小説
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眩惑


※ロドニアのラボでの話です。

 つまんねえ部屋、とここへ戻ってくるたびに思う。
 薄汚れた窓ガラス越しに、わずか数センチほどの海が見えた。錆びついた窓枠を力まかせに押し込むと、乾いた風が木々と鉄格子の隙間を縫って室内に届く。不快な暑さはそれでもなお続くが、窓を閉め切っているよりはずっとましだ。
 この面白味のない二人部屋には、壁の両端にベッドが1台ずつ、中央にテーブルが1台、その上に鉄格子付きの出窓が1窓ある。さながら独房のような部屋に、エアコンとかいう気の利いた装置はない。お仲間と殺し合う前に、夏の暑さと冬の寒さでどうにかなってしまいそうだ。
 ふとテーブルの上に視線を落とすと、そこには見慣れないものが置いてあった。軽く数十枚はありそうな、折り畳まれた紙の束だ。おもむろに、その紙の塊を手に取る。紙の裏側はぼこぼことした手触りをしていた。風が吹くたび、紙の内側からただようインクのかすかな匂いが鼻の先をくすぐった。
 おんぼろのベッドに腰掛け、分厚い紙の束を扇子代わりに扇ぐ。紙から起こった弱々しい風は頬をひかえめに撫でるだけで、いまいち涼しくなかった。
「人の原稿をうちわにしないで!」
 突然入り込んできた女の甲高い声が、よどんだ部屋の空気をびりびり震わせる。邪魔な奴が訓練から帰ってきてしまったかもしれない。開け放ったままのドアをちらりと確認すると、案の定、ルームメイトのなまえが仁王立ちしながら俺を睨みつけていた。
 ライトグリーンのスモック、首に装着された禍々しい器具、手術跡と生傷の絶えない身体――あいつの身なりは俺と概ね同じだ。もっとも、性能は全く違う。俺はなまえのように鈍臭くはないし、強化の進行具合も俺の方がずっと上だった。あいつはこのラボに来てから二週間ほどしか経っていない上に、強化の度合は1に満たない。
 小さくて弱いというだけですでに鬱陶しいのに、顔を合わせるたびに目を輝かせながら話しかけてくるものだから、この女にはほとほとうんざりしている。こんな目障りな奴、さっさと死んでしまえばいい。わざわざ願わずとも、近いうちに廃棄処分されるはずだ。
「ちょっと、聞いてる? ねえ、オルガってば」
「ああ?」
「それうちわじゃないから。返して」
 ベッドの前まで歩み寄ったなまえが、俺の手から紙の束を引ったくる。朱色の液体が擦れ、紙の表面に細かな染みを作っているのが見えた。二人とも指に小さな傷をこさえているため、あれが俺の血なのか、なまえの血なのか、見た目だけでは判別できない。別にどちらの血液が付いていようがどうでもいい話だ。
 紙を奪い取ったあいつは硬い椅子に座り、テーブルの引き出しに一本だけ入っているペンを取り出した。そして、古ぼけたテーブルの上に紙の束を広げ、一心不乱にペンを動かす。丸まった背中はラボの周辺で見た猫のようだ。たまに見かける野良猫や野鳥は、一匹たりとも俺たちのそばに寄ってこようとしなかった。この研究施設のなかで何が行われているのか、奴らは本能的に知っていたのかもしれない。
 それにしても、ぎゃあぎゃあと喚くことしか能のないこいつが、何かに没頭しているなんて珍しい気がする。俺が今まで気にしていなかっただけで、以前から原稿とやらを書き溜めていたのだろうか。
「なに必死に書いてんだよ。その紙、どこからくすねてきた?」
 背後に回り、文字がびっしりと書き込まれた紙を覗き込む。なまえは俺の顔を見るなり、弾かれたように紙の上へ覆いかぶさった。
「見ないで! まだ完成してないんだから!」
「はあ、完成?」
 顔を伏せたまま、あいつはしばらく考え込んでいるようだった。俺に秘密を打ち明けるか否か悩み抜いた末、生意気盛りな横顔をちらりと覗かせる。
「小説を書いてるの」
「小説? お前が?」
 怪訝な声を上げると、あいつは静かにペンを置き、紙の束を半分に折り畳んでから上体を起こした。文字の羅列は紙の裏側に隠れて見えなくなる。
「私が私でなくなる前に書き切ってしまいたくて」
 俺の瞳を貫いたのは純粋な眼差しだった。まだ希望が残っている人間の、活力にあふれた瑞々しい顔つき。そんな脆く儚い夢は、ここで暮らせばすぐに消えてなくなってしまう。なまえの行為は非生産的だ。俺たちは敵を殺すことだけに意義がある。
「バカじゃねえの。白衣の奴らにバレたら、こんな紙捨てられるぞ」
「バレなきゃいいだけの話でしょ」
「バレたくなきゃ、テーブルの上になんか置くんじゃねえよ」
「うるさいな、分かったよ」
 あいつは不満げに口を尖らせ、再び原稿用紙を広げた。本当にばかばかしい。興味を無くした俺は自分のベッドに寝転び、図書室で借りてきた本を布団から引っ張り出す。返却期限を大幅に過ぎているが、誰も遅延を咎めない。ラボの片隅にある図書室はカビ臭く、ろくに管理がされていないため、どの本棚も大穴が空いたようにすかすかで、本があったとしても破損が目立つ。この本も御多分に洩れず、目次と後書きのページがびりびりに破れている。それと、図書室だけでなく、本もやはりどこかカビ臭い。
「それ、ジュブナイル小説?」
 文字を書き込んでいるはずのなまえが、今度は俺の手元に視線を注いでいる。「多分な」と適当に返事をしてやると、あいつの目がぱあっと輝いた。この真っ直ぐで晴れ晴れしい目つきがどうも苦手だ。その瞳に映るもの全てを詳らかにしたくてたまらないとでも言いたげな眼差しは、ある種の暴力性を孕んでいる。
 あいつの憎たらしい両目を潰してしまえば、この無自覚な暴力に晒されずに済むかもしれない。だが、寮内での戦いは御法度だ。そんな退屈なルールさえ無ければ、こんな目障りな女なんかとっくに始末している。
 俺の怒りなど知る由もないなまえは、相変わらずの呑気な調子で会話を続けた。
「なんか意外。少年少女の青春や冒険譚なんて、あの人たちにとっては不都合そのものじゃない?」
「自信があるんだろうよ。俺たちを完璧な殺人兵器に仕立てあげる絶対的な自信が」
 そう言って自嘲気味に笑ってみせると、空虚な胸の奥に灰色の濃霧が立ち込めた。俺は暇さえあれば小説を読む。作り話に感情移入し、はらはらと涙を流す。けれども、それだけだ。温い涙が目から溢れ落ちる感覚があっても、物語が心の芯に染み込むことはない。ラボに来る前はきちんと心に残っていたのだろうか。そもそも、以前から読書が趣味だったのかすら、俺にはもう思い出せない。
「自信、かあ」
 あいつは不思議そうに呟いた。その能天気さがいちいち癪に障る。
「今のお前も負けず劣らず自信満々だよな。どこから湧いてくるんだか」
 嫌味を込めたつもりだったのだが、なまえは難しそうな面持ちで「意識したこともなかった」と声をひそめた。物憂げに頬杖をついたその手首に、黒いインクと細かな返り血が点々と踊っている。
「そろそろシャワーの時間じゃねえか?」
 ベッドから起き上がり、窓枠の上に掛かった時計を確認する。なまえも時計を見上げ、「ほんとだ」と椅子から立ち上がった。あいつは鉄格子の向こう側を名残惜しそうに見つめたあと、傷んだ窓を勢いよく閉める。その衝撃で、テーブルに置いた紙の束が小さく震えた。
「その紙、ちゃんと引き出しにしまっておけよ」
 部屋を出る前に念を押すと、なまえは慌ただしい手つきで引き出しを開けた。

 あいつの煩わしさは、この土地に降り注ぐ強烈な日差しのようだった。時間を見つけては原稿用紙と向き合い、執筆に飽きれば隣にいる俺にしつこく話しかけ、何が面白いのか知らないが、けらけらとよく笑った。慣れない投薬でハイになっていたのかもしれない。
 容赦のない日照りから逃れるため、規則に逆らってあいつをこの手で殺してやろうかと何度も思った。けれども、弱い奴をいくら殺めたところで何の快感も得られないことを、俺は身をもって知っている。
 そんな暑苦しい毎日にも、終わりはきちんとやってきた。なまえは数日間だけ寮から姿を消した。次のステージに上がるべく、病棟へ移ったのだ。
 ペン先が紙をがりがりと削る音や、けたたましい笑い声が消えた部屋には、森のざわめきしか耳に届かない。読書はいつもの数倍捗った。
 だが、一人きりで眠る毎日もやはり呆気なく終わった。部屋に戻ってきたあいつは熱にうなされ、著しく弱っていた。強化の手術は成功したものの、身体への負担が大きかったのか、体調がなかなか回復しない。隣のベッドに横たわり、荒い息を吐き続けるあいつの顔を覗き込むと、心なしか先週よりも頬が痩けているような気がした。
 このまま回復しなかったら、恐らくなまえはなんのためらいもなく廃棄されるだろう。ずらりと並ぶ脳の標本の中に、未出力の物語が詰まったなまえの脳がひっそりと仲間入りする。俺はその似たり寄ったりな脳みその群れを見ても、あいつの脳を選び当てることはできない。
 
 ある日、訓練から部屋へ帰ってくると、テーブルの上にはペンが転がり、あいつの原稿用紙が散乱していた。窓から吹き込む穏やかな風を受けて、薄っぺらい紙が弱々しくはためく。一番上に置かれた紙には、しっとりと濡れたインクが、みみずののたくったような字を形作っている。
 呆れた。すぐ横のベッドを確認すると、布団からだらりと垂れ下がった手は黒く汚れ、眠っているはずのあいつは重そうなまぶたをわずかに開き、虚ろな目つきで俺の一挙一動を追っていた。俺が部屋にいるときは眠りこけているが、意識が戻ればこっそりと原稿用紙に向かい、死に物狂いで文章を書き殴り、疲労がピークに達した時点でベッドに戻る生活を繰り返していたのだろう。どうりで回復が遅いわけだ。
「お前、よっぽど死にてえんだな。いい気味だ」
 生気を失った眼球に向かって掠れた声で吐き捨てると、なまえは気だるそうに首を振り、ベッドから飛び出ていた腕を粗末な布団の中へ潜らせた。あいつは、死にたいわけではなかった。人として生きているうちに夢を掴み取りたいだけだった。俺よりも脆弱なくせに、死というものをよく知っていた。
 一息つく間もなく、背後からばたばたと忙しない足音が聞こえる。この歩幅と床にかかとを叩きつけるような足音の持ち主はドクターに違いない。
 ドクターが寮の部屋にやってくるなんて日常茶飯事だ。いつもはこんなことで焦ったりしないはずのに、今日に限って心臓はばくばくと鼓動を速め、テーブルの上のそれとなまえを交互に見つめてしまう。すぐに原稿用紙を隠さなくてはならない。だが、今から引き出しを開けたら、物音のせいで絶対に怪しまれる。
 俺は散らばる原稿用紙を物凄い勢いでかき集め、自分のベッドの足元にそれらを放り投げ、不審物を隠蔽するように布団を被せた。枕元に腰掛け、読みかけの本をぺらぺらとめくる。話の内容はこれっぽっちも頭に入ってこなかった。
 ギイと重苦しい音を立てながらドアが開く。予想通り、そこに立っていたのは白衣姿のドクターだった。医療器具の入った鞄を手に提げている。なまえの経過を診察しに来たのだ。彼は部外者の俺をちらりと一瞥すると、あいつのベッドへ真っ直ぐ足を運んだ。
「気分はどうだい」
 ドクターは空っぽになったテーブルに大きな鞄を置き、医療器具や資料を広げた。
「昨日よりはずっと良いです」
 からからに乾いた室内にあいつのか細い声が染み込む。俺は白紙同然の本から目を離し、隣のベッドで行われる診察を盗み見た。あいつはドクターの手を借りながらゆっくりとスモッグを脱ぎ、ドクターはあいつの胸元に巻かれた薬品臭い包帯を解いていった。膨らみかけた胸の真ん中を、生々しい縫い傷が縦断している。しわの目立つ手があいつの上半身をうやうやしく這う。珍しい光景ではないはずなのに、どういうわけか言いようのない嫌悪感を覚えた。
 胡散臭い儀式のような触診を苦々しく眺めていると、憔悴した眼差しが俺を射抜いた。あいつが見ている。俺にすべての恨みをぶつけるように、うなだれた体勢のまま、横目でじっと訴えかける。お門違いも甚だしい。一体、これ以上俺に何をしろと言うのだろう。
 こみ上げる怒りを上下の奥歯に込めると、削れた歯がじゃりじゃりと不快な音を立てた。歯を食いしばってる間に診察も終わったようで、ドクターは紙に何かを記入し、テーブルを片付けてどこかへ消えていった。
 鎮静剤を打ったのか、仰向けになったなまえは規則正しい寝息を繰り返しながら眠っている。あいつを起こさないようにそっと引き出しを開け、足元に隠した原稿用紙の束を仕舞っておいた。

 暑苦しい毎日は確かに終わった。しかし、それは新たな苦難が始まる合図でもあった。
 ようやく回復を遂げたにもかかわらず、あいつは夜な夜なすすり泣くようになった。雨ばかり降るこの土地の冬のように、じめじめとみすぼらしく泣くのだ。以前の底抜けに明るいあいつも死ぬほど鬱陶しかったが、今のあいつと一緒に過ごしていると、泥の中で息をしているようで気分が悪い。
 今夜も、消灯時間を迎えてからしばらくすると、あいつの湿った泣き声が聞こえてくる。頭から布団を被っても無駄だった。室内に生温かい体液を注ぎ込むように、泣き声はいともたやすく布団に染み込み、耳をびしょびしょに濡らしながら鼓膜にまとわりつく。気色悪い。他者の激情の中で溺れるなんて、起きながらにして見る悪夢だ。
 とうとう堪忍袋の緒が切れた俺は、怒りに任せて布団を剥いだ。俺の布団だけでなく、隣のベッドの布団も引きちぎるみたいに剥がしてやった。シーツの上には、紙束を抱えたなまえが芋虫みたいに丸まっている。
「てめえ、いい加減にしろ。毎晩毎晩うるせえんだよ」
「オルガ」
 涙声で俺の名を呼ぶと、あいつは体を丸めたままこちらを見上げた。やつれた目元は、暗がりでもはっきりと認識できるほど潤んでいる。まばたきをするたび、こぼれ落ちた大粒の涙が紙の表面を叩く。
「あの海、世界で一番小さな海って言われてるんだって」
 外の世界に背を向けたまま、なまえは言葉を詰まらせながら俺に語りかけてくる。あの海とは、この部屋の窓からほんの一部だけ見える内海のことだろう。昼間は澄んだ青色をみせる海も、今は夜空を受けて真っ黒に染まっている。はっきり言って、そんなこと俺にはどうでもよかった。こいつの布団を剥ぐに至った苛立ちは、依然として腹の底で煮えたぎっている。
「ああ?」
「この紙に書いてあったの。でも、だから何? って思っちゃった」
 ふふ、と息を漏らしながら笑うと、なまえは身軽になった半身を起こし、紙の束をぺらぺらめくった。紙の白地が窓から射し込むわずかな光を集め、あいつの冷え切った笑顔を薄く浮かび上がらせる。やっと泣き止んだと思ったのに、あいつは笑いながら、雨漏りした天井みたいに泣いていた。
 この前の手術の影響ですっかり情緒不安定になったなまえを、助けてやりたいとは思わなかった。こんなこと、このラボに来た奴らは皆多かれ少なかれ経験する通過儀礼だ。夢など捨て去ってしまえばいくらかマシになれるのに、あいつは文字の羅列に固執して苦しんでいる。身を焦がすその苦悶も、あと数回ほど調整すれば消えてなくなるだろう。消えゆくものに縋りつくあいつは滑稽で、腹立たしくて、哀れだった。
 哀れななまえはなおも言葉を紡ぐ。
「原稿用紙を用意してまで書いていたってことは、本にしたかったのかな。もう全然書けないや」
 鉄格子の外を覗く瞳にだけは光が宿らない。俺は少しだけ、あの照りつける日差しが懐かしくなった。ただの気の迷いだと思う。再び浴びれば、俺はまた目障りな太陽を殺してやりたいと呻くはずだ。
「なんか、泣くの疲れちゃった」
 なまえはぽつりと呟き、よろよろと腰を上げた。胸に抱えた原稿用紙をテーブルの上に放ると、あいつは俺の前に立ちはだかる。口では疲れたと言いつつも、あいつの目は今も涙が溢れ続けていた。
「ねえオルガ。私の目から涙器を取って」
 俺の手首を熱い手のひらが掴みかかってくる。あいつは俺の手をじっとりと濡れた目元に充てがった。湿った肌は熱を帯びていて気持ちが悪かった。
「なんで俺が」
「泣いたら体力が無駄になるでしょ。どうしてこんな器官をわざわざ残しておくんだろうって、ずっと思ってた。中途半端に人間らしくてばかみたい」
「そうだな」
 正直に相槌を打つと、あいつは「そうでしょ」と嬉しそうに目尻を下げた。
「オルガならできるよ。私より強いんだから。早くやってよ。泣き止んでほしいんでしょ」
 掴まれた手首にあいつのものとは思えない力が込められ、ぎしぎしと骨が軋んだ。俺を睨みつける眼はすっかり薬と洗脳に染まっている。訓練という名の殺し合いで何度も見る、生きた兵器の眼差し。俺と同じ、涙器がきちんと機能する目だ。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ」
 握り締められた手首を振り払い、なまえのちっぽけな体をベッドに叩きつける。仰向けに倒れ込んだ体を組み敷くと、あいつは細い息をひとつ吐いてやっと静かになった。確かに、俺の方がずっと強い。
 力がすっかり抜けた体を解放し、その上に毛羽立った布団を乱暴に被せる。「寝てろ」とささやくと、あいつは観念したように目を瞑り、「うん」と小さく頷いた。

 翌日の夕方、レクリエーションルームからなまえが担架で運ばれていくのを見た。頭を無様に撃ち抜かれたあいつは、お仲間たちの血痕で汚れた担架の上に力なく横たわり、涙の代わりに額から流れ出た血を滴らせている。まぶたの上下が裂けてしまいそうなくらい見開いた目は昨晩よりも曇っていた。
 あいつの瞳は何も語ろうとしない。俺もまた、そんな物言わぬ肉塊と化したあいつを無言で見送った。あんなに頭をぐちゃぐちゃに撃たれたら、脳みそを標本化するのも一苦労だろう。
 当然のことながら、あいつは二度と部屋に帰ってこなかった。
 あいつの布団は体温を失いながらも、今も誰かが寝ているみたいに膨らんでいる。夏になると時々鉄格子にくっついている、セミの抜け殻を思い出した。明日の朝になれば、俺は二人分の寝具を回収し、ランドリールームの清掃員にそれらを手渡す。セミの抜け殻を指先で押し潰すように、あいつ個人の生きた証はたやすく消去されていく。
 背もたれのてっぺんが欠けた椅子に座り、がたがたと嫌な音を立てながらテーブルの引き出しを開ける。半分に折り畳まれた原稿用紙が、作者が訓練から帰って来るのを健気に待っているみたいに、お行儀よく仕舞われていた。その紙の束を、あいつがそうしたようにテーブルの上に広げ、刻まれた文字の表面を視覚でなぞる。
 この状況があいつにバレたら烈火のごとく怒り出しそうだが、生憎その心配はない。一人分の呼吸が消えた狭い部屋の中で、俺は未完の物語を読み進めていった。やっぱり、読書は一人きりの方がずっと捗る。
 あいつが書いた原稿は、小さな港町が舞台の小説だった。アジュールの内海に行き交う船、あいつとよく似た面影を持つ主人公、仲間たちと過ごす慎ましくも豊かな時間。話が進むにつれて、表現も文法もたどたどしくなっていく。恐らく、このあたりが手術後に朦朧としながら書いた文章だろう。枠線から外れた文字の羅列はまだ記憶に新しい。
 低空飛行を始めた物語に目を通しながら、ページの破られた本を読んでいる時のような焦ったさを覚える。話が結構面白かったからだろうか。あいつがこの研究施設に連れてこられた子どもでなければ、完成した作品を手に取る機会があったかもしれない。
 崩れかけた文字を追ううちに、とうとう原稿用紙は残り一枚になった。力任せに握り締めたのか、紙の左下がくしゃくしゃに縮まっている。
 1ページ前までは話の体裁をぎりぎり保っていたけれど、このページの最後の一文は全く脈絡がなかった。序盤の執筆者と同一人物とは思えないほどの汚い字で「オルガとふたりきりになりたいから本の中に住みたい」と書き殴ってある。
 ばかげたことを書く余裕があるのなら続きを書けと声を荒げてやりたいが、怒鳴ったところで返答する者はもういない。あいつは死んでなお腹立たしい奴だった。体を失い、脳を破壊され、目で訴えかける術を無くしても、あいつはこの数十枚の紙切れの中で輝き、薄く息をする。この物語に触れるたび、死んだなまえは俺の姿を鬱陶しく照らし、泥の中に引きずり込み、涙器を持つ俺を生温かい手で抱きしめるのだ。そう思うと吐き気がした。
 俺は紙の端に寄ったしわを指先で慎重に伸ばし、鉄格子の外に視線をやった。昼過ぎに到着した訓練用の機体が、深まりゆく夜の森に佇んでいる。ちっぽけな海はもう見えなかった。

2023.02.12
続きます

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