宇宙には何もなかった
※現代転生
「いいなー、プラネタリウム」
そう呟きながら、藍色を基調としたポスターを指差すと、オルガの目が突然ふわふわと泳いだ。
エレベーターホールには私とオルガしかいないのに、彼の碧眼には私に見えないなにかが映っているらしく、そのなにかに気を取られ、魂が抜け落ちた表情を浮かべている。たとえば、私のすぐ後ろをヌーの大群が横切っていっただとか、この商業施設に隕石が落ちてきただとか――オルガは、そういった現実感のない事件に偶然出くわした買い物客Aと化してしまった。おそるおそる瞳の中を覗き込んでみても、その表面にはうろたえる私の姿と、エレベーターホールに貼られたプラネタリムのポスターしか映っていない。
「どうしたの。スペースキャットみたいな顔してる」
そっと呼びかけてみると、彼は正気を取り戻したようにはっと目を見開き、いつもどおりの鋭い眼差しで私を睨んだ。
「ああ? スペースキャット? なんだそれ」
彼の問いかけには答えずに「何かあったの?」と質問を重ねる。私のぎこちない態度に、オルガはますます怪訝そうな顔つきになってしまった。たった数秒前に視線を泳がせていたことを、彼はまったく自覚していないのかもしれない。
「別に何もねえよ。それより、ここに行きたいんだろ」
オルガはそう言うと、エレベーターのボタンの上に貼られた件のポスターを顎で指し示した。きらきらとメタリックな輝きを放つそのポスターは、つい先月、この建物の最上階にオープンしたというプラネタリウムの広告だった。空に浮かぶ星座なんてオリオン座くらいしか認識していないし、明け方と夕方に現れる金星はともかく、地上からだと火星と木星の違いもよく分からない。けれども、宇宙や天体にそれほど関心がないにもかかわらず、ポスターを一目見た瞬間、不思議と興味を持ってしまった。
「行きたいなあ。プラネタリウムなんて、子供の頃以来行ってない気がする」
「へえ」
適当な返事を挟みながら、オルガはエレベーターの上りボタンを押す。今私たちがいる場所は5階で、駅へ向かうフロアは1階だ。彼は迷うという言葉を知らない。何事もくよくよせずにすっぱりと潔く決めて、すぐに行動する。その決断の早さについていけない私は、きちんと事前に相談してほしいと彼を咎めることもある。だからこそ、さっきオルガが見せた戸惑いは私にとって新鮮な反応だった。きっと明日も明後日も、目を泳がせるオルガのあの姿は、まぶたの裏に生々しく焼き付いたまま離れてくれないと思う。
軽快な音とともに無人のエレベーターが降りてくる。オルガは先にかご内へ乗り込み、私が中に入るまで開くボタンを押し続けてくれた。そんな彼の傍らに立ち、端麗な顔立ちを見つめながら「ありがとう」と礼を述べると、彼は黙ってこちらを一瞥し、最上階行きのボタンを押した。
「思ったより広いね」
「ああ。賑わってんな」
オープンしたばかりのプラネタリウムのフロアは、昔訪れた科学館のような硬質な雰囲気が取り払われ、どちらかというと小洒落たミニシアターに似た佇まいをしていた。併設されたカフェには星をモチーフにしたジュースやカクテル、星雲や銀河を模したスイーツがメニューに並び、チケットカウンターの隣には満月の形をしたランプなどの雑貨が売られている。
ちょうど15分後に上映があるらしい。まだ席が残っていたので、カウンターで大人2枚分のチケットを購入した。2枚のうちの1枚をオルガに渡し渡される瞬間が好きだ。目的地、料金、印字された日時――この小さな紙に詰まった情報はすべてオルガのチケットと同一であり、二人がともに過ごした時間を現す形となる。もっとも、彼は使用済みのチケットをいちいち取っておくタイプではないため、私ひとりが勝手に保管して勝手に喜んでいるだけなのだけれど。
思い出の形をうっとりと眺めては微笑む私に、オルガがまた訝しげな視線を送る。入場口でチケットの確認を終えると、私たちはまだ明るいプラネタリウムの中を半周し、指定した席に着いた。
「うわー、この感じ久しぶり!」
後ろへ倒した座席に寝そべりながら広い天井を見上げると、まだ投影時間ではないのに、プラネタリウムに足を運んだ実感がむくむくと湧き上がった。この座席のシートも身体を包み込むような柔らかさで快適だし、場内のどこかからアロマのような香りも漂っている。
「どうしようオルガ、楽しみすぎる……」
プラネタリウムへの期待値を急上昇させる私に、オルガは「はしゃぎすぎだろ」と呆れた声を投げかけた。
そうこうしている間に開演を告げるアナウンスが響き、ドーム状の白い天井がだんだんと暗闇に包まれていく。ちらりと横を向くと、オルガの顔も、その先に並ぶ人々の姿も、あたり一面が真っ暗で何も見えなかった。上も下も存在しない真空空間に一人で放り出されたような心細さが、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。
私の不安をかき消すように、黒く塗り潰された天井はあっという間に満点の星空へ変貌する。本物よりも力強く光る星々を受けて、場内のあちこちで淡い歓声が上がった。きらきらと輝きながらゆっくりと回る星たちは、人の手で生み出された作り物と分かっていてもやはり美しく、私も思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。
円をなぞる光の粒を目で追っていると、ひじ掛けに置いた手に温かいものが触れた。隣に座るオルガの手が、私の手の上に重なったのだ。彼は私の手を包み込むように、上から指を絡めて優しく握りしめる。オルガの方から手を握ってくるなんて珍しい。なんだか嬉しくて、私も身動きが取れる親指でオルガの指を撫でる。
こうしていると、大きな船のなかで穏やかな宙を揺蕩っているようで、すごく安心する。美しい星空に寝心地の良いシート、手の甲には大好きな人のお日様みたいな温もり。星くずの間を気ままに泳ぎながら、徐々に意識がとろけていく。どこか懐かしい感覚に身をゆだね、私は浅いまどろみの海を漂った。
「……おい、おい起きろ」
霞みがかった夢を裂くように、遠くの方から私を呼ぶ声が聞こえる。開きかけたまぶたをぎゅっと閉じると、今度は肩を激しく揺さぶられた。こんな乱暴な起こし方をする人は一人しか知らない。
「もう上映終わっちまったぞ。早く起きろ」
がくがくと揺れる白い天井の下でオルガが私を覗き込んでいる。朝が来たのか、と寝起きの頭でぼんやり思う。眼前に迫り来るような星空も、光を吸い込んでしまいそうな常闇も、跡形もなく消えてしまっていた。
「オルガ」
掠れた声で名を呼ぶと、オルガは安心したように口角をわずかに上げた。
「やっと起きたな。よく眠れたか?」
「うん。おはよう」
「おはようじゃねえよ、まったく」
座席を起こして周囲を見渡すと、席に座っているのは私一人だけで、オルガ以外の人たちはみな出入口へ向かっている。どうやら、冒頭から上映終了までの間、見事に爆睡してしまったらしい。そういえば、先週は残業続きで睡眠時間があまり取れず、毎日毎日あくびばかりしていたのだった。
「ほら、出るぞ」
まだ寝ぼけている私の手を引っ張るように掴み、オルガはすたすたと歩いて退場客の列に混ざる。半ば引きずられながら動く足は、まだ宙にぷかぷかと浮いているみたいでいまいち現実感がない。繋がれた手が、プラネタリウムの中で触れたときよりもぴったりと密着している。私の身体は、現実の感触をひとつひとつ確かめながら、完全に目が覚める瞬間を待っていた。
「あんまり覚えていないけど、なんか宇宙で泳いだ気分。楽しかった」
曖昧な感想を漏らすと、オルガは眉をぴくりと上げ、シリアスな内容の本を読みふけるときとよく似た横顔をみせる。その神妙な面持ちに私は内心動揺し、しつこくまとわりつく眠気はすっと引いてしまった。てっきり「バーカ、寝てたくせに」とどつかれるだろうと思っていたのに。
プラネタリウムを出ると、ロビーの照明が暗がりに慣れきった瞳をちくちくと刺した。彼は眩しそうに目を細め、重い口を開く。
「宇宙なんて別に、楽しいもんじゃねえよ」
その声はオルガにしては小さな声量で、周囲のざわめきにかき消されてしまいそうだった。けれども、言葉の端々にはしっかり憂き目のようなものが混じっている。オルガのことをよく知っているはずなのに、初めて会ったばかりの人と話しているような、奇妙な違和感が火照った肌を撫でる。脳みそがまだ寝ぼけているような気がして、私はまばたきを数回したあと、わざと明るい声を作った。
「まるで実際に行ってきたみたいに言うね。小説の話?」
「まあ、そんなとこだな」
「もしかして退屈だった?」
彼は一瞬沈黙し、ゆっくりと首を振った。
「いや、お前の寝顔を見るのはかなり笑えたな。暗くても分かる。すげーアホ面してただろ」
「意地悪。ちゃんとプラネタリウムを見なよ」
「その言葉、そのままそっくり返してやるよ」
オルガから和やかな笑い声が漏れ、私もつられてくすくす笑いだす。頬をゆるませながらも、ようやく笑ったオルガを見てほっと胸を撫で下ろす。小説を読んで涙を流すとき以外、彼の辛そうな表情なんて見たくないし、そんな思いをさせたくないから。たとえ、彼曰く、楽しくない宇宙空間に投げ出されたとしても。
ビルの外に出ると、街中に飾り付けられたきらびやかなイルミネーションが、さみしげな薄暮の空を彩るように輝いていた。駅前の広場は行き交う人々の活気で満ち溢れている。宇宙では、空気がないせいで音が聞こえないらしい。この雑踏の音も、オルガの気だるそうな声も、読書中のオルガが奏でる紙の音も、遥か上空のそのまた向こうで耳を傾けたところで、これっぽっちも聞こえてこないのかと思うと、そこでようやく背筋が寒くなった。
「宇宙ってやっぱり、怖いところなのかな」
無意識に、繋いだ手に力が入る。星が無数に散らばる宇宙は、ただきれいなだけの生易しい場所じゃない。
私の不安を察知したのか、オルガは上空に広がるなにかから私を庇うように、握った手に力を込めた。そのたくましい手のひらにすっぽり包まれると、真空の海をさまよう恐怖心がじわじわと溶けながら地上にすとんと落ちてくる。溶けて液体になった恐怖心は、オルガが発する熱によって一滴残らず蒸発してしまうのだった。
「オルガが手を繋いでくれたら平気な気がする」
「そんな小っ恥ずかしいこと、よく真顔で言えるな」
オルガは眉間にしわを刻みながら、深く長いため息をつく。それでも、彼はこの手を振り払ったりしない。口下手なオルガにとって、これが私への愛情の証だと思うのだ。だから私も、多少の憎まれ口は気にしないことにしている。にこにこと機嫌よく微笑みながら横顔を見上げると、オルガは仏頂面を保ちつつも耳の先を朱に染め、木々に巻きついた電飾を眺めていた。
金色に光っていたライトがピンク色に変化する。その華やかな光を目にした途端、私はプラネタリウムのロビーで目にしたあるものを思い出し、「あっ」と声を立てた。
「ねえ、売店で見かけたお菓子のポップに書いてあったんだけど。宇宙ってラズベリーみたいな匂いがするんだって。本当かなあ?」
オルガはイルミネーションの明かりに霞んでしまった薄い星空へ視線をやったあと、ふっと目尻を下げながら私を見つめ「さあな」とぶっきらぼうに答えた。
2023.01.29
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