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永遠なんてどこにもないけどここにはある


 棚や引き出しに仕舞い込んだままだった書類を整理していると、執務室の角の床に和綴じのノートが一冊、道端に佇む落とし物のようにぽつんと置かれていることに気がついた。いつから落ちていたのか分からない藍色のそれを拾い上げ、ぺらぺらとページを捲ってみる。
 ノートの前半部分は筆で書かれた文字がびっしり並んでいるが、後半は真っ白だ。最後のページには南海太郎朝尊、と記名がある。これは南海先生の書きかけのノートらしい。彼はこの本丸の近侍なので、執務室には頻繁に出入りする。普段から持ち物の多い先生のことだ、きっとうっかり部屋に忘れて内番へ行ったのだろう。そのうち戻ってくるだろうし、その時に渡せば良い。
 けれども、私の手は最後のページから最初のページに引き返してしまった。持ち主も分かったことだし、このまま先生に返すのが正しい行いのはずなのに、滲み出る好奇心はそれを良しとしない。中身をよくよく見ると、筆から滴り落ちた墨が紙のあちこちを点々と飾っていて、幼い頃、親に隠れてこっそり見た心霊番組を思い出し背筋がぶるりと震える。しかし、ページを捲る手は止まらない。いけないと分かっているのに、本来の目的を忘れてじっと眺めてしまう。
「あれ……」
 小さな独り言が片付け途中の部屋に溶ける。怖いもの見たさで読み進めていくにつれて、私は二つのことに気がついた。このノートは言わば南海先生の日記帳であること。もう一つは、私の記録に特化した日記であることだ。恐ろしげな雰囲気のために一見取っ付き難いように思えるけれど、大人が書く朝顔の観察日記のように淡々と、そして仄かな温もりを添えて、ただひたすらに私の言動が書き綴られている。南海先生が撮った写真を文字に書き起こしたら、きっとこんなふうになるのだろうと思う。筆者はあの南海先生なので今更驚かない。
 例えばこうだ。
「――彼女はというと、目薬をさすのが大分苦手なようで、毎回鼻筋や目の周囲を濡らしながら四苦八苦している。さしてあげようかと提案したところ、恥ずかしいから遠慮するとのことだった」
 確かに私は目が乾きがちなのに目薬をさすのが苦手で、眼球を潤す代わりに顔の上半分が無駄にびしょ濡れになるのだった。
 かと思えば、自覚していない部分の私を切り抜いた文章もある。
「政府くんとの会議の為久々に街中を歩く。パン屋の前を通ると、彼女はいつも玩具を与えられた子供のように目を輝かせる」
「切りすぎた前髪を気にしているのか、書き物をしながら空いた手で前髪を一心に撫でつけている」
 なんというか、細かなところまでよく見てるなあ、と素直に感心する。二人で過ごす時間はいつも先生のペースに合わせて行動しているつもりだったけれど、先生は興味の湧くまま好きに動いているように見えて、実は私のこともきちんと見てくれていたのだ。ひょっとして、先生は背中にも後頭部にも目が付いているのではないだろうか。
 心を勝手に温めながら次のページを捲る。
「初めて接吻をした時、彼女は固く目を瞑り睫毛を微かに震わせていた。背中に回された小さな手は僕に縋り付いているようで可愛らしく――」
 突然目に飛び込んできた趣の異なる文章に驚き、思わず前のページに戻る。他の文章は事実の列挙のみで感想らしい感想は書いていなかったのに、ここだけ南海先生の感情が明け透けに表れていやに生々しい。この記述の通り、目をしっかり瞑っていたから気が付かなかったけれど、先生はキスをしている間もずっと目を開いて私を観察していたようである。先生と私の関係の進み具合を考えると、これ以上読み進めたらいけない気がする。
 というより、そもそも人の(人ではないけれど)日記帳を盗み見るなんて、やっぱり褒められたことじゃない。それに、南海先生が私を記録しようが、キスをするときに目を開けていようが彼の勝手だ。彼はそういう性分なのだろうから、好きにすればいい。
 そう自分に言い聞かせてノートを閉じようとしたまさにその瞬間、執務室の扉がそろりと開いた。心臓がびくんと跳ね、動きかけた手元が硬直する。部屋に入って来たのは、書生のような内番着に身を包んだ南海先生だった。彼は近侍であり、私の恋人でもある。ちなみに、この日記は私と先生がお付き合いをすることになった日から始まっていた。
 小さな紙袋を携えた先生は、ノートを広げたまま固まる私に向かって「おや、僕の忘れ物を預かっていてくれたようだね」と穏やかに笑いかけた。
 扉を閉めた先生は私の目の前に腰を下ろし、微笑んだまま私の手元をじっと見つめる。それはそれはもう、感情がいまいち読み取れない視線だった。私は慌ててノートを閉じ、すぐさま先生に渡す。
「ごめん。これ、勝手に読んじゃった」
「構わないさ。主には読む権利がある」
 ノートを受け取った先生は楽しそうにページを捲りながらそう答えた。恋人相手とはいえ、個人的な日記を勝手に読まれたというのに拍子抜けするほどあっけらかんとしている。一抹の不安を感じた私は、先生の両肩を掴んでぐらぐらと揺さぶった。揺さぶられてもなお表情一つ変えようとしない先生が恐ろしい。
「あのさ、他の刀剣男士の皆には読ませてないよね?」
「まさか。他の誰にも読ませやしないさ。君以外にはね」
 私の瞳を捉えた涼やかな目元がわずかに熱を帯びる。その熱に溶かされるように、彼の肩に置いた手が力なく落ちた。
 私は、いつも何を考えているのか分からない先生がときどき私に向ける甘やかな視線が好きだ。甘やかといってもそれは歯が痛くなるほどの甘味ではなく、金平糖一個分ほどのほんのりとした甘さで、薄い膜で覆うように優しく私を包んでくれる。あの日記帳は一個分の砂糖菓子の連なりなのだと思う。自分のことを延々と書かれても嫌な気持ちにならないのは、私の愛する南海先生が紙の上で色鮮やかに生きているからだ。
「ああ、そうだ。小豆くんから錠菓をもらってね。それで、君と一緒に食べようと思って持ってきたわけだ」
 先生は今までの流れをあっさり叩き斬るように紙袋を傾けた。中で何か軽いもの同士がぶつかり合う音がする。
「じょうか?」
 聞き慣れない言葉に首を傾げる。傾けた紙袋から白くて丸い形をしたラムネ菓子が数個、先生の手のひらの上に転がり落ちた。錠剤の錠に菓子の菓で錠菓。相変わらず先生は小難しい言葉を使う。
 手のひらの上のラムネをじっと見つめたまま静止する私に、南海先生は柔らかな声音で問いかける。
「どうかしたのかね」
「先生の手から食べたい」
「ふむ、今日は甘えたい気分なのだね」
 先生は浅く頷き、ラムネを一粒摘んで私の口元に近づける。開けた口の中にラムネを押し込むとき、私の唇と先生の指先がしっとりと触れ合った。指先の温もりを感じながら舌の上でほろほろと崩れるラムネを味わっていると、指先が下唇から離れる代わりに南海先生の唇が静かに重なる。思いがけない行動に私は思わず固唾をのんだ。ブドウ糖のすっきりとした味が喉に流れ込み、続いて侵入してきた先生の熱い舌が私の舌を絡め取る。
 いつもの癖で閉じかけたまぶたを薄っすら開く。すぐに私と目が合った先生はいたずらっぽく笑って唇を離した。
「僕も君に甘えたい気分でね」
 私の頬をなぞるように撫でながら先生はうっとりと囁く。今はとろけた視線を私に送っている先生だけれど、数秒前は歯が痛くなるほどの甘い眼差しがメガネの奥に潜んでいた。きっと、彼は今日の件も淡々と正確に、それでいて生き生きと書き記すのだろう。

2022.08.06
タイトル「失青」様より

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