いいようのない夢の中できみは
低空飛行するトンビとぶつかりそうになり、慌ててカメラを下ろした。磯の生々しいにおいが鼻腔にべったりまとわりついてくる。学校の周りをふらふらさまよっているつもりだったけれど、いつの間にか漁港のそばまで来ていたらしい。
防波堤には、寡黙な釣り人たちが距離を開けてぽつぽつと座っている。学生と子どもだらけの浜辺と違って、海釣りをするのは大人ばかりだった。釣り場を遠目から見渡す。釣り針を海に垂らした銅像ばかりを集めた空間のなかに、ハリネズミのように尖った頭を見つけた。おとなじゃない人がいた、とかすかな喜びを感じた。
「仙道!」
馴染み深い名前を呼ぶと、コンテナに座る男がこちらを振り返った。柔和なまなざしを私に向け、釣り竿から離した片手をかろやかに上げる。私は駆け寄りそうになる衝動をぐっと抑え、彼の元まできびきびと歩いた。もしも、ぶざまにすっ転んでカメラを壊してしまったら、顧問にも他の部員にもこっぴどく叱られるだろうから。
「よう、部活中?」と仙道はのんびりした口調で私に訊ねた。るり色の海を揺らす波はさらさらと穏やかに流れている。彼の問いかけに頷きながら、仙道とよく似ているな、と呑気に思った。
「写真展が来月に迫っているのに、なかなかいい写真が撮れなくてさ」
そう答えながら、私は指でいびつなフレームを作った。指で囲んだ風景は初秋の日差しを浴びてやわらかく輝く。船着き場で呼吸をするように小さく上下する漁船と、灯台を煙突みたいに突き出した江ノ島。空との境目をくっきり描く水平線。仙道の手元から伸びる釣り竿。それから、構図を探す私を不思議そうに眺めるクラスメイト。
私は仙道の横に腰を下ろし、重たいカメラを構えた。レンズの先には、海に伸びた釣り糸がある。何度か試し撮りを繰り返すうちに確信を得る。今日は絶対にいい写真が撮れるはず。私にフォトグラファーとしての勘があるかは分からないけれど、そんな気がした。
「どうした?」
「ごめんね仙道。シャッターチャンスが来るまでお邪魔させてもらうよ」
格好つけた声音で宣言すると、仙道は困ったように笑った。
「別に構わないけどな、あいにく今日はボウズで終わりそうだ」
「そんな弱気なこと言わないで。私、ネタ切れでみんなに呆れられてるの。『お前の写真って江ノ島か富士山ばっかりだな』って」
「はは、ずいぶんと手厳しいな」
がっしりとした上半身がわずかに傾く。思わずむっと唇を尖らせると、彼は笑いながら続けた。
「突き詰めたら、みょうじにしか表現できない写真が撮れるかもしれねーぞ」
なんて優しいのだろう。顧問の先生も他の部員たちも、全員が仙道だったらいいのに。それはそれでちょっと怖いけれども。
「ありがとう、そんなことを言ってくれるのは仙道だけだよ」
カメラを支える指先がふっと軽くなり、私の唇から笑みがこぼれる。仙道とおしゃべりをする時間は、心が落ち着くから好きだ。一学期のころは席が隣同士だったので、私たちは暇さえあれば他愛もない話を繰り返していた。二学期に入ってから席が遠くに離れてしまい、仙道と会話をする機会はめっきり減ってしまったから、こうして話すのは久しぶりだ。私は、なんでもいいから仙道と話がしたかったのかもしれない。
「そうだ。浜のほうでリュウグウノツカイが打ち上がってたぞ。撮らねーの?」
「前に撮ったんだけど、すっごい不評だったよ。腐りかけてたからかも」
逆光で薄暗くなった仙道の顔を、期待を込めてじっと見上げる。彼はやはり困ったように眉を下げ、釣り糸の向こう側に広がる街並みを見据えた。相変わらず、釣り糸はうんともすんともいわない。期待は外れそうだ。それでも私は仙道の隣に座り続けていた。
「仙道ってさ、バスケ部のキャプテンになったんじゃなかったっけ」
「おー、よく知ってるな」
「陵南に通ってる人なら誰でも知ってるよ。こんなところで釣りしてていいの?」
たしか、バスケ部の顧問はめちゃくちゃ厳しい人だったような気がする。遅れて行ったら怒られてしまわないだろうか。
仙道は私に微笑みかけるだけで、言葉ではなにも答えなかった。むしろ、その微笑みが彼なりの返答なのかもしれない。はぐらかされているような、いないような、妙な感覚に陥る。仙道と話していると、たまに、ふわふわとただよう朝もやに問いかけているような気持ちになる。こんなに近くにいるのに、彼に触れることはできない。それでも仙道は、私の心にやわらかく触れてくれるのだ。不思議といやではなかった。
まどろむような時間に揺蕩っていると、仙道が「おおっ」と小さく声をあげた。水面を見ると、ずっと静まり返っていた釣り糸が四方八方に動き回っている。私は膝に置いたカメラをとっさに構え、ようやく到来するかもしれないシャッターチャンスをぎらりと狙った。
「ねえ、大きい?」
ハンドルを回しながら仙道はひょうひょうと答える。
「大物かもしれねーな」
次の瞬間、海面になにかの影が揺らめく。魚だ。鈍色の鱗が陽光を受けて反射する。その魚は水しぶきをあげながら姿を現し、びちびちと勢いよく跳ね回った。
「釣れた!」
私はそう叫びながら夢中でシャッターボタンを押した。ボタンを半分ほど押し込んだときだった。仙道が「あー」と間延びした声を漏らす。暴れまわっていた魚が釣り針から逃れ、海めがけて落ちていったのだ。
乾いたシャッター音が魚の落下音と混じりあう。仙道の驚いた表情と、海面に尻尾だけを見せた魚の写真が撮れているはずだ。たぶん。
「ふっ、あはは……」
堪えきれなくなり、私はカメラを構えたまま肩を震わせた。仙道にレンズを向けると、彼も口を大きく開いて笑っていた。傑作が撮れてしまったかもしれない。
2023.08.06
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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