小説
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君の空白を食べにいきます


 陸の竜宮城はたいへんな賑わいだった。改札口の周りをぐるりと見渡す。いない。コインロッカーの前。ここにもいない。彼は一体どこにいるのだろう。
 私はきょろきょろと忙しなく目線を動かしながら、人の波に乗って駅の出入口まで歩いた。澄んだ青空に映える真っ赤な駅舎を見上げる。こんなに混むのなら、江ノ電の方で待ち合わせるべきだったかもしれない。それから、待ち合わせ場所の細かな指定をすればよかった、と往来する人たちを避けながら思った。
 幸い時間はまだある。広場へ出た私は、駅舎から少し離れた場所で恋人を探すことにした。よく見ると、券売機の前に人だかりができている。切符を買い求める人たちが列をなしているのかと思いきや、どうやらそういうわけではなかった。
 奇妙な集まりをじっと見つめると、人垣の中央でバケットハットが揺れた。帽子の隙間から、焦ったそうに眉根を寄せた男の子の顔が見える。彼は見知らぬ人々の待ち合わせ場所として、目印にされているらしい。
 私は急いで券売機の前に歩み寄った。「福田」と名前を呼ぶと、それまで明らかに苛立っていた彼は、私の姿を認めた途端にほっとしたような表情を浮かべる。
「なまえ」
「待たせちゃってごめん。人がすごいね」
 私はそう声をかけながら人垣の間に手を伸ばし、福田の手を引っ張った。わざわざ手を引かなくとも福田なら一人で抜け出せるはずだけれど、あまりにも彼が心細そうに見えたので、思わずそうしてしまったのだった。
「夏休みだからってこんなに混むかなあ。今日ってお祭りの日だったっけ」
「たぶん違う」
 福田はぼそっと答えると、私の手を握り返した。さりげなく指を絡めてくるところが愛おしい。彼とはもう何度も手を繋いでいるけれど、何度手を繋いでも新鮮に嬉しく思う。唇の端がゆるんだ私を、福田は怪訝そうな目で眺めていた。
 海岸の方から、サーファーらしき人たちがしずくを垂らしながら歩いてくる。缶ビールを飲みながら海へ向かう大学生軍団を追い抜き、私たちはしずくの跡を追跡するように駅前の橋を渡った。国道に出ると、目の前に紺碧の海が広がり、砂浜に流れ込む波の音が身体の芯に響き渡る。
 正直なところ、海は見慣れている。けれど、環境がいつもと異なるだけで、青くだだっ広い水たまりも真新しく感じた。目的地のジェラート店は、ここからもう少し歩いた場所にある。海岸線を目でなぞるように見渡すと、高校の校舎がぼんやりと確認できた。
 福田と、それも二人きりで会うのは初めてのことだった。私たちが付き合いはじめてから、彼の世界は目まぐるしく変わった。変わったというより、福田があるべき姿へ戻ってきたと言った方がより正しいのかもしれない。彼はバスケ部に復帰し、バスケット選手になった。
 私はバスケに打ち込む福田が好きだ。練習や試合の応援をする時間も好きだけど、いきいきと身体を動かす彼を見るのも幸せではあるけれど、やっぱり恋人らしいこともしてみたい。そんなことを悶々と考え込んでいた夏休みの最中、今日は珍しく部活が休みだそうで、なんと福田からデートに誘ってくれたのだった。
 それなのに今の福田ときたら、どことなく不機嫌そうな面持ちでジェラート店の外観を見据えている。心当たりがあるとしたら、さっきの駅での一件だ。知らない人たちに待ち合わせ場所として扱われたせいで、プライドが傷ついてしまったのかもしれない。
 繋いだ手を揺らしてみても、ぶらぶらと力ない。とりあえず、私は福田を励ますことにした。
「福田、いい加減元気出してよー」
「……元気だけど」
「ぜんっぜん元気そうに見えないよ。福田ー、ねえってば」
 だめだった。どんなになぐさめても反応が薄い。ジェラートを食べたら機嫌を直してくれるかもしれない、なんて呑気に構えていたけれど、レモンの甘酸っぱいジェラートを食べ終えたあとも、福田は機嫌を損ねたままだった。しぶとい人だ。太陽の光が燦々と降り注ぐこの暑さのせいだろうか。でも、体育館の中だって十分暑い。これ以上彼の不満を察することはできなかった。
 私たちは歩道の柵に身体を預け、砂浜のいたるところに建つ海の家を眺めた。カモメの鳴き声と混じり合う潮騒も、海水浴を楽しむ人々のざわめきも、どこか遠くの出来事のように思えた。
 しびれを切らした私は、空いた両手を海に伸ばしながらぽつんとつぶやいた。
「福田がなにに対して怒ってるのか、ちゃんと言ってくれないと分からないよ」
「べつに怒ってない」
 彼はなおも否定したけれど、続けて「ただ……」と口ごもる。ようやく彼の本心を聞き出せるかもしれないと思うと、固唾を呑んでしまう。他人や暑さといった外的要因にばかり理由を求めていたけれど、私のせいだったらどうしよう。でも私、福田になにかしたっけ?
「ただ、なに?」
 そっけない横顔をはらはらと見つめると、福田は一瞬だけ私に視線をやり、再び正面に向き直った。私に伝えるべきか相当悩んでいるらしい。長い沈黙のあと、福田は意を決したように口を開いた。
「お前の呼び方が気にくわないんだよ」
 想像もしていなかった理由に、私は「よびかた?」と素っ頓狂な声をあげてしまった。待ち合わせから今現在までのやり取りを一つ一つ思い起こす。福田のことをおかしなあだ名で呼んだ記憶はない。首をひねっている私を、彼は命令するように見下ろした。
「彼女なんだから下の名前で呼べ」
 えらそうな物言いとは裏腹に、帽子の影に覆われた彼の頬は恥ずかしそうに赤らんでいた。
「なに、そのかわいい理由」
 思わず本音を漏らすと、福田は私に表情を悟られまいと頬杖をついた。けれども、どんなに顔を隠してももう遅い。私の網膜には、照れた福田の表情がしっかりと焼き付いているのだから。
「ね、ちょっとだけしゃがんで」
 半袖から伸びる彼の二の腕をつついてみると、緊張しているのか少しこわばっている。「お願い」と念を押すと、彼は頬杖をやめ、しぶしぶ膝を折ってくれた。
 私は彼の耳元に唇を寄せ、息を吹きかけるようにそっとささやいた。
「吉兆、あのさ……」
 ささやいているのは私の方なのに、なんだか胸のあたりがふわふわとくすぐったかった。多分、下の名前はまだ呼び慣れていないせいだ。何度手を繋いでも嬉しいように、私はこれから先もずっと、彼の名前を口にするたびに浮き足立ってしまうのだろうか。さすがに慣れてくれないと困る。名前を呼ぶだけでそわそわするなんて、心臓がもたないと思うから。
 私の呼びかけを聞いた彼は弾かれたように背を向け、肩を大げさに上下させた。自分から名前で呼ぶように頼んだくせに、うなじのあたりまでほんのりと朱に染まっている。私の彼氏はやっぱりかわいい。あんまりからかうと本格的に拗ねてしまうかもしれないから、これくらいにしておこう、と心の中で笑った。
「よし、水族館に行って海の家でかき氷食べよ!」
 そう元気よく宣言しながら、彼の腕に自分の腕を絡ませる。吉兆は「腹壊すぞ」と呆れていた。


タイトル「失青」様より
オンラインイベント「ジュゲムジュゲ夢 vol8」様のプチオンリー「ひと夏の思い出」にて展示

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