とまり木が未だ見えない
ドアをノックする乾いた音が、艦内の廊下の壁に吸い込まれていく。私は一呼吸置き、声を張り上げた。
「シャニ、いるー?」
もちろん返事はなかった。念のため、もう一度ドアをノックしてみる。やはり返事はない。シャニのことだから、また部屋に引きこもって大音量で音楽を聴いているのだろう。
試しにドアロックのボタンを押してみると、ドアはすんなり開いてしまった。不用心にも程がある。
「シャニー、入るよー」
おそるおそる部屋の中に足を踏み込む。電気がついたままの部屋に彼の姿はなかった。てっきりベッドに寝転んで音楽を聴いているものだと思っていたので、私は肩をすくめてため息をついた。艦長から言付けを預かっているというのに、一体彼はどこに行ってしまったのだろう。
散らかった部屋をぐるりと見渡す。テーブルの上では、ロックの掛かったパソコンが唸りを上げていた。高所から落としたのか、それとも腹を立てて感情任せに殴ったのか、液晶画面の左上はいくつもひびが入っている。軍の備品なのに画面を割ってしまって大丈夫なのかと、私の物ではないのに不安になった。
テーブルの端には空のCDケースが無造作に置かれていた。パソコンから絶え間なく聞こえるこの低い音は、CDを取り込む音だったらしい。CDは先日訪れた寄港先で買ったものだと思う。オルガの本ほどの量ではないけれど、シャニも寄港先で時々CDを買ってきては音楽プレーヤーに取り込み、用の済んだCDを燃えるゴミに出していた。捨てるくらいなら売ってしまえばいいのにと思わなくもない。
その音楽プレーヤーと付随するイヤホンもパソコンの横に転がっていた。彼はコックピットに居るとき以外はこのイヤホンを耳に嵌めて、周囲に聞こえるほどの音量で音楽を聴く。
ドア付近に誰もいないことを確認した私は、シャニのイヤホンを両耳に嵌め、音楽プレーヤーを手に取った。いけないことをしている自覚はある。堅牢な壁に守られたシャニの内部に図々しく土足で上がり込んでいるような、そんな背徳感だった。
少し迷ってから再生ボタンを押すと、カチ、と無機質な音が室内に響いた。
息をつく間もなく、耳の中に散弾銃を撃ち込まれたような衝撃が鼓膜に襲いかかる。鼓膜が、脳みそが、頭蓋骨が、心臓が、イヤホンから流れてきた爆音によって激しく揺さぶられている。
めまいを覚えた私は、即座に停止ボタンを押した。音楽を止めても、キーンという甲高い耳鳴りと、ばくばくと脈打つ心音が静寂の中に反響している。普段からこんな音量で音楽を聴いたら、シャニの耳はいつかイかれてしまうのではないか。
二度目のため息をついた次の瞬間、熱を持ちはじめた鼻から何か生温かい液体が溢れてきた。おもむろに手で鼻の下に触れると、赤黒くてべたべたしたものが指を濡らした。
――鼻血だ。とっさに鼻を押さえる。親指と人差し指の間から血が滲み出しているのが見えて、私は鼻をぎゅっと押さえたまま動転した。
シャニの持ち物を鼻血で汚すわけにはいかないので、慌てて音楽プレーヤーをテーブルの上に戻す。続いてイヤホンを耳から抜き取ろうとしたところで、背後から「なまえ?」と起伏の乏しい声が聞こえた。シャニが部屋に帰ってきたのだ。本来の目的をすっかり忘れた私は、なんてタイミングが悪いのだろうかと心の中で嘆いた。
イヤホンを着けたままゆっくり振り返ると、シャニはすでに私の真後ろまで移動していた。浅く吸った息がひゅうっと音を立てる。
「ご、ごめん。これは、その」
私の曖昧な謝罪に対する返事は一つもなかった。シャニは私の耳から伸びたコードを引っ張り、乱暴にイヤホンを剥ぎ取る。そのままテーブルの上にイヤホンを放ると、彼は静かに私の方へ向き直った。その眼差しは沈黙しているわけではなく、紫色の目はわずかに見開かれている。最近はよく一緒に過ごしているけれど、実は、私はシャニのことがよく分からない。だから、今もどうして彼がそんなに驚いた顔をしているのか理解できなかった。
「鼻血出てる」
戸惑う私にシャニは指をさした。その指先は私の鼻に向けられている。
「ほんとごめん、あの、どこも汚してないから安心して」
言い終わらないうちにシャニは鼻を押さえていた私の手をぱっと掴み、また一歩踏み込んだ。露わになった鼻から、手の力で堰き止められていた鼻血が唇から顎にだらだらと垂れていく。
「シャニ、どうしたの」
震える声で彼の名を呼ぶと、シャニの端麗な顔が鼻先に迫る。彼は血で汚れた手を掴んだまま、私の顎に舌を這わせた。温かい吐息が血濡れの唇に触れて、私は思わず息を呑んだ。柔らかい舌先は顎から唇をなぞり、ソフトクリームでも食べるみたいに鼻血を舐めとる。
私にはやっぱり、シャニのことが分からない。シャニの舌が離れていってもなお、私はその場で硬直し続けていた。
手の拘束を解くと、シャニは私を見据えたまま片目を細め、尖った喉仏をごくりと上下させた。彼は飲んだ、私の鼻血を。私はテーブルの幕板に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。
「うーん、全然おいしくない」
そう呟き、シャニは舌先をちろりと出した。忙しなく動いていたパソコンがしんと静まり返る。座り込んだ私をよそに、彼はパソコンのロックを解除し、取り込み終えたCDをケースに戻した。
「な、なんで。なんで舐めたの」
シャニのダメージジーンズに向かって呆然と話しかける。私の顎と唇はまだてらてらと濡れていて、出血した鼻よりもシャニに舐められた箇所がじんじんと火照り始めていた。
頭上から、パソコンに音楽プレーヤーを繋ぐ音が聞こえる。今取り込んだ音楽をプレーヤーに同期するのだろう。
再び待機時間を得たシャニは、私の目の前で体育座りをしながら薄く笑った。
「だって、かわいかったから」
彼は声色に初夏の昼間のような温もりを含ませて、制服の袖で私の鼻の下を拭った。シャニの匂いを色濃くまとった袖が鼻をくすぐる。袖越しに伝わるシャニの手首がなんだか温かいような気がして、私は気を失いそうになった。
「鼻血、止まってるじゃん」
満足そうに言い残してシャニはまた部屋を去っていく。去り際に見た紺青色の袖は、私の血が染み込んで黒く変色していた。
とうとう預かった言付けを伝えることはできなかったし、それに、明日の洗濯当番は私だ。
2022.10.24
タイトル「ユリ柩」様より
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