたら、後悔してもしきれない。
福田はまだ気に食わないことがあったようで、私の目を鋭く見据えながら再び口を開いた。彼の方から目を合わせてくれるなんて珍しい。身を乗り出しそうになる気持ちをぐっと堪え、ごくんと喉を鳴らす。
「あと、ちゃんと授業に出ろよ」と、福田は私を見つめながら言った。窓の開いた廊下って、こんなに蒸し暑い環境だっただろうか。私は思わず、熱のこもった手のひらを制服のスカートに押し付けた。クラスが離れてしまったのに、彼は私の近況を知っていた。福田のシンプルな言葉は、教師の退屈なお説教よりも断然効く。効いてしまう。
私は彼の忠告に無言で頷いた。福田にあるものが私にはないけれど、彼の側で欠けたパーツを探せるのなら、少なくともこの高校生活は意味がある。そんな気がした。
2023.09.10
タイトル「失青」様より
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