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あの子のつむじに座礁したい


 校門の前で、同じ部活の友達を見送った。足を止めた友達は「もしかして、彼氏待ってんの?」とからかうように笑う。私はあいまいに頷いた。べつに彼氏がいることを隠しているわけではないけれど、にやにやしながら聞かれると、こちらもなんだか照れくさい。
「さっき、体育館から出てきたのを見たよ」
 別の友達はそう言って体育館を指差した。背後に佇む体育館はひっそりと静まり返っている。笛の甲高い音も、バッシュが床を擦る音も、ボールの弾む音も聞こえない。
「じゃ、またね」
「じゃあね」
 私と友達は手を振りあって別れた。坂道を下っていく背中が徐々に夕暮れの色に染まっていく。また一人になった私は、ずいぶん日が短くなったなあ、と赤らんだ空を見上げた。つい最近まで、アブラゼミやらツクツクボウシがいやというほど鳴いていたというのに。
 そんなことを考えていると、ちょんちょんと私の肩をひかえめに叩く人がいた。ぱっと後ろを振り返る。案の定、そこに立っていたのは福田先輩だった。練習のあとに水をかぶったのか、いつもはうねり気味の髪が湿って少し大人しくなっている。
「お疲れさまです」
「……お疲れ。待ったか?」
「いえ、今さっき来たところですよ」
 そう笑ってみせると、彼は安心したような表情を小さく浮かべ、ひっそりと息を吐いた。福田先輩は一見無愛想に見えるけれど、じつは結構感情表現が豊かなのだ。むっと顔をしかめながらも、尻尾をぶんぶん振り回す大型犬みたい。そんなこと、口が裂けても言えないけれども。
 私たちは肩を並べて、駅の方へ歩きだす。私のとりとめのない話に耳を傾ける彼の足取りは、体格の割にゆるやかだった。先輩が私の歩調に合わせてくれているのだ。
 付き合いたてのころは、福田先輩とぴったり並んで歩くことすら簡単ではなかった。小走りで先輩の後ろ姿を追いかけても、彼はどんどん遠ざかっていくんだもの。もちろん、先輩は私にいじわるをしようだとか、悪気があって早歩きをしているわけじゃない。早歩きをしている自覚もなかったはずだ。へとへとになりながら後ろを歩く私の姿を認めるまでは。
 もしかして、少しずつ進展してるのかな、とふと思う。私は福田先輩とのおだやかな交際をじっくりと味わう一方で、心のどこかでは焦りを感じ始めていた。
 クラスメイトのAちゃんは、付き合って1日目で恋人とキスをしたらしい。他校の男子と付き合っているBちゃんは、先週彼氏の家へ遊びに行ったと、はずかしそうに話していた。
 みんな、早くない? ――出かかった言葉を喉元でぎゅっと飲み込む。よそはよそ、うちはうち。これは幼い頃、わがままな態度を取る私にお母さんが口を酸っぱくして言った言葉だ。いつキスをしたっていいじゃない。交際のペースなんて人それぞれなんだから。ベッドの上で自分に言い聞かせながら眠っても、翌朝にはまた悶々と考え込んでしまうのだからきりがない。
 福田先輩と付き合って2ヶ月ほど経ったにもかかわらず、私たちはまだ手すら繋いだことがなかった。スカートの横にぶら下がった私の手のひらは、さわやかな秋風を黙って浴びている。彼の手のひらも同様だった。
 元はといえば私が彼に告白したのだから、こういうことは私の方からぐいぐい進めたほうがいいのだろうか。でも、先輩はちょっとプライドの高いところがあるし、変に刺激していじけちゃったら悲しい。
「みょうじ?」
 急に口をつぐんだ私を不審に思ったのか、彼は心配そうな声音で私を呼んだ。
「いえ、なんでも。ううん、なんでもないことはないんですけど」
 先輩は訝しむように私の頭を見下ろし、「どっちだよ……」とあきれていた。うーん、とうなりながら、伝えるべきかやめておくか大いに迷う。このまま友達の延長のような関係を続けたいか? と問われれば、それはノーだ。私は福田先輩と一段階先の関係に進みたい。
「先輩、私が手を繋ぎたいって言ったらどうしますか」
 意を決した私の提案に、彼は心なしか目を見開いた。そのためらいを含んだ目線は私の元から離れ、下り坂の先にある凪いだ海へ注がれる。私もまた、海の向こう側へ沈んでいく茜色の太陽を力なく見つめた。
「なーんて、言ったりして。えへへ」
 そらぞらしい笑い声が宙に浮かび上がる。先輩はなにも答えなかった。乾いたアスファルトを踏みしめる足音と、遠くから聞こえる電車の音が、気まずい帰り道のなかでやけに大きく響いた。
 多分、急ぎすぎてしまったのだと思う。言い方がまずかったのか、もっとじっくりと時間をかけて機会を待つべきだったのか、正解なんてさっぱり分からない。そもそも福田先輩は、私と手を繋ぎたいと思ってくれているのだろうか。彼の中では、まだ触れ合うほどの関係じゃないと感じているのかもしれない。火照った胸にじわじわと後悔の念が押し寄せてくる。
 途方に暮れる私の手を、温かいものが遠慮がちに触れた。はっとして、隣を歩く人の横顔を窺う。私の視線に気付いているようだったけれど、彼はこちらを見ようとしなかった。ただ、眼前に広がる黄昏時の海を見つめ、私の手をやわらかく握りしめる。握るというよりも、生まれたばかりの雛を戸惑いながら包み込んでいるみたいだった。
「福田先輩」
 私の周囲を覆っていた後悔や恐怖はすっかり消え失せていた。指を絡めながら手を握り返すと、先輩の肩が大げさに跳ねた。触れ合った指先もびくんと震える。
「私、ずっと先輩と手を繋いでみたかった。今すごく幸せです」
 素直にそう告げると、彼は大きなため息をつき、むず痒そうな表情を浮かべながら背を丸めた。そして、どうしたらいいのか分からないとでも言いたげに、私の方をちらりと一瞥する。これが照れているときに見せる態度だということを、私はよく知っていた。先輩の内側に触れることを少しだけ許された気がして、思わず微笑む。
「笑うな」
 先輩はちょっとだけ不満そうに唇を曲げた。

 駅の改札を抜けたあとも、私たちは手を繋いだまま過ごしていた。大好きな人の手にすっぽりと包み込まれる感覚は、想像していたよりもずっと心地いい。こんなことならもっと早く切り出せばよかった、なんて淡く悔いてしまう。
 燃えるような海を深い緑色の車両が覆い隠す。ホームにやってきたのは私の乗る電車だった。福田先輩とは反対方向だから、今日はこれでお別れだ。なんだか、今日は別れるのが特別名残惜しく感じる。彼とこうして手を繋いでいるせいかもしれない。
「先輩、また明日ね」
 ん、と彼が頷く。開いたドアに向かって歩き出すと、繋がった手が離れていった。空いた車内に乗り込み、窓越しの海に背を向ける。握った銀色の手すりはひんやりと冷たかった。
 先輩に手を振るために前を向くと、白線の内側にいるはずの彼が私の目の前に立っていた。車内に片足を踏み入れ、ぽかんと口を開く私をじっと見下ろす。心拍数が一気に上がり、私は身動きが取れなくなった。
「え、せんぱい」
 無防備な頬に福田先輩の唇が落ちてくる。ちゅっ、とかわいらしい音が小さく鳴った。空っぽになった頭の中で、やわらかいな、とぼんやり思う。そのやわらかさを、いつまでも享受することはできなかった。唇は一瞬のうちに離れ、先輩は白線の内側へ戻っていく。
 私は頬を紅潮させた先輩を見つめたまま、ぼうっとその場に立ちつくしていた。心臓の鼓動がうるさい。秋はますます深まっていくというのに、身体が真夏の昼間に放り出されたように熱い。
 ドアは静かに閉まり、電車はゆるやかに動きだす。ホームに残された福田先輩が小さく手を振ってきたので、私も慌てて振り返した。大きく、めいっぱい手を広げて、遠ざかっていく彼に私の姿が見えるように。
 ふと、私はホームの後方を見やった。改札を通った直後の仙道先輩や相田くんたちが、目を丸くしながら私と福田先輩を交互に眺めていた。一連のやりとりを目の当たりにしたのだろう。べつに隠してるわけじゃないけれど、やっぱりちょっと気恥ずかしい。
 徐々に小さくなっていく夕暮れ色のホームを見守りながら、頼んだら今度は唇にキスしてもらえるかもしれないな、と思った。


2023.07.15
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

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