小説
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日曜日の愚者


※現パロ

 整然とした玄関で履いてきたパンプスを脱ぎ、混沌としか言いようがない廊下に足を踏み入れると、壁際に積み上げられた本が雪崩のように崩れ落ちた。足の上に数冊の本が広がる。幼少の頃に少しだけ背伸びをして読んだジュブナイル小説の表紙が、小暗い視界の中にはっきりと焼きついた。
「うわっ、ごめん。倒しちゃった」
 慌てて積み上げ直そうとすると、この部屋の賃借人であるオルガは「いい。俺がやる」と私の側に座り込み、崩れた本を積み直し始めた。こんなこと日常茶飯事だと言わんばかりに、てきぱきと手際が良い。オルガの肩越しに見える景色は、古き良き書店街に立ち並ぶ古書店の様子とよく似ていた。
 歩道のガードレールのように積まれた本たちをまたうっかり倒さないよう、お世辞にも広いとは言えない廊下を慎重に歩く。先導するオルガが木製の扉を開ける。彼の部屋を一目見た私は、思わず息をごくりと呑んだ。
「まあ、なんというか。狭いところだけど、適当にくつろげよ」
「……お邪魔します」
 私が部屋の中に入ったことを確認すると、オルガはキッチンの方へさっさと引っ込んでいった。
 部屋の中央に向かっておずおずと進む。辺りをぐるりと見渡すと、壁沿いには本屋で見かけるような背の高い本棚が一つ、家庭用サイズの本棚が二つ。どの棚にも、隙間が見当たらないほどに本がぎちぎちと詰め込まれている。本棚にしまいきれなかったと思われる本たちは床に直接平積みされていた。廊下のあれは部屋に収まりきらなかった結果ああなったのだろうと推測できる。この部屋は巨大な本棚だ。図書館や書店はともかく、ここまで本を詰め込んだ部屋は見たことがない。
 とりあえず、ローテーブルの前に置かれたクッションによろよろと腰を下ろす。彼が普段寝起きしているであろうベッドにも、枕元から足元にかけてしっかりと本が積んであった。まるで花の代わりに本を敷き詰めた棺桶のようだ。床とは違って低く積まれてはいるけれど、寝返りを打った弾みに本が倒壊したら、大惨事になりそうで恐ろしい。
 物珍しい部屋をきょろきょろと見渡していると、オルガは何食わぬ顔で紅茶を持って戻ってきた。汚れひとつない真っ白なティーセットは明らかに新品のものだ。
「ありがとう、オルガ」
「レモンとかミルクはねえけど、平気か? 砂糖が欲しいならキッチンから取ってくる」
「大丈夫。ストレートで問題ないよ」
「そうか。ならいい」
 オルガもクッションに腰を下ろし、ほっそりとしたティーカップを持つ。静かに紅茶を飲むその姿はどこぞの王子様のようで、とっくに見慣れているはずなのに、私の心音はやかましく鳴り響く。
「飲まねえのかよ」
 じっと見つめすぎたせいか、オルガは居心地を悪そうにしながら尋ねた。彼はあまりじっくりと見つめられるのが得意な方ではない。
「ちゃんと飲むよ。いただきます」
 そそくさと言い放ち、私も温かなカップを手に持つ。ベルガモットの香りが漂う紅茶で喉を潤してもなお、私の身体はぴんと張り詰めていた。子供時代に読んだ小説の中に出てくる、勉強熱心な王子様の研究室でお茶をいただいているような緊張感がある。
「大学生の頃からここに住んでいるんだっけ? お店を開けそうなくらい本があるね」
「ああ。こつこつ買って読んでいくうちに、あっという間にここまで増えちまった」
 要塞じみた蔵書を一瞥しながら、オルガはふふんと得意げに笑う。
 高校の同級生であるオルガと同窓会で再会し、なんやかんやと付き合い始めて数ヶ月が経った。オルガの家に行きたいと頼み込んでも、その度にのらりくらりとはぐらかされてきたというのに、彼は突然私を家に招いた。高校時代から学校一の読書家で、なかなか自己開示をしようとしない謎めいた人だとは思っていたけれど、まさかここまで本にまみれた部屋で暮らしているなんて想像もしていなかった。
「それでさ、オルガ。何か私に頼みたいことでもあるんじゃないの?」
「お前……。なんで分かるんだよ」
 どうやら図星のようだった。オルガはティーカップから口を離し、「お前ってときどき勘が冴えるよな、こえー女」と毒づく。今に始まったことではないが、失礼な彼氏だ。
「彼女を頑なに家へ呼ばなかったオルガが、私を招待してくれたんだよ? 絶対に何かあるって」
「あー、掃除がなかなか終わらなかったんだよ」
 彼はばつの悪そうな面持ちで紅茶をすすり、眉をひそめた。そういえば、本が大量にある割には、床にも棚にも埃ひとつ落ちていない。私が来る前に大掃除をしたのだろうか。
「別に、多少汚くても全然気にしないけどなあ。本の圧には流石に驚いたけれど」
「その本のことで、なまえに相談がある」
 本? と素っ頓狂な返答をすると、彼は優雅な顔立ちに険しい表情を浮かべ、力強く頷いた。
「うちにある本を半分、いや、床が傾いちまったところの本だけ預かってくれねえか?」
「……はい?」
 床が傾く? 木造のアパートとはいえ、本の重みで床が傾いたとでも言いたいのだろうか。でも、この本の量を考えれば、床が抜けても不思議ではないかもしれない。
 ひとまずは彼の話を訊いた。オルガが床の傾きに気が付いたのは数日前のことらしい。手を滑らせ箸を床に落とすと、箸は止まる素振りすら見せず、壁際に向かってすーっと転がっていったのだそうだ。
 だんだんと背筋が凍りついていく。今座っている場所から壁沿いに歩いていけば、床は――。そんなの、心霊物件よりも怖い。
「それって、下の住人にご迷惑をおかけしてるんじゃないの……」
「下の階は大学時代からずっと空き部屋だ。てかこのボロアパート、もう俺以外は誰も住んでねえ」
「そういう問題かなあ」
 言われてみればこの建物は、オルガの部屋以外からは生活音が一切しない。私も大学時代はアパートで暮らしていたが、隣人が発する食器の音や電話の声はこちら側にもほぼ筒抜けで、帰宅するたびにうんざりしていたことを思い出す。
「で、預かってくれんの? くれねえの?」
 頬杖をつきながら畳み掛けるオルガは、麗しい王子様というより尊大な王様のようだった。そんなオルガは私の住む部屋には何度か泊まりに来たことがある。私は服以外の私物はあまり持たないので、蔵書の王様の目にはさぞ殺風景に映ったことだろう。
「いいよ、預かっても」
「マジか! 恩に着るぜ!」
「預かってもいいけどさー。うちはいつまでも本を置いておける倉庫じゃないからね。ゆくゆくは電子書籍にするなりして減らしてよ」
 電子書籍やサブスクを選んだ結果、たまたま私物が少なくなったというだけで、私はいわゆるミニマリストというわけではない。オルガの本がうちに一冊や百冊増えたところでどうということはないけれど、私の部屋は私のものだ。床が傾くたびに私をあてにされても困る。
 そういった意味で釘を刺したつもりだったのに、肝心のオルガには特に響いていないようだった。
「なまえ、俺はな。電子書籍とかいうヤツを本とは認めねえ」
「面倒くさっ」
 けらけら笑うと、オルガはむすっとしたまま温くなった紅茶を飲み干した。

 向かいの防災無線から夕方のチャイムが鳴り響く。もうそんな時間なのか、と意外に思った。遮光カーテンの向こう側の景色はすっかり茜色に染まっている。オルガと一緒にいると、楽しくて時間が一瞬で溶けてしまう。
 オルガはティーセットを片付けながら「夕飯、食ってくだろ」と尋ねた。
「いいの? ぜひ食べたいな」
「おう。本でも読んで待ってろ」
 そう言うと彼は扉を閉め、再びキッチンへ吸い込まれていく。冷蔵庫から食材を取り出す音が聞こえた瞬間、私は玄関に足を踏み入れたときと同じくらいの衝撃を受けた。
「うそ。もしかして、オルガが料理するの!?」
 扉を開けてキッチンに駆け込むと、オルガはフライパンを携えたままこちらを振り返った。調理スペースには人参やウインナー、卵がごろりと置かれている。
「ああ? 何言ってんだ。当たり前だろうが」
「家庭科の調理実習で卵を燃やしたオルガが……?」
「何年前の話してんだお前! あと燃やしてねえ、焦げただけだ! いいから早くあっち行ってろ!」
 頬を紅潮させたオルガに追い払われた私は大人しく部屋に戻り、平積みになった本を数冊、上から順番にぺらぺらと掻い摘んで読んだ。
 キッチンから締め出されてしまったので、仕方なく聴覚でオルガの調理を窺う。包丁で野菜を切り分ける音も、フライパンで具材を炒める音もリズミカルで洗練されている、気がする。きっと、一人暮らしの生活で料理の腕を上げたのだろう。調理実習でオムライスの卵を黒焦げにしたオルガは、もう過去の存在なのだ。
 あのときのオルガもひどい有り様だったけれど、同じ班の他の男子も同様にひどかった。シャニは味見しか参加しなかったし、クロトは焦げついた卵を隠すために新品のケチャップを使い切り、先生にこっぴどく叱られていた。あれはオムライスというより、ケチャップのお化けだった。
 にぎやかな高校生活に思いを馳せていると、ケチャップライスの甘酸っぱい香りと、卵の優しい匂いがキッチンからただよってきた。
 この匂いは絶対にオムライスだ。調理実習で失敗した因縁のメニューをわざわざ選んだのか、それともただの偶然だろうか。彼の思惑は全く分からないけれど、記憶の中にある黒焦げのオムライスの臭いとは違う。昼時のレストランで嗅ぐような、胸がわくわくと踊り出す香りだ。
 
 テーブルの上に形の良いオムライスが二つ並ぶ。つややかな薄焼き卵に包まれた品のあるオムライスだ。白い皿の端にはパセリまで飾られている。
 これをあのオルガが作ったのかと、感慨に耽りたくなる気持ちをぐっとこらえ、私は「いただきます」と手を合わせた。
 スプーンで卵を割り、中身ごと掬って口に運ぶと、コクのある卵と甘いケチャップライスの味が舌の上に広がる。
「おいしい……!」
 たまらずオルガの方を見ると、スプーンを持ったまま私の動向を気にしていた彼は、少し安堵したような表情を浮かべて「だろ?」と短く答えた。そしてようやく手を動かし、オルガも食事を始める。
「オルガ、本当に料理ができるようになったんだね」
「毎日自炊してたら、嫌でもできるようになるだろ」
「ひょっとして照れてる? かわいい」
「うるせえ」
 照れ隠しのためなのか、オルガはスプーンにオムライスの山を作ると、それを大口で頬張った。

「そういえば、この本はどうやって私の家に運ぶわけ?」
 食後のお茶を飲みながら、ふと疑問を投げかける。オルガの家から私の家までそう遠くはないけれど、何しろ本の量が多い。
「明日から毎晩届けにいく。飲み会とか入れるんじゃねえぞ」
「りょーかい。なんか、ちょっと楽しみかも」
「さっきまで『うちは倉庫じゃない』って文句垂れてたじゃねえか」
「そうだけど、明日から毎日オルガに会えるのかと思うと嬉しいんだよ」
 正直、自分でもバカだなと思う。恋は盲目とはよく言ったものだ。自分の生活空間が狭くなるのに、大好きなオルガの私物をしばらく家に置いておけるのか思うと、どうしようもなく心が弾む。
「ねえ、預かった本って私も読んでいいの? いいよね?」
「勝手にしろよ」
 やった、と喜んでみせると、オルガは「呑気な奴」と呆れていた。突き放すような発言をしていても、彼の耳の先はほんのりと赤らんでいる。
「いつか郊外に家を建ててさ、そこに書庫を作ろうよ」
 私の願望を聞いたオルガは一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに表情を緩めた。
「楽しみだな、それ。お前と一緒に暮らしたら一生退屈しねえだろうよ」
「オルガ……」
 彼なら真っ先に書庫の提案に食いつくだろうと思っていたので、オルガから発された予想外の言葉がなんだかくすぐったい。そんな私の反応を見透かしたのか、オルガはニヤリといじわるく笑った。
「照れてんのか?」
「照れてる……」
 素直にそう答えると、彼の手が私の頬に伸びてきて、壊れやすい陶器に触れるみたいに表面をそっと撫でた。オルガの指先の感触を頬で感じながら目を閉じる。オルガが私の隣に移動する衣擦れの音が耳に届く。温かい唇が火照った頬に触れて、私は熱くなりつつある息をかすかに漏らした。
 早くオルガと一緒に暮らしたい。恋人が仕事から帰ってきたら「おかえり」と玄関まで迎えに行き、向かい合ってご飯を食べて、書庫で本を読み、同じベッドの中で彼の温もりを感じながら安らかに眠りたい。今はまだ郊外の家じゃなくてもいい、二人で住むことができるなら。

 オルガの住む木造アパートは来年度に建て壊しが決まり、結局すぐに同棲を始めることになるのだけど、それはまた別の話。

2022.11.06
タイトル「ユリ柩」様より

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