りんごの欠片はずっと
「オルガ、食堂に来て! リンゴを剥いてあげる!」
そう言って元気よく誘い出すと、オルガは熱心に読んでいた本から目を上げて、部屋に突然乱入した私を一瞥し、形の良い眉をぎゅっとひそめた。
寄港した街の市場で真っ赤なリンゴを一個買った。このつやつやでずっしりと重たいリンゴを、オルガと半分こにして食べたいと思う。理由は単純明快だ。私はオルガのことが好きだから。好きな人と、一つの食べ物を分け合って食べてみたいのだ。
そういうわけで私は、休暇中にもかかわらず、食事と本屋へ行く用事以外は自室に籠もりがちのオルガを誘い出し、食堂へ押し込んだ。久々の休暇でみな外出中なのか食堂は誰の姿もなく、テーブルもキッチンもがらんとしている。
食堂に無理やり連れて来られたオルガは真っ先に席へ着き、寄港先の本屋で買ったばかりの真新しい本を読み始めた。部屋に戻ってしまわないか少し不安だったけれど、しばらくはここに居てくれるらしい。これで安心して作業に取り掛かることができる。
リンゴの表面を軽く洗い流し、まずはまな板の上で二等分に切り分ける。真っ二つに割れたリンゴの断面を目の当たりにして、私はハッと息を呑み動揺した。そこではじめて、塩水を用意し忘れたことに気がついたのだ。
「オルガー、塩取って」
黙々と本を読み耽るオルガに声をかける。明らかに不機嫌そうな眼差しが、私に向かって突き刺さる。
「ああ? なんで俺が? 食わせてくれなんて一言も言ってねえのに」
「ごめーん。塩を取ったらボウルに塩水を作っておいてね」
しつこくお願いすると、オルガは渋々読書を中断した。舌打ちをしながら席を立ち、大股歩きでキッチンに入ってくる。オルガは私の背中側の棚にある塩の瓶を引ったくるように取ると、側にあった銀色のボウルに塩をぶち撒け、その中へ水をざあざあと流し始めた。
オルガは私のやること成すこと全てに眉をひそめるけれど、なんだかんだいって、こうやって頼み込めばわがままを聞いてくれる優しい人だ。品のある見た目に反して口調は荒っぽいけれど、頼れるお兄ちゃんみたいな存在だと、少なくとも私は勝手にそう思っている。
半分になったリンゴをさらに八等分に切り分け、いよいよ皮剥きのフェーズに移行する。
思わずごくりと固唾を飲んでしまう。包丁を握ってから思い出したのだけれど、私は十数年間生きてきたのに一度も、本当に一度たりともリンゴの皮を剥いたことがないのだ。
故郷の母がリンゴを剥いてくれたときの淡い記憶を呼び覚まし、頭の中であやふやなイメージ映像を流しながら皮に包丁を入れていく。出だしは上々と思ったのも束の間、サクッと果実を深々傷つける不吉な音がした。想定したよりも皮を分厚く剥き始めてしまったらしい。
「やばい、全然うまく剥けないかも」
「ああ? 刃こぼれしてんじゃねえの」
「昨日の夕食のあと、コック長が包丁を研いでいたのを見たけど……」
剥いた、というより削った皮が千切れてまな板の上に落ちる。実が厚く残った皮を確認したオルガは、失望したような声音で「お前、皮剥くの下手くそすぎねえか?」と呟いた。ぎくっと肩がこわばる。自信満々に呼び出しておいて、この失態続きは非常にまずい。今度こそ薄く、そして美しく皮を剥かなくてはならない。
包丁を握り直し、実と皮の間のぎりぎりを攻めた次の瞬間、リンゴを支える左の人差し指に包丁の刃が触れた。研いだばかりの鋭い刃が指の皮膚をなめらかに切り裂く。
「いたっ」
痛みに怯んだ私は、思わずリンゴを取り落としてしまった。熱を持った切り傷からリンゴの皮よりも鮮烈な赤が滲み出し、あっという間に指から手のひらへ伝っていく。
「お前なあ……!」
そう叫ぶとオルガは私の手から包丁を奪い取り、それをまな板の上に叩きつけて乱暴に蛇口をひねった。シンクの中にあったボウルの塩水が、みるみるうちに真水へ置き換わっていく。
急にきびきびと動き出したオルガをぽかんと見つめていると、彼は私の左手首をひねり上げる勢いで掴み、自分の手もろとも流水の中へ突っ込んだ。傷口から溢れ出た血が冷たい水によって洗い流されていく。傷ついた指がだんだん冷えていく。そう、確かに水は冷たい。それなのに、オルガに握られた手は炎に包まれたみたいに熱かった。
私は横にいるオルガを直視できないまま、水に打たれる二人の手を黙って見据えた。
傷口を流し終えると、オルガは濡れていない方の手で私のウエストポーチをまさぐった。衛生兵である私は、ポーチに救急用の衛生材料を常備している。オルガはガーゼと絆創膏をポーチから引き抜き、今度は私の人差し指を掴んだ。
ぼうっとオルガの様子を眺めるだけだった私は、そこでようやく我に返った。
「あとは自分でできる!」
指をオルガの手から引き抜こうとしたけれど、びくともしない。往生際が悪い私にオルガはぴしゃりと言い放つ。
「うるせえ、衛生兵の分際で怪我しやがったくせに。いいからじっとしてろ」
正論すぎて何も言い返せなかった。私は蚊の鳴くような声で「はい……」と頷き、てきぱきと処置を行うオルガをただただ見守る。
こんな情けない姿を上官に見られたらきっと叱り飛ばされてしまう。いや、叱り飛ばされるのはまだいい。よりにもよってオルガに怪我の手当てをさせてしまうなんて、己の迂闊さにため息をつきそうになる。
でも――と自分の不注意な行動を反省していたはずの私は思う。南国の澄んだ海のような瞳を間近で見ていると、この真剣な眼差しを独り占めできる喜びが勝ってしまうのだ。こんなに近くでオルガと触れ合えるのなら怪我も悪くない。そんな不謹慎なときめきを胸に抱く。
指に貼ってもらった絆創膏は皺ひとつなく、空気も入っていなかった。ひょっとすると私よりも上手かもしれない。助けてもらった手前、こんなことは口が裂けても言えないけれど、面目丸潰れだ。
「ありがとう。迷惑かけちゃってごめんね」
「礼なんかどうでもいいんだよ。本当に世話が焼ける女だな。衛生兵の手当てなんかもう二度とごめんだぜ」
「でも、最終的には手を差し伸べてくれるから、オルガは優しい。私はオルガのそういうところが好きなの」
私の告白を聞いたオルガは薄い唇をきゅっと結び、困ったような表情を浮かべた。私が「好き」と告げるたび、彼は今みたいにむず痒そうな面持ちで私を見る。その表情を見るたびに私は、私がこの人に掛けられた枷を外してあげられたらどれだけいいだろうかと、そんなふうに願ってしまうのだった。けれど、具体的にどうすればいいのかさっぱり分からない私は、馬鹿の一つ覚えみたいに「好き」と唱え続けることしかできない。せめて、オルガ・サブナックという存在を好きで好きでたまらない人間がここに居ることを、忘れないでいてほしいと思う。
結局、オルガは残りのリンゴもきれいに剥いてくれた。ぶっきらぼうではあるけれど、不器用の私のために皮剥きの解説を交えながら。
席に戻り、器に盛ったリンゴを二人で分けて食べた。オルガが剥いたリンゴは表面がなめらかで可食部が多い。皮剥きの巧さを熱烈に褒めたところ、オルガは「お前が下手くそすぎるんだよ」と呆れていた。
「あーあ、お前が処置を担当する負傷兵は震え上がるだろうな。傷口をさらに広げるだけだろうから」
「手当てに包丁は使わないし。オルガが怪我したら私のところに回してもらうからね」
「バーカ、俺が怪我なんかするわけねえだろ」
「サブナック少尉、慢心は禁物ですよ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
でこぼこのリンゴの欠片を、オルガは口に放り込む。私が最初に剥いた不恰好なリンゴが最後の一個だった。
「なんだよ。食いたかったのか?」
リンゴを咀嚼し飲み下すオルガをじっと見つめていると、彼は怪訝そうな表情で私を見つめ返した。
「ううん。ちょっと思い出したことがあって」
「あんま興味ねえけど、詳しく聞かないと拗ねるよな」
「拗ねるよ」
即答するとオルガは面倒臭そうにため息をつき、頬杖をつく。
「何を思い出したんだ?」
「昔ね、オルガの髪と同じ色のリンゴを食べたことがあるんだよね。今度それ買えたら剥いてあげるよ」
赤いリンゴよりも甘いそのリンゴは、その昔は故郷の名産品だった。このご時世にまだ生産が続いているか分からない。生産していたとしても、これから寄る港の市場に並んでいるとは限らない。
私の話を聞いたオルガはだんだんと渋い顔になり、傍らに置いた本をめくり始めた。そして、活字を目で追いながら、投げやりな口調で言い捨てる。
「どうせ今日教えてやった剥き方も明日には忘れてるだろ、お前は。面倒くせえからもう皮とか剥くな」
それでも彼は「買ってくるな」とは言わない。やっぱり、オルガは優しい人なのだ。
「じゃあ皮ごと食べちゃおうかな。オルガと同じ色のリンゴを皮ごと食べるなんてさ、どきどきするじゃん?」
後片付けのために皿を持って立ち上がると、本から目を離したオルガがほんの少しだけ笑っていた。ドスの効いた声で「どきどきするのはお前だけだろうが」と吐き捨てながらも、目元は柔らかい光を放っている。
あやうく皿を落として割るところだった。
2022.10.15
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