小説
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あのことは当分ひみつ


※清田が2年生になっています


 自分で借りた本くらい自分で返しやがれ。教師ってヤツはまったくなんでこう――。ぶつぶつと文句を垂れそうになる気持ちをぐっとこらえ、本を携えて図書館の扉を開ける。胸元にトンと軽い衝撃を受け、オレは思わず一歩退いた。
 誰だよあぶねえな、とぶつかってきた人物を睨みつける。そこにいたのはオレのよく知っているヤツだった。ヤツはオレの姿を見上げた瞬間、目をぱあっと輝かせ、子犬のようにはしゃぎはじめる。
「信長先輩、ちょうどいいところに!」
「あのなあ、まずはごめんなさいだろーが!」
 なまえはしおらしく「ごめんなさい……」と謝ったかと思うと、光の速さで表情を切り替えた。頭のてっぺんからつま先まで、きらきらとした期待がほとばしっている。本当に謝る気があったのか疑問に思うけれど、こいつの生意気で無作法な態度を叱りつける気はさらさらない。うんざりする一方で、こうやって絡まれることをほんの少し嬉しく感じる自分もどこかにいる。
「先輩に聞きたいことがあるんです」
 図書館に足を踏み入れると、なまえはオレの後ろにくっ付きながら話を続けた。放課後ということもあり、館内はそれなりに生徒が集まっていた。「私語厳禁」と仰々しい書体で書かれた張り紙が壁にぽつぽつと貼ってあるが、あちらこちらから人のささめく声が聞こえてくる。
「あー、わかったわかった。本返してからな」
 預かった本をカウンターに置きながら適当に返事すると、あいつはきょとんとしながら、返却の手続きを進めるオレを見つめた。
「信長先輩って本とか読むんですか。意外」
「どういう意味だ!? 日直だからって、先生に返却を押し付けられたんだよ」
「ああ、ですよねえ」
「ですよねえ、じゃねえよ。オレだって本くらい読むっつーの……」
 オレはとっさに語気を弱め、口を噤んだ。口ではなにも言わないが、図書委員の目が「静かにしろ」と鋭く訴えてきたからだ。オレたちは二人して図書委員に頭を下げ、押し黙りながら図書館を後にした。ついでになまえの腕を肘で小突くと、彼女はむっとした顔でオレを見上げた。
「私も大概ですけど、一番声が大きいのは先輩ですからね」
 図星だったので「うるせーよ」以外なにも言えなかった。それよりも、用事が済んだのだからさっさと部活に行きたい。廊下を走りたいところだが、職員室の近くなので我慢だ。
 どんなに早歩きをしても、なまえは負けじと食らいついてくる。そういえば、こいつの用事はまだ済んでいなかったっけ。
「聞きたいことってなんだよ。体育館に着くまでの間に話せよ、手短に!」
 びし、と指さすと、なまえはわざとらしく咳払いし「牧さんについて聞きたいです」と返した。
「牧さん?」
 こいつと牧さんの間に接点なんてあったか? と首をひねる。接点の有無はともかく、海南に通う生徒で牧さんの名を知らないヤツはおそらくいない。牧さんはオレの2個上の先輩で――つまり卒業生なのだが、去年までバスケ部のキャプテンを務めていた人だ。能天気ななまえの耳にもさすがに牧さんの名前くらいは届くか、と妙に感心してしまう。逆に「知らない」とか言われたら、オレは怒りが抑えられないかもしれない。
 勝手に感心していると、なまえはうっとりとした声音で意味のわからないことを言い出す。
「牧さんって、前の髪型はオールバックだったんですね」
 思わず「はあ」と気の抜けた相槌を打ってしまった。髪型? なんの話? ゆっくりと時間をかけながら、頭の中が混乱状態に陥っていく。
「さっき、図書館で週刊バスケットボールのバックナンバーを読んでいたんです。牧さんはある試合を境に、前髪を下ろすようになっていました」
 オレは一体なにを聞かされているのだろう。とりあえず黙って彼女の話に耳を傾けているが、なまえから溢れ出た熱気が身体にまとわりついてくるようで居心地が悪い。オレの戸惑いなど露知らず、なまえは本題を切り出した。
「牧さんはどうしてオールバックをやめてしまったのでしょうか」
「いや、知らねえよ……」
 これはうそだ。赤毛ザルのむかつく顔が頭に浮かび、ぶんぶんと首を振る。牧さんから直接聞いたわけじゃないけれど、髪型を変えた理由はなんとなく察している。だって、オレもその渦中にいたのだから。
「あんなに似合ってたのに。なんで誰も止めなかったんですか?」
「うるせえな、牧さんがどんな髪型にしようが牧さんの勝手だろ」
 きつめに睨んだつもりだったが、なまえはどこ吹く風で「オールバックがいい」だの「かっこいい人は額を晒すべき」だの、頬を上気させながら宣っている。その姿を視界に入れた瞬間、胸の中が雨雲のようなものに包まれていく感覚があった。牧さんのことは今も昔も、そしてこれからもずっと尊敬しているけれど、こいつが牧さんに熱を上げているのはどうも気に食わない。なまえの惚れやすさは今に始まったことではなく、中学のころからこんな調子だった。そのたびにオレはちっとも面白くない気分になる。ああ、本当に面白くない! オレだって試合中は前髪を上げてるだろうがよ、と理不尽に問い詰めたくなってしまう。
 問い詰めない代わりに、オレはなまえにわざと刺々しい言葉を送った。
「お前みたいなちんちくりん、牧さんとまったく釣り合わねえよ」
 なまえの足がぴたりと止まる。廊下の窓ガラスに映るあいつの横顔には影がかかり、どんな表情を浮かべているのか分からなかった。立ち込める重苦しい空気が芽生えたばかりの罪悪感を覆っていく。ヤバいと気づいたときにはもう遅く、なまえは怒ったような顔でこちらに向き直ると、高らかにこう宣言した。
「私、もう信長先輩の応援には行きません。大学の方の応援に行きます!」
 なっ、と情けない声が漏れる。もちろん、オレの声だった。罪悪感は後悔に変わり、ものすごいスピードで身体中を蝕んでいく。心臓がちくちくと痛み、いてもたってもいられない。
「悪かったよ、ちんちくりんとか言って」
 しどろもどろになりながら謝ると、あいつは驚いたような眼差しでオレを見た。思わず目を逸らしてしまう。視線の先には画鋲で貼り付けられた掲示物がずらりと並んでいる。インターハイ予選のポスターには、ボールを運ぶ選手のイラストが描かれていた。そのイラストはどこか牧さんの面影があり、オレは結局またあいつの両目を見据えるはめになる。
 なまえと言葉を交わすと、つい余計なことばかり口走ってしまう。普段なら笑い飛ばせるようなことも、簡単には笑い飛ばせなくなる。こんなこと言わなくてもいいのに、オレの口はぽろぽろと本音のかけらをこぼす。今のように。
「でも正直、牧さんとは釣り合ってほしくねえっていうか……」
 オレのぼやきを聞いたあいつは屈託のない笑顔を浮かべ、再び歩き始めた。オレもその後に続き、彼女の隣に一瞬で追いつく。肩を並べたオレを一瞥すると、なまえは「冗談ですよ。しょんぼりしすぎ」と穏やかに言った。いくらなんでも冗談がきつすぎる。
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、あいつは「それよりも」と触れてほしくない箇所を平然と突いた。
「なんで私と牧さんが釣り合ったら困るんですか?」
 ぎくりと肩がこわばる。なんでって、そんなの答えはひとつしかない。けれど、今は時期ではないから言えないだけであって――いや、そもそも時期って一体いつを指すのだろう。
「えーと、それは……」
 煮え切らないオレに向かって、なまえは大げさにため息をついた。
「牧さんと付き合いたいなんて、私は一言も言ってません」
 じゃ、これからバイトなんで、とあいつは下駄箱の方へ去っていく。廊下にぽつんと取り残されたオレは、早鐘のように高鳴る心臓に舌打ちするしかなかった。あいつ、ひょっとしてオレの気持ちに気がついているのだろうか。
 後輩のくせにどこまでも生意気なヤツだ。いつかぎゃふんと言わせてやる。遠ざかっていく足音の残響に重ねるように、オレはわざと粗野な音を立てながら体育館まで歩いた。


2023.08.17
タイトル「さよならシャンソン」様より

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