小説
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砂のゴンドラは海に沈む


 クロト・ブエル少尉の部屋に足を運ぶのは、知り合って以来初めてのことだった。
 別に、部屋に来てほしいと言われたわけではない。頼まれてもいないのに、私が彼を誘いに行くのだ。
「クロト、ちょっといいー?」
 鍵のかかった扉の前で彼の名前を呼ぶと、何もかもを突き放すような重い沈黙が流れた。クロトは間違いなく部屋の中にいる。沈黙は肯定とみなす――どこかで誰かがそんなことを言っていたような気がするけれど、無言をつらぬくクロトが私を肯定しているようには到底思えなかった。
 やはり行動に移すべきではなかったのだろうか。踵を返そうとしたそのとき、室内から冷めた声が返ってくる。
「今忙しいから」
「……レイダーの部品、一個抜いちゃうよ」
 舌打ちと比較的軽めの悪態が扉の向こうから聞こえてきた。口では文句を言いながらも、鍵はすんなり開錠される。
 彼はベッドに腰掛け、クラッカー状のレーションを不味そうに咀嚼しているところだった。どこからどう見ても忙しそうには見えない。
「ねえ、ドライブに行こうよ。外でゲームしたくない?」といった具合に誘うと、クロトはすっきりとした目元をさらに細めて、レーションをごくんと飲み下す。
「別にしたくないけど?」
 その髪の色とよく似た鮮やかな即答だった。正直断られるだろうとは思っていた。けれど、だからといって、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。一度は諦めかけたのだ。俯きかけた顔を無理やり上げ、息を深く吸い込む。換気不足の湿った空気が喉に流れ込んできた。
「お願い! 友達を助手席に乗せてドライブしてみたいの。せっかく運転免許を取ったのに、まだ誰とも出掛けたことがないなんて、あんまりだと思わない?」
 手を擦り合わせて懇願してみせると、クロトは冷ややかな眼差しを私に向けた。格納庫で作業の遅延を告げたときと同じ目をしている。
「僕たち、友達だったっけ。整備兵とパイロットの間柄だよね?」
 手厳しい指摘にまた怯みそうになる。友達でしょ、とは言えなかった。クロトの異議は概ね正しいからだ。
「たしかに友達ではないけど、他に話せる人がいないよ」
 クロト以外に歳が近い人といえば、サブナック少尉とアンドラス少尉がいるが、二人とも一言も言葉を交わしたことがない。任務ならともかく、まったく関わりのない二人に声をかけるなんて、背中に銃を突きつけられ「やれ」と脅されてもできないだろう。
 その点、クロトは友達と胸を張って呼べるほど親密な仲ではないけれど、一応よく会話はするし、スケジュールの都合上ときどき一緒に食事をとったりもする。私にとって、この艦で一番関わりがある同年代の人といえばクロトなのだ。
「まあいいや。もう面倒くさいから着いて行ってあげるよ。感謝してよね」
 まとわりつく勢いで頼み込む私をいい加減うっとうしく思ったのか、クロトの方が先に折れた。
「……本当?」
「しつこいな、行くって言ってんだろ。歯磨きしてくるから、ちょっと待ってろって」
「ありがとう、クロト」
 彼は短くため息をつくと、クラッカーの最後の一欠片を口に放り込み、空袋をゴミ箱に放り投げてベッドから立ち上がった。

 軍用と化したモノレールの下を、借用した車で走り抜ける。海岸を沿うようにして作られた道路は、対向車線に港へ向かう軍用車両が一台か二台通る程度で、景観の美しさと反して不気味なほど空いていた。コバルトブルーの海から吹く風だけが、窓ガラスで隔てた外の世界でびょうびょうと鳴っている。
 信号待ちの最中に、私は何気なく装いながら彼に声をかけた。
「窓、開けるね」
 窓ガラスを叩く風の音が絶え間なく聞こえる。それだけだ。人前で独り言を言ってしまったかのような気恥ずかしさが、じわじわと胸にこみ上げてきた。
 助手席に座るクロトをちらりと見やる。彼はシートを倒し、楽な体勢で持参したゲームに没頭していた。
 車を借りる手続きをした際、艦内の面々がみな怪訝そうな表情を浮かべていたことを、ふと思い出す。あれは、歳の近い若者が二人きりで出かけるという状況をからかうような反応ではなかった。いつもは自室にこもりきりのクロト・ブエルが、上官でもない女と外出するらしい。一体なぜ? ――多分、そんな戸惑いだと思う。
 スイッチを押して窓を開け放つと、潮の匂いを多量に含んだ冷たい風が、車内にどっと押し寄せてくる。額とうなじがやけに冷たく感じて、そこで初めて自分が汗をかいていることに気がついた。私が望んで行動したはずなのに、背中も胸元も汗をかき始めている。親しい友達同士でドライブをするのなら、きっとこんなふうに緊張したりしない。では、この関係をなんと呼べば良いのだろう。
 突然隣からシートを起こす音が聞こえ、運転席がその衝撃で小さく揺れた。私の肩は大げさに跳ねる。
「どうしたの」
「風を浴びちゃいけないのかよ。この車、蒸し暑いったらないね」
 インナーの襟元に手をかけてぱたぱたと風を送りながら、クロトは窓の外へ顔を出した。燃え盛る火のような色をした髪が、海風に吹かれて自由自在に踊っている。
「あ、そう……」
 拍子抜けした私はしまりの悪い生返事を漏らし、運転席側の窓の前でうなだれた。緊張もなにも、元々車の中が蒸し暑かったのだ。
「信号、青になってるけど。ずっとここで止まってんの?」
 下がった頭の位置を正面に戻すと、クロトの指摘通り信号が青に変わっていた。
「うわ、ごめんごめん」
 慌てて車を発進させながら、道路が閑散としていて良かった、と安堵した。交通量がそれなりにある道路なら、今よりひどい有様だったと思う。
「なーんか、やかましく誘ってきた割には楽しそうじゃないよねえ。辛気臭い顔しちゃってさ」
 クロトの指摘は信号だけに留まらず、あまり触れられたくない箇所を抉り出そうとする。うっ、と呻きそうになるのを必死に堪え、私は「いやー」とわざとらしい声を上げた。
「なんていうかその、久々に運転するから緊張しちゃって」
「こわーっ。事故らないでよ」
 大丈夫大丈夫、と笑いながらもハンドルは手汗で濡れている。滑ってガードレールに突っ込んだら終わりだ、何もかも。
「ていうかさ、目的地ってあんの」
「無いよ。飽きたら帰る」
「ふーん。あそこに行くのかと思ってたよ」
 クロトの視線は、進行方向の斜め前にそびえ立つ観覧車へ向けられていた。たしかその場所は、埋立地に作られた小さな遊園地で、経営難のため数年前に閉園したと聞く。
「せっかくだし行ってみようかな。廃墟になってるだろうけど」
「好きにすればー? 僕は行かないよ」
「もう遅いよ。道連れなんだから」
 自分自身が発した言葉なのに、その仰々しい言い方に驚いてしまう。彼は遊園地にも着いてきてくれるだろうか。もし着いてきてくれなかったら、私はクロトをどうするのだろう。
 クロトは嫌そうな声を漏らすと、再びシートを倒してゲーム機をいじり始めた。

 雲ひとつない晴天にもかかわらず、遊園地の跡地は一帯がお化け屋敷のようだった。チケット売り場やレストランも、メリーゴーランドなどのアトラクションも、カラフルでご機嫌なペイントが施されてはいるものの、賑やかな塗装の下で誰かを待ちながら、じっと息をひそめているように思えた。
 記憶の中の遊園地は、もっと陽気な音楽が流れていて、親子連れやカップル、友達同士で遊びにきた入場者たちがひしめき合っていて、ジェットコースターの駆け抜ける音が耳の中で心地よく弾ける場所だった。ここは廃墟だと頭では理解しているけれど、遊園地のイメージとかけ離れすぎて少々困惑する。
 困惑しているのは私だけで、横にいるクロトは特に辺りを見回すこともなく、ただ道の先にあるものだけに視線を預けて淡々と歩いている。彼は「行かない」と断っておきながら、さびれた駐車場に車を停めた途端、自分から車のドアを開けて歩き出すものだから、ひどく面食らってしまった。
 そういえば、友達だけで遊園地に来たことは今までの人生で一度もなかった。戦争が終わらない限り、これからもその機会は訪れないと思う。友達と呼べる人はほとんど死んでしまったし、私とクロトは友達ではない。
「遊園地って来たことある?」
 何気なく会話を投げかけると、クロトは興味のなさそうな声音で答えた。
「さあ。昔のことはあんまり覚えてないんだよね」
「そっか、ごめん」
「謝られても」
 ほら、やっぱり友達じゃない。私たちは最初から最後までパイロットとメカニックの乾いた関係なのだ。私はクロトのどこかに触れてみたい。けれども、手を伸ばしたところで、彼は石英でできた砂のように指の間からさらさらとこぼれ落ちていく。手のひらの上に残ったわずかな砂も、煙を含んだ熱風を浴びて、どこか遠くに飛んでいってしまう気がする。
 友達とは蜃気楼のように実体のないものだったのだろうか。私は予定より長引く軍隊生活のなかで、友達の作り方を忘れてしまっているのかもしれない。

 遊園地の突き当たりまで歩みを進めると、あの観覧車が目の前に現れた。波打つ海と押し黙る街に面したこの観覧車も、御多分に洩れず静止したままだ。一緒に乗りたい人がすぐ隣にいるのに、遊園地ごと廃墟になっているだなんて、まったくツイてない。
 風に揺れるゴンドラを恨めしい気持ちで見上げると、クロトも私と同じように顔を上に向ける。そして、珍しく彼の方から口を開いた。
「観覧車の頂上でキスをしたら結ばれるんだってさ」
 関心があるのか、それともないのか、推察を拒む口調でクロトは呟く。彼らしからぬ発言であることはたしかだ。思わずクロトの横顔に視線を落とすと、彼はゴンドラを見上げたまま無愛想に話を続けた。
「でも別れるってジンクスもある。ばっかみてえな話だよね」
「どこで聞いたの、それ」
「オルガが待機室に忘れていった本に書いてあった。退屈しのぎにめくってみたら、そんな文字を見かけてさあ」
 呆然と立ち尽くす私を置き去りにしたクロトは、ゴンドラに向かって一人で歩き出す。立ち入りを禁じるはずの鎖は地面にだらしなく垂れ下がり、無用の長物と化していた。
 たやすく鎖を跨ぎ、薄汚れた白いゴンドラの前でクロトは後ろを振り返る。
「ねえ。地上でキスしたら、どうなると思う?」
「どうなる、って」
 自分で訊いておきながら、クロトは私の返事など待たずにゴンドラの扉に手をかける。さすがに施錠してあるだろうと思いきや、扉は軋んだ音を立てながら簡単に開いてしまった。
「うわ、椅子が硬い」
 我が物顔でゴンドラの中に乗り込むと、彼は椅子に腰掛け、足を組んでくつろぎ始めた。仕方なく私も扉に近寄り、おそるおそる足をかける。内部からゴンドラの向こう側を覗き込んでみると、薄く曇ったガラス越しに、出発地である港と数機のモビルスーツが、湾曲した海岸線のそのまた遠くでミニチュアみたいに置かれていた。
 突っ立ったままでいるわけにもいかないので、硬い椅子にこわごわと座ると、ゲーム機を操作するクロトの膝と私の膝がほんの一瞬だけ触れ合った。とっさに「ごめん」と謝ると「別に」と簡素な返事が返ってくる。居た堪れなくなった私は、気を抜けばまた接触してしまいそうな膝から目を逸らした。
 私たちは友達同士ではないのに、こんなに近い距離で時を過ごすのはおかしい気がした。艦内で一緒に居るときだって、さっきまで乗っていた車内だって、私とクロトの身体が触れ合うなんてこと、ありえないはずなのに。
 回らない観覧車に身体を押し込めて、開けっ放しの扉から日に日に朽ちていく遊園地を眺める。ゴンドラの中は日陰だ。風通しもよく涼しい環境のはずなのに、私の顔は燦々と降り注ぐ日差しを浴びたみたいに火照っている。静かな遊園地、暑さばかりが募る日陰。曖昧な関係のまま車でここまで来てしまったクロトと私。へんてこな現状はまるで白昼夢のようだった。
 アトラクションの柵に掛かった看板が、風に吹かれて、ばたん、ぎい、と錆びついた音を響かせている。遊園地の奏でる音は、風だけでは心もとない。
 窓枠に頬杖をつきながら看板の音に耳を傾けていると、ゴンドラ内からもぎい、と歪んだ音が聞こえた。頬杖を解き、ゆるゆると視線を動かす。二人の膝は再び触れ合った。
 頭を上に向けると、医務室で嗅ぐような消毒液の匂いが鼻をかすめた。狭い視界に飛び込んできたのは、朱に染まった髪と晴れた日の海みたいな色の瞳、それから気の強さを表すように上がった口角だった。彼は止まることなくどんどん距離を縮める。
 身じろぎひとつできず硬直した私に、クロトは平然と唇を落とした。消毒液の匂いが消えた代わりに、かわいらしいリップ音がゴンドラに響く。私の唇に覆いかぶさるそれは、普段の彼が発する罵詈雑言からは想像もできないほど柔らかく、また、心地よい温度を持っていた。
 どうして、という問いは、胸から喉に迫り来る息苦しさに塗りつぶされていく。
「っは、はあ……」
 唇が離れた隙を狙い、呼吸器が息をひゅうひゅうと吸い込む。私はキスをしている間、ずっと息を止めていたらしい。
 荒い呼吸を繰り返す私を、クロトは呆れたような目で見た。呆れながらも、瞳の奥は好奇にきらめいている。
「下手くそ。鼻で息しろよ」
「鼻? いや、そうじゃなくて、いきなり何」
「ここでキスしたらどうなるのかなーって、気になっただけ」
「だからって……!」
 抗議はクロトの唇に塞がれ、あっという間に喉の奥へ引っ込んでしまう。クロトは私の足の間に片膝をつき、初めて触れる温かな両手で優しく頬を包み込んだ。彼の親指の付け根は腫れ上がり、その箇所だけは温かいを通り越して熱かった。少し前に仕置きを受けた際、苦しみから逃れるために堅牢な壁や扉を力いっぱい叩いたのだろう。
 痛む手で頬を包まれ、角度を変えながら唇を啄ばまれると、欲しくて欲しくて仕方がないものをようやく手に入れたような錯覚に陥ってしまう。これはまやかしだ。クロトはほんの出来心でキスをしているだけで、私と彼は友達ですらないのだから。
「なんか、癖になりそう」
 吐息混じりの声を漏らしながら、クロトはいたずらっぽく笑った。柔らかさを確かめるように下唇を指でなぞり、また自分の唇を近づけようとする。私は沖へ流されるちっぽけな小舟だ。どこに向かっているのか分からないまま、嵐の中でただ波に飲まれることしかできない。
 けれども、私だって大人しく流され続けるつもりはなかった。閉じかけたまぶたをキッと見開く。三度目のキスを止めるべく、私はクロトの肩を掴み、やっとの思いで引き剥がした。反対側の椅子に腰を下ろしたクロトは、面白くなさそうな表情を浮かべながら唇を尖らせる。
「ふざけないで。クロトは友達でもなければ好きでもない相手とキスするわけ?」
 彼は悪びれる様子もなく、「殺されるくらいならするね」とあっさり答えた。
「誰も殺さないと思うけど」
「お前が言ったんだろ、道連れだって」
「そんな物騒な意味で言ったわけじゃない。とにかく、好きでもない相手にキスしないでよ」
「うるさいなー、じゃあ好きになればいいんだろ」
 クロトの投げやりな物言いは私の頭蓋を突き抜け、熱で柔らかくなった脳みそに容赦なく突き刺さる。同時に、心のどこかに繋がれていた管がぶちぶちと引きちぎれていく感覚があった。
 よろよろと立ち上がり、乱暴な音を立てながらクロトの背後にある窓ガラスに手を付く。コックピットを覗き込んで彼に声をかけるときと構図は似ているけれど、整備の作業時よりも距離はずっと近い。それに、クロトが私の目を水底でも覗き込むみたいにじっと見つめている。
「私はクロトと友達になりたかった」
 友達になりたい理由は極めて邪だ。友達の段を飛び越えて、もっと先にある関係を掴み取りたい。恋人になるには、まずその人と友達になることから始める必要があると、入隊する前に読んだティーン向け雑誌に書いてあった。
「キスするなら、私のこと絶対に好きになってよ」
 窓に震える片手をついたまま、黙りこくったクロトの唇に自分の唇を押し当てる。口付けというものは、きっとどれも淡い花の色のように優しくて、春先に吹く風みたいに温もりがあるのだろうと思っていた。それなのに、三度目のキスは壊れた機械のようにぎこちなくて、ゴンドラの椅子よりもずっと硬くて、海に潜ったわけではないのに塩辛くてほろ苦い。
「そうじゃなきゃ、クロトのこと許さないから。死んでも許さないからね」
 わななく唇を離すと、次から次に溢れ出る涙がクロトの頬に滴り落ち、二つ三つと分かれながら流れていく。
 クロトは私を煩わしそうに見つめたまま、何も言わなかった。血が騒ぐときは饒舌なくせに、黙ってないでなんとか言えよ、といった自分勝手な憤りが、腑の中で煮えくり返る。二人とも、落ちた涙を拭いもしない。もはや両者でコミュニケーションを取ることは不可能に思えた。生体CPUとして生きてきたクロトに問題があるのではない、私の箍が外れてしまったのだ。私はもう疲れ果ててしまった。クロトとの関係に、友達の工程を踏む必要があるのかと疑問に思うほど、私の思考は低空をさまよっている。
 私たちは灼熱の砂漠で水を求めるように、お互いの舌を絡ませ合った。遊園地を揺らす風は、舌から漏れる水音をかき消さない。その場違いな音を脳に響かせながら、私はクロトの膝の上に跨り、クロトは私の腰を抱きながら何度も髪を撫でた。
 どれくらいそうしていただろうか。クロトは息を荒げながら、彼にしては珍しく低めのトーンでささやく。
「やっぱ道連れじゃん、僕たち」
 口の端をひくつかせながら精一杯笑うと、ポケットに入れた小型通信機から、帰艦命令を知らせるアラームが鳴り響いた。
 好きになってくれたかどうかは聞けなかった。

2022.11.28

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