小説
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脈打つダイヤ


 たぶん、これが最後の通院だと思う。
 いくつかのつまらない検査を終えた私は、待合室のソファに座り、使い古したスクールバッグから参考書を取り出した。受付時間を過ぎた院内は患者の姿もまばらで、ソファのすぐ後ろにあるエレベーターの稼動音がごうごうとやけに大きく響いている。検査結果が出るまでの間、この低い環境音は心地のよい作業用BGMとなってくれるはずだ。
 さっそく付箋を貼ったページをめくると、視界の上端にゆらりと人影が映った。うつむいた顔を反射的に上げる。向かいのソファに腰掛けたその人は、精悍な顔つきをした背の高い青年だった。この時期らしく薄手のジャケットを羽織り、短い髪は整髪料で整えられている。
「三井くん」と自然に声を出していた。懐かしい音の響きが鼓膜を揺さぶる。目の前に座っている人は、私のよく知る三井くんとは少し違うけれど、一目見た瞬間、まぎれもなく彼本人だと気がついた。もし人違いだったらどうしようとか、そういった不安は一切湧き上がらなかった。
 手元の予約票を眺めていた彼の視線が、ゆっくりと私に注がれる。凛々しい眉が驚いたように上がり、形のよい唇から白い歯が覗いた。
「もしかして、みょうじか?」
 三井くんは制服を着た私の姿をしげしげと見つめ、「あんま変わってねえな」と素直な感想を漏らした。褒めているのか貶しているのか分からないけれど、そんな些細なこと今はどうだっていい。
「覚えていてくれたんだ。久しぶりだね、三井くん」
「2年ぶりだな。身体はもう大丈夫なのか」
「平気だよ。今日の検査で何事もなければ、もう来なくていいって先生が言ってた」
 そう言って笑ってみせると、三井くんは「そうか、よかったな」とつぶやき、安心したように微笑んだ。凍りついたままだった私たちの時間は徐々に溶け出し、梅雨の生ぬるい温度を得て緩慢に動き始める。
「三井くん、膝は」
 私も彼の状況を窺おうとするけれど、その先の言葉をうまく紡ぎだすことができない。久々に再会した彼の内側に、私が踏み込んでいいのか分からなかった。
 私の不安を吹き飛ばすように、三井くんは不敵に唇の端を上げる。
「もうなんともねえよ。てか、なんともなくねえと困る」
 三井くんは膝を撫でながら、落ち着いた声音でそう告げた。その労わるような手つきは、私に月日の流れを強く感じさせた。三井くんは変わった。変わったのはきっと、外見だけじゃない。
「隣に座ってもいい?」と訊ねると、彼はぶっきらぼうに了承してくれた。手のひら二枚分くらいの距離を空けて、生成色のソファに腰掛ける。昔は三井くんの隣に並ぶだけで、患部でないはずの胸にしめつけられるような痛みを覚えた。今もほんの少しだけ、あの頃みたいに緊張してしまう。
「三井くん。まだバスケ続けてる?」
 私、なにを言っているんだろう。当たり前のことを聞いてしまった気がして、急に恥ずかしくなった。たしかに彼は変わった。けれど、私の隣に座っているのは他の誰でもなく三井くんなのだ。彼はバスケが大好きで大好きで仕方がない人だった。中学時代はMVPまで取ったすごい人。部活に戻りたくて病室を抜け出してしまうくらい、ひたむきにバスケを求める人。
 待合室に静寂が訪れる。それは耳が痛くなるような静寂ではなかった。もっとやわらかく、雪原のなかで薄曇りの空を眺めているような穏やかさを持っていた。
 一呼吸置くと、彼は「ああ」と短く返答した。あの頃よりもうんと大人びた横顔をそっと見上げる。三井くんは窓の外に浮かぶ満月をじっと見つめながら、挑戦的に、けれどもうれしそうに笑っていた。
 私はそのときに初めて、彼の顎に縫ったような傷跡があることに気がついた。口を開きかけ、また閉じる。三井くんのまなざしに迷いはなかった。
 ああ、この表情だ。私はバスケの話をする三井くんが好きだった。病棟の談話室で言葉を交わしたかつての三井くんは、あるときは楽しそうで、あるときは焦ったそうに笑い、あるときは悔しそうにうつむいていた。
 
 2年前、私は三井くんがいた病室の向かいの部屋に入院していた。白くてそっけないベッドに横たわり、点滴のしずくを眺める毎日は、高校に入学したばかりの子どもにはひどく退屈だ。このつまらない病室から一刻も早く逃げ出せたらいいのに。
 同い年の三井くんとは、談話室で顔を合わせるたびに話をした。三井くんは気が強くて、ほかの男子よりも少しだけ長めの髪を持つきれいな男の子だった。窓から入ってきた風に吹かれているときなどは、たなびく美しい髪に見惚れてしまうほどだった。
 味気ない入院生活ではあったけれど、三井くんと話している時間だけは退屈じゃない。彼もまた、狭い病室から抜け出したがっていた。そんな彼の姿勢に、私はちょっぴり親近感を覚えた。
 けれども、三井くんという人は、わだかまりを募らせるだけの私とは決定的に違っていた。夕方が近くなると、三井くんは本当に病室を抜け出し、治りかけた膝で高校の体育館へ向かった。部活動に参加するためだと言う。具合がずいぶんよくなったとはいえ、お医者さんの許可もなくバスケをするなんて考えられないことだ。空っぽの病室は当然、見回りに来た看護師に毎度見つかってしまう。彼が病室に戻ってくると、廊下を挟んだ向こう側の部屋から、彼を叱りつける看護師の声が漏れ聞こえてきたものだった。
 三井くんの脱出劇は、決して褒められた行為じゃない。でも、私は三井くんのことが少しだけ羨ましかった。夢の形を鮮明に描き出す三井くんは、日差しを受けてきらきらと輝いているように見えた。彼に無責任な羨望を抱いていた私もまた、決して褒められた人間じゃないと思う。
「こんなところで休んでる場合じゃねえのに」
 バスケの話をするとき、三井くんは決まってこう言った。けがをした方の膝に置いた拳を歯がゆそうに握りしめ、花束のイラストが描かれたカレンダーと、窓の外から見える景色を交互に睨みつけていた。
 私の退院が決まった日に、三井くんの姿はどこにもなかった。いつものように向かいの病室を抜け出した彼は、いつまで経っても病院に帰って来なかった。
 彼にさよならを言う機会を失ったまま、私は退院した。病院に戻って来たのか、それとも戻らなかったのか、そのあとの三井くんがどうなったかは知らない。彼が湘北高校に通っていることは知っていたけれど、連絡先は交換しなかった。
 復学してからもときどき、三井くんのことを思い出した。体育館でバスケットゴールを目にしたとき。定期的な検査のためにこの病院を訪れたとき。激しい情熱を持つ彼を思い出すたびに、三井くんとまた話がしてみたくて心が揺れた。でもしなかった。湘北はうちの高校からそう遠くない距離に位置するのだから、会いに行こうと思えば会いに行けたのに。

「うれしいな、三井くんとまた話ができて」
 ぽつりと本音を漏らすと、彼は窓の外にやった視線を私に向けた。むず痒そうな表情を浮かべながら唇を噛みしめる三井くんは、言葉がなくとも明らかに困惑している。そんな反応をされると、私の方まで気恥ずかしくなってしまう。
 照れくさい空気の流れを変えるべく、私はわざと明るい声を作った。
「今って県大会の最中だっけ」
「お前、バスケには興味がないって言ってたくせに、よく知ってるな」
「それは最初の頃の話でしょ。学校の掲示板にお知らせが貼ってあったよ」
 三井くんは膝の上に置いた手のひらをぎゅっと握り、短く息を吐いた。
「次の試合に勝てば、オレたちは決勝リーグに進める。負けるわけにはいかねえ」
「決勝リーグ!? すごい、三井くん……!」
 思わず大きな歓声をあげると、受付で作業をしていた看護師さんとばっちり目が合ってしまった。開いた口に手のひらを当て、あわてて頭を下げる。三井くんは呆れたように「こんなところでデケェ声出すなよ」とぼやいた。
「ごめん、つい。三井くんたちなら決勝に行けるよ」
 だって、バスケへの思いがあんなに強い三井くんがいるんだもの。力強く笑ってみせると、三井くんもふっと微笑む。
「ああ、絶対にだ。だからオレはここに来たんだ」
 三井くんは一言一言噛みしめるようにつぶやくと、予約票をちらりと私に見せる。一瞬のことだったけれど、彼が膝の検査結果を待っていることは分かった。
「オレにはやっぱり、バスケしかねえから」
「三井くん」
 あなたが今もバスケを好きでいてくれてよかった。そう告げようとしたそのとき、スピーカーから私の名を呼ぶ主治医の声が聞こえた。私の診察の時間だ。
「行かなきゃ。またね、三井くん」
 結局全く使わなかった参考書をバッグにしまう。ソファから立ち上がると、三井くんは「おう」と小さく手を振ってくれた。なんて名残惜しいのだろう。もっといろんな話をしたいし、いろんな話を聞きたいのに。
 私は一歩だけ歩き、大切なことを思い出し立ち止まった。後ろを振り返ると、三井くんはぽかんと私を見上げている。
「ねえ、次の試合っていつ?」
「あ? 日曜だけど」
「応援しに行く。絶対に行くから」
 拳を突き出すと、三井くんはニヤリと笑い、あの頃よりもずっと逞しくなった手を伸ばした。私と三井くんの拳はひとときの間だけ触れ合い、やがて音もなく離れていった。

2023.06.17
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

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