愛されると笑っちゃう悪い癖
※事後
すぐ近くでドシンという派手な衝撃音がして、私の安らかな睡眠は妨げられた。こちとら休暇の真っ最中だというのに、随分と不吉な目覚めだ。
重く鈍った身体で渋々寝返りを打てば、隣で寝ていたはずのクロトが忽然と消えた代わりに、朝日に照らされたまばゆい膝小僧が床から伸びている。一応、一瞬頭によぎった最悪のケースは免れたらしい。膝小僧の持ち主は、たった今最悪な事態に陥っているけれど。
「いってえ……」
膝小僧――クロトはいまいましそうに呟く。さっきの衝撃音はクロトがベッドから落ちた音だったらしい。
彼は眠りに落ちた夜半から、恐ろしく寝相が悪かった。枕を吹っ飛ばされ、布団を奪われ、しまいには肘やら膝を使って壁の隅に追いやられた。けれども、まさかベッドから転がり落ちるとは思わなかった。
気だるい身体を起こし、シングルベッドから床を覗き込むと、クロトは瞳を濁らせ、卸売市場のマグロのように横たわっていた。わざわざ口に出さなくても、最悪の目覚めだと彼の顔にでかでかと書いてある。
「うわ、本当に落ちてる。大丈夫?」
身を乗り出した私に顔を向けた彼は、不思議そうに目を瞬かせた。髪を整えていないせいなのか、それとも黙っているせいなのか、床の上で大の字になったクロトの姿はいつも以上にあどけなく見える。
「……無視?」
もう一度呼びかけると、彼はようやく口を開き、「なんで君、裸なの」と怪訝そうに言い放った。眉根に浅いシワを寄せながらも、確かな動揺が声に滲み出ている。この人は今更何を言っているのだろうかと、盛大にため息をつきたくなった。転げ落ちた際に、頭をしたたかに打ち付けたのかもしれない。
「クロトも裸だけど?」
「あ? ほんとだ……」
クロトは半身を起こし、自分自身の姿と、足元でぐちゃぐちゃに丸まっている下着と寝巻をその目で確認したようだった。昨晩まで掛け布団の上にあったはずの二人分の衣類は、クロトの寝相の悪さが災いし、床めがけて滑り落ちたらしい。
しばらくの間、クロトは衣類と私を交互に見つめた。見つめるうちに何か気が付くことがあったのか、青い目を見開き、はっと息を呑む。
「思い出した?」
「……思い出したくないことも一緒にね」
彼は頭をがしがしと掻きながら、苦虫を噛み潰したような顔つきでそう吐き捨てた。さわやかな日差しが射し込む部屋に相応しくないその反応も、昨夜の出来事を思えば無理もない。
一方、クロトを苛む不快感とは対照的に、私はうららかな気持ちでいっぱいだった。
「良かったあ。全部忘れてたらどうしてくれようかと思っちゃった」
手を差し伸べながら穏やかに笑ってみせると、彼は憮然とした表情を浮かべて私の手を掴んだ。よろよろと立ち上がったクロトを、まだ温かいベッドに引き寄せる。狭い繭の中に招き入れるように布団で包み込んでやると、不機嫌そうに曲がった口元が少しだけゆるんだ。
横になったクロトは「昨日の夜は」と気まずそうに言いかけ、口をもごもごと小さく動かしたあと、私から目を逸らして黙り込んでしまった。不明瞭な口ぶりは寝ぼけているようにも見えたし、あまり触れたくない話題を自ら勧んで話すべきか迷っているようにも見えた。多分、彼なりにへこんでいるのだろう。私とクロトの初めての夜は、スムーズとは言い難い出来だったから。
まずはじめに、勢い余ったクロトがコンドームをパッケージごと破いた。別のゴムを用意し、ようやく挿入できたと思ったら、今度は三擦り半で果ててしまったので、クロトはわなわなと震えながら「僕は早漏じゃないから」と必死に喚き散らす。分かったから、と彼を宥めて再開したものの、次は私の足が豪快に攣り、つま先を引っ張ってもらったりふくらはぎを揉んでもらったりと大騒ぎになった。
あまりにも散々すぎて「なんだか疲れたし、今日はもう寝よう」との合意に至り、私とクロトは日付が変わる前にくたびれた身体をシーツに沈めた。二人ともこれが初体験だったものだから、不慣れな手つきと緊張のあまり、ロマンチックのかけらも見当たらない夜になってしまったのだ。
それでも私は嬉しかった。レイダーに乗っているときは血気盛んで、趣味に勤しむときは黙々とクールに打ち込むクロトが、私だけには普段と異なる一面を見せてくれた。私を受け入れてくれたことも、私と一つになりたくて一生懸命に頑張ってくれたことも、文句を言いながら私を介抱してくれたことも、昨夜目の当たりにしたクロトのすべてが愛おしかった。どんなに不格好な思い出でも、この夜の出来事だけは未来永劫忘れたくない。
「なに笑ってるんだよ。僕が落ち込んでいるのがそんなにおかしい?」
まだやわらかい記憶を丹念に撫でていると、現実のクロトが厳しい目つきで私を睨む。笑っているつもりはなかったけれど、無意識に笑みがこぼれ落ちてしまったらしい。
「おかしくないよ。ただ、良い夜だったなあって」
「はあー? なにそれ、嫌味?」
「まさか。そのまんまの意味だって」
「全然意味分かんない。あーあ、昨日に戻ってやり直したいよ」
クロトは頭の後ろで手を組み、憂鬱そうにため息をついた。枕の上に投げ出された腕に擦り寄り、頬をぴたりとくっつけてみると、彼の上半身はびくっと跳ねる。その年相応な反応が可愛らしくて、彼に隠れてこっそり笑う。
「また挑戦すればいいじゃん。私も、クロトも」
「まあ、それはそうだけどねえ」
口ではそう言ってはいるものの、クロトの横顔はむすっと膨れたままで釈然としない。血色の良い腕を指先で撫でてみる。彼はもう一度深い息を吐き、のどかな空気を吸い込んだ。
「あーもう! やっぱムカつくんだよ、お前って!」
クロトはそう叫びながら体勢をぐるりと変え、私の上半身を包み込むようにきつく抱きしめた。一糸まとわぬ肌から直接感じる温もりは、私たちをくるむ布団よりも遥かに温かい。それに、昨夜はアクシデントに見舞われたせいであまり意識していなかったけれど、見た目の印象よりずっと筋肉がついている。
「……体温高いね。眠たくなっちゃう」
ときめきを眠気で誤魔化しながら肩に手を回せば、彼の筋肉の形はより一層はっきりと伝わる。肩に触れた指先が淡く痺れた。
「別によくない? お休みの日なんだから二度寝しちゃおうよ」
私の耳元でこそこそと囁き、クロトは大きなあくびを漏らした。私はクロトの寝相の悪さのせいで二度寝どころか既に五度寝くらいしている。けれど、睡眠時間が削られたおかげで再びまぶたが重たくなってくる。
「ん、そうだね……」
あくびをかみ殺した途端に視界がぼやけ始め、朱に染まった髪先が薄暗くなっていく。目をつむっていても、ここは温かくて気持ちがいい。安住の地などどこにもありはしないのに、クロトに抱きしめられると心の底から安心してしまう。たった今気が付いた。私はクロトの胸の中でしか生きたくない。
「その余裕面、いつかひん剥いてやるからね」
クロトは眠そうな声色で恐ろしいことを呟いた。彼の瞳には映っていないだろうけれど、俯いた私の頬は自分ではっきりと分かるほど熱く火照っている。次に目が覚めたときにはちゃんと見せてあげようと思う。
2022.12.10
タイトル「失青」様より
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