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揺れるアイドル


 ――気持ち悪い。
 波に乗った船が上下するたび、私の胃も荒波に揉まれるように揺れた。外の世界を満たすこの音ははたして海が発するものなのか、それとも胃液が逆流する音なのか、そんな簡単なことも今は判別できない。
 絶え間なく襲いかかる吐き気を堪えながら、なんとか甲板まで上がって来ることができたものの、数メートル先にあるデッキチェアにはとうとう辿り着けなかった。吹き渡る潮風を浴びながら横になれば、船酔いも少しはよくなるだろうと思ったのに、甲板と海を隔てる柵の前で冷や汗をかきながら息を荒げ、うずくまることしかできない。陽射しを浴びた海面のきらきらした光が、憂鬱な吐き気をますます膨らませていく。
 誰も来ませんように、と願った直後に、背後から誰かが甲板に登ってくる足音がした。何事もなかったかのように起立し、大海原を眺める少女を演じたかったけれど、それはどうしても叶わない。今すっくと立ち上がったら、きっとその勢いで思いっきり吐いてしまう。それも、人前で。
「なーんだ、先客がいた」
 足音が止まる。いたずらっぽい声が甲板の入口から降ってくる。甲板に私がいることを心底残念がるというより、動物に興味のない人が道端で猫を見かけたときに見せる薄い反応のような、そんな調子だった。
 わざわざ振り返って姿を確認しなくとも、私はこの声の主を知っている。彼はクロト・ブエル少尉だ。レイダーのパイロットで、一度キレると手を付けられないほどに暴言を吐くため、この艦の人間は皆なんとなく距離を置いている。少尉も少尉で人と積極的に関わろうとしないけれど。
 私は配属以来そんなブエル少尉を――というより、彼の見た目を密かにかっこいいと思っている。
 廊下ですれ違うたび(挨拶はことごとく無視されたけれど)会場の外でアイドルと出会したファンみたいに舞い上がっていた。戦闘時の攻撃的な言動を如実に表したような赤い髪と、涼しげな目元に潜む深い青の瞳がすごくきれいだし、ジャケットの裾を切ってしまうセンスも軍という規律の厳しい組織の中でひときわ輝いて見える。
 そんな少尉の前で醜態を晒しているのかと思うと、余計に気持ちが悪くなる。本来なら直ちに立ち上がり、軍人として彼に挨拶をしなければならない。けれど、やっぱり立ち上がることはできなかった。
 倦怠感に苛まれていく体を小刻みに震わせ、次から次に溢れてくる冷たい唾液を必死に飲み込んでいると、視界の端にブーツの先が入り込んだ。おそるおそる顔を上げると、真顔で私を見下ろすブエル少尉と目が合う。目線同士がここまでしっかりと交わったのは初めてのことで、私は内心動揺した。
 彼は何か任務を伝えに来たのだろうか。そうでなければ、この人が私に近寄るなんてありえない。
「あの、なにか御用でしょうか」
「いや、吐かないのかなーって」
 この状態でべらべらと喋るつもりは鼻から無かったけれど、あっけらかんとした発言に思わず絶句してしまう。まさか気まぐれに見物をしていたとは夢にも思わなかった。その割に彼はちっとも楽しそうでなく、一体どういうことなのかと吐き気で鈍る脳内がいっそう混乱する。
 そうこうしているうちにとうとう胃液が喉元まで込み上げ、私はとっさに両手で口を押さえた。そろそろ限界が近い。
 もう一歩も歩けそうにない私に唯一残された選択肢は、目の前にいるこの残酷な見物人に頭を下げることだった。
「すみません、お水を持ってきていただけませんか。できれば吐きたくないんです」
「ええー! 僕が? また食堂に戻るのやだよー」
 ブエル少尉は面倒ごとを押し付けられた少年のような顔で不平を言った。ケチな奴、と心の中で蔑みつつ、この人もこういった年相応の表情をするのかと意外な気持ちになる。
 しかし、うっとりと見惚れている場合ではない。その時は刻一刻と迫っているのだ。私は不満げな少尉の足に縋り付かんばかりの勢いで涙ながらに訴えた。
「なんでもします。あとでなんでもしますので」
「なんでも?」
 彼の鮮やかな瞳が真夏の太陽のようにぎらりと光る。ブエル少尉は膝を折り、憔悴しきった私の目を虫の観察でもするみたいに覗き込んだ。
「今狙ってるソフトがあるんだけどさ、それ買ってよ。そしたら水、持ってきてあげる」
「え……?」
 まさかの提案に、私はへなへなと脱力し倒れこみそうになった。確かにここはだだっ広い海の上で、飲料水は貴重な資源ではあるけれど、コップ一杯の水と一個人のゲームソフト代の価値が釣り合うとは到底思えない。とは言え、今の私には「分かりました」と了承するしか手立てがなかった。これ以上声を上げ続けたら、間違いなく中のものが出てしまう。
 私の返事を聞くと、彼は実に嬉しそうな足取りで階段を下っていった。そのスキップでもしそうな後ろ姿を、私は半ば絶望した気持ちで見つめた。あの人に頼むくらいなら、この場で無理矢理にでも吐いて粛々と掃除するべきだったかもしれない。あの様子だと、ゲームソフト代どころか金を無心される可能性すらある。とんだ悪魔と契約してしまったものだ。
 
 私の後悔の念を吹き飛ばすように、少尉は5分ほどで甲板に戻ってきた。手にはきちんとカップが握られている。拍子抜けした私はまばたきを何度もしながら彼を見上げた。
「ほら、水。ちゃんと持ってきてやったよ……って、なんて顔してるんだよ」
「本当に持ってきてくださるとは思っていませんでしたから……」
「うーわ、失礼すぎない? いいから早く飲めよ」
 ブエル少尉はそう捲し立てながら私の唇にカップを押し付け、口の中へ水を少しずつ流し込んだ。ほどよく冷えた水が喉を通り抜け、不快感で満たされていたはずの胃に隅々まで染み渡る。
 彼の手から水を飲ませてもらうなんて、また一つ借りが増えてしまう。そう不安に思いつつも、すべて飲み干す頃には気分はいくらか楽になっていた。海面に反射する銀色の光も、前後左右に揺れる不安定な床も、不思議と不快ではなかった。
 ぼうっと宙を見つめていると、少尉の怪訝そうな顔が視界に入り込んでくる。まだお礼を言っていなかったことに気が付いた私は、すぐさま彼に向き直った。
「ありがとうございます、少尉。お手間を取らせてしまい申し訳ございません」
「べつにー。てか、まだ休んどいた方がいいんじゃないの。まだ顔色が悪いしさ」
 そう言うとブエル少尉は、呆けたままの私に近付き肩を抱いた。冷たい肩に突然熱が宿り、力が抜けたばかりの身体に緊張が走る。
「立場、逆転しちゃったね。ちょっと前にさ、僕を介抱したことがあっただろ」
 あたふたと混乱する頭の中で、先の戦闘の記憶がよみがえる。あのとき、帰還した途端に禁断症状で苦しみだした少尉を真っ先に助けたのは、確かに近くで作業していた私だった。冷や汗でじっとりと湿った赤い髪の感触が、吐き気のせいで滲んだ手汗の感覚と重なる。とっさに半身を支えたものの、すぐに研究員に引き剥がされてしまったので、私の行為が果たして介抱と呼べるものだったのか分からない。
 彼は目を白黒させる私を無視し、私の体を俵のように担ぎ上げた。頭が急に逆さまになったことで、和らいだ吐き気が徐々にぶり返してくる。
「ちょっと、少尉!? 何をするんですか、離してください!」
 私を担いだまま歩き出した少尉に一応は抗議の声を上げる。苛立った彼は鬱陶しそうに言い返した。
「うるさいな、そんなに叫んだら出ちゃうだろ! 僕の服にかかったら、このままお前を海に放り込んでやるからな! サメに食い殺されろ!」
「さっきまで私が吐くのを待ってたくせに!」
 視界が再びぐるりと回転する。どうやら私の体はデッキチェアの上に転がされたようだった。
「本当はここで遊びたかったけど、仕方ないよね」
 仰向けの私に未練がましい言葉を言い残し、ブエル少尉はさっさとデッキチェアから離れていく。嫌味ったらしいその言いようとは裏腹に、私を一瞥したときの表情は凪いだ海のように優しげだった。
 船酔いの動悸とは別の種類の苦しさが、全身をゆっくりと焦がしていく。その理由に気が付いた私はぎゅっと目を閉じ、こわごわ目を開けた。それからしばらくの間、上空を行き交う海鳥を眺め、飛沫の音を聞き流しながら微睡む。
 次に目を覚ますと、太陽は西に傾きかけていた。さわやかに吹き抜けていた風はすっかり冷たくなっている。
 慌ててデッキチェアから飛び起きると、柵に寄りかかってゲームをしていたブエル少尉と目が合った。
「あ、起きた」
 彼は起き上がった私をちらりと確認すると、またゲーム機に視線を落とす。私が寝ている間もずっとそこに居たのだろうか。
 鳥の影が色濃く落ちた甲板をのろのろと歩き、彼の近くで立ち止まる。傍に立っても少尉は私に目もくれない。水を届けてくれたことも、介抱してくれたことも全部夢だったのかもしれないとふと思った。
「おかげさまで随分良くなりました。ありがとうございました」
「僕はゲームを買ってもらえればそれでいいから。次のお休みの日、ちゃんと空けておいてよね」
 指を忙しなく動かしながら、彼は淡々とした声音で衝撃的な発言をする。私はソフトの代金やら他の金やらを彼に手渡せば、今回の件はそれで済むと認識していた。ところが彼にとっては違うらしい。
「それ、デートに誘ってるんですか」
 好意を隠す余裕を失った私は膝を折り、少尉の前に身を乗り出した。ゲームから目を離した彼の目はいつもより大きく見開かれ、波のように揺らぎながら私の目を凝視している。
「なんでそうなるんだよ、バーカ」
 私の影の中でブエル少尉は珍しくうろたえていた。黄赤色の西日に直接当たらなくても、彼の頬は少し赤らんでいる。

2022.10.22

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