小説
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ふたり、遠く生きて、どこまでも


 数週間ぶりに与えられた休暇の二日目に、私とシャニは小さな無人島を訪れた。
 その小島は陸地から橋で繋がっていて、今回立ち寄った港から数分ほど歩いた場所にある。景観の美しさから数年前までは観光地だったそうだが、対岸の港が地球連合軍の軍港になると、観光客の足は次第に遠のき、島民も少しずつ他の土地へ移住していったのだと、ここ近辺が出身地の同僚に聞いた。今は軍の人間が警備のために訪れるくらいで、島は丸ごと廃墟と化しているらしい。
 荒波の上に架かる橋は走行する車も歩く人の姿もなく、潮を含んだ強風に煽られて心もとなく揺れていた。隣に並ぶシャニをちらりと一瞥すると、彼の長い前髪は風に吹かれてもみくちゃになり、いつもは隠れているきらびやかな金色の瞳が露わになっている。私の髪もリップを塗った唇に貼り付き、取り除いてもすぐにべったりとくっ付いてしまう。
「風、強すぎ」
 シャニはぼそっと独り言を言い、穴だらけのダメージジーンズを見下ろした。まだ冬ではないとはいえ、海岸に吹く風は随分と冷たい。薄手でもいいからロングコートを持ってくるべきだったかもしれない。晴れているし問題ないと思ったんだけどな、と肩をすくめる。
 休暇中も変わらず部屋に引きこもっていたシャニを、朝っぱらから散歩に誘ったのは私だ。イヤホンを片方だけ外して私の誘いに耳を傾ける彼は、どこからどう見ても乗り気ではなさそうだったけれど、かといって、断固として拒否するわけでもなかった。事実、シャニは今、イヤホンを外したまま私と歩いている。
 橋を渡りきる直前に、シャニの手をさりげなく握ってみる。少し悩んだ末に指を絡ませてみても、やはり拒む様子はなかった。握りしめた手はびゅうびゅうと吹き抜け続ける風のせいで表面が冷たい。それから、意外と手が大きかった。このまま握りしめ返されたら、私の手などすっぽりと収まってしまいそうだ。
 橋の終点と島の入り口から見えたのは、緑で形作られた城壁だった。本当に城があるわけではないけれど、島の中は小高い丘が集まり、それらがまるで一つの山のように堂々とそびえ立っている。海岸付近はホテルやレストラン、土産物屋などの廃墟が建ち並んでいた。数年前まで店を開いていたとは思えないほどに寂れている。
 ふいに、欄干に止まったカラスが嗄れた鳴き声を上げた。私たち以外に人の気配はない。時が止まってしまったみたいに、島全体が眠りに落ちている。
「で、どこに行くんだっけ」
 繋いだ手に関する話題も無人島に上陸した感想もなく、彼の口は淡々と目的地を尋ねた。相変わらず手を握っているのは私だけで、シャニの指は重力に従ったままだった。
「西側の丘に絶景スポットがあるらしい。そこに行ってみよう」
「分かった」
 シャニは気だるげに答えながらおもむろに私の手を握りしめる。彼の大きな手のひらに私の手が小さく収まり、温かくなりはじめた彼の指が私の手の甲に触れた。私という存在を受け入れてもらえたような気がして、風で冷えた頬がじわじわと熱くなる。

 丘が密集するこの島は必然的に坂道が多い。目的地である西の丘は、いくつもの階段を昇降した先にある。
 しんと静まり返った島の真ん中で、ぜえぜえと息を切る音が無様に響く。息を上げているのはもちろんこの私だ。
 三つ目の階段を半分ほど上ったところで、今回の散策の提案者である私は「ちょっと待ってシャニ……」と弱音を吐いて立ち止まった。
 手を振りほどいて先に進んで行ってしまうと思いきや、上の段にいるシャニは手を繋いだままぴたりと足を止め、こちらを振り向いた。そしてやや芝居がかったため息をつく。
「マジで体力ないね」
 風に吹かれながら余裕の表情を浮かべるシャニは、悔しいけれど格好良い。私は荒い息をなんとか整えつつ「前線に出てる人と比べないでよ」と彼を睨んだ。
「じゃあおんぶする? なまえを背負って歩くくらいならできるよ、前線に出てるから」
「しない!」
 即答すると、彼は眉を下げて笑った。戦場で獲物を見つけたときの不敵な笑みとは違う、桜の花びらが舞うような儚い笑顔に、落ち着いてきたはずの鼓動が再び跳ね上がる。この微笑みは頻繁に見せてくれるわけではない。けれども、出会った当初はシャニがこんなに柔らかく笑える人だとは思わなかった。
 あと何回この笑顔を見ることができるのだろうかと、淡いときめきに支配される頭の端でひっそりと憂う。いつまでも見ていたいけれど、戦局を鑑みる限りそれも叶うか分からない。いっそのこと、シャニを連れて二人でどこか遠くに逃げてしまおうかと、邪な考えが脳裏をよぎった。でも、薬の摂取を止めたら彼はどうなってしまうのだろう。――ばかげた自問自答だ。どうなってしまうかなんて、充分すぎるほどに分かっているというのに。
「眠たくなってきちゃった」
 あれこれと思いを巡らせるうちにシャニは待ちくたびれてしまったようで、大きなあくびを漏らすと立ったまま目を閉じた。
「ごめんごめん、もう大丈夫だから。行こう」
 慌てて階段を一段上ると、シャニも目を開いて私の横に並んだ。さっき考えたことは全部悪い冗談だ。軍を逃走した者は、見つかり次第殺されるのがお決まりになっている。私はシャニと一緒にいたいだけなのに、そんな結末、冗談じゃない。
 階段を登り終えると、西の丘を案内する看板が生い茂る木々の前に立っていた。この看板もご多分に洩れず色褪せて古ぼけている。

 目的の丘は看板があった地点から歩いて5分ほどの薄暗い場所にあった。今は日差しが届かないせいで寒々しい雰囲気を醸し出しているけれど、夕方になればきっと茜色に色づく雄大な景色が広がることだろう。
 空っぽになった軽食屋と砂まみれのベンチが、下から響く波の音を黙って聞いている。空をふと見上げると、鳶が餌を求めてぐるぐると旋回していた。
 丘の入り口に立つ案内板曰く、この西の丘は島の中で一番標高が高いらしい。海に浮かぶ軍艦が見えるかと思いきや、ひらけた視界には船一つなく、灰を薄くかぶったような青空と紺碧の海の境界線が水平にくっきりと伸びている。
 確かにきれいではあるけれど、甲板から見る景色とそこまで変わらないなとも思った。シャニもそう感じたのか、アメジストのような瞳に青い海の光景が映ったのは数秒だけで、すぐに別の場所へ視線を移してしまった。
「あれ何」
 シャニの視線は海と丘を隔てる転落防止のフェンスに向けられていた。そのフェンスは何かでびっしりと覆われている。最初は枯れた蔓植物がフェンスを覆い尽くしているのかと思ったが、近付いてみると葉に見えたそれは大量の南京錠だった。錆びた南京錠には名前やハートマークが記入されている。
 ああ、と私は納得した。海や橋などの水辺でたまに見かけるおまじないというか、儀式のようなものだ。
「ここに訪れた恋人たちが、鍵にお互いの名前を書いて吊るしてる。……多分」
 自分だけ納得したはいいものの、シャニにどう説明すれば良いのかさっぱり分からず、私は口ごもりながらそう答えた。恋人たちが何を願って鍵をかけたのか、きっとシャニは知らない。
 案の定、彼はすかさず「なんで?」と聞き返した。
「好きな人とずっと一緒に居たいからだよ。解除しない限り、南京錠はずっと結ばれたまま。皆そう考えたのでしょう」
 荒れた海から突風が吹き、ぼろぼろのフェンスが頼りなく揺れた。ぶら下がった南京錠もカタカタと音を立てる。「永遠なんてないのに」と弱々しく笑うと、シャニは不思議そうに「ないの?」とまた聞き返す。
「だって人間って死ぬでしょ、普通は。このフェンスだっていつかは朽ち果てるかも。永遠の愛なんて、そんなありもしないものを願うなんて、辛くてしんどいよ。私は」
 目の前に吊るされた無数の南京錠が少しだけ羨ましい。永遠を願う恋人たちの無邪気さが、自分の置かれた状況をじりじりと浮かび上がらせる。けれど、軍に所属し、間接的とはいえこの島の生活を奪った側の私に、彼らを羨む資格は一切ない。
 シャニは相変わらずの脱力しきった声音で「ふーん」と適当に相槌を打ち、白波が目立つ海に再び目を向けた。
「なんか俺、死なない気がするんだよな。だから、なまえも俺と同じ体になれば、その永遠ってやつになれるよ」
 繋いだままの手にぎりぎりと力が込められる。死なないなんて真っ赤な嘘だ。帰還した彼が薬の投与もなく放置されたとき、私はシャニが死んでしまうような気がして、上官の前で泣きじゃくった。
「私はシャニと同じ体にはなれない」
「分かってるよ、そんなことくらい」
 そう言い捨てて不貞腐れると、シャニは萎んだ朝顔のように俯く。薄緑色の癖毛に隠れた顔からぎゅっと結んだ唇を垣間見た途端、私は自分の軽はずみな発言を激しく後悔した。シャニを拒んだと思われるのはいやだ。
 私は左右のポケットに片手を突っ込み、中をがさごそと漁った。しかし、フェンスに吊るせそうな物は何も入っていない。がっくりと肩を落とすと横からシャニの視線を感じた。
「シャニ、本当はね。私はシャニとずっと一緒にいたい」
 この話を彼にするべきか、ここ最近は四六時中迷っていた。けれども、心の中に秘めておけないほどに、シャニへの気持ちは大きく膨らみすぎている。
「私たちの仲を断ち切る要因があるのなら、そいつを引きずり回して海に沈めてやりたいよ」
「物騒だね」
「シャニほどじゃないと思うけど」
「ハッ、どうせ俺が引きずり回すことになるんでしょ。だってお前、弱いもん」
 ようやく顔を上げたシャニは「あ」と一言呟いたかと思うと後ろを向き、私の手を引いて軽食屋の方へずんずん歩みを進める。
「なに、どうしたの」
「南京錠あったよ」
 珍しく上機嫌な声を上げると、シャニは懐から小銃を取り出し颯爽と構える。銃口が狙っているのは、掃除用具をしまっておくような小さい倉庫だった。倉庫の扉には確かに南京錠が掛かっている。
「ちょっとちょっと! あの南京錠はダメでしょ!」
 シャニの手を引っ張って止めようとするけれど、彼は踏ん張る素振りすらないのにびくとも動かない。
「大丈夫。俺、こっちの訓練もちゃんと受けてるから。絶対に外さない」
「そういう話をしているんじゃなくて! そもそも、撃ったら鍵が使い物にならなくなっちゃうよ!」
「あー、そっかー。……あーあ」
 私の小言が面倒臭くなったのか、シャニは小銃を懐にしまい、残念そうに短く息をついた。
「他に結べそうなものなんてあるかなあ」
 そうぼやくと彼は胸ポケットを指で広げ、中を凝視する。その一連の様子を目の当たりにした私は、胸に熱く滾るものを感じていた。シャニも私と同じ気持ちでいてくれたのだと、そう深く実感したからだ。
「超短いロープしかなかった」
 ポケットから出てきたのは、音楽プレーヤーと雑に突っ込んだせいでぐしゃぐしゃになったイヤホン、それから20センチほどのサバイバルロープの切れ端だった。その短いロープを見た瞬間、はっとする。
「ロープなら私も持ってる!」
 非常用ポーチの中を必死に探すと、束になったサバイバルロープが底の方に入っていた。ナイフで適当な長さに切り分ければ、シャニのロープと結べるのではないか。厚く茂った木々に木漏れ日が射す。私は火照った手でサバイバルナイフを取り出した。
「さすがに名前までは書けないね」
「別にいいんじゃない、名前は」
 ナイフで切った私のロープとシャニのロープを結んでフェンスに括り付ける。大量の南京錠に囲まれたロープは、はたから見れば不恰好で意味不明だ。でも、それでいい。ちぐはぐなロープは不完全な私たちを表したようで、永遠を願う辛さを押しのけた清々しい気分が私の中に渦巻いている。
「俺たちさ、これで恋人同士ってことだよね」
 驚いてシャニの方を向くと、彼はあの微笑みを浮かべて私を見ていた。ロープを結ぶために離れ離れになっていた手を、シャニはそっと掴み、島の入り口で私がそうしたように指を柔らかく絡ませる。息を呑む音が小さく響き、うなるような波音が残響をすぐに掻き消す。
「……シャニが良ければ」
 今はそれだけを彼に伝えるのが精一杯で、私は喉の奥を震わせながら唇を噛んだ。
「なんでそこは弱腰なんだよ。変なの」
 地面に点々と落ちては消える陽光と一緒に、シャニの笑い声が溶けていく。そのほんの少しだけ暖まった空気を深く吸い込みながら思う。私はこの人のことがどうしようもなく好きなのだと。
 シャニの腕に頭を預け、つんと痛みだした鼻をなるべく目立たないように小さくすする。制服の布地から頬に伝わるシャニの腕は逞しく、その熱を持った感触に、心が新鮮に揺さぶられた。
 彼は「好きってこういうことかも」と呟き、私の前髪を指で払いのけて額に口付けをした。
「好きだよ、シャニ。ずっと、ずっと好き」
 繋いだ手を強く握りしめ、背伸びをして彼の唇にキスをする。シャニは空いた手を私の背に回し、固く結ばれた手に負けないくらいの力で抱きしめた。ちょっとだけ苦しい。苦しいけれど、痛みを伴うほど愛されるのは涙が出るほど嬉しかった。
 永遠が無いのなら、今を死に物狂いで生きてやる。シャニと一緒に、この手を繋いだまま。

2022.10.30
タイトル「失青」様より

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