小説
- ナノ -

印象最悪の出会いだった


 何も用事がない土曜日だというのに、朝早くに目が覚めてしまったので、学校の側まで散歩することにした。
 学校といっても正式に通うのは来週の月曜日からであって、もはや散歩というより、転校先の通学路と雰囲気を確かめるために歩く、と言った方がより正しい。
 中学三年生という、進路的な意味でも情緒的な意味でも大事な年にもかかわらず、私は家族の都合で生まれ故郷の沖縄に引っ越してきた。「中学生活最後の年に引っ越すなんて嫌だ」と大人たちに向かってやんわり反抗してみたものの、子供の意見など通るはずもない。あっさり説き伏せられてはるばる南の島まで来てしまった。
 似たような家が並ぶ住宅街を通り抜け、さとうきび畑と家みたいな大きさのお墓を通り過ぎ、潮風が吹き渡る海岸に出る。私が来週から通う比嘉中学校は、この海を沿って歩いた先にある。
 四月だというのに、皮膚を貫きそうなほどに日差しが強く、首筋がじわじわと汗ばむ。風のおかげで蒸し暑くないだけまだマシかもしれないけれど、年中この調子だと、東京から持ってきた冬服に一度も袖を通さない可能性がある。
 中学校の校舎が近付くにつれて、海の方から奇妙な声が聞こえてくる。
 それは主に若い男性たちの声だった。根を上げるような悲鳴と、ときどきしわがれた声が怒号を飛ばす。
 一体何事かと、歩道から外れて砂浜に降り立ってしまった。目をこらすと、半裸の男たちがぞろぞろと海へ入っていくのが見えた。あどけない顔立ちから察するに彼らは私と大体同い年くらいの年齢で、四肢に錘を装着している。
 あれはダイビングスクールの講習なのだろうか。彼らは錘を着けたまま、澄みきった海へ次々に潜っていく。
 白い砂浜の上でそれらをぼんやりと眺めていると、突然斜め前に人影が現れた。急に何もないところに音もなく人間が出てきたので、お化けに出くわした人の反応のように全身がびくっと跳ねてしまう。
 その人は潜水する彼らと同じように上半身が裸だった。目のやり場に困った私は必然的に男の顔だけをまじまじと見つめた。
 眼鏡をかけた背の高い男だった。紫がかった髪をリーゼントみたいにまとめているものの、海から上がったばかりなのか乱れた前髪の一束が濡れた額に貼りついている。若く見えるけれど、この威圧感は講師に違いない。
「見世物じゃありませんよ」
 落ち着きを払いつつも唸るような声音と共に、尖った目元から眼鏡越しに鋭い眼光が飛んできた。邪魔者すべてを跳ね返すような冷たい瞳が私を静かに見下ろしている。つまり、失せろと言いたいのだろう。私はむっとして眉をひそめた。私有地でもないのになぜ追い払われなければならないのか。
「その子誰? 見ない顔やっし」
 怖い顔をした講師の背中から帽子をかぶった茶髪の男の子が顔を出す。講師はフンと鼻を鳴らした。
「さあ、俺に聞かれても。そんなことよりさっさと練習に戻りなさいよ。ゴーヤー食わすよ」
「わ、分かってるさあ!」
 講師に凄まれた茶髪の男の子は一目散に逃げていく。生徒なのに先生に敬語を使わない輩はどこにでもいるらしい。
 生徒を追っ払った講師は腕組みをして再び私を睨みつけた。面倒臭い。
「もう行きます。練習の邪魔をしてしまってすみませんでした。そんなに見られたくないなら看板でも立てておいてください、先生なんだから」
 謝っているのか怒っているのか自分でも判断がつかない言葉を捲し立て、私は踵を返した。砂浜を力強く踏みしめるとサンダルの中にさらさらと砂が入り込んで不愉快だ。
 背後から私に話しかける彼の声が聞こえたけれど、とどろく波の音と悲鳴に掻き消されて何を喋っているのか聞き取れなかった。

 転校初日の月曜日も太陽の光は街をじりじりと照りつけ、気温は初夏かと思うほど高かった。
 始業式のあとの教室で担任の先生に促され、クラスメイトに挨拶するべく教壇へ立った数秒後に、私は息を呑んで硬直してしまった。
 教室の真ん中に、あの男がいたのである。土曜日、学校の近くの砂浜で会ったあの感じの悪い講師。絶対に年上だと信じていたのに、彼は生徒が座る席にしれっと座り、頬杖をついてじっと前を見つめている。
 最初は元気よく挨拶したはずなのに、自己紹介をする私の声量はどんどん尻すぼみになっていく。
 同い年だったのか、という鈍器でぶん殴られたような衝撃と同時に、別の衝撃が後頭部を突いてくる。彼の隣の席だけが空いているのだ。私はこれからしばらくの間、あの男の隣で授業を受けなくてはならないらしい。
 唇の端をひくつかせながら着席する。担任は彼に「木手、放課後になったらやーが校内を案内してやれ」と指示した。
「俺が、ですか? やれやれ、そんな暇ないんですけどね」
 木手、と呼ばれた男は不機嫌そうに答えて私をちらりと一瞥した。私のこめかみに青筋が立ちそうだ。多分、もう立ってる。
 先生は私たちの間に火花が散っているとは露ほども思わないので、呑気に「頼んだぞ」などと念を押し、保護者宛てのプリントを配り始めてしまった。
 転校早々、放課後が憂鬱すぎる。そもそも、本当に案内なんてしてくれるのだろうか。

 重苦しい気分を抱えたまま放課後がやってきてしまった。
 転校前から使っている鞄を肩にかけ、ざわめく教室を後にする。もう一人で適当に校内を見学して帰ってしまおう。気まずい思いをしながら知らない場所を歩き回るなんてまっぴらごめんだ。
「待ちなさいよ。校内案内をする約束でしょう」
 肩にポンと手が置かれ、低く艶やかな声が頭上から降ってくる。あの男だ。心臓が縮みあがり、鞄が肩から滑り落ちそうになった。
「うわ! き、木手くん……だっけ」
「木手永四郎です。さあ、とっとと済ませますよ」
「いや、いいよ。忙しいんでしょ」
 ダイビングの練習が、とは言えなかった。もしかしたら別人だったのかもしれないという、くだらない希望的観測だ。
 木手くんは慌てる私を鼻で笑った。
「一昨日はあんなに威勢が良かったくせに、今日は随分遠慮がちですねえ。まったく、案内してやるんだから『よろしくお願いします』くらい言いなさいよ」
 前言撤回、木手くんはやっぱり海にいたあのむかつく男だった。

「ここが独房です」
「なんで校舎の中に独房があるんだろ……」
「通っていればいずれ分かるでしょう。つべこべ言ってないで次行きますよ」
 そう言い切ると木手くんはきびきびとした動きで階段を上っていく。
 木手くんによる校内案内はずっとこんな状態だ。簡潔でどこか投げやりな態度は、本当に案内する気があるのか理解しかねる。
 ほとほと困った私は、一足先に階段を上り終えた木手くんの背中に向かって突貫工事のような話題を投げかけた。
「木手くんってさ、何歳の頃からダイビングスクールに通ってるの」
「ダイビングスクール? ダイビングを習ったことはありませんよ」
 振り返った木手くんの表情は怪訝そうだ。予想外の返答に私は目を丸くして彼を見つめ返してしまった。
「え、じゃあ土曜日のあれは何の練習をしていたの。みんな海に潜っていたじゃない」
「テニスです。他に何があるというのですか」
「シュノーケリングとか……?」
「シュノーケリングで素潜りはしないでしょう」
「テニスの練習で素潜りなんかしたことないけど……」
 薄暗い階段から真昼間の陽光が射し込む廊下へ出る。窓の外に目をやると、下級生の女子たちがテニスラケットを握って素振りに励んでいた。
「あなた、前の学校ではテニス部だったのですか。自己紹介のときにそう言えばいいものを」
「やってたけど、もうテニスをする気はないし」
「ほう、それはなぜです」
 気が付くと、先導していたはずの木手くんが私の隣に並んでいる。私は一昨日ぶりに彼の顔をまじまじと見た。よく見ると精悍で意思の強そうな顔つきをしている。
「部内がなんかギスギスしていて疲れちゃったんだよ。中学三年にもなって今更転校先の部活で一から人間関係を築く元気なんてないよ」
 そんなこと木手くんに言っても仕方がないのに、私はバカ正直に理由を話してしまった。
「あなたに人間関係の不和、ねえ。別に、テニスが好きならまた入部したらいいじゃないですか。部外者の俺がそんなこと言うのは無責任でしょうけど」
「そうだねー。そもそも、テニスが好きだったのか分からなくなっちゃったな」
 素振りの集団がテニスコートの方へ走っていく。私も一年生の頃はああだった。無邪気にボールを追いかけ、夢中でラケットを振っていた。今はもう、ラケットを握ることすらためらってしまう。
 木手くんはそれ以上詮索しなかった。私の価値観についてこれ以上聞かれても困るし、彼も察していたのだと思う。
「さて、一通り案内し終えましたね。それでは、俺はこれで失礼します」
 教室の前に戻ってきた私たちは、並べた肩を離し向かい合った。外にいる運動部の掛け声が廊下にまで響いている。
「テニスの練習に行くの?」
「ええ、もちろん」
「そっか、頑張ってね。忙しいのに案内してくれてありがとう」
「どういたしまして。明日からよろしくお願いしますね」
 木手くんは教室のロッカーから持ってきたラケットバッグを背負い、昇降口に向かって歩き出す。優しいのか意地悪なのかよく分からない人だった。でも、なぜかほっとした。

 それからというもの私は、放課後になると教室のベランダに出て時間を潰すようになった。三階に位置するこの教室からテニスコートがよく見えるのだ。
 意思を持つように飛んでいく黄色のボールと、それを打ち返すラケット、サーブを打ち込み、コート上を瞬時に走る紫色の部員たち。基本的に、その繰り返しだ。環境が違うだけで、二年間ほぼ毎日見てきた光景のはずなのに、私はテニスコートから目を離すことができない。
 新しくできた友人たち曰く、男子テニス部は試合中に卑劣な手を使うため、近隣の中学校からひどく恐れられているらしい。
 最初は、テニスの練習とは思えない荒行と、他校に嫌煙されるほどのラフプレーを繰り返す彼らは、一体どんなテニスをしているのだろうという好奇心からだった。彼らの、木手くんのテニスを見てみたかった。
 一目見て、愕然とした。瞬間移動かと見紛うほどの技をはじめ、華麗で風変わりなプレースタイルはもちろん、汗と血を流しながらボールに食らいつく彼らのテニスを、私は美しいと感じてしまったのである。
 特に、木手くんのテニスは美しい。部員の何人かは強烈な技を持っているけれど、おそらく木手くんが彼らにそれを伝授したのだろう。木手くんはそのすべての技を繰り出すことが可能だった。そして、冷静に見えて誰よりも激しく、執拗にボールを追いかける。
 私は今日も教室のベランダで観戦をする。あんなに嫌でたまらなかった日差しもお構いなしに、かじりつくように練習の行方を見守った。ひょっとして私はテニスのことが好きなのかもしれない、なんて思いながら一人で笑みをこぼしてしまう。
「まったくあなたは。見世物じゃないと言ったでしょう」
 背後から突然、隣の席の人の声がした。さっきまでコートにいたはずの木手くんが、音もなく忍び寄ってきたのだ。驚いた私は白い柵に肘をぶつけて小さく悲鳴を上げた。
「危ないですね。ここから転落したいんですか?」
「落ちたいわけないでしょ。そんなことより、どうしてここにいるの!」
「今は休憩時間中です。あなたがニタニタ笑っていて不気味だったので、部長として注意をしに来ただけですよ」
 観戦は誰にもバレていないと思っていたのに、彼は普通に知っていたようで、本当に本当に恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。頬に熱が集中していくのを感じながら、引くに引けなくなった私は彼に食ってかかった。
「言っておくけど、全然笑ってないから! 本当に失礼な人だよね木手くんって」
「覗き見を繰り返すあなたよりは弁えているつもりですけどねえ」
 木手くんはくすくすと楽しそうに笑い、私の隣に立って柵に寄りかかった。ユニフォーム姿の木手くんを間近で見たのは初めてだ。それに、柔らかく笑っている姿も初めて目にした。
 教室の中では見せてくれない姿を近くで見てしまったせいか、私の心臓はどくどくと大げさに弾み出す。柵越しに心音が伝わってしまったら癪に障るので、私は半歩後ずさった。
 木手くんは空っぽになったコートを眺めながら「テニス、好きですか?」と尋ねた。
「えっ」
 彼の質問の意図が分からない。彼の凜とした横顔を見つめると、木手くんはこちらに視線を移し、刺々しいはずの目を細めて微笑んだ。
「この期に及んで分からないわけがないですよね」
 やっぱりこの男は腹立たしい。腹立たしくて、それでいて中途半端に温かい。コート上では一度もベランダを見上げなかったくせに、どうして全部お見通しなのだろう。
「……好き、だと思う。またラケットを握りたいわけじゃないけれど、木手くんたちのテニスに魅了されているのは事実だから」
「そうですか。俺がここに来た理由はもう一つあるんです」
「なに?」
「あなた、比嘉中テニス部のマネージャーになりませんか」
 勧誘を受けた瞬間だけ時がぴたっと止まったのかと思った。口をぽかんと開けたまま言葉を紡げないままでいると、木手くんは呆れたように大きなため息をつく。
「こんなところでぼーっとしている暇があったら、体を動かすなり頭を使うなりしなさいよ。中学生活最後の一年なんでしょ」
 とくん、と音を立てて胸のあたりが痺れだす。それはつまり、木手くんは私を心配してくれているということなのだろうか。
「木手くんってさ、もしかして優しいの?」
 木手くんは私から目を離し、ずり落ちていないのに眼鏡をぐいっと押し上げた。
「俺が優しい男に見えますか。サポート側は常に人手不足なんです。テニス経験者のあなたがマネージャーとして好都合だったというだけですよ」
「ああ、そういうこと……」
 一瞬だけでもときめいた私がばかだった。
 でも、彼の言い分には共感する。木手くんが私を利用するのなら、私だって彼を利用させてもらう。
「いいよ。テニス部のマネージャー、やってみるよ」
「ありがとうございます。あなたなら受けてくれると思いましたよ」
 契約を成立させた彼は私に手を差し出す。生々しい血豆と擦り傷だらけの大きな手だった。その手に、肉刺が治りつつある私の手を重ね、そっと握りしめる。手のひらの感触を知りたくなかったのに、木手くんが思いのほか強く握り返してきたので、背中からいやな汗が滴り落ちてしまう。
 木手くんはさっさと手を離し、私をベランダに残して教室に戻った。
 そのまま出て行くと思いきや、木手くんは教室の中央で突然立ち止まり、ベランダで立ち尽くす私に向き直る。電気が消えた教室の中で、木手くんの瞳だけが静かに闘志を燃やしている。口を開いた木手くんはもう笑っていなかった。
「俺たちは、地区大会を勝ち抜いて全国大会に出場し、優勝を果たします」
 私が黙って頷くと、彼は一旦満足したのか扉へ向かって歩きだす。
「明日の放課後、テニスコートに来てください。待っていますよ」
 そう付け加えて彼は教室を去った。誰もいなくなったベランダには、部活動に励む生徒たちの声に混じって、風に運ばれてきた潮騒が鳴り響く。
 大変なことになってしまった。そう震え上がりながらも、乾いた笑いが止まらない。もうテニスを上から見下ろさずに済む。そして、木手くんに一歩近付ける。
 コートの向こう側にはエメラルドグリーンの海が広がっている。木手くんと初めて会ったときの、あの海だ。
 木手くんの目には、あの海を渡った先にあるものがはっきりと映っているのだと思う。私もそこへ行きたい。木手くんと一緒に行きたい。

2022.09.27
タイトル「moshi」さまより
企画「題名」さまに提出

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