幻惑
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眩惑の続きです。
干からびた舌がもつれそうになった。舌の根に微かな倦怠感がただよう。
声に出して「いらっしゃいませ」と言ったのは一体いつぶりだろうと、忘れかけた口の動きを意識しながら思い返そうとする。最後に来店した人は確か――だめだ、全然覚えていない。記憶がおぼろげになってしまうほど、店にお客さんが来ていなかった。昨日までは。
起立する必要なんてないのに、挨拶とともに立ち上がってしまった私は、本棚の間を縫うように歩いていく一人の青年をまじまじと見つめた。お客さんが店内に存在している。幻じゃない。夢でもない。なんだか落ち着かなくて、無意味にレジ周りを乾拭きしてしまった。埃なんて、布巾に一つも付きやしない。
この港町に本屋を構えて五年ほどが経った。従業員は私だけ。大通りから外れた一本道にひっそりとたたずむ小さな店だ。都市部の本屋さんみたいな華やかさはないけれど、幼い頃に憧れていた秘密の隠れ家のようで気に入っている。
ようやく自分の店を持つことができたにもかかわらず、ここ最近は悩み事の多さにすっかり気が滅入ってしまった。元々お客さんがたくさん来てくれるような店ではなかったけれども、なんだか年々客足が遠のいている気がする。自分の心の平穏を保つためにそう思い込んでいるだけで、数字を見れば明らかだ。びっくりするほどお客さんが来ない。
広告を打ってみたり、イベントを開催してみたり、あれこれ手を尽くしてみたけれど、功を奏する気配は全くといっていいほどなかった。心身ともにくたびれ果て、もういっそのことお店を畳んでしまおうかと思っていたところだ。やめようにも、大量に売れ残った本をどうすればいいのかさっぱり分からない。私には調べる気力すら残っていない。
思考を遮るように重たい音が響き、レジカウンターが小さく震える。布巾を持ったまま面を上げると、さっきの青年が気難しそうにこちらを見下ろしていた。まだ真新しさを残すカウンターの上には、彼が選んできた本が山脈を作っている。
「え」と素っ頓狂な声が漏れた。目の前に広がる光景が信じられない。一冊くらい買ってくれたら嬉しいな、なんて淡い期待を抱いていたけれど、まさか何冊もまとめてレジに運んでくれるなんて! 若草色の髪を後ろに流したこのお兄さんが、天使か聖人のように思えてくる。
一人で打ち震える私をうっとうしげに見つめると、彼は急かすような声をあげた。
「会計」
短い言葉に込められた苛立ちが独りよがりな陶酔を破る。青年の様子をこわごわ窺うと、なめらかそうな眉間に深いしわが刻まれ、清涼感にあふれた目元は不審げに歪んでいた。
「すみません、すぐに」
我に返った私は慌てて本の山に手を付けた。青年の監視するような視線が手元に突き刺さって痛い。おまけに、俯いた顔はのぼせそうなほど熱かった。せっかく久々にお客さんが来てくれたのに、ぼけーっと固まってしまうなんて恥ずかしくてたまらない。
早々と会計を済ませると、彼は両手に紙袋を提げ、脇目も振らずに出入り口へ向かった。その素っ気ない後ろ姿に、私は「ありがとうございました」とお辞儀する。
お客さんがうちの店に来て、本を買ってくれた。濁った水の中に沈んでいた身体が浮かび上がり、ようやく息継ぎができたような安心感に包まれる。青年が店から姿を消したあとも、私の胸はそわそわと忙しなく疼き、じっと座ることも大人しく立つこともできなかった。
あの青年は次の日も本を買いに来てくれた。おだやかな昼下がりの――ちょうど眠たくなる時間帯に、彼は手ぶらで現れた。
青年は昨日と同じような青い制服に身を包み、所狭しと並ぶ本棚の中身を慎重に見定めている。不自然に破れた袖のせいで気がつかなかったけれど、あれは連合軍の制服だ。そういえば、数日前から港に軍艦が停泊していた。彼はあの軍艦の乗組員なのだろう。
通勤経路から見えた賑やかな港を思い浮かべていると、店の外からトラックの荷物を下ろす音が聞こえ、出入り口がにわかに騒がしくなる。今日の午後に在庫が届くと連絡があったことを思い出し、私はのろのろと立ち上がった。
「お荷物でーす」
間延びした声の方へ駆け寄ると、案の定、扉の前に段ボールを持ったドライバーさんが立っていた。ラベルにサインを書き、肩幅ほどの大きさの箱を受け取る。そこまで大きな箱ではないはずなのに、ずっしりと重い。
「ありがとうございました」
「またよろしくお願いしますー」
「はい、もちろん」とは言えなかった。足早にトラックの運転席へ戻るドライバーさんを店内から見守りながら、私は深いため息をついた。店を畳むつもりでいるのに、これ以上在庫を増やしていいのだろうか。
ひとまず段ボール箱をレジカウンターの横に置き、力なく立ち上がると、青年の焦れた眼差しと私の疲れきった視線が交わった。彼は昨日と同じく、カウンターの上に本の山を築いている。昨日と違う点を挙げるとすれば、青年が威圧的に腕を組んでいるところだ。
背中に一筋の冷や汗が流れ落ちる。仁王立ちをする青年の見かけは、気性の荒い熊か蛇に威嚇されているようで恐ろしかった。今まで生きてきたなかで、こんなに厳しい目で睨まれた経験なんて一度もない。
「お、お待たせしてすみません」
おっかなびっくりとした足取りでカウンターへ入り、本のバーコードをスキャンする。昨日はこの人のことを天使だ聖人だと崇めていたけれど、実はまったく逆の存在なのかもしれない。あの艦の中で悪魔と呼ばれる青年を想像してみる。しごきがきつすぎて二等兵たちに恐れられている悪魔。純真無垢な天使よりもしっくりくる気がした。
紙袋に本を詰めながら、でも悪魔がジュブナイル小説なんて読むだろうかとも思う。昨日は羞恥でどうにかなってしまいそうで気にする余裕がなかったけれど、青年が選んだ本はすべてジュブナイルものだった。この人も案外、小説を読みふけって泣いたりする心を持っているのかもしれない。
そこまで考えて、私は心の中で頭をぶんぶんと振った。お客さんの外見と買った本を見てあれこれ想像を膨らませるなんて失礼だ。元はといえば、私が会計を待たせたのがいけない。二度も来てくれたお客さんになんという無礼な真似をしてしまったのだろう。
震える手で紙袋を渡すと、青年は黙ってそれを受け取り踵を返す。その後ろ姿に向かって、私は反射的に声をかけていた。
「あの、よかったらなにか飲んでいきませんか」
こちらを振り向いた青年の唇が、「はあ?」とでも言いたそうにぐにゃりと曲がる。気のせいだと信じたかったけれど、残念ながらちゃんと耳に届いた。彼は「はあ?」と声に出して吐き捨てていた。他者を受け付けない姿勢に一瞬怯みそうになる。私はひきつった笑顔を貼り付けたまま、おずおずと話を続けた。
「この店、カフェも併設しているんです。お待たせしたお詫びにご馳走します」
来客対応時以外はめったに使わないカフェスペースを指差す。青年は出入り口の横に設けた3席を一瞥し、また私の顔を見やった。不機嫌そうな表情は一向に変わらない。小さな後悔がとげのついた枝を伸ばし、胸をちくちくと刺す。余計なことを言って空回りしてしまったかもしれない。
「その、もしお時間があれば、ですけど」
消え入りそうな声で付け加えると、彼は「じゃあ、コーヒー」と言い放った。即座に注文を決めた青年はあっという間にカフェスペースへ足を運び、一番奥の席にどっかと腰掛けた。
私はその振るまいをぽかんと見つめる。紙袋から取り出した本を開く青年は、どこかのミュージアムに飾られている絵画のようだった。なんの変哲もない木のテーブルに、中古で買い揃えたうぐいす色のソファ。カフェの環境に変化はない。それなのに、彼が座っているだけで、ここが自分の店ではないような錯覚を覚える。
キッチンでコーヒーを淹れながら、絵画の中に私が入っていけるのだろうかと、おかしな不安を抱いた。青年の醸し出す美しい空気に怖気付き、頭の中で勝手に額縁を描いている。
もちろん、そんな危機感は杞憂に終わった。
「お待たせしました」
小説を読む青年のテーブルにそっとホットコーヒーを置く。サックスブルーのカップから白い湯気がもくもくと立ち上り、ページをめくる彼の手元と明るい髪を優しく包み込んだ。蒸気越しに見る青年は、絵画というより幻のようだった。よく晴れた日の真昼間に現れる、決して触れることのできない幻。
彼は私の目の前に座り、つい先ほど買った本を読んでいる。それに、湯気なんて珍しいものでもなんでもない。どうしてそんなふうに感じたのか、自分でもよく分からなかった。
レジに戻った私は、置きっ放しだった段ボール箱を開封し、ぎっしり詰まった本をカウンターの前に並べた。せっせと手を動かしながらも、あくびが止まらない。段ボールを畳み終えるころには眠気が限界に達してしまい、私は椅子に背中を預けたままうとうとと微睡んだ。あと少ししたら私もコーヒーを飲みたい。あともう少し、睡魔が大人しくなったら――
私のうたた寝は「おい」という無愛想な呼びかけによって断ち切られた。慌てふためきながら飛び起きると、青年が例の脅すような表情を浮かべてこちらを凝視している。
「ああ、すみません。コーヒーのおかわりですか?」
「いや、いらねえ。帰る」
そう断ると彼は口を閉じた。帰ると言いつつも、彼の視線はカウンターの前に置かれた本へ注がれている。椅子から立ち上がって確認してみると、それはさっき並べたばかりの新刊だった。
「その小説、友人の自費出版なんです。私の親戚が印刷所をやっていて、ガワも内容も身内ですけど……」
寝起きのふわふわした思考のままべらべら喋っていることに気がつき、はっとする。こんなこと、この人にとってはどうでもいい話なのに、人恋しくてつい余計なことを話してしまう。
恥ずかしくて赤面する私に、青年は静かな調子で問いかけた。
「その印刷所は一冊からでも入稿できるのか?」
「えっ? はい、できますよ」
予想外の質問に戸惑いを隠せなかった。青年は「そうか」と低くつぶやき、硬い表情をほんの少しゆるめる。長旅の末にようやく目的地へたどり着いたような、そういう安堵感に包まれた顔つきだった。この人も、戦地でなにかしらの文章を書いているのだろうか。
「印刷所のパンフレットがありますので、よかったらどうぞ」
多めに刷ってもらったはいいものの、まったく減る気配がなかったパンフレットを青年に手渡す。彼は受け取ったパンフレットを紙袋にしまうと、友人の本をカウンターに置き、財布を取り出した。昨日今日とたくさん小説を買ってくれたのに、この本も買ってくれるらしい。なんて優しいお客さんだろう。この人はやっぱり天使かもしれない。
港へ帰っていく青年を満面の笑みで見送ると、彼は一度だけ私の方を振り返り、肩をすくめて居心地の悪そうな顔をした。
翌日の午前中に、青年は色褪せた紙の束を持って店に現れた。一昨日も昨日も午後に来てくれたのに、今日の到着は随分と早い。
これを印刷所に入稿してほしいと、彼は代金と一緒に数十枚ほどの原稿用紙を私に渡す。二つ折りの原稿用紙を広げてみると、そこにはのびやかな文字がびっしりと並んでいた。その何ものにもとらわれない文字の形は、青年から受ける鋭い印象とまるで違っている。
「手書きなんて今時珍しいですね」
私の驚嘆を察したのか、青年はカウンターに肘をつきながらキッと睨みつけてくる。
「言っておくが、俺が書いたわけじゃねえからな」
「あれ? そうなんですか」
折り重なった紙の下半分をおもむろにめくり上げる。私は思わず息を呑み、目を見張った。
視界に飛び込んできたのは赤茶けた染みだった。枠線の上にも、文字の下にも、紙の裏側にも、赤茶の染みが自由気ままに踊っている。細くかすれた染みから、液体が滴り落ちたような染みまで、実に様々な形があった。
すっかり変色しているけれど、この染みの正体は私にも容易に想像がつく。これは血液だ。そう断定した途端に心臓が早鐘のように脈打ち、口の中がからからに乾いていく。
私は今、彼にとってとても大事なものを手に取っているのではないだろうか。もちろん確信はない。でも、この場で原本を預かり、印刷所に送るのはまずいような気がする。
「コピーしてきますから、カフェの方でお待ちください」
きっぱりと言い切ると、頬杖をついた青年はみるみるうちにしかめ面になった。いつもの表情のなかに、がっかりしたような、やりきれない切なさを含んでいる。彼の人となりを私は何ひとつ知らないのに、胸が苦しくなった。青年はきっと、この原稿用紙を手放すつもりで店に来たのだ。
彼はコピー機を操作する私の背中に無言の恨み節をぶつけている。カフェスペースで待機することなく、血痕の刻まれた原稿用紙が次々に複製されていく様子を、いまいましそうにじっと見つめている。
青年に原稿用紙を返すと、彼は憮然とした表情を崩さずにそれを受け取った。突き返すわけでもなく、びりびりに破いて捨てるわけでもなかった。ただ、紙の束とは思えないほどの強張った手つきで原本を鞄にしまう。青年の鞄は、本が詰まった紙袋よりもずっと重そうに見えた。
この原稿の作者があなたではないのなら、一体誰が書いたのですか。
どこの誰があなたにそんな顔をさせるのですか。
そんな大それたこと、聞けるはずがない。私と青年は出会ってから三日ほどしか経っていない上に、ろくに会話もしたことがないのだから。それなら、距離が縮まれば許されるのだろうか。青年の心の裡に指先で触れることのできる人間が心底羨ましい。
でも、よく知りもしない青年にここまで興味を抱くなんて変だ。やっぱりもう少しだけ頑張ってお店を続けた方がいい。もっとたくさんの人と関わらないと、今みたいに視野が狭くなってしまうから。世界に生きている人間が私と青年だけになってしまえばいいと、おそろしいことを考え始めてしまうから。
私は口をつぐんだまま、彼が書いてきた注文書に目を通した。納品先がうちの店になっている。
「製本が終わったら、ちゃんと取りに来てくださいよ」
いくらか不躾な口ぶりで話しかけていることに気がついたけれど、彼は大して気に留める様子もなく「ああ」と短く頷いた。
「頼む」
そう言い残して、おかしな制服を着た美しい青年は店から去った。港に浮かんでいたあの大きな軍艦も、翌日には影も形もなかった。海辺のそばに印刷所を構える親戚に尋ねたところ、青年が最後に来店した日の翌日、早朝に出港したらしい。
青年の姿が消えた店内は、それはそれは静かで退屈だった。いつもと変わらない日常が戻ってきたかのように思えたけれど、ジュブナイル小説の棚だけはすっからかんで、レジカウンターの引き出しには製本した小説が青年の迎えを待ち続けている。だから、最初は不思議とさみしくなかった。
けれども、一ヶ月が経ち、半年が経つころには、あの青年は八方塞がりだった私が生み出した幻だったのではないかと考えるようになった。カフェスペースで見たコーヒーの湯気のように、すぐにたち消えてしまう幻。
客足の戻った店内は、ゆったりとした足音と本をめくる音で満ちている。嬉しいはずなのに、こんな気持ちで店を開け続けることになるなんて、想像すらしていなかった。本棚の間を行き交い、今朝並べたばかりの本に手を伸ばすお客さんたちを眺めながら、輪郭がすっかり曖昧になった青年の姿を思い起こす。青年は磨りガラス越しの人影のようにぼやけていて、顔も声もはっきりとは思い出せない。記憶とは、ときどきお手入れをしてやらないと徐々に錆びついていくものらしい。
やっぱり、あの場で原稿用紙の原本をもらっておけばよかった。青年の放つプレッシャーを押し切って原稿を複製したことを、今では少しだけ後悔している。あの人はおそらく、誰かが死に物狂いで生きた証を、本気で手放すつもりなんてなかった。
先日、店に友人が遊びに来てくれた。自費出版の本がすべて売れたことを報告すると、たいそう喜んでいた。それから、閑古鳥が鳴いていた時期に三日間だけ現れた青年のことも、ぽつりぽつりと話した。
「私が原本を預かっていれば、あの人は本をすぐにでも取りに来たと思うの」
「それはないよ」
彼が軍にいる限りありえない話だと、友人はコーヒーを片手に苦笑する。
では戦争が終われば、あの人は本を受け取りに来てくれるだろうか。「来てくれるよ」なんて不確かな励ましは、私も友人も口にできなかった。
引き出しを開き、製本してもらった小説を半年ぶりに手に取る。タイトルもイラストも描かれていない、真っ白な表紙だった。漂白されたような表紙の内側を、私はまだ読んだことがない。
おそるおそる最後のページをめくってみる。あとがきはなかった。
ラストはこう締めくくられている。柔らかなフォントで「オルガとふたりきりになりたいから本の中に住みたい」と。直前の文章とつながりがあるとは到底思えなかった。
「オルガって誰?」
突拍子もなく現れた人名を口の中でつぶやく。身に覚えのない響き。知らない人の名前だ。
「すみませーん、お会計いいですかー?」
商品を選び終えたお客さんがカウンターに本を数冊置き、ぼんやりと物思いにふける私に声をかけた。
「ええ、どうぞ」
複製した原稿が入った引き出しに真っ白な本をしまい込み、私は会計の作業を始めた。血痕の消えた小説はあの青年の帰りをずっと待っている。そして、私も。
2023.03.19
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