小説
- ナノ -

Pignon?


※「あれから10日後」からn分後


「深津。もしかして、もうピョンピョン言うのはやめちゃうの?」
 教室から出て行こうとする深津を、あたしは廊下で待ち伏せるように呼び止めた。バスケで鍛えた体躯に、なにを考えているのかさっぱり分からない無表情な顔つき。一見うさぎとは縁もゆかりもなさそうな黒々とした瞳が、腕組みするあたしを静かに見下ろしている。
「それ、どこで聞いたピョン」
 彼にあたしを威圧するつもりなんて毛頭ないのかもしれない。でも、問いかけに答えず、淡々と別の質問を聞き返す深津はちょっぴり恐ろしかった。怯んだあたしは組んだ腕をとっさに解き、「ごめん」と謝る。
「実は、さっきの会話がちらっと聞こえちゃって」
 正直に白状すると、深津の眉間がほんの少しだけ寄った。
「盗み聞きはよくないと思うピョン」
「人聞きの悪い! 仕方がないでしょ、席が近いんだから」
 むきになって言い返すと、深津はまた無表情に戻ってしまった。ああもう、あたしには深津のことが全然分からない。それに、まだ答えを聞かせてもらってない!
 こうなったら、まどろっこしいことなんて言っていられない。彼にあたしの本音をぶつけるしかないと思う。意を決したあたしは息を深く吸い込み、再び腕を組んだ。
「ねえ深津、ピョンピョン言ってる深津は可愛かったよ」
「可愛い?」
 あたしの発言がよほど予想外だったのか、深津はすぐさま聞き直し、ピョン? と付け加える。そうよ、語尾にピョンを付ける深津は可愛いんだから。
 あたしはさらに畳みかける。クラスメイトをべた褒めするなんて、いつもなら恥ずかしすぎてできないけれど、今のあたしは違う。あたしは深津からピョンを守りたい。天然記念物を守るように、大事に大事に保護したいのだ。
「可愛いよ。バスケ部のみんながどう思ってるかまでは知らないけど、深津のピョンに癒されてる人もいるんだよ」
「でも飽きちゃったピニョン」
 深津は懇願するあたしをあっさりと跳ね除ける。あたしの必死の説得を、この男は聞いていなかったのだろうか? ショックすぎて膝からへなへなと崩れ落ちてしまいそうだ。だいたい何よ、今「ピニョン」って言ったの? そんな口癖、見たことも聞いたこともない。――ベシだのピョンだの言う人も、山王に入学してから初めて出会ったけれど。
「やだ、ピニョンはいやだよ……。急にフランスの香りをまとわないでよ……」
 がっくりと肩を落とすと、教室の奥からこちらを怪訝そうな目で窺っている一之倉と野辺の姿が見えた。きっと睨み付けてやると、二人ともぎょっとした表情を浮かべ、首をふるふる横に振った。
 大切なチームメイトへの威嚇行為に気がついているのかいないのか分からないけれど、深津はあたしをじっと見据えたまま会話を続けた。
「ピニョンも可愛くないピョン?」
 可愛い? ピニョンが? あたしは唸りながら考え込んだ。言われてみれば、「ピ」も「ニョ」も「ン」も一個ずつ切り取れば可愛らしい響きを持っているかもしれない。でもそれは、ピョンの可愛らしさとは全く違う。
「たしかに可愛いけど、可愛いかもしれないけど違うの……」
「もう付き合ってられないピニョン」
 深津はそう呟くとあたしに背を向け、肌寒くなった廊下を歩き出そうとする。この世はなんて無常なんだろう。高校生にもなって、ピョンの三文字も守れないなんて。
 無力感に苛まれながら、あたしはふと湧き上がった疑問を深津の背中に投げかけた。
「そうだ。ねえ深津、ピニョンからニャンに変わる可能性ってある?」
「ないピョン」

2023.06.17

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