小説
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奇怪なシャングリラを夢みる


※現パロ

 薄明るい天井にパールグレーの淡い影が揺れている。人の影だ。けれども、照明の消えた部屋のなかに、シャニの姿はなかった。
 私はびしょ濡れのビニール袋をテーブルに置き、遮光カーテンを開け放った。続けてベランダの窓を開けると、強烈な日差しがストッキングに包まれたつま先を熱し、外から吹く熱風が部屋のつめたい空気と触れあう。外気を警戒するように、エアコンがまるで唸り声のような音を立てた。
 シャニはそう広くないベランダに座り込み、投げやりな手つきで植物に肥料をやっていた。ホームセンターで買った素焼きの鉢は、そこまで明るい色ではないはずなのに、焼けつくような陽光に照らされ目が痛くなるほどまぶしかった。
「こんなに暑い時間帯に、外なんか出ちゃいけないよ」
 直射日光を浴びる彼をたしなめながら、私は紫外線ですっかり色あせたサンダルを履き、注意深く窓を閉めた。窓を開けっ放しにすると、招かれざるお客さんがやってくるから。
 顔を上げたシャニはにやりと笑い、「どの口が言うんだか」と私の言動を冷やかした。たしかに、彼の言うとおりだ。夏の間の買い物は、日が暮れてから行った方がいいのかもしれない。
「おやつ買ってきたよ。食べるでしょ」
「食べる」
 立ち上がったシャニの足の間から、鉢の中身がちらりと覗く。ひょろひょろの茎に萎びた葉っぱが2、3 枚申し訳程度にくっついている。残念だけれど、せっかく撒いた肥料はなんの役目も果たさないだろう。今年もだめっぽいな、私はぼんやりと思った。
 シャニは、今年も咲かないひまわりを育てている。去年は元気に枝葉が伸びたと思いきや、蕾がほころぶ前に枯れた。一昨年は芽吹くことすらなかった。土にカビが生えた年もあった。
 趣味である音楽以外の物事はたいてい飽きっぽいくせに、シャニは必ず、夏がくる前にひまわりの種を蒔く。ひまわりに固執する理由を本人から聞いたことはないけれど、だいたい予想はついている。私は学生の頃からひまわりの花が好きだった。
 部屋のなかへ戻ると、ベランダから入り込んだ蚊がふよふよと飛んでいた。でっぷりと肥えた蚊だった。シャニは気だるそうな瞳で蚊の姿を認め、それを指先で潰した。重なった指の腹から、蚊のか細い脚と血が現れ出る。半袖から伸びるシャニの腕には、赤く腫れた虫刺されの痕があった。
 ティッシュで指を拭う彼に、私は「手を洗っておいで」と促した。シャニが手を洗っている間にテーブルを拭き、ビニール袋から取り出したサンドイッチを2枚の皿に盛り付ける。氷を入れたグラスに無糖のアイスティーを注ぎ、シャニの席には虫刺されの薬も置いておいた。
 洗面所から戻ってきたシャニは、「蛇口からあったかい水が出た」と私に報告し、自分の椅子に腰掛けた。
「なんで薬?」
 テーブルの端に置かれた虫刺されの薬を見たシャニは、怪訝そうに首を傾げた。
「腕、蚊に刺されてる。ほらここ」
 シャニの患部と同じ場所を指でとんとんと叩く。彼は私のジェスチャーを見つめながら、ゆっくりとまばたきをした。そして、自らの腕を確認し「ほんとだ」とつぶやく。今になってようやく気付いたらしい。
「かゆくないの」と私は彼に訊ねた。思えば、虫刺されの薬を塗っているシャニの姿を、私は見たことがない。ため息をつきながら薬を塗布する私を不思議そうに見つめるシャニの姿なら、心当たりがいくつもある。
「なんでだろ、全然かゆくない。そもそも、俺って蚊に刺されたことあったっけ」
 シャニは少しの間考え込み、サンドイッチに手をつけた。よく考えたところで答えは出なかったらしい。
 私もサンドイッチを一口かじった。お店で保冷剤をもらったおかげで、よく冷えている。ジューシーな桃と甘いホイップクリームをふわふわの食パンで挟んだ、夏季限定のフルーツサンドだった。いつも午前中には売り切れてしまう人気商品だから、午後に買えるなんて運がいい。
 私は目の前に座る偏食家に、サンドイッチの感想を伺うことにした。
「おいしい?」
「おいしい。たぶん。へんな食感だけど」
 シャニは口の周りにクリームを付けながら淡々と答えた。サンドイッチを押しつぶすように持っているせいで、パンから桃がこぼれ落ちそうだ。ああ、落ちた。
 手慰みにテレビを点ける。チャンネルをひとつひとつ回しても、興味をそそる番組は特になかった。シャニもサンドイッチに夢中で、テレビには目もくれない。私は無難にニュース番組を見ることにした。どうやら、というよりもやっぱり、今年は観測史上一番暑い夏となるらしい。液晶画面のなかに閉じ込められた太陽の光を見ているだけで、体温が急上昇しそうだ。
 サンドイッチを平らげたシャニは、アイスティーを半分ほど飲んでからテレビに視線を向けた。グラスのなかで、からんころんと氷の転がる音がする。
「ひまわりが育たないのも猛暑のせいだろ」
 彼が煩わしそうにこぼした瞬間、画面がぱっと切り替わり、どこかのひまわり畑が一面に広がる。はじけるような黄色の花々を目の当たりにしたシャニは「ずるい」と不平を鳴らした。なにがずるいのか、さっぱり分からない。
「夏休みはひまわり畑へ遊びに行こうかと思ってたけど、ここまで暑いと大人しく家で過ごした方がいいかもしれないね」
「そう、お前は出かけすぎなんだよ。たまには家でダミンを貪らなきゃ」
 シャニが悪巧みを思いついた子どものように笑うので、私もつられて唇の端を上げた。惰眠を貪るなんて言葉、どこで覚えてきたのだろう。いつも聴いている曲の歌詞にあったのだろうか。
「わざわざ出かけなくても、うちには小さなひまわり畑もあるしね」
 そう言って遮光カーテンの向こう側に目をやる。ベランダから見える景色は、雲ひとつない青空と、鉢から弱々しく伸びたひまわりの葉だった。マンションのベランダは狭すぎて畑ですらない。
「花は咲いてないけど、いいの?」
 肘をつきながら、シャニが私を挑戦的なまなざしで見つめる。私は頷き、彼と同じように頬杖をついた。
「ひまわりはひまわりだから。葉っぱもかわいいと思わない?」
「それはよく分かんない」
 シャニはくすぐったそうな表情を浮かべ、誤魔化すように残りのアイスティーを飲み干した。ベランダの網戸にアブラゼミが止まり、ジリジリと大きな声で鳴き始めた。


タイトル「天文学」様より
オンラインイベント「ジュゲムジュゲ夢 vol8」様のプチオンリー「ひと夏の思い出」にて展示

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