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No Name


※カニバリズム


 なまえが死んだ。演習室の外にある水飲み場の片隅で、小柄な身体をさらに小さく丸めて、ぐったりと横たわっていた。床に広がる水溜まりが、流れ出た血液と混ざり合って薄く赤ばんでいる。瀕死の状態で演習室から抜け出し、この狭苦しい場所で息絶えたのだろう。
 喉を潤すという本来の目的をすっかり忘れた俺は、縮こまったあいつの上体を起こし、抱きかかえたままその顔をまじまじと見つめた。悪夢にうなされながら眠っているみたいだった。まぶたは完全に閉じているわけではなく、長いまつ毛の隙間から濁った色の瞳がわずかに覗いている。
 こいつの目ってこんな色だったっけ、と意外に思った。何度も俺に向けてきたあの瞳を思い出したくても、記憶の中のなまえは霧がかかったようにぼやけ始め、単純な追憶さえも拒む。ばかばかしい。そうこうしているうちに、瞳の色などどうでも良い気がしてくる。所詮色彩なんてものは、有象無象を識別する記号に過ぎない。
 有象無象のなかでも、死体は飽きるほど見てきた。死んだ人間の多くは血色を失っている。なまえも例外ではなく、青白い頬の上に乾きかけた血飛沫が点々と飛び散っていた。あいつのスモックの胸元は真っ赤に染まり、べたべたとした感触が俺の手を汚す。金臭い手を舌先で舐めてみると、鼻血が出たときと同じ味がした。
 ざわざわ、ざわざわと、背後から人が移動する気配がある。かび臭い水飲み場に茜色の夕陽が射し、細長い影をいくつも作り出す。訓練を終えたお仲間たちはこちらには目もくれず、ぞろぞろと列をなして演習室から出ていった。アリの群れを見ているようで気分が悪かった。
 とぼけた音のチャイムがラボ中に鳴り響き、長い長い一日が終わる。寮へ戻るまでの帰り道は、いつもなまえと一緒だった。あいつは俺の手を取り、機嫌よく話しかけてくる。俺もぽつぽつと言葉を返した。今日は何人撃ったとか、強化が進んでいない子を刺したら手応えがあまりなかったとか、新しくもらった薬を飲んだら吐いちゃったとか、そういう他愛もない話をした。楽しそうにお喋りをするあいつの手は体調を崩した子どものように熱く、それでいてからっと乾いていた。変な手だった。
 動かなくなったなまえも、まだほんのりと温かい。柔らかい手を握り、顎から頬にかけて指先でゆっくりなぞってみる。顔色がこんなに悪いのに、今のあいつの体温は、寮の踊り場でこっそりキスをしたあの日とあまり変わらないように思えた。
 明かりが消えた黄昏時の踊り場で、なまえは一瞬だけ触れ合った唇を名残惜しそうに離し、「シャニのことが好き」とささやいた。あいつの体温が残る唇が、神経毒を受けたようにびりびりと痺れ始める。口元にそっと指を当ててみると、触れた感覚がまるで無い。唇で感じ取れる刺激はなまえの温もりの跡だけだった。
 自分自身の器官が他人に――あいつに翻弄されていくような気がした。手術に洗脳、毎日の投薬。体を作り替えるために、大人たちは俺たちを好き勝手に弄ぶ。このラボの中で幾度も経験したはずなのに、あいつのもたらす温もりは唇の上に付着し、痺れとなってまとわりつく。
「それって、どういうこと」
 馬鹿正直に聞き返すと、新薬の投与で心が不安定になったあいつは、薄闇のなかで無邪気に笑った。踊り場の窓から射し込むオレンジ色の光が、俺たちの頭部をぼんやりと包む。消えかけた火で頭をじりじりと炙られているみたいだった。
 日没の火に照らされたなまえは俺の胸元にすがりつき、「シャニを誰にも渡したくないの」と切なげに呻いた。あいつのつむじが小刻みに震える。
 誰にも渡したくないのなら、最初からはっきりとそう言えばいいのに。ここにいる連中はみな、獲物を横取りされることを好まない。
「私以外に殺されないでね」
 あいつは薄暗く潤んだ瞳で俺を見上げながら、当たり前のことを懇願する。俺はあのとき、泣きながら笑うあいつになにを答えたのだろう。俺もなまえのことが好きだと、素直に返しただろうか。
 そう、俺もまた、なまえを誰にも渡したくない。お仲間にも、研究員の奴らにも、顔も名前も知らないお偉い人々にも、あいつの骨と肉の一欠片だってやるものか。
 自分の懐を探り、研いだばかりのサバイバルナイフを一本取り出す。強化に失敗した生体CPUは解剖され、取り出した脳は標本として一室に飾られる。お行儀よく並ぶ標本たちを眺めても、今まではなんの感情も湧き上がってこなかったのに、なまえがつまらない標本になるのかと思うと、今回だけは癪に障った。あいつの中身を暴こうとする大人たちも、俺の許可なく約束を破ったあいつも許せない。
「でも俺、お前となにを約束したんだっけ」
 いくら問いかけても返答はなく、ただただ重い沈黙が流れる。砂浜に転がる空っぽの貝殻みたいな約束が、俺を機械のように突き動かしている。膝に乗せたなまえの頭を床に下ろし、俺はナイフを構えた。
「まあいいや」
 俺はあいつの柔らかい頭を切り裂き、脳を覆う頭蓋骨を叩き割る。死体を作り上げた経験は数え切れないほどあるけれど、解剖の経験なんて一度もない。四苦八苦しながら割れた頭蓋骨をめくると、標本よりもいくらか鮮やかな色合いの脳みそが姿を現した。甘ったるいだけのケーキを切り分けるようにナイフを入れ、さらに一口サイズにカットする。
 口に含んでみると、食感が悪くうっすら生臭い。普段の食事よりもずっとひどい味がした。けれども、俺はあいつの脳みそを作業のように喉へ流し込む。何か硬いものが歯に当たっても、お構いなしに淡々と噛み砕く。気持ち悪かったけれど、味覚が死んでいるおかげで、なんの迷いもなく平らげることができてしまう。
 最後の一口を飲み込むと、自分の意思とは関係なく、いやな吐き気が喉元に込み上げてきた。水道の蛇口をひねり、じゃぶじゃぶと口をゆすぐ。水を吐き出すたびに、粘度のある赤い液体がシンクに広がり、排水溝を詰まらせながら流れ落ちていった。
 血に濡れた手で蛇口を閉め、足元に転がったなまえを見下ろす。まぶたごと切り刻んでしまったので、もう瞳の色を確認することはできない。脳を取り出す前に眼球を見ておけば良かったかなあと、ぼうっとした頭で後悔する。またすぐにどうでもよくなり、俺はスモックの袖で自分の唇を拭った。
「ああー! シャニの奴、あんなところにいやがった!」
 騒がしい足音とともに、廊下から聞き覚えのある声が近づいてくる。寮のルームメイトのオルガとクロトだ。二人して不機嫌そうに顔をしかめ、盛大にため息をついている。白衣の奴らに命令されて、いつまで経っても寮に戻らない俺を探しにきたのだろう。施設中に監視カメラを設置しているくせに、無駄な捜索をさせるなんてご苦労な話だ。
「お前が消えたら、あいつらに怒られんの僕たちなんだからさあ。って、なにそれ」
 クロトの視線がぐちゃぐちゃの肉塊となったなまえに注がれる。オルガも頭蓋骨の飛び散った床となまえを交互に見つめ、「始末したのか?」と怪訝そうに訊ねた。
「してない」
「じゃあ、食っちまったってとこか? こいつを脳みそを」
 冗談半分の質問にこくりと頷いてみせると、オルガは唇をへの字に歪めて不快感をあらわにした。そんなオルガとは対照的に、クロトはみるみるうちに破顔し、やがてげらげらと笑い始める。
「あはは、インプラントごと食べちゃったわけ? マジ? お腹痛くなりそー」
 クロトの甲高い笑い声が、吐き気を催す身体に騒々しく響き渡る。苛立った俺は、血液でぬらついたサバイバルナイフをクロトに向かって力任せに投げつけた。いとも簡単にかわされたナイフは後ろに立っていたオルガの首元すれすれを横切り、鈍い音を立てながら薄汚れた壁に突き刺さる。
「ふざけんな!」
「シャニてめえ、いい加減にしろ!」
 ぎゃあぎゃあと激昂する二人を無視して、寮の方角へ足を進める。もちろん、部屋で休息するために寮へ戻るわけではない。今日なまえと対戦した奴の部屋へ乗り込むのだ。
「どこ行くんだよ!」
 俺の背中に向かってクロトが吠える。怪我ひとつ無かったくせに、まだ怒りが収まらないらしい。
「あいつを殺った奴を殺してくる」
 噛みしめるように答えながら拳を握ると、爪の先が手のひらに食い込んだ。痛くはなかった。この程度でいちいち痛がっていたら、俺たちは生きていけない。
「おいシャニ。まさか、復讐に行くんじゃねえだろうな」
 オルガの怒号が歩き続ける俺を追いかける。オルガが何を言っているのかよく分からなかった。俺は駄々をこねる子どものように「はあ? そんなんじゃないし」と吐き捨てる。俺は、俺のものを横取りされてムカつくから、あいつを肉の塊にした張本人を殺してやりたいだけだ。なまえは俺のもので、俺はなまえのものだった。俺となまえの邪魔をする奴は、この世からいなくなってしまえばいい。
 そんな俺をオルガはあざ笑う。俺じゃないくせに、知ったような口を利く。
「バーカ、そういうのを復讐って言うんだよ」

2023.03.05

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