片手間で愛するの反対
※女性夢主
熱を持つノートパソコンを閉じ、一日の業務が滞りなく終わった安息感にほっと一息ついたはずだった。連打される玄関のチャイム、玄関のドアを叩くけたたましい音、私の名字をちゃん付けで呼ぶ締まりのない声。不協和音のようなメロディが私の小さな部屋を容赦なく揺さぶる。耳を覆いたくなるほどやかましく、うっとうしく、それでいて懐かしかった。
私は息をひそめ、防犯のためにインターホンのボタンを押した。画質の粗いモニターは白飛びし、徐々に玄関前の状況を映し出す。モニター内に浮かび上がったのは、ばらの花のような色の髪を三つ編みに垂らした女の姿だ。着古したスカジャンから覗く華奢な肩も、あどけなさを残す可憐な顔も、髪色に負けじと赤らんでいる。
その酔っ払い女は、マンション中に響き渡るほどの大声で、ひっきりなしに私の名を呼んでいた。
「ねえねえねえ開けてよぉみょうじちゃん、いるんでしょみょうじちゃん! ねえー! 在宅勤務なんでしょー!」
こんなガビガビの画質でもはっきりと分かる。というより、モニターなんかわざわざ確認せずとも理解している。本当に残念ながら、この人は私の知り合いだ。大学の先輩。年齢は二個上。私の憧れのひと。
いっそ他人のふりをしてモニターの電源を落としたかったけれど、私の指は迷うことなく通話ボタンを押してしまった。ここはマンション。多種多様な人々が暮らす集合住宅だ。
「廣井先輩、大声を出すのやめてください。通報されますよ」
「通報されたくないなら開けてよおー!」
先輩が無遠慮にドアを叩きつけるたび、部屋の壁がびりびりと痺れたように揺れる。こんなことなら、鉄筋コンクリートのマンションに住めばよかった。
「開けます。開けますから静かにしてください」
早口でまくし立てて通話ボタンをぶちっと切る。こんな言葉に、先輩を大人しくさせる効果があるとは到底思えなかった。いらいらと足早に廊下を通り抜ける。先輩のやかましい声がどんどん近づいてくる。この口で開けますとは言ったけれど、正直なところドアを開きたくなかった。せっかく仕事が終わったところなのに、面倒ごとは勘弁してほしい。
重いドアを開けると、夜の帳が下りた街並みを背にした廣井先輩は、言葉にも満たない戯言を撒き散らしていた。冷えこんだ風が玄関に吹き込み、アルコールの独特なにおいが鼻の奥をべったりと撫でる。
「静かにしてくださいって言ったでしょ」
「えへへ、開けてくれたあ」
私の顔を見るなりだらしない笑顔を浮かべた彼女は、我が物顔で玄関に足を踏み入れる。下駄の歯がドア枠にぶつかり、カツンと音が鳴った。
彼女の来室は不本意だったけれど、即座に追い返すつもりはない。マンションの共用スペースの廊下で騒がれるより、室内の方がいくらかマシだ。
先輩が下駄を脱ぎ捨てたタイミングを見計らって、私は単刀直入に用件を訊ねた。
「それで、何かご用ですか」
「みょうじちゃん冷たぁい」
「冷たくありません。ちゃんと部屋の中には入れたでしょう」
「ええー? まだ寒いよー」
肩をぶるぶると震わせながら、彼女は甘えるように首を傾げた。心臓のあたりがぎゅっと縮み上がっていくのを感じる。この人にほだされてはいけない。今までだって、廣井先輩に振り回されて散々な思いをしてきたのだから。
「あのねえ、そんな赤ら顔で何言ってるんですか」
「シャワー貸してほしくて来ちゃった」
また、この人は。大げさにため息をついて文句を言ってやりたかったけれど、一旦はぐっと堪える。私は「ちょっと待っていてください」と言い残し、奥の部屋に引っ込んだ。鞄から財布を取り出すと、小銭を掴む手が少しだけ震えていた。いやだな、先輩じゃあるまいし。
玄関に戻ると、先輩は壁に寄りかかりながら「寒い寒い」と呪詛のようにつぶやき続けていた。ちょっとだけ怖い。
「今忙しいんです。お金は返さなくて結構ですから、これで銭湯に行ってください。すぐ近くにあります」
廣井先輩の手を取り、しっとりと湿った手のひらの上に480円を乗せる。小銭を落としてしまわないように彼女の手をぎゅっと握り締めると、黒く塗られた爪が玄関の照明に当たってつややかに光った。
先輩は不思議そうに私の手を眺めた。
「みょうじちゃん、知らないの。東京の銭湯って、ここ最近500円に値上がりしたんだよ」
全く知らなかった。普段銭湯に行く機会もないし――そんなことよりも、じゃあ20円追加で渡さなきゃな、とごく自然に考える自分がいやになる。
「それにさ」
先輩はへらへらと言葉を紡ぎ、逆手にした拳をくるりと返した。重なったままの手を思わず離すと、彼女の手の甲が露わになる。刻まれたタトゥーも一緒に。
「ほら私、墨入ってんじゃん? 銭湯行けないんだよねー」
一瞬だけ呆けた私の隙を、彼女は決して見逃さなかった。銭湯に入れないくせになんで値上がりしたことを知ってるんですか、と納得いかない疑問を先輩にぶつけなくてならないのに、私の喉は脱力したように沈黙し、何も言えなくなってしまう。生じた隙間の中へ、彼女はするりするりと蛇のように入り込む。
「ね? ねー? だからシャワー貸してよー、お願いー!」
眉を八の字に下げ、手を合わせて懇願する先輩は、健気に生きる小動物のようで可愛らしかった。こんなに酒臭い動物は多分、世界中のどこを探してもいないけれど。
私は眉をしかめ、できるだけ不機嫌そうな顔をつくった。そうしないと、彼女は隙間どころか、秘めた奥深い場所にまで侵入してくる。
「仕方ないですね。今日限りですよ」
「とか言って、何回も貸してくれてるじゃーん? みょうじちゃんマジでやさしー」
そう、確かに先輩の言うとおり、私は彼女にシャワールームを何回も貸している。最後にうちのシャワーを貸したのは一年前だ。廣井先輩は年がら年中酔っ払って記憶を飛ばしているくせに、そういうことはちゃんと覚えている。
「早く浴びてきてください。私も浴びたいんですから」
「わかったよお、あんまり押さないで」
緩慢に歩く先輩を脱衣所に押し込み、私は乱暴に閉じたドアの前で嘆息した。
部屋に戻った私は、床に置きっぱなしだった処方箋や検針票を拾い上げ、狭いクローゼットの奥へ放り込んだ。後輩の住まいに紙きれが一枚や二枚落ちていたところで彼女は気にも留めないだろうけど、先輩が足を滑らせて転んだら目も当てられないから。
そもそも、酔っ払いをバスルームに入れること自体が恐ろしい。転倒してけがでもしたらどうするつもりなのだろう。
私の憂いをよそに、シャワーが流れ落ちる音に混じって、上機嫌な鼻歌が聞こえる。知らない旋律だった。即興で思いつくままに歌っているのか、それとも一年以内に作った新曲か、私には知る術がない。
廣井先輩のとろけた歌声がバスルームに反響する。冴えない1Kの部屋は世界で一番小さなライブハウスと化す。機材も照明もない、観客は私だけの、殺風景なライブハウスだ。けれども、私にとっては、先輩の居る場所こそが音楽の根幹そのものだった。先輩の紡ぎ出す音はシャワールームに、廊下に、部屋の床に根を張る。私は先輩の根の中でゆりかごみたいに包まれて揺れる。こんな心地よさを一年もの間ずっと忘れていた。忘れようと努力していた。
中折ドアの開く音がして、私の意識は1Kの狭い部屋の中に引き戻される。ドライヤーの音が数分間続き、一瞬だけ静寂が訪れた。
脱衣所のドアから出てきた彼女は「あー、さっぱりしたー」と目を細め、お客様用のスリッパを足につっかけてこちらに歩み寄ってきた。肩に下ろした長い髪がまだしっとりと湿っている。
「いま上がったよー。シャワー貸してくれてありがとね」
「髪が半分も乾いてないですよ」
タンスから新しいタオルを取り出そうとすると、先輩は「いいよ、いいよ」と制止した。
「てか根元が乾いてりゃいいっしょ? どうせこうやって三つ編みにしちゃうし」
そう言いながら先輩は、濡れた髪を慣れた手つきで編み始める。キャミワンピースをまとった肌は、アルコールとシャワールームにこもった熱気で火照っていた。髪の毛から滴り落ちた水がタトゥーの上を横切る。続けてピアスを装着する彼女の姿を、私はただじっと見守っていた。
私の食い入った視線に気がついた廣井先輩は、にやにやと軽薄そうに笑った。
「みょうじちゃん、いつも『髪乾いてない』って心配してくれるよね」
「いつもじゃないです。一年ぶりに言いました」
「そうだっけ?」
そうですよ、と念を押すと、彼女は何が面白かったのかけらけらと笑い声を上げた。いちいち突っかかるたびに、なけなしの気力を失いそうになる。この行き場のない気だるさも一年ぶりに思い出した。
「ほらほらあ、シャワー浴びたかったんでしょ? 早く浴びちゃいなよ」
まるで自宅へ遊びにきた友人と接するように、先輩は私の背中をぐいぐいと押す。いつの間にか立場が逆転している。押されるがままに廊下を歩くと、背後からふんわりと甘い香りがした。
シャワールームにつま先をつけると、まだ残っていた温かな空気が素肌に触れた。湯気で小さな鏡は曇り、タイルを敷き詰めた床がびしゃびしゃに濡れている。
私以外の誰かが使ったあとの浴室は、人肌によく似た温もりがあった。久々に味わう感覚がひどく懐かしくて、シャワーを浴びる前に湿った部屋の中で深呼吸する。アルコールのにおいはしなかった。シャワーがすべてのにおいを消し去ってしまったのだ。
思わぬ汗をかいた身体をていねいに洗い流し、脱衣所で新品のボディクリームを手に取る。銀色の蓋を捻って外すと、ミルクの甘い香りがふわりと広がった。その香りを吸い込んだ途端に、蒸気で潤ったはずの喉がからからに乾いていく。
狼狽した私は真っ先に廣井先輩の顔を思い浮かべる。これはシャワーを浴びたあとの彼女の匂いだ。
おそるおそる容器を確認すると、新品のはずのボディクリームには、何者かが指先で撫でた跡があった。薄くへこんだクリームの表面をなぞると、先輩が残した痕跡は削れてあっという間に消えていく。私は削り取った先輩の跡を心臓の上に塗った。
一年前まではポンプ式かつ無香料のボディクリームを使っていたために、全く気がつかなかったけれど、廣井先輩は以前から、私の家でシャワーを浴び、さらに私のボディクリームを使って肌を保湿していたのかもしれない。そう考え始めると、彼女と同じボディクリームを共有しているという事実が、頭から締め出していたはずの感情をじわりじわりと呼び起こす。シャワーを浴びたばかりだというのに、身体は必要以上に熱くなる。
部屋着に袖を通すと、ドアの外から何かを叩く音が聞こえた。急いで服を着込み、玄関の小さな窓を覗く。真っ暗闇の中に佇む廣井先輩は、私の足音を感じ取るなり心細そうな声を漏らした。
「たすけてー、閉め出されちゃった」
「なにやってるんですか、廣井先輩……」
理由を聞かなくても、彼女の身に何が起こったのか理解できる。私がシャワーを浴びている間に外へ出た結果、オートロックのドアが施錠され、部屋に入れなくなったのだろう。
すぐに鍵を開けると、彼女は「寒かった」と鼻を鳴らしながら玄関に足を踏み入れ、よわよわしく下駄を脱いだ。手にはコンビニのレジ袋をぶら下げている。中身になにが入っているのか、わざわざ説明してもらわなくてもちゃんと分かる。だから、私は失望の思いをたっぷりと込めて言い捨てた。
「お金、渡さなきゃ良かった」
「怒んないでよお。返さなくていいって言ったっしょ? それに、みょうじちゃんの分もちゃーんと買ったから」
先輩はレジ袋の持ち手を開き、私の方へ向ける。予想どおり、そこには赤い紙パックの日本酒が三つ、それぞれてんでばらばらの方向に折り重なっていた。
分かってはいたけれど、少しだけ落胆してしまった。私が好きなお酒はりんごのスパークリングワインであって、彼女が愛飲しているお酒ではない。先輩は余計なことばかり覚えているくせに、私の好きなお酒は全くといっていいほど認識してくれなかった。ただ単に、手持ちのお金が足りなかっただけかもしれないけれど、私は臆病者だから、それを訊ねる勇気もない。
ローテーブルに冷凍パスタを広げ、私たちは同じ空間で夕食をとった。シャワーを貸してあげるだけのつもりだったのに、食料まで分けるはめになるなんて――と、ちらりと思ったけれど、たまには家に人を招いてご飯を食べるのも良いかもしれない。定期的に開催したいものだ。廣井先輩をまた招くかどうかはともかく。
先輩は魚介のペペロンチーノを日本酒で流し込み、私は胡椒をかけすぎたカルボナーラをつつきながら一口ずつストローを吸う。辛口の、慣れない味だ。だけど、全く知らないわけじゃない。一年前に知ったこの酒の味は、結局私の身体に馴染むことはなかった。
先輩は舌ったらずな口調でバンドや周辺の近況を語り、私は時折覗く彼女の渦のような瞳を眺めながら相槌を打った。「そういえば、ベースがありませんね」と訝しむと、身軽な先輩はあっけらかんとしながら「昨日行った居酒屋で預かってもらってんだよね」と答えた。決して笑い事ではないのに、食卓は朗らかな雰囲気に包まれる。大した量ではないのに、私も酔いが回っているらしい。
「みょうじちゃんは今でもレコード聴いてんの?」
壁際に置いた白いレコードラックを見やり、先輩は嬉しそうに頬をゆるませた。
「気が向いたときに、たまに」
「へえー」
廣井先輩の細い指がレコードラックの中身に触れる。The 13th Floor Elevatorsのファーストアルバムに、クリームのDisraeli Gears。先輩は私のラックから毒々しい極彩色に彩られたジャケットを次々に引き出していった。そして、落とし物を探すように、棚の奥を覗き込む。
「ねー、私のバンドのアルバムはー?」
「ありますよ。CDの類はクローゼットにしまってます」
「えーっ! ちゃんと聴いてんのー?」
「聴いてますよ。スマホの中に入ってます」
真っ赤なうそだ。一応スマホには入っているけれど、一年くらい聴いてない。SICK HACKの曲を再生するたびに、ゆるんだ蛇口のように涙が流れ落ち、低気圧でもないのに頭がずきずきと痛くなるから。一刻も早くデータを消去し、CDも中古ショップかフリマアプリで売り飛ばしてしまえばいいのに、私は今日まで行動に移すことはなかった。クローゼットって本当に便利だ。目の届かない場所にひとたび隠してしまえば、結論などいくらでも先延ばしにできる。
SICK HACKの廣井きくりに出会うまでは、他者の作った音楽に個人的な、それも情緒的な思い入れを抱くなんてばかばかしいと思っていた。生命のように躍動するリキッドライトに照らされ、彼女はライブハウスのステージでベースを弾き狂い、つややかに歌う。熱狂する観客は彼女たちを包み込み、彼女たちもまた観客を狂乱の世界へといざなう。先輩は音楽とその捉えどころのない性格で私を荒々しく抱き、私の身体の構造をすっかり変えてしまった。
苦々しい気分の私をよそに、廣井先輩は取り出したジャケットのうちの一枚を手に取る。
「せっかくだし、カラフルクリームでも聴こ!」
そう高らかに宣言すると、彼女はレコード盤を包む内袋を剥がし、ラックの上に設置したプレイヤーにそのレコードをセットした。酔っ払いらしく手つきが危なっかしい。先輩の後ろ姿をぼんやりと眺めているつもりだったのに、私は身を乗り出して苦言を呈してしまった。
「ちょっと先輩。盤面に直接触れないください」
「ええー? そんなこと私がするわけねーじゃん」
「なに寝ぼけたこと言ってるんですか。いま思いっきり触ってましたよ」
「ごめんごめん」
私は本日何度目かの深いため息をついた。酔った勢いでレコードを真っ二つに割られるよりは良い。でも、先輩が帰ったら表面をクリーナーで拭きまくろう、と心の中で誓った。
針を落とすと、ほんのわずかな静寂のあと、ゆるんだ空気をばりばりと切り裂くような音色が流れてきた。すでに自分のお酒を飲み干していた先輩は、音楽に耳を傾けながら私のお酒に手を伸ばす。半分以上残った私のお酒を、彼女はストローを使ってごく自然に飲み下していく。酒を吸い込む音も、静かに息をしようと努める私の健気な呼吸音も、サイケデリック・ロックの波に優しく激しく揉まれ、私たちは溶け出してひとつになる。ボーカルの歌声に合わせて、先輩がうっとりとした目つきで歌詞を口ずさんだ。私の喉が小刻みに震える。重く憂鬱な朝に、そして今際のときに、あなたの音楽を聴けたらどれだけいいだろう。
私は、顔を紅潮させたこのバンドマンのことを、記憶の彼方に押しやりたかった。廣井先輩にまつわる全ての思い出を消し去ってしまいたかった。
それなのに、私は目の前に広がる光景をずっと渇望していたような気がする。うれしかった。先輩のすぐ側で音楽を聴くことも、先輩と生活の一部を共有することも。廣井先輩のことがすき。愛してる。それでも、私と先輩は一緒には居られない。
回るレコードは減速し始め、針は元の位置に戻る。A面の再生が終わった。盤面をひっくり返さないまま、先輩はどこか遠くを見つめた。残りわずかになった紙パックのお酒を、彼女はストローですする。ズズズズッと品のない音がした。
ストローから口を離し、先輩はぽつりと私に問いかけた。
「みょうじちゃん。なんでライブハウスに来なくなっちゃったの」
「なんで、って」
返答に窮した私は、そう言ったきり力なく俯いて押し黙った。
「酔っ払ってちゅーしちゃったこと、今でも怒ってる?」
はっと顔を上げると、彼女は私の瞳をじっと見つめながら「ごめんね」と申し訳なさそうに微笑んだ。彼女の渦巻いた目が、ちっぽけな私を湿った傷心のなかへ引きずり込む。
あの夜もそうだった。廣井先輩はライブのあと、機材が集まる物陰で私にキスをした。辛くて酒臭い唇は想像以上にやわらかい。ぐるぐる回った瞳に絡め取られ、私は身動きできずに固まってしまった。
かわいいね、と先輩は私の耳元でささやき、熱が集まりはじめた頬を慈しむように撫でた。過激なライブパフォーマンスとはかけ離れた優しい指使いにめまいがする。先輩は言った。かわいかったから、つい。ごめんね。冗談だよ。
悪夢のような思い出が脳裏によぎり、悪寒が走る。
「先輩こそ、なんでうちに来たんですか。やっとあなたのことを忘れられると思ったのに。どうして」
うらめしい気持ちを隠さずに呻くと、先輩はきょとんと目を丸くした。猫みたいでかわいい。許せなかった。かわいいから許せない。私の気持ちを弄ぶ先輩が許せない。ひどい先輩にほだされる弱い自分が許せない。
私はかわいい先輩に詰め寄り、痩せた体を軽く押した。素直に仰向けに横たわった彼女の上に跨り、フローリングに落ちた三つ編みの束を手に取って口付ける。私のシャンプーの匂いと、ミルクのボディクリームの香りがする。これだけじゃ満足できない。私は先輩のすべてが欲しい。
「責任取ってくださいよ。あなたのせいで、わたし」
お人形みたいに小さな顔を汗ばんだ手で包み込む。先輩の頬はうっすらと湿り気を帯びて、シャワーのように熱い。けれど恐らく、先輩の頬はいつも熱い。私にはそれがどうしても気に食わなかった。
「あはは、酔ってんね」
廣井先輩の口の端はつり上がっていたけれど、目は全く笑っていなかった。渦は回転をぴたりと止め、あざみのような瞳は拒絶の色を宿す。私は先輩の目を手で覆い隠し、アルコールに濡れたやわらかい唇に噛み付いた。
2023.03.30
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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