インスタント・メシア
しろ。なんてつまらない色なんだろう。
壁も白、天井も白。しろ。私は暇つぶしの手段を持たない。真っ白な空間を穴が開くほど見つめながら、出撃命令を今か今かと待っている。あまりにも退屈すぎて待機室の中をぐるぐると歩き回った日もあったけれど、シャニに殺意のこもった目で睨まれ、クロトには空のアンプルを投げつけられたので、すぐにやめた。
ふと、オルガの読んでいる本が羨ましくなった。本なんか、今までに読んだことも触ったこともなかったのに、どうしてそう思ったのかよく分からない。別に不思議なことでもなんでもない。私という器が生まれたその瞬間から、私の中身は分からないことだらけだった。解決の糸口を掴めないまま、そのうち疑問そのものがどうでもよくなってしまう。おそらくこれは私だけの特性ではなく、オルガも、クロトも、シャニだって同じだと思う。
演習が終わったあと、私は自室へ戻るオルガの背中を追いかけ、いらない本を寄越せと騒いだ。
「自分で買え」
私に背中を向けたまま、オルガは想定どおりの受け答えをする。買えないからこうやって頼んでいるというのに、オルガにはそれが理解できないらしい。
「今月の給料、全部別のものに使っちゃった」
「どうせまた変な服でも買ったんだろ」
「オルガに変な服とか言われたくない。賭け事でぱーっと使ったらすっからかんになっててさ、不思議だと思わない?」
オルガは「全然思わねえ」と言い捨て、なおも食い下がる私に「あきらめろ」と凄んだ。
「近くに使われなくなった図書館があっただろ。そこから掻っ払ってくればいいじゃん」と、後ろからやってきたクロトが口を挟む。オルガは余計な口出しをするクロトに咎めるような視線を投げかけるけれど、睨まれたところでなにも感じない彼は涼しい顔で歩き続けた。
「いいね。それってどこにあるの? 連れて行ってよ」
期待をこめながらクロトを見つめると、彼は頭の後ろで手を組んだ。すっとぼけるときによくやるポーズだ。
「僕は忙しいからパス」
「もういいよ、シャニに連れて行ってもらうから」
がっかりした私は、3歩分ほど後ろを歩くシャニの方を振り返る。私の視線に気がついたシャニは、「なにそれ、知らない」と気だるげにつぶやいた。この人もだめだ。
居住区に足を踏み入れた途端、クロトは貼り付けたような笑顔を浮かべながら、私たちをゆうゆうと追い越した。
「じゃ、そういうことだから。オルガ、こいつのお守りよろしくね」
「ああ? ふざけんじゃねえ」
オルガの不機嫌な声が廊下に響き、前方を歩いていた兵士がびくっと肩を震わせる。こんな些細なことでいちいち怯えるなんてかわいそうだ。あの人、これから戦場でやっていけるのだろうか。私には関係ないし、どうでもいいけれど。
「お守りだと? なんで俺がそんな面倒なことしなくちゃならねえんだ」
オルガはなおも声を荒げる。兵士は自分の部屋まで足早に進み、こわごわと扉を開けると、そのまま室内へと姿を消してしまった。
「お守りって言い方はひどくない?」
一応は抗議をしてみるけれど、クロトもオルガも聞く耳を持たなかった。シャニにいたっては眠そうに目をこすり、私たちの話を全く聞いていない。
「お守りはお守りだろ。おやすみー」
クロトは朗らかに挨拶をすると、自室に引っ込んでしまった。普段は挨拶なんか一言だってしないくせに、わざとらしい。半分夢の中にいるシャニも黙って部屋へ戻っていく。オルガは苛立ちのこもったため息をつき、乱暴な音を立てながら扉を閉めた。壁がびりびりと振動する。耳が痛かった。
その図書館は入り口にクモの巣が張っているものの、荒らされた形跡も特になく、どうやら使われていた当時のまま残っているようだった。電気は点かないけれど、窓から射し込む薄曇りの自然光が図書館をぼんやりと照らしだしている。ひょっとしたら、ロドニアのラボの図書室よりも状態が良いかもしれない。もっとも、ラボは廃墟などではなく、今現在も私たちのお仲間を製造し続けている。
埃の積もった棚から本を一冊取り出す。細かな埃が顔の前に舞い上がり、それをまともに吸い込んだ私はごほごほと咳き込んだ。オルガはそんな私を見てばかにするように笑ったけれど、そういう彼も小さく咳払いをしている。上っ面に問題がなさそうにみえても、やはり廃墟は廃墟だ。
どうやらこの本棚のジャンルは文学とかいうやつだったようで、オルガは本を何冊か取り出し、くしゃみをしながら向かいの棚に背中を預けた。私もオルガの隣に座り込む。グレーのカーペットには細かな塵が積もっていた。
不十分な照度のなか、適当に持ってきた小説をぺらぺらめくってみる。クリーム色の紙にびっしりと刻まれた文字の塊が目に飛び込んでくるものの、文章を情報として読み取ることはできなかった。やっとの思いで拾い上げた単語を一旦認識しても、文字は溶けるように崩れ、なにひとつ頭に入ってこないのだった。ラボに来る前の出来事を思い出そうとしたときや、疑問に思ったことを深く考えようと試したときとよく似ている。全力で走っても目的地にたどり着けず、目の前でシャッターが閉まっていくような感覚だった。
そのうち、文字がうねうねと踊り出すような奇妙な錯覚を覚え、私はあまりの気持ち悪さに本を閉じた。
「オルガって、こんなの毎日読んでるの?」
思わず本音をこぼすと、オルガは小説に目線を落としたまま、不愉快そうに眉尻を上げた。
「うるせえ。てめえみたいなクソ生意気なガキは絵本でも読んでろ」
「ひとつ年下なだけでしょ。私より強化が進んでないくせに」
「その強化が進んでない俺がいないと、迷子になる雑魚はどこのどいつだよ」
悔しいけれど、オルガの言うことは正しい。図星を突かれた私はオルガのすねに肘を入れ、小説を元の位置へ戻しに行った。背後からいまいましそうな舌打ちが聞こえる。
言っておくけど、私は絵本なんかちっとも興味ない。ラボのやつらに読み聞かせしてもらった記憶も、ましてや自分で読んだ記憶もない。じゃあ、文字ってどうやって覚えたんだっけ? 頭の中が白い霧のようなものに覆われていく。私はぶんぶんと頭を振り、深呼吸した。埃っぽい空気が喉に流れ込み、また乾いた咳が出る。
絵本が置かれた黄色い棚を素通りし、色とりどりの背表紙が並ぶ棚の前で足を止める。そこは写真集を集めたエリアのようだった。
本棚の中から「夏」というシンプルなタイトルの写真集を選ぶ。選んだ理由は特にない。しいていえば、一番最初に目に留まったのがそれだったからだ。
その写真集の表紙には、もこもこした形の巨大な雲と、山々の下に広がる草原の写真が大々的に写し出されている。私は適当なページを開き、色つきの紙をぱらぱらとめくってみた。小説の文章よりは頭に入ってくる、気がする。
写真集には、変な写真がいっぱい載っていた。血液よりも鮮やかな赤い液体が砕けた氷の上にかかっている写真。お化けみたいな花たちが同じ方向を一斉に向いている不気味な写真。夜空にカラフルな火花が散っている写真。
「へんなの」と呟くと、いつの間にか私の背後に来ていたオルガが、写真集をじっと覗き込んでいた。
「ねえオルガ。これ、なんだと思う」
2枚の写真をオルガに向けると、彼は「さあな」と関心の薄そうな返事を漏らした。私よりも1年長く生きているくせに、随分といけすかない答えだ。小説だってきちんと読めるくせに。
「もったいぶってないで教えてよ。なんのために本なんか読んでるわけ?」
しつこく聞き返すと、オルガはうんざりとした表情を崩すことなく、だるそうに写真を指差した。
「花火だろ。こっちの花はひまわり。お前、そんなもんに興味あんのか?」
「ないよ。似たようなものはよく見てるし」
彼は唇の端を歪め、「だよな」と同意した。ひまわりという名の花は大嫌いなラボの研究員たちみたいだし、花火は爆ぜた爆弾に似ている。私は写真集を閉じ、夏を胸元に抱いた。もうこの場所に用はない。狭い通路を通り抜け、無人のカウンターを素通りすると、オルガが「おい」と呼びかけながら私のあとに続く。
「これ借りちゃお」
「はっ、もともと返すつもりなんかねえだろ」
「うるさいよ」
「興味もねえくせに」
「壁や天井を眺めるのはもう飽き飽き。それに、オルガが知っていて私が知らないことがあるって、なんかムカつくから」
「マジでかわいくねえな、お前は」
私たちはあれこれ言い争いながら図書館の外へ出た。空を覆い尽くす雲は艦の天井と同じように真っ白で、おまけに肌寒い。せっかく外へ出たのに、またつまらない白色が私を包もうとする。
私は憂鬱な気分に苛まれながら、盗んだ写真集の表紙を撫でた。次の任務で訪れる場所は、常夏の島が集まっているらしい。暑いのは嫌いだ。寒いのも嫌いだけど。
「次に行くところは、ひまわりが咲いてるのかな」
私の発言はほとんど独り言に近かった。けれども、少し先を歩くオルガは、意外にも私の発言を拾い上げる。
「咲いてたって見えやしねえよ。俺たちが全部吹き飛ばしちまうだろうから」
オルガの横顔がちらりと見えた。楽しそうに笑っていた。
タイトル「moshi」様より
オンラインイベント「ジュゲムジュゲ夢 vol8」様のプチオンリー「ひと夏の思い出」にて展示
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