小説
- ナノ -

恋とか愛だとか知らんけど


※誰も幸せになりません。


 医療機器を極限まで除いた色のない密室の中で、僕と、僕の足元に転がる女だけが赤く色づいていた。
 皮膚が、筋肉が、骨が、内臓が、頭のてっぺんから爪先まで、僕の身体は耐え難い痛みに翻弄されている。
 苦しみから逃れたくて無我夢中で頭を振ると、じんじんと熱を持った額から誰のものともつかない血液のしずくが流れ、まつ毛とまつ毛の隙間をすり抜けて血走った眼球の表面に滴り落ちる。ほんの些細な刺激も禁断症状で錯乱した身にとっては行き過ぎた苦痛でしかなく、僕は膝を折って獣のように呻いた。
「あ、あああ、うぅ……」
 崩れた膝が女の血だまりをぴしゃりと打つ。鉄臭い飛沫が腹の上へ飛び散り、新品のパイロットスーツを点々と汚した。
 物言わぬ女――なまえは、あどけない顔の左半分を自分自身から溢れ出た血だまりに浸したまま、微動だにしない。なまえは死んだ。僕が殺した。この手で、ついさっき殺した。

 数分前、いや数時間前なのか、はたまた数日前だったのか、時の感覚がすっかりなくなった僕には正確な時間を思い出すことはできないけれど、とにかく少し前の話だ。
 訓練でへまをした僕は、薬の追加投与もないまま、有無を言わせずこの殺風景な医務室へ放り込まれた。
「くそ、早くここから出せよ! おい!」
 腫れて狭まっていく喉からありったけの罵声を振り絞り、頑丈な扉に拳を乱暴に叩きつけるも、部屋の外は人なんか一人もいないみたいにしんと静まり返っている。
 僕は激痛に襲われる頭を硬い壁に何度か打ち付けたあと、一歩二歩とよろめきながら退き、白く冷たい床にうずくまった。いたい、あつい、さむい、くるしい。なんでもいいから、誰でもいいから、僕を助けてほしい。自分の発した喚き声が密室にきんきんと反響して鼓膜を突き刺す。それでも、泣き叫ばずにはいられなかった。身体中の水分がすべて汗と涙に変わってしまったかのようだった。無愛想な床は透明な液体同士が混ざってべちゃべちゃに濡れていた。
 どれだけの間そうしていただろう。軋んだ音と共に重い扉がゆっくりと開く。ぐったりと顔を上げると、医務室にやってきたのは予想だにしない人物だった。
「なまえ……?」
 似合わない制服をきちんと着込んだその少女は、どういうわけか普段から僕にべったり懐いていた。血相を変えたなまえは扉を慎重に閉め、みじめに這いつくばった僕に駆け寄る。
「クロト、大丈夫……?」
 肩を抱く手つきが優しい。記憶が正しければ、様子を伺いに来たこの女は、僕のことが好きなのだと、クロトのそばにいられさえすれば幸せなのだと、はにかみながら告白してきたことがあった。
「はっ。これが大丈夫に見える? コーディネイターもナチュラルも、全員この手でぶっ殺してやりたいね」
 哀憐と湿り気を帯びたまなざしが、壊れつつある僕の身体を容赦なくつらぬく。こいつ、何をしに来たんだ? と、僕はこめかみを痙攣させながら思った。沸騰した血液が逆流していくような苛立ちがじわじわと湧き上がる。
「……薬は?」
 ぶっきらぼうに訊ねたけれど、期待は全くできなかった。なまえは軍の人間ではあるけれど、生体CPUの研究自体とは無関係だ。部外者であるなまえが薬なんか持っているはずがないのに、それでも僕は彼女に肩を抱かれたまま視線だけですがりつく。こんな女にすがることしかできない状況が忌々しかった。
 なまえは一瞬はっと目を見開き、唇をきつく噛み締め首を横に振った。その辛く痛々しい表情が余計に腹立たしくて、僕は息を荒げながら彼女に怒鳴り声を浴びせた。
「僕のことが好きならさあ、薬のひとつくらい持ってこいよ!」
 この役立たず、と言っているようなものだった。なまえはひどく傷ついた表情を浮かべ、目の端から一筋の涙をこぼす。
「ごめんなさい。色んな人に頼んで回ったけど、やっぱりダメだった」
「へー、これが『お仕置き』ってわけか。……くそが」
 吐き捨てるように毒づくと、なまえは唇をわななかせ、震える声で再び「ごめんなさい」とつぶやいた。
 そこまで泣かれると、目の前にいるこの少女がなんだかかわいそうになってきてしまう。力が弱く、権威もなく、虫けらのようにちっぽけだ。かわいそう。僕は潰れそうな上体をなんとか起こした。大粒の涙をこぼし始めた彼女の視線と、ずっと定まらなかった僕の目線がやっと平行に交わった。
「そんなに謝るなら、お前が僕を殺してくれよ。僕のことが好きなんだろ? 僕……苦しくて苦しくてたまらないんだよ」
「そんなこと、私にできるわけないでしょ!」
 なまえが悲痛な面持ちで叫ぶ。無調整の人間はこれだから面倒でいやだ。どうしてこんなに甘ったれた奴が軍隊にいるのだろう。
「お前、ほんっとバカだなあ。そんなこと言わないでよね」
 僕は顔の筋肉をひくつかせながら笑った。怯える彼女の頭を抱き寄せ、涙で濡れた唇に触れるだけのキスをする。感覚を失った唇では、なまえの唇が温かいのか冷たいのか、かさついているのかそれとも滑らかなのか、全く判断できなかった。
「ねえ、僕と一緒に来てくれるでしょ?」
 思ったよりも低く掠れた声が飛び出た。ばかばかしい。これじゃあまるで、僕がこいつを口説いているみたいじゃないか。
 呆気にとられたなまえは、僕の誘いに黙って頷いた。真っ青だった頬はみるみるうちに紅潮し、涙が決壊した瞳に壊れていく僕の姿がゆらゆらと揺れている。今まで気に留めたことなど一度もなかったのに、そのときだけ、僕の身を案じてくれるなまえを「かわいいな」と思った。
 今にも腐り落ちてしまいそうな手で彼女のやわらかな頬を包み込み、小さくて丸い頭を僕の額めがけて力任せに打ち付ける。ひゅっと息を細く吸い込む音と同時に、なまえの頭が鈍い音を立てた。
「はははっ! ねえねえ早く! 早く僕を解放してよ! 僕も、なまえを解放してあげるから!」
 そうすれば僕となまえは温かい日差しのもとで穏やかに暮らせる。だから君は僕と一緒に死んでほしい。等間隔に訪れる激痛に朦朧とし始めた脳みそは、ありもしない間に合わせの未来を信じて疑わなかった。
「ク、ロト……」
 暴行を加えられたなまえは抵抗らしい抵抗を一切見せなかった。かすかな声で僕の名前を呼びながら、ぐったりと力なく、されるがままになっていた。

 何度も、何度もぶつかり合ううちに、彼女の頭蓋骨が割れていく感触が手と額に伝わってくる。
 殴打された頭から赤黒い血をだらりと垂らすと、とうとうなまえは動かなくなった。それを確認した途端に、僕の視界を白いもやが覆い始める。彼女の頭を解放すると、肉を打つ最後の音が聞こえた。かすんだ世界の中でも、真っ白な床の上になまえの血液が広がっていくのが見えた。
 額が燃えるように熱い。けれども、僕は確かに呼吸をしていた。禁断症状で身体が弱り果てているとはいえ、ナチュラルの平凡な女が強化人間の僕を叩き殺せるはずなかったのだ。
 おぼつかない足でのろのろと立ち上がり、先に生き絶えてしまった女を見下ろす。
「お前は……僕を自由にしてくれなかった。僕を好きだと言ってくれたのにね」
 本当にちっぽけな女だ。戦うことが生のすべてである僕に好意を抱いたせいで、無駄に命を落とした愚かな女。僕が強化人間でなければ、きっと愛し合っていたはずの女。
「はあっ……はあっ……。はは、あははははは!」
 死んだなまえが白い部屋を汚していく光景は狂おしいほどに滑稽で、僕は喉が焼き切れるほど大笑いし、ついさっき彼女がそうしたみたいに大粒の涙を流した。
 ――僕が悲しむわけないじゃないか。僕は、なまえと一緒になれなかったことが悔しくて泣いているのか、彼女を失ったことが悲しくて泣いているのか、耐え難い苦しみに耐えるべく泣いているのか、もう何も分からない。分かるはずがない。
 僕という存在に想像力なんか、もうこれっぽっちも残っちゃいないのだから。

2022.10.03
タイトル「失青」様より

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