輝きが生まれるだけの産声
あめ色に染まっていた雲が、いつの間にか紫まじりの灰色に塗りつぶされている。夕焼けは地平線に飲み込まれ、夜空と呼ぶにはまだ明るい頭上に一番星が淡い光を放っていた。
不良がたむろするコンビニを通り過ぎ、ほの暗い路地を曲がり、部活帰りの中学生たちを追い抜かす。私はがむしゃらに自転車を漕いだ。今はとにかく急がなくちゃいけない。早く家に帰らないと、私の大好きな俳優が出演するあのドラマが始まってしまう。
自宅まであと5分ほどの距離だったと思う。私はペダルを回す足を止め、軋んだ音を立てないようにゆっくりとブレーキをかける。減速する自転車はフェンスに囲まれた公園の前で完全に止まった。
夜の気配に包まれる公園の中に、見覚えのある人影を見かけた。背の高い人影はバスケットボールをドリブルさせながら、設置されたリングに向かって勢いよく走る。
フェンス越しに見えるあの人は、隣の席の福田だ。今が完全な夜であれば、特に気にすることもなく通り過ぎていたかもしれない。高校からずいぶん離れた場所で彼の姿を見かけるなんて、夢にも思わなかった。彼は公園の前で立ち止まった私に気づいていないようだった。
席は隣同士ではあるけれど、私と福田の間に友達のような親密さは一切なかった。朝の教室で顔を合わせても、おはようの挨拶すら交わさない。かといって、犬猿の仲というわけでもない。仲のよい者同士が隣席になるとは限らないし、隣の席になったからといって、その相手と親しく付き合えるわけじゃない。私にとって福田は、そういう微妙な立ち位置に置かれたクラスメイトだった。
だから、この場に長居する必要なんてどこにもなかった。再びペダルを回し、さっさと公園を後にすればよかった。街路樹をさわさわと揺らす風は徐々に冷たくなってきている。鳥の群れがブルーアワーの空を横切る。それなのに私は、一人で黙々と練習を重ねる福田から目を離せない。
彼がドリブルするたび、閑静な公園にボールの弾む音が反響し、靴底と砂のこすれる音が風に乗って耳元まで届く。ゴールとの距離を一気に縮めると、彼はリングに向かって跳んだ。私よりもはるかに上背のある福田が軽々と飛び跳ねたのだ。真珠のようにやわらかく光るあの星にも、福田なら手が届いてしまいそうだった。
うんと高く跳んだ彼は、宙の上にある星ではなく、リングの中へボールを叩きつけた。ネットに包まれたボールはするりと地面に落ち、バウンドを繰り返しながら遊具の近くへ転がっていく。リングにぶら下がっていた福田もかろやかに着地した。
なんてパワフルで身軽なんだろう。すごい、と私はからからに乾いた口の中でつぶやいていた。素人の目から見ても彼のプレイは鮮やかで、それでいてシュートはどこか切実さを感じる。宵のうちの冷たさに逆らうように、福田だけがじりじりと熱を持っている。私の身体は全身が心臓に変わってしまったみたいに脈打ち、目は薄暗い視界を鮮明に映し出そうと懸命に働く。はじめて目の当たりにする福田のプレイは、無防備な心を激しく揺さぶるには充分すぎる力を秘めていた。
風の噂で、福田に無期限部活禁止のお達しが下ったと聞いた。たしか先月の話だったと思う。練習試合の最中、監督に手を出したらしい。私はその話を聞いて、新学期早々とんでもないやつと隣同士の席になってしまった、と心のどこかで少し怯えた。そもそも彼はあまり喋らない人ではあったし、いつも不機嫌そうにしている。福田は近寄りがたい人。たまたま物理的に距離が近くなってしまっただけ。2学期になれば席替えをして、きっとそれっきりのはずだった人。
けれど、今私の目に映っている福田は、数時間前まで彼に抱いていた印象とはまるで違う。日が落ちるまで自主練を続けるほどバスケに没頭しているにもかかわらず、どうして監督に手なんかあげてしまったのだろう。
ふいに、こちらに背を向けていたはずの福田が振り返り、フェンスの外側を見やった。空は刻一刻と変化し、もうすっかり夜の色をまとっている。ここから福田の表情を読み取ることはできない。けれども、聴覚だけは今起きている状況を正確に感じ取ってしまう。じゃり、じゃりと砂を踏む音がフェンスに近づいてくる。
うろたえた私は、思わず自転車のハンドルから手を離してしまった。自分が自転車に乗っていることなどきれいさっぱり忘れて、後ずさりをしようとしたのだ。
あ、と二人分の声がぽつんと漏れる。私と福田の声だった。暗がりの中でも、福田の肩がびくっと震えたのが分かった。あいつってあんなふうに驚くんだ、と意外に思った次の瞬間、天と地がひっくり返り、冷たくてざらざらした感触が左半身に押し付けられる。息をつく間もなく、今度は右半身に自転車が覆いかぶさってきた。がしゃん、と大きな音が歩道に響いた。
ハンドルを離したから自転車が倒れた。しかも、私も一緒に巻き込まれた。そう気付くまで、私は自転車とアスファルトに挟まれながら呆気にとられていた。サドルとタイヤをなんとか押しのけ、上半身を起こす。幸い、けがはしていないようだった。
歩道の上に長細い影が落ちる。はっと顔を上げると、フェンスの向こう側にいたはずの福田が、地面に膝をつく私の前に立っていた。福田の頭の後ろには、あの真珠のような一番星が輝きを増しながらきらめいている。色濃くなった空にまたたく星も、彼の表情までは照らしてくれない。
相変わらず押し黙ったままだけれど、福田は倒れた自転車をひょいと起こしてくれた。気まずい沈黙の中、私もよろよろと立ち上がる。なんて恥ずかしいんだろう! その前に何か言わなくちゃ。そうだ、助けてもらったのだから、まずお礼を言わなくてはならない。
「その、ありがとう。練習の邪魔しちゃってごめん」
できるだけ彼の目を見つめながら話す。こうやって向かい合って喋ったのは初めてのことだった。
福田は私をじろりと見下ろし、ようやく口を開いた。
「鈍臭いんだな、意外と……」
「けんか売ってる?」
べつに、と福田は唇をとがらせる。正直苛立ってしまったけれど、助けてもらった手前、あまり強く言い返せないのが悲しい。
「こんなところでなにしてんだ?」
「なにって。私はこの辺りに住んでるの」
とげとげしく答えてみせたものの、福田が投げかけた疑問の趣旨はそういうことではなかったのかもしれない。普段は必要最低限の言葉しか交わさない隣の席の同級生が、なぜ福田の練習風景を眺める必要があったのだろう。多分、彼が言いたかったのはそういうことだと思う。
福田は「ふーん」と素っ気なく返事し、私の的外れな回答を一応は飲み込んだようだった。
「福田こそ、なんでここにいるの」
「……リングがあるから」
そうつぶやくと、彼は公園に設置されたバスケットゴールをちらりと一瞥する。私は福田の視線の先を確認し、ゆっくりと目線を動かし彼の横顔を見た。露わになったこめかみにうっすらと汗をかいている――ような気がした。あれだけの運動量なのだから当然だ。自転車を漕いでいただけなのに、私はなぜだか胸が苦しくなった。
正面に向き直った福田はハンドルを私の体の方に傾けた。ぼんやりしてないでさっさと自転車を引き取れと言いたいのだろう。私はあわててハンドルを握り、「ありがとう」と再びお礼を言った。なにか他に伝えなくてはならないことがあるような気がして、この場から動けない。
固まったままの私に戸惑いながら、彼はおずおずと声をかけてきた。
「早く帰らないとうちの人が心配する」
「早く……? ああーっ!」
急に大声を上げた私に驚いた福田は、身体をびくんと震わせながら一歩後ずさる。私は急いでいたはずだった。早く家に帰りたくて、自転車の部品がばらばらになるんじゃないかと思いながら走っていたはずだったのに。
「Aくんのドラマが始まっちゃった……。楽しみにしてたのに……」
「そのドラマ、土曜に再放送するだろ」
がっくりと肩を落とした私を、彼は呆れたように眺めた。私は「うそ!?」とすっとんきょうな声音で叫びながら、福田とこんなに話す機会が訪れるなんて、と今の状況を新鮮に噛み締めた。彼と仲良くなりたいと願ったことはないけれど、案外嬉しいものだとも思う。そしてすぐに、その感想は正しくないと考え直す。
私はサドルにまたがり、彼に「また明日ね」と手を振った。初めて福田に挨拶をした。日没後の静かな夜だけではなく、潮風が吹き抜ける教室の中でも福田と話をしたいから。
福田は遠慮がちに、けれどもたしかに手を振り返してくれた。
2023.06.25
タイトル「天文学」さまより
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