小説
- ナノ -

まぼろしを縫い付けて


※違法薬物の描写あり


 しゃきん、しゃきんと、小気味良い音が鼓膜を揺らす。薄くて軽い紙よりも分厚くて重い何かを、切れ味のするどい刃でリズミカルに切り裂く音だった。
 艦内に並ぶ待機室の一つを覗くと、タンクトップ姿のクロト・ブエルが、簡素なテーブルの上に青い布を広げ、熱心にはさみを動かしていた。布を裁つ音と共に布の切れ端が、彼の足元に折り重なっていく。
「なにやってんの」
 部屋の中に立ち入り、小柄な背中に声をかけると、あどけない顔立ちがこちらをゆっくりと振り返った。健やかな肌はうっすらと紅潮し、いつもは涼しげな瞳が熱したガラスのようにとろけている。事情を何も知らない人が今の彼を見たら、きっと酩酊していると思うに違いない。
 彼ははさみをテーブルに置き、床に転がった青い布切れを私に向かって蹴飛ばした。折り重なった布は死にかけたへびのような鈍い動きで床を滑り、私のつま先の前でぴたっと止まる。静かになった布切れを一瞥し、クロトは湿った息を漏らした。
「見れば分かるだろ。ジャケットを切ってたんだよ」
 やっぱり、とため息をつきたくなった。クロトの言うとおり、この青い布は今朝支給されたばかりのジャケットだった。遊びじゃないんだぞ、と上官でもないのに小言を言ってやりたくなる。私たちがこれから向かう場所は――少なくとも私にとっては、明るく満ち足りた楽園なんかじゃない。クロトにとってそこがどんな場所なのか、私にはとんと分からないけれど。
「偉い人たちに怒られても知らないからね」
「怒られる? あいつらに怒られる筋合いなんか、これっぽっちもないね。僕たちは結果さえ残せばそれでいいんだよ」
 普段よりも幾分か饒舌なクロトが不敵に唇を歪める。確かに、彼らに求められているものは規律ではないのだから、そんなことを言われると反論の余地がない。
 私は肩をすくめて閉口し、抜け殻のようになった布の切れ端を拾い上げて、小さく折りたたんだ。この部屋にゴミ箱はない。ひとまず自分のジャケットのポケットに突っ込む。空っぽのポケットは分厚い布を受け入れて膨らんだ。
「まさか、そんなつまらないことを言いにきたわけじゃないよね?」
 私の胸元に抱かれたノートパソコンを値踏みするように眺めながら、クロトは偉そうに腕を組んだ。
「経過観察をしにきた。γ-グリフェプタンの」
「つまんねー」
「座って」
 側にあった椅子を顎で指し示すと、彼は面倒臭そうにいやいや腰掛けた。乱暴に座ったせいで、床と椅子の脚が擦れて不愉快な音がする。私ももう一つの椅子にそっと座り、テーブルの端にノートパソコンと器具を広げた。
 私が何も言わなくても、クロトは背筋をぴんと伸ばし、差し出すように胸を向ける。手慣れたものだ。さも当たり前のように診察を受けるクロトを前にするたび、私の額にはうっすらと汗が滲む。これでは一体どちらが診察を受けているのか分からない。
 赤いタンクトップの上から聴診器を当てると、クロトの過剰な心音はたちまち渦となり、耳の中へどっと流れ込んできた。思わず、眉間にしわを寄せてしまう。生体CPUの診察を手伝うようになってから何度も何度も聞いた音だというのに、私の体はこの雑音混じりの鼓動に慣れ親しむことができない。
 そそくさと聴診器を外し、上に報告するためのメモを入力する。クロトは野暮ったいソフトウェアが表示された液晶画面を覗き込み、「どう?」と訊ねた。
「異常なし」
 短く答えると、クロトは乾いた笑い声を上げた。ひび割れた音が狭い待機室に響く。どうやら、私の陰鬱な表情と、発した言葉の落差がおかしかったらしい。おかしいに決まっている。普通のナチュラルと比べれば、彼ら生体CPUの体内は奇妙で異常だらけだ。自分で下した判断に薄ら寒くなる。
 診察を終えたクロトは腰を上げ、改造したばかりのジャケットを羽織った。元々長袖だったジャケットは半袖になり、裾は腰あたりでばっさりと切れている。これはまた大胆に裁断したものだなと思った。大胆すぎて、裾の先から糸が伸びている。
「クロト、ジャケットから糸が出てる」
 裾の糸を指差すと、彼は怪訝そうに目を細めながら自身の腰を見下ろした。
「うげ、本当だ」
「布を折り返して縫った方がいいよ。ミシンがなくても手縫いでいけると思う」
「えー、なにそれ……。面倒くさいなあ」
「縫わないとどんどんほつれていくよ。ソーイングセット持ってる?」
「僕がお裁縫の道具なんか持ってると思う? あーあ、オルガの袖みたいになるなんて絶対やだよ」
 オルガ・サブナックもジャケットを改造したのか、と呆れた気持ちでいると、急激に元気をなくしたクロトは盛大にため息をつき、ほつれかけたジャケットをしぶしぶ脱いだ。何をするのかと思えば、脱いだばかりのジャケットを私に向かって放り投げる。膝の上に着地したジャケットから、嗅ぎ慣れた消毒液のようなにおいがした。
 意味が分からず、問いただすようにクロトをじっと見つめると、彼は涼しい顔でこう言い放った。
「縫うのは得意でしょ?」
 どうやら、裾上げの仕上げ作業を私に押し付けるつもりらしい。裁縫なんて学生だった頃に授業で少し習ったくらいで、普段はボタンをつけ直すくらいしかやらないのに。
「苦手ではないけど、分野が違う」
「よかったー。じゃ、よろしく」
 私の苦々しい返答を都合よく解釈したクロトは、タンクトップ姿のまま自分の部屋へ帰ってしまった。待機室に一人取り残された私は、好き放題に切り刻まれたジャケットをこわごわ広げながら深く息を吐いた。書類を上官に提出したら、お次はこれだ。
 
 速やかに報告書を片付け、事務室で借りたアイロンと自分のソーイングセットを待機室に持ち込む。遥か昔に受けた授業の内容を思い出しながら、ジャケットの裏側を地道に縫っていく。
 最初は迷いながら縫い進めていたけれど、慣れてくると結構楽しい。糸と針を整然とした手つきで布地に通すたび、確かに裁縫が向いているのかもしれないと思った。クロトは他人に関心がないくせに、意外と私のことをよく知っている。
 そんなクロト・ブエルと初めて会った場所は、ロドニアのラボと呼ばれる生体CPUの施設だった。
 その施設に短期任務で訪れた私は、ラボを退出する直前だったクロトの手伝いをした。手伝いといっても、医療班の一員として、生体CPUの性能や運用を勉強するための実習のようなものだ。
 ロドニアのラボに身を置いた期間は数週間ほどだったけれど、今でもふとした瞬間にその異様な光景を思い出す。お揃いの服にお揃いの首輪をつけた子どもたち、青白く浮かび上がる人間のホルマリン漬け、強化に失敗した子どもの頭を切り裂く医師、所狭しと並ぶ脳みその標本。子どもたちのほとんどは幼い顔をしていた。なかには私と同じくらいの年齢の人もいて、その同年配の人たちの一人がクロトだった。
 ラボで見聞きした出来事は、正直なところ、あまり思い出したくなかった。実習の情報は任務上必要不可欠だから仕方がないとして、その他の記憶は忘れたまま生きていけたらどれだけ楽か分からない。一日に最低一度は聞こえてきた子どもの断末魔が、今でも鼓膜にこびり付いて離れないのだ。あそこは小さな戦場だった。逃げ道のすべてが大人の手によって丁寧に塞がれた薄暗い箱庭。些細なことも思い出したくない。私も同じ穴の狢だと思い知らされるから。
 残忍な記憶を頭から締め出すたびに、クロトと初めて交わした言葉が薄れていく。それだけは少し惜しく思う。とはいっても、おそらく大した会話はしていない。お互い、「よろしく」くらいしか――
 色彩豊かに彩られ始めた思考回路がぐにゃりと曲がり狂う。自分以外のなにかが容赦なく流れ込んでくるような感覚が頭の中いっぱいに広がり、危うく針の先を人差し指に突き刺しそうになった。あとは糸を切れば完成なのに、私は針とクロトのジャケットを持ったまま、椅子の上でしばらく呼吸を荒げていた。
 熱い心臓は胸から飛び出しそうなほど激しく脈打ち、光り輝く視界が大波に飲み込まれたようにぐらぐらと揺れる。頭が割れるように痛い。虹色の波はけたたましい音を立てながら雨雲に変わり、私の頭上めがけてスコールのように降りしきる。呼吸がうまくできない。
 この待機室にいるのは私一人だけだ。それなのに、耳元では誰かがしきりに喚き散らし、ラボで見た陰惨な光景が極彩色に染まりながら眼前に広がり、死んでいった子どもたちの冷たい手が汗まみれの身体にまとわりついてくる。色鮮やかなドレスを身にまとった死がぴったりと肌を寄せて迫ってくる。足元から頭にかけて這った大量の手は、やがて私を押し潰した。骨までぺしゃんこになった私は、雨の中でどろどろに溶けていく。それが終着の合図だった。
 ラボのことを思い出すといつもこうだ。現実と幻の境目がぼやけて、あの子たちを見殺しにした罪悪感で胸が潰れそうになる。クロトたちの世話をしながらのうのうと生きている自分が浅ましく思える。でも、今回は終わったのだ。嵐さながらの幻覚も、耐え忍べばどうということはない。そう自分に言い聞かせても、私の精神はあと何回耐えられるのだろうかと、ひどく不安になる。
 徐々に過ぎ去っていく幻覚をぼんやり見送ると、今度はやけにリアルな造形をしたクロトが現れ、ぐしゃぐしゃに歪んだ私の顔を覗き込んだ。いつからそこにいたのだろう。
「バッドトリップしちゃった?」
 部屋の中が逆光で薄暗くても、彼がからかうような表情を浮かべていることだけはよく分かる。むっとしながら「違う」と唸ってみせると、こめかみに冷たい汗が流れ落ちた。
「ふーん」
 クロトは興味なさそうな声を上げ、姿勢を正した。そして、私の手元からジャケットを抜き取り、テーブルの上に転がった糸切りはさみで最後の糸を切る。しょり、と心地よい音がした。おそるおそる針山に針を突き刺すと、綿のやわらかな感触が手に伝わった。
 五感のひとつひとつが規則正しく動き始めている。ようやく現実に戻ってこれたのかと思うと、クロトの前で取り乱してしまったにもかかわらず、心の底から安堵してしまった。
「やっぱ上手いじゃん。ラボのセンセーみたい」
 袖を通したクロトが私の前で体をくるりと一周させる。ラボのセンセーみたい。彼の発した褒め言葉は私の心のあちこちに引っかかり、うまく飲み込めなかった。口の中が酸っぱくて苦い。
 私の浮かない顔を見たクロトは、幼い子をあやすようにふっと微笑んだ。
「ラボにいた頃、なまえは僕たちとは別の薬を飲んでいたよね」
 喉がごくんと鳴った。苦い唾を飲み込んだのは私だ。椅子に腰掛けたまま動けなくなった私に、クロトは畳みかけるように話しかける。今度襲いかかってきたのは幻ではなく、まぎれもない現実だった。
「そんなにキツかった? トリップしないとやってられないほど?」
 青く澄んだ瞳が私を見下ろす。淡々と責め立てられているような恐怖に、頷くことも首を横に振ることもできなかった。どこで確信を得たのか知らないが、クロトの詮索はすべて当たっている。
 あの頃の私は、実習が終わればラボの片隅にある宿舎へ戻り、部屋でくだらない幻覚に浸っていた。休暇中に街の路地で買った違法の薬だ。フラッシュバックのリスクを無視してでも、幸福な幻に縋っていたかった。そうでもしないと、なにかが少しずつ狂い、やがて日中も正気を保てなくなりそうだったから。
「どうしてそんなこと聞くの」
 平静を装いながらやっとの思いで聞き返したのに、クロトが私に差し出したものを目にした瞬間、心臓がぱきぱきと凍りつく。彼がジャケットのポケットから取り出したものは、小さな切手のような形の紙片だった。ひと回り大きなビニールに包まれたそれは、以前私が売人から買った薬で間違いない。さっきまでそのジャケットを縫っていたというのに、全く気がつかなかった。
「ラボで落としたでしょ、これ」
 クロトは透明度の高いビニールをひらひらと扇いだ。笑っているようで笑っていない目が、狼狽する私を貫く。
 ラボを離れる前日に、最後の一枚を紛失してしまったことを、私はどこかほっとした気持ちでとらえていた。まさかよりによってクロトが拾い、今の今まで保管していたなんて、これもたちの悪い幻覚だろうか。幻覚にしては、クロトの姿ははっきりと見えすぎているし、足元から這い上がってくる死の恐怖は一切湧き起こらない。
 代わりに湧き出るものは、彼に弱みを曝け出してしまった悔しさと、ラボの出身者に対する後ろめたい感情だった。クロトの方がずっと過酷な環境で生きてきたはずなのに、たった数週間しか滞在しなかった衛生兵が薬物で己を慰めていたなんて、情けなくて申し訳なさが募る。クロトにだけは絶対に知られたくなかった。その割には喉も舌もからからに乾いていて、私の口から謝罪の言葉はひとつも出てこない。
 うなだれた私の耳に届いたのは、ビニールを破く軽い音だった。驚いて顔を上げると、クロトはビニールの中から紙片を取り出していた。私の醜態を白日のもとに晒すように、真っ白なそれを指先でつまみ、蛍光灯の光に透かす。船はおだやかな海域を進んでいるにもかかわらず、じわじわと吐き気が込み上げてきた。
「僕たちの薬も、これくらい軽量化してくれたらいいのに」
 皮肉のように呟くと、彼は小さな紙片を口に運ぶ。私は声もなく椅子から立ち上がり、即座にクロトの手から紙片を引ったくった。バランスを崩した椅子が後方にひっくり返り、彼のまん丸に見開いた目が視界の端へ流れていく。なんの強化も受けていないナチュラルが、クロトから物を取り上げるなんて容易いことではない。つまり、クロトは最初から、これを摂取するつもりなんてさらさらなかったのだ。そう思うと無性にいらいらした。
 部屋の隅まで走った私は窓をこじ開け、紙片をサファイアブルーの海に向かって投げ捨てた。直射日光を浴びた薬の紙片は爆ぜるように白く輝き、軽々と舞いながら海面に落ちる。しばらく海に漂っていた紙片はゆるやかな波に飲まれ、やがて姿が見えなくなった。
 クロトは私の背後から窓の外を覗き、白々しい調子で煽ってきた。
「いいの? あれ、最後の一枚だったんじゃない?」
 かちんときた私は後ろを振り返り、飄々と佇むクロトを睨みつける。
「うるさいな。クロトがあんなことしたせいで、不法投棄するはめになったんだ」
 震える喉が引きつり、ようやく出た声は無様に裏返る。逆上する私を、クロトは目を細めながら俯瞰するように眺めた。汚れきった苦悩を彼に見透かされているようで居心地が悪い。逃げ場はどこにもなかった。背後は沖が広がり、目の前にはクロトが立っている。現実から逃れるための薬は、ついさっき私がこの手で投げ捨ててしまった。
「僕ね、お前と初めて会ったとき、スカしててうぜえ奴だなって思った。でも、今の方がよっぽどマシ。弱くて、みっともなくても」
 同類に向ける眼差しを一身に受け、私は足の力を失ってその場にへたり込んだ。視界の上部では、短くなったクロトのジャケットが風にはためいている。私がどうしても思い出せないことを、クロトは覚えている。誰にも共有できない薄暗い喜びが、フラッシュバックで錯乱する私を「マシ」と評する彼の残酷さが、吐き気に苛まれる胸をぎりぎりとしめつけた。
「左の人差し指、出して」
 彼は俯く私に声をかけると、床に膝をついた。訳も分からず、小刻みに震える指をクロトに差し出す。クロトは私のジャケットのポケットから布の切れ端を引きずり出し、顔をしかめた。
「絆創膏とか持ってないのかよ。衛生兵のくせにさあ」
 そう言い捨てると、彼は少し前まで自分のジャケットだった布を小さく裂き、止血をするように私の指に巻きつけた。その甲斐甲斐しい手当てをぼうっと見つめていると、頭の中に立ち込めていた靄がだんだん開けてくる。
 私は、クロトの手で応急処置を受けてからようやく、自分の人差し指を縫い針で傷つけてしまったことに気がついたのだった。

2023.02.19

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